伯爵令嬢と決壊
「只今戻りました」
「おかえり」
懐かしいベッドに寝そべり、一人母に読んでもらっていた頃の絵本を眺めているアマーリア。遅い従者の帰宅を咎めることなく詳細を聞けば、溜め息混じりの吐息が溢れた。
「……クラウス、貴方ってときどき何処か抜けているわよね」
獣人であるからか、人間よりも身近な存在である精霊達ををあまり稀有だと思っていないきらいがある。それに加え、同じく長く塔暮らしをしていたが故に物事の重要さの判断が少しずれている事情が相俟って、クラウスは優秀でありながらたまにこういった場面に出会すこともある。
「申し訳ありません」
クラウス自身、自分が一歩間違えばもっと大事に発展しても可笑しくなかったと理解しているが故にアマーリアの溜め息を静かに受け入れて頭を垂れた。
「まあ、今度はやらないでしょう?」
「誓って」
「ええ、ならもういいわ。お茶を淹れてくれる?」
「はい」
何もなくても、何かあったとしても、自分がクラウスを問い詰めることなど出来やしない。だから、アマーリアは彼の淹れてくれた紅茶で喉を潤して、こくりと言葉ごと呑み込む。
「ハイディ様が付けてくださった護衛、いつ頃到着するかしら?」
「恐らくもう三、四日は掛かるのではないかと」
「そう……。戻っていいわよ」
代わりに、大して気になってはいない話題を振る。
予定より早く着いたのは自分達の方。招待客を集めて城で開かれるパーティーにはまだ余裕がある。故に、それ程まだ慌てるときでもないかとアマーリア一息吐き、クラウスを下げた。
一人になった部屋の中、懐かしい彩りと香りに包まれるこの空間を見渡して、再度思う。
全てがあの頃と同じ。だからここに、この空間に一人でいることが、とても不思議。
笑いの絶えなかった空間は静まり返って、自分の心臓の音さえ響くのではないかと思うくらいに何も音のしないこの部屋が、とても。
「……お母様とお父様が生きていたのなら、どんな部屋になっていたのかしら」
この部屋を、明るく包み込む色彩のように鮮やかで優しい家族の色は、どんな色に、なっていたのだろうか。
「ふふ、考えたって仕方ないのに」
頭を振って否定する意味のない空想。それを誤魔化すように目を瞑れば、頬を伝う何かがあった。
「アマーリア様、アマーリア様」
鈍い思考を覚ますように叩くその手にはっと起き上がれば、時刻を知らせるクラウスが夕食を取るかどうかと部屋に訪れていた。
「スープか何か、軽いものだけでも」
「いえ、いいの。貴方は食べて来て頂戴」
痛む蟀谷を抑え、いらない旨を伝えるとクラウスは珍しくアマーリアの言葉に食い下がる。それでも夕食を取る気になれないアマーリアはもう一度拒絶し、窺うように自分を見つめる従者を部屋から追い出した。
「……少し言い過ぎたかしら」
眠る前と同様に静かになってしまった部屋に、少々強かったかもしれない語気に項垂れながらまたベッドに寝転がる。夕食を取りたくないのは本心であったが、もう少し気遣った言い方があっただろうと一人反省していれば、突然許可なく部屋の扉が開く。
「失礼します」
何事かと扉を注視し、何かあれば対応出来るように起き上がる。
ゆっくりと開かれる扉の先、そこにはワゴンを押すクラウスがいた。呆気に取られるまま入室する様を眺めていれば、あっという間にテーブルへ並べられるスープ、サラダ、サンドイッチ各位。
それらを綺麗にテーブルに並び終えたクラウスが、アマーリアに振り向いた。
「あの、クラウス?」
「召し上がってください」
「……私はいらないと言ったはずだけれど?」
「召し上がってください」
「……」
「召し上がるまで、動きません」
漸く正気に戻ったアマーリアが問い詰めても、クラウスはただ主に食事を取るよう促すだけ。自分の言葉に忠実な従者がこれまで己の言動に逆らったことはない。それなのに、何故唐突にこのようなことをし出したのか困惑するアマーリアは、いつの間にかクラウスにされるがままに椅子に座っていた。
「せっかく用意してくれた食事をゴミにするおつもりですか?」
言葉はキツいながらも、自分を見下ろしてそう言うクラウスの口調から察するに怒っている訳ではなさそう。それなら何故、彼は自分を咎めるようにこちらを見つめているのだろうと見返すアマーリア。
「……そう、教わってきたでしょう」
けれど、静かに紡がれたその言葉に、少しだけ悲しそうに目を細めるクラウスに、もう存在しない名を躊躇う口振りに、アマーリアは漸く彼の意図を理解した。
「そう……そう、ね」
こんな状況とはいえ、母はそういったことに特に厳しい人だった。マナーの問題ではなく、人としての心構えだと常日頃から教えられてきたことは、今だって復唱出来るくらい身に染みているものではある。
「けれどクラウス。お母様も、お父様も、もういないのよ」
わかっている。自分が引き合いに出したことは、ただ彼を黙らせる為だけに使っている幼稚な考えだと。でも、どうしたってこの幸せな思い出しかないこの部屋で、一人きりで食事を取るのは嫌だ。
「いやなの」
美しい思い出が、楽しい記憶が、今の全くあたたかくないこの状況で塗り替えられることが、嫌。
「お願い、下げて」
アマーリアは、ただ拒絶する。駄々を捏ねる子供のように、嫌だ嫌だと頭を振って。
「なりません」
そんな主を見ても、クラウスは引き下がらない。頑なに要望を呑み込めないにはそれ相応の理由があるものの、それを告げることは出来ない故に二人は無意味な応酬を交わす。
「……わかりました。それなら、私も同じ席に着きます」
湯気の立っていたスープは冷え、そろそろ人肌になりそうな頃。このままでは主は絶対に折れないだろうと判断した従者は、苦肉の策を絞り出した。
「ほら、アリー。一緒に食べよう?」
主が、この部屋で一人で食べたくないというのなら自分も共にするしかない。
以前バーゼルト公爵邸の庭園でアマーリアが弱音を吐いたときと同じように彼女の名前を呼んで、並んで立つことが許された昔のように気安く話し掛けて、クラウスは幼馴染みである主へ、カトラリーを向けた。
「……」
差し出されるそれを握り、何かを堪えるようにぐっと言葉を呑み込んだアマーリアは、漸くスープを掬って口に含む。
「ほら、パンも食べて」
人目がないのを良いことに、パンをちぎってスープに浸してから渡してくれるその手が、諭すようにこちらを見つめるその眼差しが、どうしても両親を思い出させるから。
「……ふ、」
空っぽな部屋と懐かしい想いが相反して、アマーリアは溢れそうになる言葉で声が詰まる。
いくら真似っこをしたとて、もうこの部屋は存在しない。大好きなはずなのに、声はおろかもう顔さえも消えてしまいそうな母と父も、兄のように慕っていたその存在も。
もう誰一人として、傍に残らない。
皮肉なことに、その最後は自分で手放したというのだから笑い話にさえならないけれど。
アマーリアは、ただ区切りを付けられると思っていた。実際、付けられていた。公爵邸で過ごした日々は自分にとって充足した毎日で、何一つ不満などなかった。
このままこの場所で過ごしていたら伯爵家に抱くこの劣悪な感情も、未練がましく残る悲しい記憶も、いつか消えていくのだろうと安易に、信じていた。
だからひとつだけ、彼女は見落としていた。
自分の思う幸せの中に当たり前に組み込まれていた存在は、決して貴族とは混じり得ない存在だということを。
両親がいなくなっても、大切な屋敷を奪われても、自分には変わらずクラウスがいた。当たり前に存在する彼を、最早自分の半身のような彼を失うことなど、欠片も考えていなかった。
だから、ハイディから将来的にクラウスを遠ざけるようにと言われたとき。
端から予定に組み込まれるはずのないそれを告げられた途端自分の思考を埋め尽くしたのは、『いやだ』の一言だけ。
でもそのとき、初めて何故それが嫌なのかを考えた。
そうして自分は、悟った。そして遅すぎる感情を、自覚した。
でも、当然許されない感情だと理解しているアマーリアは、どうにかこの旅中に決別出来るよう心の準備をする。お茶に誘うのも、談笑を乞うのも、もう二度とは来ない時間だから最後に、満たしておきたかったが故のこと。
クラウスが自分に一線を引いているからこそ、アマーリアはその行動を取ることが出来た。それなのに、今こうして昔と同じように振る舞うクラウスの気遣いは、アマーリアのぎりぎり保っていた一線を越えさせた。
「……アリー?」
「ねえ、クラウス」
急に黙り込み、一応進めていた手を止めたアマーリアを窺うように見たクラウスは躊躇いがちに彼女の名前を呼ぶ。けれど、そんな一言が聞こえているのかいないのか、被せるようにして逆に重ねられた名前に主を見つめれば、アマーリアは決壊してしまった心うちから小さくこう問い掛ける。
「私が逃げたいと言ったら、貴方は連れていってくれるのかしら?」
あっちこっち移動して騒がしい感情に辟易して疲れたアマーリアは、小首を傾げて本気とも冗談とも取れぬ平淡な口調で恐ろしいことを言い出した。
一瞬黙りこくり、顔を俯かせたクラウスの反応を眺めた後、意図せず溢れてしまった思考を誤魔化そうと口を開き掛けるアマーリア。
「いいよ」
冗談、だと撤回することさえ本来許されない発言だとしても、この場には二人しかいない。いつも通りなかったことにしてくれるだろうと予想したアマーリアに反して、クラウスはこくりと頷いていた。
「アリーが望むなら、そうしよう」
今すぐ?と、まるで街へ出掛けるような気軽さで尋ねてくるクラウスに、逆にアマーリアの思考が止まった。




