伯爵令嬢と婚約者の誘い
「やあ、アリー」
春から夏へと移り変わる合間の季節。湿った風のせいで洗濯が乾きにくいと文句垂れるメルシスの愚痴を聞いていたアマーリアの元を訪れたのは、片手に花を携えたジークムートだった。
「ジーク様!」
ジークムートが部屋に寄るなど聞いていなかった二人は急いで駆け寄り、彼を出迎える。
「いや、いいよ。すぐに戻る」
茶の支度をしようとするメルシスを止め、立ち寄った本件を伝えた。
「晩餐会、ですか」
立ったままではなんだから、とソファへ誘導したジークムートから告げられたのは婚約者としての仕事。
「そう、母上からも許可をもらっているのだけれど、どう?」
と、言葉自体はお伺いを立てていても、口調は行くことが決定しているような言い振り。アマーリアはちらりとメルシスを見やり、彼女が頷くのを確認してから返事をする。
「わかりました。いつ頃でしょう?」
「今日」
「…………はい?」
アマーリアは固まった。既に昼を過ぎ、まもなく四の鐘が鳴る。それなのにジークムートは、事も無げにそう言い放ったのだ。
「ジークムート様。流石にそれは急過ぎです。アマーリア様の支度も、公爵家の婚約者としてそれなりに着飾らなければならないのですよ。ドレスだって用意しておりませんし、到底準備など出来ません」
何も言えないアマーリアの代わりにメルシスがそう告げれば、ジークムートはさらりと返す。
「アリーは何もしなくても綺麗だし、その必要はないだろう?」
と、メルシスが異を唱えた理由を理解していないジークムートの言葉に、アマーリアは目眩がした。
「ジーク様。私は公爵家の婚約者として出席するのですよね?それならば、私は公爵家の婚約者として、それ相応の装いをしなければ、バーゼルト公爵家の名前が落ちるのですよ?」
後ろでこくこくこくと首を高速に立てに振るメルシス。その様子を見て、納得したようなしてないようなジークムートが問いかける。
「じゃあ、アリーは晩餐会には出れないのかい?」
そんな、なんてことのないように言い放つジークムートにキレたのは、他でもない侍女の、準備をするメルシスだ。
「アマーリア様を連れて行きたければ今すぐにお部屋から出ていってくださいませ!!」
ジークムートの背を押し、強制的に退室させたメルシス。そしてアマーリアに向き直り、彼女を立たせ湯浴みに連れていく。
「クラウス!ハイディ様のところに行って三人程侍女を借りてきて!」
その移動中、壁と同化していたクラウスに指示を飛ばし、人手を増やす。
こうしてアマーリアを着飾る係、黙々と下準備をする係に別れ、五の鐘が鳴る頃、ちょっぱやで仕上げたアマーリアが完成した。
最早メルシスの、ジークムートへの意地だけでやりきったと言っても過言ではない。
そんなメルシスに付き合わされたハイディ付の侍女は、修羅場を乗り越えたと言わんばかりに黄昏て戻っていった。
「ありがとうメルシス。こんな短時間で終わらせるなんて、流石ね」
その様子を見届けたアマーリアは、この間の半分で同クオリティに持っていったメルシスを褒める。主に褒められれば、侍女としても悪い気はしないのか、少し機嫌を直したメルシス。
「全く。ハイディ様もどうして許可されたのか」
急であったとしてもハイディの許可を取ったという以上、メルシスに支度をしないという選択肢は存在しなかった。それでも、これだけ急な予定をハイディが許可したというのは、付き合いの長いメルシスは納得出来なかった。
「まあ、みんなが頑張ってくれたお陰で間に合ったのだから、良しとしようじゃない」
窘めるように声を掛ける主に頷き、メルシスはジークムートを呼びに行くようクラウスへお願いした。
「ああ、間に合ったんだね」
正装へと着替えていたジークムートが、着飾ったアマーリアを見てそんな感想を溢す。
「うん、綺麗だよ、アリー」
にこりと微笑み、髪を上げ、薄い黄色のドレスに身を包むアマーリアを褒める。そこになんの感情も籠っていないあたり、ジークムートらしいとメルシスは溜め息を吐く。
「行こうか」
アマーリアの腕を取り、前を歩くジークムート。何処に行くのかも知らされていないアマーリアとしては行き先くらい聞かせて欲しいものだと嘆息する。
それでも馬車に乗り、ホールへ足を踏み入れれば、事前に聞かされていても余り意味はなかったなと、考えた。
「ジーク様。お久しぶりね」
揺れる淡い水の色。透き通った光のような金の眼差し。薄桃色のドレスで飾り、銀の装飾で飾る彼女は、この国の王女。
「ああ、アリーシャ。久しぶり」
若干アマーリアと名前の被る第一王女様と談笑を始めたジークムート。久しぶりも何も毎日会っているだろう、とツッコミを入れたくなるアマーリアは半目で二人を眺める。
まさか、晩餐会が王城で開かれるものだと思っていなかったアマーリアは、ジークムートの想い人である第一王女と遭遇するとも思っていなかった。
実際そのやり取りを目の前にすれば、二人が恋仲というのも嘘ではないのだろうと思いつつも、いつまで二人の世界に入っているんだとも思う。
「彼女はアマーリア・ポートリッド。僕の婚約者だよ」
「そう、この方がジーク様の」
そして置き去りにされること数分。漸くアマーリアの存在を思い出したジークムートが婚約者を紹介すれば、わざとらしいくらいの演技でアマーリアを見る。
「わたくしはアリーシャ。是非アリーシャって呼んで?よろしくね、アマーリア」
すっと差し出される白魚のような手。細くて長い指先を飾るアクセサリーがよく似合うその手を、アマーリアは握る。
「ええ、アリーシャ様」
メルシスが手入れしてくれているお陰で大分マシにはなったものの、それでも長年手入れをされていなかったアマーリアの手は硬い。
ふわりと沈む込むような王女の手の感覚とは大違いだと内心笑いながら、その場をやり過ごしたアマーリアだった。
「…………」
バルコニーに出る。二人は自分を邪魔者扱いするから居心地が悪くなって、その場から出てきたのだ。
上を見上げれば、満月である。真っ赤な月が爛々と輝いて、アマーリアの白い髪を照らす。
そしてそんなアマーリアへ、近付く誰か。
「月の女神だな」
こつりとバルコニーの床を踏み、ぼうっと月を眺めるアマーリアへ声を掛けた一人の青年。腰まで伸ばした銀の髪は風に靡かせて、深い紫の目にはアマーリアを映す。
「…………到底、程遠いですよ」
皮肉を込めて笑い、青年に背を向けるアマーリア。バルコニーの出入り口は青年が立つところ以外にもある。だから反対の出入り口へ足を進めるアマーリアを、彼は止めた。
「月の女神は、美しいだけじゃない。太陽の煌めきを持つ王女より、アンタの方がずっと綺麗さ」
近付きはしないまま、距離は遠いまま、青年はそう言う。他の人間に聞かれたら恐ろしいことを青年はあっさり言うものだから、アマーリアは注意するのさえ躊躇う。
「…………では」
結果、何も言わずに立ち去るのが正解だと察したアマーリアはバルコニーからホールへ移動する。
アマーリアにフラれてしまった青年は一人、機嫌良さそうな顔で月を見上げた。
「…………そう、太陽なんかよりずっと、綺麗さ」




