解散の危機
「……ってなことがあったんだよ、昨日」
「へえ、ここ数日音信不通だと思ってたら、あの人逃げちゃったんだ」
時刻は正午、場所は教室。
昨晩に衝撃的なメールが届いてから、早いものでもう半日が経過していた。
そこで俺は友人であり志を同じくする仲間である平川とともに弁当を食べながら緊急会議を開くことにした。テーマは当然、俺たちのこれからについてだ。
「そうなんだよ、やばいだろ」
個人的には驚天動地の大事件だったはずなのだが、平川の表情はあまり驚いたようには見えない。黒縁の角張ったメガネの奥にある瞳は、いつもと変わらない落ち着いた様子だった。おかしいな、もっと慌てふためくと予想していたのに。
「まあでもしょうがないよ。もともとインターネット上の掲示板を通じて知り合った仲だし、リアルでの付き合いなんてなかったからね。いつかバックレる可能性はあると思ってた」
すると平川はさも当たり前のようにそう口にした。サバサバとしたその口調は、うちのサークルからイラストレーターが抜けることをはじめからある程度覚悟していたことを示唆していた。最初に諦めていた分、実際にそうなった今は俺よりも落ち着いていられるのだろう。
「おまえな、そんな簡単に言うなよ。絵師がいなくなったら『MAE』の未来はどうなると思ってるんだ」
「解散だね」
拍子抜けするほど簡単に、平川はそう言った。きっとこれも最初から覚悟していたのだろう。
「それは嫌だ」
「じゃあどうするの? 絵のないノベルゲームなんて誰も買わないよ。それはそれで画期的だとは思うけど」
「……いや、それは」
「優多が絵の練習をするのなら反対はしない。でも優多は本当にそれでいいの?」
「……いや、それは」
「そもそも最初が上手くいきすぎただけで、前作の売り上げは散々だったじゃない。僕らみたいな学生のアマチュアにはこの辺が潮時だったんだよ」
平川は容赦なく厳しい言葉を投げ続ける。悲しいことに全部真実なので俺には反論することが出来なかった。
思い返すこと一年前、高校に入学してすぐに俺と平川の二人は同人サークルを立ち上げたのだ。目的はノベルゲームと呼ばれる、パソコンでプレイするゲームを自主制作すること。俺はシナリオを書き、平川はゲームのプログラミングやその他の事務をこなす役割を志望した。
しかし、それだけでは一般的なノベルゲームは完成しない。BGMやSEなどの音響関係はインターネット上のフリー素材を借りることで代用できるが、ゲームを作るにあたってもっとも大切な要素である絵を用意しなくてはならなかったからだ。
俺も平川もイラスト、特にパソコンを使ってデジタルの絵を描くことができる能力はなかったし、それが可能な知り合いにも心当たりがなかった。そこで俺たち二人はインターネットの掲示板を利用してともにゲームを作る仲間を募ることにした。幸いにもほどなくしてサークルのメンバーに立候補してくれる人が現れ、晴れて俺たちのサークル「MAE」は活動を開始した、と言うわけだ。
「せっかく今日までやってきたのにここで解散なんて、平川はそれでいいのか」
指摘された項目を全てぶん投げた感情論を俺は返答に使った。他に言えることは何一つなかったからだ。
「そりゃ、折角一年間ゲーム作りをしてきたんだから、僕だって続けたい。でも僕たちがゲーム制作サークルである以上、イラストが素材として用意できない状態で続ける意味なんてないよ。そんなのはただの不毛な集団で、時間の無駄だ」
今現在、俺たちは高校二年生。サークルを結成した去年は半年に一本のペースでノベルゲームを制作した。一年間で酸いも甘いも体験した今年はさらに質の高いものを創作する予定だった。
「……まあ、そうだよな。あと一ヶ月ちょっとしかないし」
目標とは裏腹に、今年のサークル運営は最悪の状態だった。ゲームを作る上で一番大事なものである企画書がなかなか完成しなかったからだ。それは建造物における設計図のようなもので、ゲーム制作にとって企画書は必要不可欠……のはずだったのだが、俺と平川、それにネット応募の絵師さんの三人はいつまでたってもその設計図を書き上げることができなかった。喧々囂々と話し合った末にそれが完成したのはつい一週間前のことだ。企画の根幹は絵師さんの提案によるものだった。
「一ヶ月であの量の素材を上げるのは至難の業だよ。だからあの人も逃げちゃったんじゃないかな。僕たちが早めに企画をまとめていればこんなことにはならなかったのに」
平川は相変わらず冷静なままだ。眉一つ動かさないまま、真実のみを並べていく。
「過ぎたことはしょうがないだろ。デッドラインは変更できないんだぞ」
そう答えた俺の脳裏にあったのは、昨晩寝る直前に見た大きな封筒のこと。
自室で大事に保管しているそれは俺たちをとても大事な場所へ誘ってくれるもの―――それは今夏の同人誌即売会、通称「夏コミ」へのサークル参加チケットだ。同人「誌」とは明記されているものの、そこで配布されているのは多様な自主制作の創作物たちである。自作したCDや装飾品、キャラクターグッズなどを配布するサークルも多く存在している。それら創作品を配布するイベントの中で一際大きな規模で行われるのが、およそ一月半後に開催されるコミックマーケットである。年間で夏季と冬季の二度にわたって開催され、参加人数は一日あたり二十万人近く。参加者の千人に一人が購入すると仮定すると二百個の売り上げである。自分の作ったゲームを配布することに関してこれ以上の環境は世界中のどこを探しても見つからない。
「せっかくコミケに当選したんだから、僕としても新作を用意したかったけどねえ。このままじゃ無理そうだ。過去作品を持って行く?」
平川の問いに大きくかぶりを振る。コミケへの参加費やその他必要となる経費も安くないのだ。平川の言うとおり、どうせ出るなら新作を作って持って行きたい。
「ま、優多がこんな提案に乗るとは思ってないよ。だけどもう残されている時間は六週間くらいしかないんだ。悪あがきをするにも限度がある。現時点での企画で最低限必要なイラスト素材を考慮すると、今から一週間以内に新しくイラストレーターを見つけ出さないといけない。それに、シナリオもまだ白紙のままでしょ」
「ああ、分かってるよ。シナリオは俺の担当だ。絶対に書き上げてみせる」
「優多がいくら頑張っても、僕たちにはイラストが描ける知り合いがいない」
「それも分かってる」
サークル結成時にかけずり回って友人知人を勧誘した日々を思い出す。一緒にゲームを作ろうと言ってくれたのは一人もいなかった。
「あれだけ探してもダメだったんだから、はっきり言って奇跡でも起きない限り適任者は見つからないよ。それこそ宝くじが当選するレベルの話だ」
念を押すように平川が言う。きっとこの男も一年前の苦労を今のことのように思い出しているに違いない。
「宝くじか……」
一説によると宝くじが高額当選する確率は飛行機が墜落するそれとほぼ同程度らしい。いったい小数点第何位の話なのだろう。気が遠くなる数字に思わず頭を抱えてしまう。
「ともかく、期限は残り一週間。それまでに結果が残せなかったら『MAE』は解散。コミケには既製品を持参する。それでいいね?」
一週間以内に宝くじを当てるなんて普通は不可能だ。しかしそれができなければコミケに参加する意味を失ってしまう。苦心して得たサークル参加チケットはいまや自分をゴルゴタの丘に導く片道切符へと変貌している。
「……ああ、そうするしかないな」
自分でもびっくりするくらい弱々しい言葉を平川に返した。
「突然消息不明にならないように、今度こそは現実の知人であること。それに加えて厳しいスケジュールをこなせる実力がある人材。そいつを探してくればいいんだろ」
「そうだね。どれだけ近しい人物でもスキルがないと無意味だから」
それは悲しくなるくらい高いハードルだ。検索結果に合致する人が国内に何人いるのだろう。
「あ」
そびえ立つハードルに俺が気後れしていると、平川がふと思いついたように声を漏らした。
「どうした?」
それからメガネの端を人差し指で持ち上げる。
「絵が上手い人なら、心当たりあるよ」
俺の期待に満ちた視線に対して少し視線を泳がせながら、そう続けた。
「本当か、そいつはどこにいるんだ!?」
「この学校」
「学生か?」
「そう。同級生だよ」
「クラスはどこだ」
「隣」
おずおずと該当するクラスの方角を指差す平川。
隣。するとその人材は二年二組ということになる。それだけ分かれば十分。
「よし、行ってくる」
次の授業までにはまだ余裕がある。善は急げということで、俺の足は自然と自分の教室を飛び出し、まだ見ぬイラストレーターの待つ場所へと歩を進めていた。
「あ、ちょっと待って……」
後方から平川の声が聞こえたような気がしたが、大義を得た俺にとってはそんな些細なことをいちいち確認する時間が惜しい。もたもたしている間に第三勢力が噂の才能をかっさらっていく可能性だってあるのだ。きっとその可能性は飛行機が落下するよりも高い。
俺に説明する平川の態度が少し不自然だったことが一瞬だけ気にかかったが、すぐにそれは四散して消えた。今はもっと大事なことがある。リクルートだ。俺はリクルートの鬼にならねばならない。
降ってわいた幸運に感謝しながら、俺は二年二組の教室へと入っていった。
「よう、ちょっといいか」
教室に入ると、幸運にもすぐ近くで昨年のクラスメイトを発見した。こいつに聞けばきっと目的の人物に会えるだろう。
「おお、淺山じゃん。久しぶりだな、何か用か」
にこやかな挨拶を交わす。よし、この調子で本題に移ろう。
「ああ、それがな―――」
と、そこで俺は気がついた。今の自分は探している人物の素性を何一つ知らないことに。性格や顔はおろか、名前すら分からない。
「なんだよ、どうしたんだ?」
二の句が継げない俺の様子を見て、相手は不思議そうな顔になった。ちくしょう、こんなことならせめて所属先の他に名前くらいは平川に尋ねておくべきだった。
「……絵が上手い奴がいると聞いたんだ。このクラスにいるらしいんだが、誰か分かるか?」
「はあ? なんだそりゃ」
俺の漠然とした条件付けに理解が及ばなかったのか、相手の顔がさらに怪訝になる。まあ、急にこんな質問をされたら誰だってこんな反応になるのかもしれない。
「いや、何でもない。悪いな、出直してくる」
わざわざ休憩中の学友を混乱させなくとも、もう一度平川に確認をとればそれで済む話だ。自分の勇み足を少し反省しながら、俺は来た道を反転して戻ろうとした。
「……それ、ひょっとして夜陣のことか?」
今まさにまわれ右をする寸前、俺の耳にそんな言葉が届いた。
「思い当たる節があるのか!」
身を乗り出して相手の顔をのぞき込む。
「ああ、このクラスで絵が上手いと言えばあいつしかいねえ」
まるでそいつの持つ才覚を強調するように言葉を続ける。それだけ有名ならさぞかし実力の方も抜きん出ているはずだ。抑えきれない高揚感を懸命に隠しながら、俺はその人物のありかを尋ねた。
「今の時間は教室にはいないみたいだな。だとすると、多分中庭にいるはずだ」
ぐるっと教室全体を見渡してから、かつてのクラスメイトはそう言った。
「中庭って……なんでそんなことが分かるんだよ」
自分と親しい人物以外が休憩中にとる行動なんて把握していないのが普通だ。なのにまるで断定するかのような口ぶりなことが気になった。もしかすると目の前の男とその夜陣は友人関係にあるのかもしれない、と考えを巡らせたが、先程からやけに曇っている彼の表情を見るとそれはなさそうだ。
「クラスのやつらはみんな知ってる。あいつは有名人だからな」
相手は苦虫を噛みつぶしたような顔で俺の疑問に答えた。普通に生活していて学生がそんな顔をする機会は少ないだろう、咄嗟にそう思えるくらい特徴的なリアクションだった。
「そ、そうか。ありがとな、教えてくれて」
相手の表情は何かを暗示している。だけど今の俺にとってはそれが何かを突き止めるよりも大切なことがあるのだ。
「で、夜陣の居場所を聞いて何をするつもりなんだ?」
相変わらずの渋い表情で、相手はそう聞いた。
「何って、ちょっと話をつけに行ってくる」
俺としてはもうこの教室に留まっている理由はないので、一刻も早くその夜陣と呼ばれる生徒と接触を試みたいところだったのだが、予想に反して目の前の案内人はそれを拒んだ。
「去年のクラスメイトとして進言する。悪いことは言わない、それはやめとけ」
今まで一度として見せなかったほどの真剣な表情で眼前の男はそう言い切った。
「なんでだよ。ちょっと話をするだけだぜ」
自分たちの活動―――ノベルゲーム作りが健全な高校生のあり方とは少しだけ逸脱していることは自覚しているので、夜陣がどれだけ変わりものだとしても、いきなりサークルの仲間になってくれるとは思っていない。最初は少しだけサークルの目的を話して、それから相手の実力を計る。その結果、能力も申し分なし、しかもサークルへの加入も好感触とくれば一気呵成とばかりに勧誘しようと計画していたのだから。
「それが既に高望みなんだよ。いいか、あいつとまともに会話しようとしても時間の無駄なんだ」
ガシッと俺の両肩を掴んで、迫真の表情で説き伏せるようにそう言った。よく見ると目が血走っていて怖い。
「その金言は心に留めとく。だから肩を離してくれ」
「本当に理解したか?」
念を押すように確認を迫られる。その表情は間違いなく彼の本心のようだ。
「ああ、絶対に夜陣には近寄らない。これでいいだろ」
ちらと盗み見た壁時計は、昼休憩が残り少ないことを示していた。この機を逃せばまた明日になるまで夜陣をスカウトすることができなくなってしまう。一週間というタイムリミットを勘案すると、今はその一日が惜しい。
「その言葉、忘れるなよ」
俺の返事に納得したのか、相手はようやく肩から手を離してくれた。
「ああ、時間をとらせて悪かったな」
実際に時間を失ったのは俺の方なのだが、それでも一応軽く礼をしてから二年二組の教室を後にする。行き先はもちろん中庭である。残り十分ちょっとしかない昼休みの間にどれだけ理想的に動けるかが勝負なので、サークルへの勧誘を脳内でシミュレートしながら廊下を走った。
夜陣は、すぐに見つかった。
さっきの教室ではお尋ね人のパーソナルな情報をその名前しか得ることができなかったので、もし中庭が人で溢れていて、探している相手が見つからないなんてことになったらどうしよう、と少し不安に感じていたのだが、それは全くの杞憂に終わった。目的地に着いた瞬間に俺は夜陣の存在を峻別することができたからである。
中庭にそいつ以外の生徒が一人もいなかったわけではない。むしろベンチが設置されており、吹き抜けの構造で季節の花々をそこかしこに栽培しているこの学校の中庭は友人やカップルが集って利用する昼食スポットとして名高いので、本日も多くの利用者がいた。
にもかかわらず、俺は即座に目当ての人物に接触することができた。それは言い換えれば夜陣が圧倒的な存在感を持って俺の前に現れたと言うことにもなる。
多くの学生たちが同伴者との会話に花を咲かせている中、スケッチブックと鉛筆を持ってベンチの一角に陣取り、無表情で右手を動かしているその光景は明らかに異質だった。たとえこの空間に全校生徒が集結したとしても、そんな行為をしているのはただ一人しかいないだろう。白紙のキャンバスにおける小さな黒点のような、そんな目立ち方をしていた。
他のベンチは全て利用者で埋まっているのに、夜陣が使っている付近だけは人の気配がなかった。ついさっき教室で聞いたように、やはり人を寄せ付けない雰囲気の持ち主であるゆえんなのか。それならそれで話しかけやすいから好都合だ。
「なあ、ちょっといいか」
彼女の行為を邪魔しないように後方から近付いて声をかける。既に同学年であることは確認済みなのでタメ口でも大丈夫だろう。
「…………」
しかし、相手からの反応はなかった。返事をくれるどころか背後にいる声の主を振り返ることすらしない。完全なる無視である。
「おーい、もしもし」
ひょっとして呼びかける声量が小さかったのかも、と原因を分析した俺は夜陣が座るベンチに接近し、再び声をかけた。姿勢良く座っている彼女の隣には巾着袋が見える。きっと弁当箱が入っているんだろう。
「…………」
俺の努力もむなしく、彼女は依然として無反応である。おかしいな、この距離で聞こえていないはずはないんだが。ひょっとするとイヤホンで音楽でも聞いているのかもしれないが、耳元は長く伸びた黒髪に阻まれているためそれを確認することができない。
「夜陣さーん、返事してくれよ」
このままでは埒があかない。そう思った俺は彼女の前方へ回り込み、その目の前で手をひらひらさせながら呼びかけることにした。
「……ああ、私に何か用ですか」
小さい口からさらに小さい声が発せられ、俺のもとへ届く。その瞳が緩慢に動いて俺の姿をとらえる。そこでようやく、彼女は自分にむかって干渉してくる人間を認識したようだ。
「他に誰がいるんだよ、誰もいないだろ?」
大げさに両手を動かして周囲に人がいないことをアピールする。けれど、彼女の瞳は無機質なままだった。
「そうですね、それで、用事というのは?」
嫌悪感を隠そうともしない調子で夜陣はそう言った。その感情の原因はおそらく、自分のスケッチを中断する輩が現れたことだろう。
「絵の邪魔をして申し訳ない。俺は二年生の淺山優多。ちょっと夜陣さんに話があって来たんだ」
「……はあ。私は淺山くんとのお話に心当たりがありません」
それきり彼女の視線は再びスケッチブックへと向かう。お前とは話がしたくない、だから帰れと言わんばかりの態度だ。
「そんなこと言うなよ。少しだけでいいから話を聞いてくれれば―――」
交渉事を持ちかける側が立腹してはまとまる話もまとまらなくなる。ここは粘りの姿勢で夜陣に話しかけなくては……そう思った直後だった。俺の視界に彼女のスケッチブックに描かれた鉛筆画が映ったのは。
それは本当に何気ない気持ちで見たものだった。決して夜陣の画力であるとか、描いている題材を吟味しようとかの邪な気持ちが先行した行為ではない。電車や乗用車に乗っているときに流れていく景色のような、ごく当たり前の日常の中にその描画は存在していた。
「すげえ……」
色褪せたスケッチブックの白地。その上に書き込まれていたのは中庭の風景だった。俺の乏しい人生経験でも瞬時に理解できるくらい、その絵は魅力的に描かれている。極端な話、その一枚だけで平川の言っていた「絵が上手い人」に得心がいってしまったのだ。
無論、俺たちが求めているイラストとスケッチブック上の風景画に高い親和性があるわけではない。むしろ鉛筆で描いてあるこの絵とペンタブレットなり画像処理ソフトなりを使用して制作するデジタルなイラストとの間にはサッカーとバスケットボールほどの共通項しかないかもしれない。だが、きっと彼女は俺たちのニーズに応えるだろう。夜陣の描いた絵には言葉を必要とせずともひしひしと伝わってくる説得力があった。
「上手いとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。本当に凄いな」
俺が彼女のスケッチブックをのぞき見したような形になってしまっていることは気付いていた。それでも今この正直な感想を作り手に述べないのは失礼だと思ったのだ。それはもはや強迫観念に近かった。美味しい物を口にしたとき思わず感嘆するように、優れた美に出会うことによって俺の口は勝手に動いていた。
「別に大したものじゃないですよ。ただの落書きです」
あまり飾った賛辞を用意できなかった語彙の乏しいこの身を恨めしく思っていると、彼女はそう答えた。その表情は気のせいかさっきよりも不機嫌になっているように見える。
「そんなことないぞ。夜陣の絵には魅力がある」
やはりイラストレーターを募集して回る役割には高い審美眼と賞賛の言葉が必要不可欠だったのだ。芸術の専門家が使うような小難しい専門用語を勉強しておくべきだったと後悔する。そうすればきっと夜陣も喜んでくれたに違いない。
「……で、その魅力のある絵の描き手に何のご用ですか。私としては早く用件を済ませてしまいたいんですけど」
じろり、と色のない瞳で俺を見る夜陣。一応話は聞いてくれる気になったようだ。
「おっと、そうだな。そろそろ本題に入らないと。少し長い説明になると思うが、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。私もそれほど暇ではないので、一言でお願いします」
「一言か……」
せっかく真面目に聞いてくれるのかと思いきや、あんまりそんな気もなさそうだった。相手が拒否しようが何しようが耳元で大音量のプレゼンテーションをかますことは可能だが、彼女の創作活動を邪魔してまで勧誘しても実りはないだろう。
「今のが用件ですか?」
俺の言葉を聞くが早いか、夜陣はそっぽをむいてスケッチブックに視線を移してしまった。
「違う、今のは独り言だ。ちょっと待ってくれすぐ考えるから」
「可及的速やかにお願いします」
渋々ながらも彼女の顔は俺の方に向き直った。しかし、俺が何か一言口にした瞬間に彼女はきっと俺の存在を消して絵に没頭するだろう。そしておそらく二度目の機会はない。つまるところ、次に俺の口から出る言葉に全てがかかっているのだ。
俺は夜陣をサークルのメンバーとして迎えたい。夜陣の作り出すイラストは間違いなく俺たちのノベルゲームをさらに高いレベルへと昇華する。残り一週間という限られた募集期間で彼女を越える人材と出会える可能性の天文学的低さを鑑みると、ここで彼女の勧誘に失敗することは許されない。
それらの要素をひっくるめて一言で表すなら―――
「―――俺のために絵を描いてくれ」
こんな感じになるのではないだろうか。一言の厳密な文字制限は知らないが、少なくともカチカチの美文調を用いるよりは簡潔だと思う。
「謹んでご遠慮させてもらいます」
「……え?」
個人的にはまとまっていて良いフレーズだと脳内で自画自賛しようとした瞬間、断りの返答が届いた。
「も、もうちょっと悩む仕草とかしてくれてもいいんだぞ」
それがあんまりにも即断即決だったので、見苦しいとは思いながらも俺は訂正を求める。
「悩み抜いた結論です」
それなのに目の前にいたのは真っ赤な嘘を平気で口にする女だった。多分一秒も悩んでいない。
「話は終わりですよね。それでは失礼します」
ぺこりと頭を下げてそう言った。失礼しますとか言いつつもこの場を動くつもりはないようで、むしろお前がさっさと消えろとでも言いたげな雰囲気だ。
「くっ……」
どうやら俺の懸命なリクルートは結果を残せなかったらしい。失恋するのってこんな気分なのかもしれないな、今度シナリオ書くときに参考にしよう。
後ろ髪を引かれる思いで俺は夜陣の座っているベンチを後にする。ここで何も言わず黙ってこの場を去っていればグッドルーザーにもなり得ただろうが、根性の曲がった俺はそう上手く立ち回ることができなかった。
「……ま、鉛筆画が上手くても他はからっきしかもしれないしな」
そんな言葉が口からこぼれたのは、立ち去る寸前に俺と夜陣の体が交差した時のことだった。
もちろんそれは彼女の才能を羨んだ俺の卑屈な心が作った見苦しい言い訳に過ぎない。俗に言う「すっぱい葡萄」と同じで、手に入らないと分かった途端に欲していたものを腐すみっともないやり口だった。
自分の浅ましさを露呈してしまうので、その声が彼女の耳まで届かないでくれと祈るような気持ちで俺は中庭から校内へと伸びている道を進む。
「待ちなさい」
背後から鋭い声が飛んできたのは、あと数歩で校舎へとたどり着けるような、そんな場所でのことだった。
恐る恐る後方を見ると、いつの間にかスケッチブックと鉛筆を片付けていた夜陣がすぐ近くまで来ていた。さっきまで色のなかった瞳は今、強い意志に包まれているように見える。
「淺山、あんたなんて言った」
「え……?」
驚いたことに、さっきまで慇懃無礼を思わせるほど丁寧だった口調が一変していた。俺の耳が腐ってなければ、今の夜陣はヤンキーを思わせる高圧的な態度である。
「何て言ったのか、って聞いてるのよ」
俺の無言を反抗と曲解したのか、彼女の荷物を持っていない方の手が俺の首下に伸びる。まるでカツアゲそのもののような構図になってしまった。
「……申し訳ない。あれは撤回する」
困惑しつつも、このままではこの女に何をされるか分からないのでひとまず謝っておいた。自分の小心者っぷりが嫌になる。
「ごめんで済んだら警察はいらないの」
外見上は誠意たっぷりの謝罪のはずなのに、なぜか相手側の心証は以前よりさらに悪くなった。
「あんたが何をしようとしてるか知らないけど、どうせくだらないことでしょ。そんなもののために私は貴重な時間を割かれて、挙げ句の果てにいわれのない批判を受けるなんてとんだ厄日ね」
そうして俺を突き飛ばし、彼女は一気にまくし立てた。それと時を同じくして午後の授業五分前を知らせる予鈴が鳴り、中庭にいた生徒たちが一斉に移動をはじめていく。
その人波に逆らうようにして、夜陣は歩いて行く。もう俺になど金輪際用はないといった態度で。
「おい、待てよ」
ところが、彼女になくても俺にはある。さっきまでは一つだけだったが、たった今用件は二つに増えていた。
「なによ、まだ言いたいことがあるの」
彼女の進行方向へ先回りし、その鼻面目がけて指を差す。
「お前の才能を貶めるようなことを言ったのは俺の落ち度だ。だけど、お前に俺たちの作っているゲームを馬鹿にする資格はない」
「ゲームって……何のこと言ってるのよ」
次に困惑するのは相手の番だったらしい。そう言えば俺たちが作っているのはゲームで、そのために夜陣の力が必要なんだという旨をきちんと伝えていなかったかもしれない。俺としてはさっきの一言に凝縮したつもりだったのだが。
「俺はノベルゲームを作っているサークルに所属してる。それで新作を作るにあたってイラストレーターが必要になったからお前のもとを訪れたんだ」
先程言えなかった用件を告げると、夜陣の顔は思案するようなものになった。
「……ああ、それで私の昼休みを邪魔したってわけね。ますます許せない」
そこから一転、さっきまで見せた怒りの表情に戻る。
「そんなくだらない話につきあわされた自分が嫌になるわ」
さっきまで中庭で見せていた冷静な表情はどこへやら、夜陣は火の出るような厳しい目で俺を睨む。
「まだ言うのか。お前なんかに俺たちを否定する資格はないって言ってるだろ」
しかし、俺としてもここで引くわけにはいかない。リクルートに失敗した上に尊厳まで失っては、それこそ俺の努力が報われない。
「ノベルゲームが何なのか知らないし知るつもりもないけど、どうせ大したものじゃないでしょ。そんな眉唾なものを作っていることを正当化できるわけないじゃない。あんたには芸術を鑑賞する教養はおろか常識さえも欠落しているみたいね」
「ちょっと鉛筆の扱いが上手いだけのくせに調子に乗るなよ。んなもんは人間様なら誰だってできる」
「言わせておけば、随分調子の良いこと言うじゃない」
「それはこっちの台詞だ」
そのまま二人は一触即発。このままだとバルカン半島よろしくほんの少しの摩擦で大爆発が起こるだろう。そう思ったとき、授業開始のチャイムが鳴った。
「やべえ、遅刻だ!」
学校にいながらにして授業に遅刻することほど間抜けなことはない。きっと相手にとってもそうだったのだろう、俺たち二人は一斉にそれぞれの教室へと走った。
「あんた、覚えていなさいよ!」
「お前の方こそ!」
去り際に悪態をついて、俺の昼休憩は終わった。たぶん、他にもいろいろ終わった。
「なるほど、せっかく僕が人材を提案したのに、君は交渉どころか大喧嘩をして帰ってきたわけだね」
「……うう、面目ない」
授業に間に合わず担当教師からお小言を頂戴した俺は、その後も残念な気分で午後の時間割を消化した。そして放課後、俺と平川は閑散とした教室の中で頭を付き合わせている。ちなみにこの場所はこの学校の同好会や部活が使用するサークル棟の一つであり、文芸部や書道部、吹奏楽部などの比較的市民権を得ている文化部たちが立地や設備の点で優遇されているのに対して、我らが「MAE」はフロアのもっとも端に位置し、机と椅子以外何もないという教室で非常に劣悪な環境を強いられている。
そもそも俺たちのサークルは同好会として認可されたものでないので、余っている教室を間借りしているだけに過ぎない状態だ。当然ながら予算も割り当てられていない。ゲーム制作にはある程度の資金が必要なので部費の申請を何度か生徒会にかけあったこともあるのだが、文化的な活動に関心を持たない保守的な生徒会長によってその度に却下され続けている。
……おっと、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「ま、夜陣さんの性格は噂に聞いていたし、勧誘が成功するとも思ってなかったよ。けど、まさか喧嘩をするとは予想もしてなかったなあ」
椅子に腰掛けたままで平川がそう言った。少し芝居がかった口調ではあるものの、俺の行動には少なからず驚いているようだ。
「俺だってそんなつもりで行ったんじゃないぞ。気付いたときには険悪な雰囲気だった」
その要因を作り出したのは俺の心ない一言だったりするのだろうが、最初から夜陣はとりつく島もない様子だった。俺が心からあいつの絵に賛辞を送ったのに、あの女は喜ぶどころか不機嫌な顔になったのを思い出す。
「そこが問題なんだよ」
自分の勧誘能力のなさを棚に上げて夜陣の人間性を否定していると、いよいよもって平川は難しい顔になった。
「あの夜陣都子さんとそんなコミュニケーションをとったことが驚きなんだ。彼女が誰かと喧嘩したなんて話を僕は聞いたことがない」
そこまで口にしてから、「本当に夜陣さんと喧嘩したの? それって優多の見た白昼夢じゃない?」なんて言葉を平川は続けた。ひどい言われようである。
「そんなわけないだろ。あの女は凄い形相で俺を睨んできたし、暴力もふるったんだぞ」
おまけに罵詈雑言の限りを尽くされた記憶もあるのだが、そこに関しては俺も彼女の所作を否定するような言葉を発してしまったので言及するのはやめておいた。勧誘が失敗した腹いせとしてついつい挑発するような真似をしてしまった自分の行為を反省していたからだ。
「信じられないなあ。徹底的に無視された、とかなら納得のいく話なんだけど」
平川は依然として何かを考えているような仕草をしている。しかし、今の俺たちにとって必要なのは勧誘に失敗した夜陣についてのディスカッションではない。
「まあ、夜陣のことはもうおいておこう。あいつは確かに高いスキルを持っているが、俺たちとは性格の面で折り合いがつかなかったんだ。それよりも必要なことがあるだろう?」
逃がした魚は大きいのかもしれない。しかし、いつまでもそれに腐心している時間が俺たちにはないのだ。あと一週間以内にイラストレーターを見つけられなかったら、俺たちのサークル活動は終了してしまうのだから。
「でも、僕にはもう絵描きの心当たりはないよ。優多にはある?」
「……ない」
「それに、僕たちのタイムリミットは一週間しかないんだよ」
椅子をギコギコと揺らしながら、平川は諦めたような表情を作っている。その視線の先には実家から持ち込んだラックがあった。
「もちろん、絵が描けるだけの人ならどこかで見つかるかもしれない。でも、それじゃ駄目なことは優多が一番知ってるでしょ」
ラックの中に陳列されているのは、このサークルで自主制作したゲームのパッケージたち。何も分からないまま手探り状態で作った一作目、そして風呂敷を広げすぎてまとめるのに苦労した二作目。どちらのジャケットもそれぞれの物語でヒロインとなる女の子が笑っている。
「ああ。……その通りだ。でもな」
口ではネガティブなことばかり言っている平川だが、それが本心ではないことは明らかだった。寂しげに過去の制作物を眺めている平川の目がそのことをはっきりと告げている。ゲーム作りに限ったことではないが、何かを本気でやろうとすることはそれだけで大きなエネルギーを消費するものだ。制作中に睡眠不足で倒れそうになったことも何度か経験している。それでも挫けることなく何度でもトライしようとすることは、それ相応の熱意を持っていなければ不可能なことである。畢竟するに、俺も平川もゲームを制作することがとても好きなのだ。
「このまま諦めたら、二度とあの舞台には戻れないぞ」
そんな平川の本心を知っているからこそ、俺は諦めたくなかった。
「……そうだね、やられっぱなしで終わるのは悔しい」
そう言って自嘲気味に笑う平川。
「でも、これ以上イラストレーター不在の期間は作れないよ。もう時間がない」
平川が言うとおり、俺たちには時間がない。俺たちが自作のゲームを配布することができる限られた機会であるコミックマーケットは八月の半ばに開催されるのに、未だに俺たちは制作にすら取りかかれていない。大急ぎでイラスト担当を見つけて、そこから全力で開発にあたっても間に合うかどうか厳しいラインである。
「それは分かってる。だから頑張るんだろ」
決して見通しのよいとは言えない現状に白旗を上げて降参するのは簡単だが、きっとここで簡単に投げ出してしまうと、俺は次に同じような苦境に立たされた際にまた逃げてしまうだろう。
学校での勉強や部活動と違って、ノベルゲームを作ることが万人の人生にとって必要不可欠というわけではないから―――きっとそう言って逃げ出した自分を慰めるはずだ。上手く説明できないが、それはきっとよくないことだろう。
「うん、考えてみればまだ一週間もあるんだ。それだけあれば優多なら新進気鋭の人材を発掘できるよね」
そこで笑顔を作って平川は話をまとめた。メガネのフレーム越しにあるこの男の目には「頓挫したくないならしっかり働け」と書いてあった気がした。