千鳥、ニンゲンやめるってよ(3)
「はふぅん……」
夕食と入浴後、自室で携帯ゲーム機を押入れから引っ張り出して狩りゲーに没頭していると、チッポが気色悪いため息を漏らした。気色悪いのは今に始まったことでもないが。
「おい。お前のせいでミスったじゃねえか」
少し目を離した隙に大剣を背負った操作キャラが雪原に倒れ伏している。ソシャゲに浸りすぎた影響で腕が鈍ったのは否定できない。
「麻代様。やはり日本の冬といえば炬燵。炬燵といえばみかんですねっ。はぅ、癒されますよ」
スマホに視線を移すと、炬燵と一体化したチッポの姿があった。ご丁寧に山盛りのみかんまで用意してやがる。いいご身分なことだ。
「課金アイテムだけあって細部のこだわりが段違いだとは思いませんか麻代様。ほら、この伊万里焼のお皿なんて特に――」
「課金?」
「いえいえ、ほんのメリケンジョークですよ? いくらワタシでも勝手に有料アイテムを購入するなどという芸当は」
「したのか」
「ほら、そんな怖い顔をなさらず麻代様も一緒に召し上がりましょうよ。とーっても美味しいですよ温州みかん」
「データで腹は膨れねえっつの」
ここが自由の国だったらこいつの存在ごと訴訟されても何らおかしくない。つか、そんじょそこらのマルウェアより性質が悪い気がするんだが。
「次に不審な言動をした場合は即刻シュレッダーにかけるからな」
「ひいっ」
チッポの顔が蒼白に染まった。まあ、お灸を据えるのはこのくらいにしておいてやろう。
「そんなことより、そろそろ来るんだよな」
「あっ、はい。よく覚えておいででしたね」
「肝心のお前が忘れてたら本末転倒だろう」
「……チッポはもちろん覚えてましたよ?」
答えるまでに微妙な間があったのはともかくとして、チッポはようやく自らに課せられた使命を思い出したようだ。おれたちは姿勢を正し、その瞬間が訪れるのを待つ。待ち続けた。
――ピロリン。
にわかに走る緊張を打ち破ったのは間の抜けた電子音だった。
チッポがメールの開封を指示して、おれがタップする。迷惑メールフォルダに振り分けられたそのメールは、送信元アドレスからして規則性のない文字の羅列で、いかにも胡散臭い。本文はなく、画像だけが添付されていた。ブラクラじゃないことを祈って、開く。画像には、見慣れない異国の言語がぎっしりと隙間なく並んでいた。見ているだけで頭がくらくらする。ただでさえ学年末試験の英語長文読解でうんざりさせられたっていうのに。
「なんて書いてあるんだ」
尋ねると、チッポは文章に向き合ったまま続ける。
「これはカル魔界でも古語に相当する文語体ですね……。チッポの頭の出来では解読に時間がかかるのですが、しばらくお待ちいただけますでしょうか」
「ああ、そう」
得体の知れない怪文書ごときに命運を左右されるのも癪だが、とにかく今はこいつの解読能力に期待するしかない。
二十分ほど経過した頃だろうか。ようやくチッポが顔を上げ、こちらへと振り返った。アバターとはいえ、疲れの色は見えない。
おれは頷き、口が開かれるのをじっと待つ。では失礼してとチッポが息を大きく吸った。
「麻代ー。ちょっと麻代ってば、どうせまだ起きてるでしょ。夜食を持ってきてあげたわよ」
げっ。タイミング悪いな、こんなときに限って。
「麻代、聞こえてる? 開けるよー?」
「あ、悪い。取り込み中だから部屋の外に置いといてくれよ。後で取りに行くし」
「部屋から出ないヒッキーみたいなこと言ってんじゃないわよ。はい、これ職場でもらった抹茶マカロン」
「だから着替えてんだっつの。察してくれよ」
「あんたいつも上半身裸でその辺歩き回ってるじゃない。まさか、お姉ちゃんに言えないことをやってるとか――」
『おにいちゃん、はじめてのくせにせっかちなおとこはきらわれちゃうんだからねっ』
盆で塞がっていた両手の代わりに足で扉を開けた裕子の動きが、ローキック状態で、固まる。いとロリロリしい音声の後に訪れた静寂が姉弟の間に極寒の隙間風をもたらすのに多くの時間を必要とはしなかった。などと他人事のように述懐したくなる程度には居たたまれない沈黙と視線が体中に突き刺さる。
「……ハンティングしてたんだ。モンスターを」
もっともらしく携帯ゲーム機を構えなおすおれ。
「あっ……うん。麻代の、モンスターを、ね」
裕子は目を合わせないままそそくさと盆を置いて出て行ってしまった。
段重ねに積み上げられた抹茶マカロンを一つ手に取り、頬張る。うんまい。
パクパクモグモグ。
世界は今日も死にたくなるほど平和だ。
「大変申し訳ありません、麻代様。こちらの手違いで直訳してしまいました……。って、どうして世捨て人のように悟りきったお顔をなさっているんですか」
「……て」
「て?」
「手前のせいで千鳥家の平穏に亀裂が入ったんだが、どう落とし前つけてくれるんだ、ああ? 鉄の処女に押し込めるもしくは祈りの椅子に座らせるぞ」
「ひぃっ、麻代様がいつも以上に恐ろしい目つきっ。もしかしてワタシ針のむしろですか。そんなつもりじゃなかったんです平にご容赦くださいーっ!」
喜べ、お前が夜な夜な世界各国の拷問に関して熱くレクチャーした賜物だ。おれはマリアナ海溝並みに懐が深いからお前の存在も含めてある程度のことは許容してやってるが、姉貴まで危害が及ぶのなら容赦はしない。と、画面を某名人ばりに連打しながら奴に対して言い聞かせてやった。あとで裕子の誤解を解く必要はあるが、ひとまずはこれにて一件落着。
「しくしく、しどいです……一度きりのミスも許されないこんな世の中じゃ」
「お前は失敗を絵に描いたようなポンコツじゃねえか。情状酌量の余地なしだ」
のろのろと立ち上がったチッポが、打ちひしがれた様子で『の』の字を書き連ねていく。それくらいの気力があるのなら強く生きていってもらいたい。
「で、なんて書いてあったんだ」
ずいぶんと遠回りになってしまったが、メールの内容を問いただす。すると奴は表情を引き締めて、かいつまんで説明していった。
要約すると、指令が下されてから十日も経過するのに戦果が思わしくないという催促らしい。万一の事態に備えて余剰資源は蓄えるに越したことはないというのが向こうの基本姿勢であるようだ。住む世界が違ったのなら金融関係で暗躍しそうな抜け目のなさが文面の端々からうかがえる。第一回中間報告ということは二回目以降もあるんだろう。もっとも、それが送られてくる頃におれの命があるという保障はどこにもないが。
「昨日の弁当作戦でだいぶKPは貯まったんじゃないのか」
恥を忍んで食べさせてもらったんだから、ゲージが激増してもいいだろうに。
「KPは変換申請に対する査定がシビアでして……。いくつもの採点項目をクリアしないと正しく加算されないのですよ。ほら、人間界でもあるでしょう。と、トリプルムーンソルト? とかダブルトゥットゥループみたいな技の美しさを競い合うコンテスト」
なんとなく言いたいことはわかるが、あえて野暮なことは突っ込まないでおこう。
「ごほん、とにかくですね」
ずい、とチッポが画面一杯に顔を近づけ、指を突きつけた。
「もっと真摯に指導と向き合う必要があるのです。指導行為なしでは物足りなさを覚えるほど渇望するようになってからがこの果てしなきマゾ道の始まりなのですよ。同世代の彼女たちに躾けられて惨めな気持ちになりながらも、体の芯から悦びに打ち震えるような、そんな究極の理想を目指さなければ。夢は大きく、指導は激しく、ですっ」
「あー……正直引くわ」
「引かないで! こっちも生活かかってますから!」
おれも自分の命がかかっているが、こんなふざけた理由であの世に連れて行かれる奴は、世の中広しといえども簡単にはお目にかかれないだろうな。遺書を書く気にすらなれないし、書ける内容でもない。
自称【ナビゲーター】は腰を前後に振りながら、なおも巻き髪を振り乱して熱弁を振るい続けていた。
「そういうわけですからっ、次なる高みを目指していただくためにまずはくるみ様のあられもない姿を――」
その時、着信があった。
スクリーンに表示された発信者は……敷島くるみ。
番号を教えたっけなと首を傾げながらも、相手の様子を伺いながら二、三秒間を空けて応答する。
「こんな時間にごめんね。もしかして起こしちゃいましたか」
受話口越しに聞く敷島の声は普段よりも若干明るい調子だった。あるいはこちらが彼女の素に近い対応なのだろうか。付き合いの浅いおれに判断はできない。
「まだ起きてたから問題ない」
チッポを指でつまみ出してから応答すると、奴がむくれ顔で抗議していたが、無視して敷島の声を聞き漏らさないように集中する。
「あ、それならよかったです」
「あのさ、おれって敷島に番号を教えたっけ」
疑問を口にすると、たどたどしい答えが戻ってきた。
「えと、番号は、茶道部に鈴木くんと友達の子がいて、その子から又聞きしました」
一瞬、鈴木なんて平凡な名前の奴が知り合いにいたかとど忘れする。が、すぐにふっと細長いきゅうり頭が記憶の底から浮かび出てきて、そういえばそんな苗字だったなと今更ながら思い出す。人の記憶というのは何かに結びつけて覚えておくと連鎖して思い出しやすいから便利だ。
「そうか。それで何か用事か」
「あ、はい。あのですね……またお願い事をしてもいいですか?」
単刀直入に切り出すと、敷島はためらいがちに鼻にかかったような声でそう訊いてきた。
それにしても電話というのは不思議だ。面と向かって言葉を交わすよりも、目に見えない壁を取り払って話し合えるような、奇妙な感覚を覚える。実際のところは多くのインフラを中継しているし、相手の顔が見えないからと言って建前と本音を使い分けられる器用さは持ち合わせてはいないが、そこはかとなく浪漫を感じてしまうのは、おれも生物学上は男だから、なんだろうか。よくわからない。
さて、敷島は『お願い事』と称して電話をかけてきた。これが男からの電話だったら「うぜえ」、業者からの電話だったら「間に合ってますんで」の一点張りでシャットアウトすれば後腐れなく回避できる程度のささいな問題なのだが、敷島くるみからの頼みごととなればそうもいかない。
バレンタインデーの日、おれと敷島は契約関係を結んだ。主従関係にも等しい、一方的な隷属的支配をおれは望んだ。それこそ、奴の言うところの「箸が転がったならすかさず拾いあげて、お濯ぎしましょうかと進んで箸を洗いに行く」積極的な姿勢だ。ゴール前のこぼれ球をバックパスしたり宇宙開発している時間の余裕も精神的余裕も残されていない。
拒否権なんて、あるはずがない。
了承すると、敷島は「本当ですか、うれしいです」と花を咲かせたように声を弾ませた。いつも以上に彼女の声が楽しげに聞こえるのは、きっと電話越しのせいだろう。
「じゃあ、明後日のお昼ごろに、上埜木駅前で待ち合わせしましょう。忘れないでくださいね」
待ち合わせた後、何処に行くのか尋ねようとしたところで、通話が切れてしまった。かけ直すのも億劫なので、そのままベッドに放り出して寝転がる。
「敷島様とでーとの約束を取り付けられて浮かれるのも結構ですが、本来の目的を忘れないでくださいね?」
小姑かサスペンスドラマの家政婦みたいにチッポが端から半分だけ顔を覗かせて、釘を刺してきた。
言われなくても百も承知さ。たとえデートの誘いだとしても、せいぜいいつもより少しだけいい服を着て食事に行ったり、映画を見たり、買い物に付き合ったりする程度だろ。そのくらいフィクションですり切れるほど追体験してるから抜かりはない。カルマポイントを増やす機会だってあるはずだ。そう、十六年と七ヶ月もの間、蝉の幼虫のごとく陽の当たらない場所に身を寄せてきたおれが、たかがデートごときで口元を緩めるはずがない。
「ないんだからな。ビシィ」
「麻代様、ワタシを枕にして寝ないでください」
誰かの声を夢見心地で聞き流しながら、おれは眠りについた。