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元伯爵令嬢の下克上と恋愛譚  作者: 高槻いつ


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伯爵令嬢と乖離

喉が、ひりつく。


からっからに渇いて、張り付いたように動かない喉をこくりと鳴らし、アマーリアは赤いその眼を見つめ返した。



『逃げたい』

『逃げよう』

『……クラウスと、二人で』


そう思ったことは、決して一度や二度じゃない。


特に伯爵邸にいた頃は顕著で、ふとした瞬間に思考に降り混ざるくらいには茶飯事の空想。


それでも、伯爵邸にいた頃は絶対に逃げ出せない理由があった。ただただ屋敷に我が物顔で居座り、家名を傷付けることしか出来ない人達からいつか家紋を取り返すことが目的だったから。


それを口にせずとも察していたクラウスは、絶対に自分をあの塔から連れ出すことはしなかった。


幼馴染みであるアーディットにどれ程促され、懇願されたとしても。


『いつか』で、良かった。


だから、ジークムートから婚約を申し入れられたときは丁度良いと思っていた。


適当に第二夫人か第三夫人の座に就く一方で、彼との間に設けた子供にそれとなくポートリッド伯爵の席を用意するような、そんな未来で。


自分に興味のない主人と、厳格な公爵夫人に好かれる要素など何一つないはずだから、と。


思えていたのは、いつまでだったか。


ふとしたきっかけでハイディに好かれ、少し人生が楽しくなってしまったときだろうか。


自分の足りないものを補ってくれる程度までなら得しかない。けれど、本格的に次期公爵夫人としての教養を叩き込まれているときには既に、全てが手遅れだった。


逃げることも、戻ることも許されやしない中ですがったものは取り上げられる。


ああ、そう、だから、そのときはもうずっと『逃げたかった』。


望んだものが何一つとして手に入らないのなら、いっそ全部捨てて本当に欲しいものだけを握って逃げてしまいたかった。


でも、唯一自分に期待して教鞭を執ってくれるハイディを、いつも自分の為に世話をしてくれるメルシスを裏切ることなんて、出来やしなかった。


そしてクラウスが、この手を引かないからずっと、自分は堪えていた。


それなのに、目の前で笑う従者は昔のように微笑んで、私に手を差し出す。


その手を差し出されてしまったら、もう振り払うことが出来ないなんて知っているはずなのに。


「……っ!」


手に入れたいものと、残したいものが決して交じり合うことのない状況を再度突き付けられたアマーリアの目が、濡れていく。心と乖離する現実に答えを見出すことは出来なくて、彼女は声なく言葉を殺す。


「これを、最後にするよ」


息を呑み、ただ自分を見つめるアマーリアの目を見返して微笑むクラウスは、彼女の白い頬に手を添え、傷付かないよう、逃げないように親指で潤む眦を拭った。


「もう、迷わないように」


そして残酷な選択肢を、突き付ける。


「……くら、うす」

「うん」

「……クラ、ウス」

「うん」

「……クラウス」

「うん」


躊躇うように何度も名前を呼んで、はらはら涙を零すアマーリアを、クラウスはじっと待つ。


逡巡する彼女の天秤がどちらに揺れるのか。そんなことは分かり切っているのに、心の何処かで自分に揺れてくれれば良いのにと少しだけ口角を歪めたクラウスと同時に、アマーリアが赤い眼をぎゅっと隠した。


「……ごめんなさい。冗談よ、クラリス」


答えは、その一言に隠されている。


「申し訳ありません、アマーリア様。気が付かず」


けれど、もう最後にすると言った手前、クラウスは主の頬から手を退かす。そしてきちんと食事を取るよう主へ進言して、入り口付近へ移動した。


「後で、部屋を変えておきます」

「……ええ」


冷えたスープを億劫そうに口に運び、何かを堪えるようにトーンの下がった口調でクラウスに答えたアマーリアは、一人静かな夕食を取る。


「でも、ね……ねえ、クラリス」

「はい」


一向にスプーンを持つ手は進まない。ただ中身を掻き混ぜているだけのアマーリアは、己の卑怯さを充分に理解した上で、先を紡いだ。


「ずっと、傍にいてね」


それが、子供のときに交わしたような軽い口約束ではないことを知りながら、アマーリアはクラウスにそう縋った。


「……はい、アマーリア様」


以前、庭園で誓ったときよりもずっと立場の変わった二人。互いを理解しながらもそう縛ざるを得ないアマーリアに誓ったクラウスの言葉は、前よりもずっとずっと軽かった。


「貴女が、望む限り」


そしてずっとずっと、苦しいものだった。



「お嬢様、お風呂のご用意が出来ました」


その後、少しだけ夕食を腹に詰めたアマーリアを、宿を管理する少女が浴場へ連れ出す。


『のう、あの子が本当に逃げたいと言ったら、どうしたんじゃ?』


二人の背を見送り、部屋に一人きりになったクラウスは一度退室してから内装を変えるために再びドアに手を掛けたところで、ふわふわ漂う大精霊に声を掛けられた。


「どうもしません。ただ、アマーリア様のお心を叶えるだけです」


本来気安く話せるような存在ではない大精霊に淡々と返しながら、主の気が引き締まるよう、公爵邸の一室をイメージしつつクラウスは扉を引く。


『いくらお主が紅の銀狼の末裔だとしても、彼女を守って公爵家の人間から隠れることなど、無理だと分かった上でか?』


一転して、内装の変わった部屋に驚くことなくさくさく部屋の状態を確認し終えたクラウスは、耳元でうるさい大精霊へと振り向いた。


「関係ありません」


言われずとも、そんなことは二人共わかっている。だからこそアマーリアは絶対にもう一つの選択肢を選ばなかったし、クラウスも彼女の考えを理解していた。


ただ、互いに明確にしておかなければならなかったから、クラウスは乗じてあんなことを言い出しただけ。ならばそれが本心ではなかったのかと尋ねられれば首を縦に振ることは出来ないが。


『……難儀よのう』


大精霊からしたら、好きならば一緒に何処へでも逃げれば良いと思っている。それが、自分の血を分けるような存在であるからこそ。そして、大精霊自身が強大な力を持ち、何処へでも逃げられるからこそ。


しかし、皆が力を持っている訳ではない。人間は弱いし、獣人も人間よりは丈夫とはいえ、自分のように精霊として肉体を持たずに理として生きるモノからしたら遥かに弱いものだと、知っているから。


『国には、戻らぬのか?』


ある程度は整っていた部屋をアマーリアの好みに微調整し終えたクラウスへ、大精霊は問い掛ける。そもそも何の用も足していない、彼の耳で輝く奴隷の証を見据えて。


『お主なら……』


大精霊の先を紡ごうとした口は、クラウスが強引に扉を閉めて部屋を退室したことで遮られる。


『……資格が、あるだろうに』


その手に全てを握ることの出来る資格を持っているのにと、大精霊は一人零した。


何もせずに想い人を手放すくらいならば、いっそ己の全てを賭してみても良いのではないかという意思は、誰にも届くことなくただ無人の部屋を彷徨う。


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