千鳥、ニンゲンやめるってよ(2)
「食べさせて……ください」
「?」
「腹が減っているので、お、ぼくに卵焼きを恵んでください」
まるで誰かがおれの口を借りているかのようにその言葉は紡ぎだされた。
呉越同舟。どうせ乗り合わせた舟ならば、流れに身を任せるしかない。
「か、間接キスなんてはしたないよ、珠ちゃん」
「ふぅん」
葛城が口の端を吊り上げる。
畜生。だったらやってやろうじゃねえか。おれだってあからさまな挑発を浴びせられて逃げ出すほどチキンじゃないってことを証明してやるよ。
鼻先に突きつけられた卵焼きめがけて一目散にかぶりつ――こうとするもむなしく空を切った。
「もぐもぐ……塩加減は絶妙。もう少し甘みがあるとなおベター。でもおいしい」
「って、普通に食ってんじゃねえっ」
あろうことか、すでに半分ほどが葛城の口の中に収まっていた。
「た、食べさせてはいただけないのでしょうか……?」
チッポが腕をペケ字に交差させていたので、しかたなく下手に出ることにする。
「じゃあ、目を閉じて」
「どうしてそんなことをする必要があるんだ」
「なら飢えていればいいわ。千鳥麻代はひもじい思いをしながら午後の授業に出ればいいのよ」
「ひもじいというほどでもないが」
「千鳥くん、やっぱり私のお弁当は食べる価値もないんですね。ごめんなさい、もっとお口に合うように精進しますからっ」
あちらを立てればこちらが立たず。
なんなんだよ、この果てしなく七面倒くさい状況は。自分で撒いた種だということは理解しているけどさ。
「わかった。食べる。食べます。食べさせてくれ」
ええい、もうどうにでもなれ。おれは目をかたく閉じて、来るべき衝撃に備える。
「いただきます」
葛城が呪文のように平板な声音で唱える。シャンプーの香りが通り過ぎたあと、かすかな吐息と柔らかな毛先が頬を撫でた。
人間が五感によって得る情報は視覚が大部分を占めている。視覚を手放すというのは勇気の必要な行為だ。ましてや、目の前に何をしでかすか予想もつかない奴がいれば。
……いや、なんとなく想像はついている。ネタバレした作品を読み直しても物語の真相に心の底から驚くことができないのと同じで。
「ほら、あーんして」
卵焼きの塊が無造作に放り込まれて、口の中にほのかな塩味と卵の風味が広がる。
同時に、生暖かく湿った何かが狙いすましたように下唇を啄ばんでいく。
わかっていても怖気が立った。
にも関わらず、暖房の熱風が煩わしいほど全身が熱い。いっそバターみたいに倫理観さえも溶けてしまえばいいのに。
「くぉらーーーーーーーっ! そこのあんたたち、な、なななな何を」
と、校舎中に響きそうな激しい怒号に、おれたちは弾かれるように身を引き離す。というか、邪魔だからおれが葛城の顔を反射的に押しのけた。
敷島が熱暴走しかねない状態で慌てふためいているのを見て、逆に冷静さを取り戻す。
「だ、黙ってないで何か言いなさいよ。ここがどこだかわかってんの? 破廉恥にもほどがあるわよ!」
突然の闖入者はオカルト姉妹こと奈良原姉妹だった。海莉は掴みかからんばかりの勢いで接近すると、おれを睨みつけた。陸先輩はやれやれと肩をすくめていたが、さりげなくカメラを構えているのをおれは見逃さなかった。オカ同会員としての使命感がそうさせるのだろうか、さすがに抜け目がない。
「おれたちは弁当を食ってただけだぞ。なあ、葛城」
パニック状態に陥るがあまり何故か床の雑巾がけに着手したパンツの見えそうな敷島はとりあえず戦力から除外して、葛城に同意を求める。不本意だが、こいつにも責任の一端はあるのでうまく乗り切ってくれることを祈るほかない。
「そうね。ただ、一緒に食事をして、キスをしただけ」
「ばっ、おい――」
それが何か問題でも? というように葛城は暢気に紙パックの茶を啜った。こいつは予想以上にイカれてやがる。藁を掴もうと縋りついたおれが馬鹿だったようだ。
「ほっほう」
海莉の馬鹿でかいリボンが怒りに震える。
「神聖なる学び舎で真昼間から、そんないかがわしい行為を、ね」
握りしめた拳を力任せに振り下ろすかと思いきや、慈しむように机の表面をなぞった。
「この机はね、お姉が一年間使ってた席なのよ」
「そいつは知らなかった」
今更弁明してもこいつは信じないだろうがな。
「何か申し開きがあるのなら、今のうちに聞き入れておくけど?」
「とりあえず、左手で振り上げたフォークをしまってくれないか」
「あら、残念。一息にあんたの手の甲に振り下ろしたら後腐れなく許してあげようかと思ってたのにね」
満面の笑みを貼り付ける海莉。普段のむっつり顔に比べれば、後光の差し込んできそうな天使の笑みだ。時と場所と状況が違っておれが高身長イケメンだったのなら、別の未来が待ち受けていたかもしれない。
「すすすすみませんっ。そこをどいてくださーい」
「え――!?」
暴走機関車と化していた敷島が雑巾がけをしたままホットスポットへ突っ込んできた!
避けきれず重心を崩した海莉がこちら側へつんのめる。すっぽりと抱きすくめるような格好に収まってしまった。
当の敷島はようやく正気に戻ったのか、頭を抑えながら立ち上がる。周囲を見回し現状を認識すると我に返って平謝りした。
「わ、私はいったいなにを。すみません奈良原先輩、と千鳥くん。お怪我はありませんでしたかっ」
「おれは見ての通りへーきだ」
たぶん海莉も頭をぶつけたりはしていないだろう。せいぜい軽い打撲か捻挫くらいか。
いや、ある意味大惨事が現在進行中なわけだが。どうすんだこれ。
「くるみちゃん。『奈良原先輩』と呼びかけたら私も含まれてしまうよ」
いつの間にか陸先輩も教室内に入ってきていたようだ。
「すみません、そんなつもりでは」
「冗談。私たちは呼び間違えられることに慣れているからね」
陸先輩が苦笑し、敷島は安堵の息を漏らした。
「さて、ウチのお姫様もそろそろ落ち着かせてあげないとね。千鳥くん、いいかな」
といって、席を退くように促された。
先輩が海莉の肩を支えて席に座らせる。
「う、ん……おねえちゃん」
海莉のまぶたが薄く開く。
「おはよう。お姉ちゃんだよ」
先輩は海莉の髪を撫でながら言う。さすがは姉妹。手馴れたものだ。
「どこか痛むところはない?」
「ううん大丈夫。敷島さんは平気だった?」
一瞬こちらを一瞥したが、敷島を気遣うだけの理性は残っていたらしい。敷島は頷くと、ご迷惑をおかけしましたと深く頭を下げた。
「いいの。あたしがちょっと大人気なかっただけだから」
「ここが陸先輩の席だとは本当に知らなかったんだよ。勝手に使ってすみませんでした」
おれも続けて謝罪する。
「まあ、他意がなかったのならいいわ。でも、あれはどういう状況だったのか詳しく聞かせてもらうからね」
「私も気になるなあ。チドりん、全然そんな素振りを見せてなかったよね」
「わ、私も千鳥君とタマちゃんがそんな関係まで進んでたなんて知りませんでした。よかったら経緯を」
三人から一斉に問い詰められて、どう答えるべきか言葉に詰まる。
おれと葛城珠が恋人同士ということにしておけば一応の収まりはつく。だが、結果的に葛城を傷つける嘘を吐くことになりはしないだろうか。子供の頃に関わりがあったとはいっても、交わした約束を律儀に守り続けているはずがない。
あんな一時しのぎの、独りよがりでしかない約束――
「ごちそうさま」
相変わらず自分のペースを崩さずに、葛城が手を合わせた。
思い返せば、“うさぎちゃん”は昔から何処か欠けていた。誰もが突飛に思う行動も、彼女の中では当たり前の範疇を越えていないのかもしれない。自分の常識は他人の非常識っていうしな。
予鈴が鳴る。そろそろ撤収しないと敷島の試験勉強に費やす時間が足りなくなってしまいそうだ。
「その時が来たら話すから。各々の想像に任せる、じゃいけないか」
葛城が何故自分のほうを見るの、といいたげな顔できょとんとしていた。
「ふうん、つまり認めるってことね」
海莉が意味ありげに意地の悪い笑みを浮かべる。どうせおれの弱みを握って占めたものだとでも思ってるんだろう。
「ふむふむ、興味深いね。しばらくは君たちのことを観測対象に含めてもいいかい」
「よくないです」
どさくさに紛れてストーキング宣言をしないでくれ、先輩。
敷島は何を考えているのかよくわからなかった。着々と机周りの片づけを進めている。気にしていそうな素振りは何だったんだよ。
「ってちょっと、あんた。机の上にパン屑が散らばってるんだけど。ちゃんとピカピカに磨いておきなさいよね」
「わかったわかった。ワックスを塗って綺麗にしといてやるよ」
「誰がそこまでやれと言ったのよ。てゆーかそのワックスは何処から調達してきたわけ」
「わ、私が下の用務員さんの部屋から借りてきました」
モップを構えながら大真面目に申し出る敷島に、海莉は脱力してため息をつく。
「はぁ……もう怒る気にもなれないわね」
「立つ鳥跡を濁さず、だね」
「……お姉もお姉で除光液を机に垂らしちゃ駄目だからね?」
「せっかくだし、黒歴史は念入りに消しておこうかなと」
「私の描いた渾身の似顔絵を黒歴史っていうなー!」
二人の顔を見比べる。たしかに、お世辞にもあまり似ていないかもしれない。
「黙れ外野」
ギロリと睨まれた。まだ何も言ってねえのに。