1話 少女は耳を塞ぐ
「——だい?アマベル、——坊は元——うかな?」
誰かの声が聞こえ、愛の意識はその輪郭を鮮明なものにした。
誰なんだろう、と、疑問に思い、瞼をゆっくり開けると、ぼんやりした視界に、なにか動くものが映っていた。
そして、意識の覚醒に伴い、はっきりとその声が聞こえた。
「ええ、いたって元気そうよ」
「そうか、それは良かったよ」
「それに彼女も起きたみたいよ」
ふと上を見上げると、金髪の女性が笑顔を愛に向けていた。
こちらをずっと見つめ、微笑んでいる女性に何か言葉を掛けようとした愛は、自身の口を開き、
「あー、うー?」
お姉さんは誰ですか?そう尋ねようとしたのだが、口から代わりに出たのは赤ん坊のような可愛らしい声だった。
その様子を見て女性はクスクスと笑い、その細く、いまにも壊れそうな腕で愛の頭を撫で始めたのだった。
その様子から愛はあることを確信する。
———どうやら本当に、私は第二の生を得たようですね。
あのやり取りは半分、夢心地のような曖昧な気分だったため、正直言って、半信半疑だったが、ここまではっきり見せつけられれば、その事実を認めざるを得なかった。
「うふふ、にぎにぎしてほしいの?」
そして、女性——おそらく今世の愛の母なのだろうか——に小さな手を伸ばすと、彼女はその手を握り返し、そう声を掛けられた。
その様子はひどく嬉しそうで、伸ばした手を下げることはひどく躊躇われた。
そして、しばらくそのままでいると、隣にいた男性が少し思案気に呟いた。
「この子には幸福な一生を過ごして欲しいものだよ…」
「ええ、本当に」
ふと彼らに目を見やると、二人とも妙な表情をしていた。
それはまるで世界に絶望したような顔であり、もはや叶わぬ幻想に手を伸ばしているような儚さを帯びていた。
愛は少し戸惑いつつも、とりあえず声を掛ける事にした。
「あうー、うあうー?」
「ああ、すまない。心配させてしまったかな?」
「バート、せめて彼女の前では、笑顔でいましょう」
「…、そうだな。すまない」
すると、二人とも、表情を笑顔に塗り替え、こちらを撫で始めてしまった。だが、そんな作り笑顔にも未だ、悲しげな表情が少しばかり混じっていた。
彼らがまだ一歳も満たない自分に、事情を誤魔化すのは仕方ない事だろう、と愛はその事への追及を諦め、彼らの会話に意識を傾けた。
「それで、バート。名前はどうしますか?」
「そうだね…。僕譲りの銀髪に、アマベルに似た美しい顔、そんな彼女に名前を付けるとすれば…」
どうやら、(おそらく)愛の今世の父親である男性は、新しい名前を決めてくれるようだった。
果たして、どんな名前にするのだろうか。
そして、しばらくの間の後、彼はおもむろに口を開いた。
「シンシア、シンシア=ブラッドレイ。それが君の名前だ」
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「うーん…」
愛、いや、シンシアは伸びをしながらベッドから起き上がった。
愛が『シンシア』と名付けられてからちょうど、二年が経った。
シンシアはボンヤリとした思考の中、この二年を回想する。
本当にこの二年はいろいろなことがあった。例えば、両親と一緒に貴族のような出で立ちの人たちと話をしたり、まるで食堂のような大広間に驚いたり、とにかくすごかった。
だが、何より驚いたのは自身が今、生きているのがおそらく異世界である、ということだ。
きっかけは母親が夜に絵本を読んでくれたときだった。シンシアはその本の文字を何一つ理解することができなかったのだ。本に記されていた文字はいくら見直しても、シンシアの記憶するどの文字にも当てはまらず、だからこそシンシアはここが異世界だと気づくことができたのだ。
ちなみに言語に関してはなぜか、既に知っていたのだ。言うならば、無意識下でその言語が使えてしまっている、と言うべきだろうか。
「それにしても文字を覚えるのは本当に苦労しましたね…」
なにしろ今までの日本語、と言う『常識』がすでにあるため、その文字を自分の言語として使いこなすと言うのは相当の苦しさがついて回った。
シンシアとて文字を使えることは使えるが、未だ完全に使いこなせるという訳ではないのだ。
「シンシア、開けるわよ」
ドアの向こうからシンシアの母、アマベルの声が聞こえた。
彼女は毎日シンシアの部屋に来て、一緒に遊んだり、絵本を読んだりしているのだ。もっともシンシアが頼んで、絵本を読んでもらうことがほとんどであるのだが。
「おはよう、シンシア」
「おはようございます。お母様」
ドアを開けて入って来たのはいつも通りの艶のある金髪をたなびかせる母だった。
彼女は微笑みを浮かべながらこちらに近づいて来る。
「シンシア、今日はアーシヴァンの歴史の絵本よ」
彼女が読み聞かしてくれる本はシンシアの要望によって、大抵が歴史に関する本になっていた。
シンシアは絵本を介して、異世界についての情報を得ようと試みてのことだった。
そして、アマベルはゆっくりと丁寧に絵本を読み進めていった。
□ □ □ □ □ □ □
「——こうしてアーシヴァンは天教と共に発展していきました。これで話はおしまいよ、シンシア」
「ありがとうございました。お母様」
「じゃあ、そろそろ朝ごはんにしましょうか」
話を聞き終わりシンシアたちは朝食を食べに、大広間に向かう事にした。
大広間に向かう途中何人かのメイドとすれ違った。シンシアの両親は貴族であるのか、メイドや使用人をかなり雇っているようだった。
シンシアたちが大広間について椅子に座ると使用人たちが一斉に料理を運んで来た。
料理は一目で高級品だとわかるようなものばかりで、シンシアはこの光景に毎回驚嘆を覚えていたのだった。
ふと母を見れば、母もこういう光景には慣れていないのか、思わず息を漏らしているのが見て取れた。
「「いただきます」」
その声とともにシンシアたちはご飯を口に運び始めた。直後、シンシアの口内に筆舌しがたい味わいが広がる。
それは前世では一度も味わったこともないような美味しさだった。
「おいしいです!」
「ふふっ。そうね」
こうしてあっという間に極上の料理は眼前から失われてしまっていた。
「「ごちそうさまでした」」
その言葉を皮切りに一斉に目の前の皿が使用人によって下げられていく。その様子をシンシアはしばらく眺めていたが。やがておもむろに立ち上がり、母に「また後で」と言い残して屋敷の庭へと向かったのだった。
庭についたシンシアはゆっくりと目をつぶり、口元で言葉を呟いた。
「その形を決定せよ。『姿無き人形』」
直後、シンシアの眼前、何も無い虚空からまるで元からそこにいたかのように、一匹の黒猫が現れた。
「ふう、成功ですね」
そう、シンシアは『魔術』を行使したのだ。これは父から教えてもらったもので現在も週一回、魔術について教えてもらっている。
魔術は『術式』と『詠唱』により成り立っている。より詳しくいうならば『術式』で生命力、すなわち魔力により起こす事象を脳内で組み立て、『詠唱』により現実世界に適用する、それにより初めて魔術は成立するのだ。
あえて例えるならばそれはプログラムに似ていると言える。『術式』がプログラムの内容で、『詠唱』がその決定キーというわけだ。
先ほどシンシアが使用した魔術は彼女独自のもので、周囲の魔力を動物の形に作り変え、使い魔として使役する、というものだ。
この魔術は自身の魔力消費がほとんどないためその形を長時間維持することが可能で、現状では一番使い勝手がいい魔術となっているのだ。
そして、シンシアは再び詠唱を行なった。
「その形を変革せよ」
直後、猫の姿が歪み、次の瞬間には小鳥の姿になっていた。いわばこの魔術は『形のあるもの』ならばなんでも再現ができてしまうのだ。もっとも中身はない正に、『ハリボテ』ともいうべきものだが。
そして、シンシアはひたすらに魔術の鍛錬を続けた。
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庭に魔術の鍛錬に向かった娘、シンシアを見てアマンダはため息をついた。
ここ最近、いや、夫、バートランドが彼女に魔術を教えてからずっと彼女は魔術に傾倒してしまっていた。
「本当にどうすればいいのかしら…」
本当は魔術などに彼女を関わらせる気はなかった。ただ、夫が自分の身を守る手段が必要だと説かれたので、不承不承、承諾したのだ。
だが、実際に魔術を目にした彼女はそれに興味を持ってしまった。今では彼女自身で独自の術式まで構築してしまっているらしい。
確かに親として、それは喜ぶべきことかもしれない、だがそれはシンシアが『普通の少女』から『魔術師』に変わることに他ならないのだ。
「それだけは何としても避けなければいけないわ」
シンシアには『普通』の少女としての人生を送って欲しいのだ。そう、決して異端などと糾弾されてはいけない。
だから、ずっと城に留めていた。
だから、何もおしえなかった。
だから、今回も同じこと。
だが、彼女からどうやって魔術を切り離せればいいのだろうか…。おそらく、ただ禁止しただけではいずれ必ず限界が来る。何かいい方法は…。
「そうだわ」
その時アマンダに一つの閃きが舞い降りた。
魔術以外の何か興味を惹かれるものを見つけさせればいいのだ。そうすれば必然的に魔術に触れる時間は少なくなり、うまくいけば魔術そのものに興味を失ってくれるかもしれないのだ。
「でも、そんなものを見つけるなんて…」
大広間で一人、アマンダは思考を巡らせる———
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シンシアが魔術の鍛錬を始めてから既に二時間ほど経ち、シンシアは若干の空腹を感じていた。
おそらく外では太陽がさんさんと輝いていることだろう。
「最も、外の景色は見たことがないのですけどね」
先ほどは庭、といったがあくまでも草木が育ててられている部屋の中であり、蝋燭が部屋の中をほのかに照らしているだけだった。
今までの二年間、一度も『太陽の光』というものをシンシアは浴びてはいなかった。廊下の窓は外の景色を写すことはなく、ただ底の見えない闇がのぞいているだけだった。
また、両親はシンシアを決して外へは行かせず、捉えようによっては幽閉のようにも感じられた。だが両親からは確かな『愛』が感じられ、シンシアはその意図を掴みかねないでいた。
「シンシア!」
ふと、シンシアが振り向くと母が不安げに庭の扉を開け、こちらを見ていた。
どうやら既に昼食の時間らしく、開かれた扉からはほんのりと香ばしい香りが漂っていた。
「今、向かいます。お母様」
シンシアはおもむろに母へと歩みを進め、母とともに大広間へと再び向かうことにしたのだった。
大広間に着くと、既に目を見張るほどの豪勢な食事がずらりと机に並べられていた。
そして、部屋の奥に視線を向けると今世の父、バートランドが既に席についていた。
父は母同様、丁寧に整えられた茶髪、彫りの深い面貌と非常に整った容姿をしており、娘であるシンシアでさえもうっとりとしてしまうほどのものだった。
「お父様、帰っていらしたのですね」
「ああ、朝は済まなかった」
「別に大丈夫ですよ。お母様がいますので。」
父は何かの用事なのか、毎日不定期に家の外に出かけいる。今日の場合、用事は朝から昼までのようだった。他の日は昼だったり、夜だったり、時には丸二日帰ってこない日もあった。
そして、いくら尋ねても決して用事の内容は教えてはくれないかったのだ。その頑なな様子は本当にまずいことに手を出してしまっているのではないかとシンシアを不安にさせるばかりであった。
「じゃあ、全員揃ったことだし、一家全員で食事を楽しもうじゃないか」
その言葉を皮切りに、シンシアたちは昼食を食べ始めたのだった。
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「シンシア、ご飯は美味しかったかな?」
シンシアは昼食を食べ終わると、開口一番にそれを尋ねられた。こういうところは本当に過保護だ、とシンシアは内心苦笑する。
「ええ、舌がとろけるようでしたよ」
「そうか、それは良かった…」
父は心からそう思っているのかとても緩んだ表情をこちらに向けていた。そして頃合いを見てシンシアは席を立ち上がった。
「では、私は図書室で本を読んでおきますね」
「分かった、シンシア。面白い本が見つかるといいね」
この屋敷には『図書室』と呼ばれる大量の本が置かれた部屋が存在する。シンシアは時々そこで、歴史書や魔導書を読み耽っているのだ。
シンシアが今朝使った魔術も『大気の魔力の利用』という魔導書の理論の応用に過ぎない。
そもそも魔導書、とは魔術の術式、詠唱、そしてその理論が記された本で、主に半人前の魔術師のために記された基礎的なものがほとんどだ。そこからほとんどの魔術師は自らの術式を作り上げていく。いわば、独自の術式を構築して始めて、魔術師として一人前とも言えるのだ。
そして、シンシアは両親を残して一人、図書室に向かったのだった。
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あれから8時間ほど経ち、既にシンシアはベッドに入っていた。
胸に感じるのは確かな安心感と少しの疑念。なぜ両親は自身を外に出してくれないのか。それはシンシアの心の内にしこりのようにひっかかていた。
だが、それを聞くことは何よりも残酷なことのように感じられた。まるで、聞いてしまえば足元が崩れてしまうような、そんな漠然とした不安を感じていた。
故にシンシアはそれを決して聞かない。ただ、平穏を享受することを選んだ。
———それが悲劇の前触れとも知らずに
以上、二話でした。もし、興味を持っていただければ、次話も見ていただけると幸いです。
ではでは