プロローグ
麗らかな季節。花壇の花が咲き乱れ、庭園の木々は鮮やかな色を纏う。けれどそこに立つ彼は、人造的な美より、美しかった。
絹糸のように柔く、日の光を艶やかに反射する青銀髪が腰まで落ちて、肩で緩く結ぶその御髪。浅瀬の海より澄む、薄くグレーが掛かる水色の淡い色合いの眼差し。
「アリー」
少年の時の高い声も儚く美しかったが、成人した変声期上がりのこの低い、艶やかな声は、未だに聞き慣れない、と、対面の少女は思っている。
「アリー?」
「あ、ジーク様」
アリーと呼ばれた少女は齢17,8頃の成人前か、成人後の幼さと色気を帯びる。彫刻のように人間味が無い男の横に並べばそれはさながら切り取られた空間のように浮く程、二人は人間味が無かった。
「どうだい、僕達の関係もそろそろ公表しないか?」
「そう、ですね」
アリーと呼ばれた少女は己がジークと呼んだ男の手を躊躇いがちに取り、庭園を歩く。視界の端々に映る季節の花が、実が、と、本来なら楽しめるであろうこの間でさえ、アリーは気まずく思う。
「ね、アリー。今度はご両親に挨拶をさせて?」
しがない伯爵家の娘のアリーと、国内有数の公爵家の人間であるジークにそう言われてしまえば、アリーは頷くしか道は残されていないのに。
きっと伯爵家の娘が公爵家に嫁ぐとなれば、義両親は喜ぶだろう。
当の本人は、別として。
「アマーリア!本当に凄いわ、あの公爵家のジークムート・バーゼルトに婚姻を申し込まれたって!!」
「ええ、お母様」
「そうか、お前は姉妹の中でも一番の出来損ないだったから心配してたが……漸く恩を返してくれたな!!」
「ええ、お父様」
通称アリー、正称アマーリアの両親は、本日届いた報せに大層喜んだ。挨拶に来たのは公爵家の息子で、それも次期当主が確定してる未来のバーゼルト公爵。見た目も良く、社交界に出ればあっちこっちから声が掛かり、一時は第一王女の婚約者になるのでは無いかと言われていた雲の上の存在。
持参金も嫁入り道具も用意する必要なし、身一つで伯爵家の厄介者だった娘がいなくなる。あまつさえ向こうが祝い金を支払うとまで言うのだ。
「ふんっ、まぁ、容姿しか取り柄の無いアマーリアだしね」
「そうですね、姉上。嫁入りといえども本妻は別にいるのでしょうから」
長女のグレーティア、次女のバルバラは両親に褒められ、しかも公爵家に嫁入りする妹に嫉妬し、悪態を吐く。
先代当主の正妻の娘であり、頭が良く、手先が器用で、運動神経が優れているアマーリアにとっては、針の筵だった。その上容姿すらも良くて、姉達は同じ社交界にいてもアマーリアにしか男が寄らないから、そんな妹が大嫌いだった。
「ええ、おやすみなさい」
両親の追及をそれとなく流し、自室に戻ることを許されたアマーリアは一息吐き、自室に向かう。
「…………ああ、愚かな人達ね」
ぼふんっと身体を受け止めてくれる寝台など存在しない。木製の台と、申し訳程度に敷かれた薄い布団と、麻の掛け布団。
屋敷の離れ、コンクリートと石畳で作られたアマーリアの部屋があるこの塔は、本来なら伯爵家の領地で罪人を管理するための建物だった。
故に、これから訪れる夏の季節は蒸し暑くてまともに寝れず、逆に冬の季節は外気をそのまま通すコンクリートで冷えきって、麻の掛け布団なんかでは凍死してもおかしくない程冷えきる。
「この塔ともお別れね、クラウス?」
「そうですね、アマーリア様」
とうの昔に慣れた寝台の硬さにもお別れを言いつつ、彼女に唯一宛がわれた使用人に声を掛けた。
「さみしい?」
「私は貴女に付き従うだけですから」
滴る血で色を染めたような赤い瞳は、一瞬覗いてすぐ、赤銀髪の髪に隠れる。
一見アマーリアの家族が手放そうとしなさそうな容姿をしたクラウスが何故アマーリアの使用人なのかといえば、赤銀髪に隠れ、同系色故に余り目立たないが、それでも人間とは明らかに違う耳にあった。
「こんなに優秀なのにね?」
「勿体無きお言葉です、アマーリア様」
するりとアマーリアの手が赤銀髪を辿り、ふわふわの耳に触れる。
「大丈夫、貴方もここから出してあげるから」
赤銀髪の毛色。先は尖り、奴隷の証であるピアスが嵌められたその耳は、一部の人間が劣等種と嘲る獣人。いくら見目が良けれど、アマーリアが拾ってきたクラウスを家族は欲しがらなかった。そしてそのまま、アマーリアの使用人となったのだ。
「アマーリア様」
「なぁに、クラウス?」
「…………よろしかったのですか?」
ふわふわの毛を楽しんでいたアマーリアは、クラウスの問い掛けに少しだけ顔を歪め、手を引っ込めた。そうして暫し俯き、アマーリアは唐突にクラウスを抱き締める。
「…………いいことにするわ」
「アマーリア様」
「クラウスが、いるもの」
「………………」
使用人のクラウスがその抱擁に答えることはない。ただ、主人がしたいことをしたいままにさせる。元はといえば、自分が不用意なことを問い掛けたのが問題だったのだから。
「さ、早く寝ましょ。明日、朝一で迎えに来るんですって」
「はい」
伯爵家の令嬢の婚姻ともなれば、それは豪気に祝福され、あちらこちらから祝いの品が送られてくるもの。その支度として、一月は猶予がある。が、何を隠そう迫害されている令嬢は祝いの品どころか、身支度すらも五分で終わる。その旨を伝えれば、早く妾を取りたい公爵家としても有り難く、即迎えを寄越すと約束してくれた。
「公爵家の側室なんてね、嫌な予感しかしないけれど」
知識も教養も、最低限のアマーリアは絶好の獲物。それをわかっていても、拒否権なんて最初からないのだから、アマーリアは溜め息を吐くしかない。
一夫多妻が認められているこの国で、名目上は正妻であれど、あのジークムート・バーゼルト公爵に嫁ぐというのは、側室だと言っても過言ではない。
「まぁ……ここより、いいでしょう」
社交界で見掛けたジークムートの横顔と、隣に並んでいた少女を思い出して、アマーリアの溜め息が重なっていく。
「おやすみ、クラウス」
「はい」
蝋燭という安価なものでさえ用意してもらえないこの薄暗い部屋で、アマーリアは眠りにつく。
「手紙でも出しておきましょうか」
すやすや眠るアマーリアを横目に、当主の執務室から盗んできた封筒セットを用意したクラウスは何かを書き始める。意外と達筆な字で、アマーリアが放った返事を適当にそれとなく誤魔化し、塔の外、貧乏なのに見栄だけで維持している荒れた庭を抜け、みずからの脚で手紙を届けるために、門を出た。