伯爵令嬢の出立
「行って参ります」
バーゼルト公爵邸の裏門にて、日の昇る前に支度を終えたアマーリアがわざわざ見送りに来てくれたハイディに腰を折った。
「ああ」
いつも通り何を考えているのか分からない無愛想な表情も、冷淡で投げやりな口調も、今となっては手に取るようにその隠された意図が汲めるアマーリアは、ゆるりと口角を上げて微笑む。
「次は、楽しい演奏を期待していただければと存じます、ハイディ様」
「ああ」
以前交わしたハイディとの約束を反故にするつもりはない。そして、厄介事を持って帰って来る気もないアマーリアは、ただ微笑む。
「それでは」
これ以上の言葉は必要ないだろうと、クラウスの手を借りて馬車に乗り込んだアマーリアを、珍しく見送る立場に立つハイディは奥歯を噛んで兄を罵りたくなる音を殺した。
御者台に座るクラウスが馬の手綱を手にして、一つ跳ねさせれば馬車は静かに動き出す。
以降精霊に気に入られるかどうかはクラウスとアマーリア次第ではあるが、ハイディはその点に関しては全く心配していない。
自分の楽器に棲む精霊をああも喜ばせ、あまつさえ心配させる程に気に入られたアマーリアだから、と。
「…………馬車に乗っていれば盗賊などに遭うこともない。奇襲のような事態も避けられるだろうが」
「ハイディ様」
そう苦々しく吐き捨てたハイディの肩にそっと手を置き、メルシスはふるりと首を横に振って次の言葉を止めた。
ハイディが妖精馬車を用意した理由は、何も時間や距離だけの訳ではない。
長くなる道中、幾つもの街に息の掛かった者を用意し、都度街の状況や噂を仕入れても、自分の元へ入るのにはどうしても時差がある。
万が一、不測の事態に陥って隣国へ向かっていた賓客の馬車が襲われたなどということになれば、両者の国の溝は深まってしまう。
仮にも王女の代わりとして行った人間に何かがあって、何の問題もないと言い張ってケープトンと対等な関係を続けては、他国が黙っていないから。
そこを突くようなし崩し的にケープトンを滅ぼすため、手を重ねる者は絶対にいる。
だから、既に内部崩壊を起こしているケープトンはたった一つの悪手が滅亡への道標となる。
もし自分の仕入れた情報が確かなのであれば、第一王子暗殺の裏には国の滅亡を望む影があるからだ。
孤立し掛けているケープトンを持ち直す為のこの外交で、そんな醜聞が垂れ流されようものなら隣国は、間違いなく滅びの一途を辿るであろう。
全ての真ん中に位置するケープトンは、政治的外交、交易的外交において窓口となっている。そんなケープトンが役目を失えば、後釜争いが起きる。
小国ながらも陸路による税関での利益。海に面した場所での豊かな資材。尽きぬ水に広がる自然。
それらを求めて、過去に何度も戦いの歴史を繰り広げている国であるのだから。
前王は、優秀な人材であった。次期、国王も。
「…………」
ハイディは頭を揉む。
妖精馬車が、本来の役目を全うしないことだけを、祈って。
「アリー」
そんな己の母を、本宅の角、使用人棟として使われる場所から見下ろす影が一つ。
「…………僕は、」
艶やかな青銀髪を後ろで一つに括り、くすみながらも澄む水色の瞳を長い睫毛で隠したジークムートが、ぽつりと呟く。
「アリー。ねえ、僕は、本当にこれで良かったの?」
廊下の隅。遠くなっていく馬車の背を見送りながら、彼は自分の全てであった存在に問う。
答えなど返って来やしないのに、一人ごちた言葉にジークムートは思い出す。
アマーリアに婚約を申し込んだ、至極単純な理由。そして、彼女の細やかな願いを。
アマーリア・ポートリッドに婚約を申し入れた理由。
それは、最愛の存在であるアリー、アリーシャと、名前が似ていたことがきっかけ。
かつ、自分に興味を持たず、生活を保証してくれるなら誰といても構わないと言い放ったその性格。そうして告げた言葉が確とした真意であると酌ませる、真っ直ぐに崩れることなく自分を見抜くその赤い瞳が、少し興味を惹いたこと。
それだけの、丁度良い存在だった。
名を落とし続ける名門伯爵家の娘で、恋人であろう獣人の従者を連れていて、何も望まない、少女で。
いや、とジークムートは首を振った。
彼女は、確かに自分に望んだのだ。
正妻の立場でもなく、国を揺るがすような国宝でもなく、目に見えぬ愛情でもない、ことを。
あの日、あの場所で、彼女は自分に乞うた。
『アマーリア・ポートリッド嬢。僕と婚約してはくれないだろうか?』
ただ広いだけのバルコニー。月も雲に隠れて、人の噂話だけが盛り上がるパーティーでの一幕。
ずっと前に流行ったデザインのドレスを身に纏いながらも、折れることのない背筋が目を引いて、冗談混じりで告げたムードも何もないただのセリフ。
きっとご冗談を、と照れた笑みが見れると思った予想を遥かに越え、自分の言葉に少しも靡きやしない清ました美しい顔で、彼女はこう言った。
『その婚約、お受けします。しかし、一つだけ聞き入れてはくださいませんか』
『何?』
受けるんだ、なんた内心笑った自分と、ああ、この子も所詮は他の令嬢と変わらぬ、一人の令嬢だったのだと落胆した心境をひっくり返した一言を、今でも覚えている。
『クラウスを、あそこにいる獣人を、私の傍に置いてください』
ずっと、と。
それが、彼女の望んだたった一つの嫁入り道具。
呆気に取られた自分を茶化しも冷やかしもなく真剣に見抜いたその目が少しだけ興味を惹いて、冗談だと言い返せない雰囲気に婚約を進めることになった。ただ、それだけ。
だから実際、他愛のないことだと思った。
自分のお飾りの妻が何処で何をしていようと、跡取りさえ生んでくれるのなら構わないと。
代わりに、自分だって好き放題しているのだからと。
自分だけがアマーリアのそれを容認していれば良いと、思っていたのだから。
しかし、今はどうであろうか。
たった一つの気紛れで壊された、その立場は。
『え、ケープトンに?』
『はい。わたくしの代わりに行っていただくことになりました』
いつものように重ねていた密会。雑談をするだけの時間。そこに落とされた、蠱惑的な微笑み。
『ふふ』
彼女との約束全てを破棄させるきっかけを作るその笑みは至極満足そうで、何一つとして悪気など感じられない、作られた顔。
『そう、なんだ』
バーゼルト公爵家の正式な婚約者として立つことになってしまっていた彼女。そこに関してはハイディに気に入られたのが運の尽きだったと笑えた。仮に結婚をしたとしても、後で適当にアマーリアを正妻から外してしまえば良いだけだし、彼女の望む生活に何一つ問題はないはずだった。
けれど今、第一王女の身代わりとして隣国へ旅立ってしまった彼女を、何も理由なく正当な婚約者から外すことは出来なくなってしまった。
隣国に知れ渡るだろう。バーゼルト公爵家の次期公爵夫人は、アマーリア・ポートリッドであると。
そんな彼女を、もう獣人と二人で過ごせるような環境に置くことなど出来ない。
何れ用意すれば良いと思っていた場所は、根こそぎ刈り取られてもう立つことさえ許されない。
『……ごめん、今日はもう帰るよ』
いつもは先に席を立つアリーシャを置いて、ジークムートは初めて彼女に対して困惑を覚えた。
「ごめんね、アマーリア」
ジークムートは廊下のカーテンを閉め、もう誰もいない裏門を視界から消し去る。
初めて呼んだ彼女の名前に、決して似てなどいない彼女の微笑みが過った。
「…………クラ、リス?」
「はい、アマーリア様」
呼び慣れないその名を辿々しく口にした主の声に振り返り、クラウスは馬車を止めた。
公爵邸を出てから日が昇るまでの時間を移動し、お世辞にも進んでいるとは言えない道中の最中に何故馬車を止めるのか、と気になって箱の中から異義を申し立てる主の声に相槌を打ちながらも、クラウスは御者台から降りてアマーリアの座っている後部、囲まれた箱の中へと入る。
「クラウス?」
道中は護衛はおろか身の回りを世話する人間さえいないこの馬車は、久方ぶりにアマーリアとクラウスを二人きりにさせる。
そんなことに気が緩んで、うっかりいつも通りに慣れた名前を口にしてしまったアマーリアの足元に膝を着いて、クラウスは主の手を取った。
「追っ手です。公爵邸を出て、少ししてからずっとこちらを窺うようにして距離を保ちながらも、段々と我々を囲むようにして移動しております。少々遠回りをしても付かず離れず付き纏って来ているので、恐らくはハイディ様の手の者だとは思うのですが、そうではない可能性も」
言葉は濁す。他の可能性も大いに考えられるこの状況下では、聞いていないことは全てイレギュラーとして受け入れなければならない。
いくら公爵領をいまだに出ていないとはいえ、そんな可能性はないと言い切れないのだから。
「巻くことは?」
「可能ですが、こちらに気付かれていないと思っている相手に気付いたことを察知されるのは得策ではありません。なので、妖精に力を借ります」
少し震えた手先を握り込み、対処を上げる。愚策ではないものの、最善とは言えないアマーリアの策に少し補足をして、クラウスは手段を取ることを提案する。
「妖精に?可能なのかしら?」
妖精馬車の特性はアマーリアもハイディから聞かされている。しかし、聞いている上では妖精が気紛れに力を貸してくれるということだけで、今クラウスが提案しているようなお願いの仕方が出来るとは聞いていない。
故に、多少の疑問に首を傾げたアマーリア。
勿論、ハイディがアマーリアへ告げた内容に偽りがある訳ではない。けれど、全てを伝えている訳ではなかった。
その一方で、御者として護衛として従者として付き従うことになっているクラウスは、妖精馬車の本来を知っている。そしてそれが、自分に可能な手段だということも。
「はい。……本来、獣人とはそもそも精霊に好かれやすくあります。アマーリア様程ではありませんが、私もそれなりに好かれている方です。なので、呼び掛ければ応えてくれるでしょう」
ポートリッド伯爵邸には昔、数多くの精霊が棲んでいたことを、クラウスは知っている。
アマーリアの父が亡くなり、当主が代わってからは散るようにして姿を消してしまったが、彼等はずっと自分達の傍にはいたのだ。
頼りなく光る灯りは、アマーリアが傷付く度にゆらりと揺れていた。
美しい所でしか生きていけない精霊は、欲望の渦巻く伯爵邸では力を持てなかった。
しかし、バーゼルト公爵邸に移動してからは違う。
整備された土地に好む水辺と自然。妖精が棲むのには絶好の場所で、伯爵邸では力を発揮出来なかった精霊達がつい張り切ってアマーリアに力を貸していたこともクラウスは知っている。
アマーリアが度々やりすぎては支給された属性鉱石を壊すという奇怪な現象に陥っていたのも、そのせいである。
約束があって、クラウスはそれをアマーリアに伝えることは出来ない。しかし、そもそも獣人という存在が妖精に好かれやすいという性質を使えば、自分が望んだことを今行うことが可能である。
なのでクラウスは、アマーリアの許可を得て、妖精馬車本来の使い方を妖精に願った。




