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千鳥、ニンゲンやめるってよ(1)

 春が来た。

 ――いや、春など来てはいない。

 二月十八日。学年末試験も残すところあと一日となった今夜を迎えても、相変わらず雪の絨毯が道々を祝福するように敷き詰められている。至る所に雪かきを行ったと思わしき雪の山が積み上げられていた。

 いつになったら晴れるのかしらと階下の主婦が集まって井戸端会議を開いていたのも頷ける。純粋な気持ちで銀世界に喜んでいられた年頃はとうに過ぎてしまった。

 喜び。さかなへんに喜び。


麻代ましろー。入ってもいい?」


 乾燥した唇に手を触れたところで、返事も待たずに裕子ゆうこが自室のドアを開けた。反射的にスマホを引き出しに隠すことにもすっかり慣れてしまった。


「勝手に入ってくんなよ姉貴」


 どうせ聞き入れやしないが文句をつけると裕子はごめんごめんと軽い調子で笑い、


「あんたって『イノガル』のCD持ってたわよね。ちょっと貸してくれない? すぐ返すから」

「持ってるけど。今必要なのかよ」

「来週の授業で使いたいのよ。歌詞だけ文字起こししておこうかなって。レンタルショップまで借りに行くのめんどくさいし。ダメ?」

「べつにいいけど」


 どうして裕子がアイドルグループの『イノセントガールズ』に興味なんか持つのかと思ったら、そういうわけか。メンバーの一人が帰国子女だから、間奏の英詞ラップパートだけ妙に気合が入っているのはコアなファンの間で周知の事実だ。だがオンエアの際はいつもラップが省略されるので、ツイッターのハッシュタグで検索をかけると「知ってた」「俺得ラップ」「沙耶音さやねちゃん」等のキーワードが必ずと言っていいほど並んでいる。先週じゃがいもからCDを返してもらったなと思い立ち、棚からCDを取り出して手渡す。

 裕子は受け取った後、頬に手を当て、何かを考えあぐねるようにしていた。こういう仕草をするときはろくなことを言い出さない。


「どうでもいいけど、長電話は程々にしときなさいよね」


 案の定か。


「隣からぼそぼそ聞こえてくるからラジオの音声かと思ったわよ。授業中に眠くなっても知らないからね」

「ほっとけ。少なくとも留年するつもりはないから」

「信用してる。まあよろしくやんなさいよ?」

「そんなんじゃねえし」


 意味ありげに小指を立てる裕子を手で追い払い、背中からベッドに倒れこむ。


「どうしたもんかね」


 染みのついた天井に疑問をぶつけたところで望んだ答えが返ってくるわけでもないが、今だけはそうしたい気分だった。

 そんな行き場のない感情を惑わすように、頬に押し付けられた柔らかな感触がありありと思い出されて、ベッドを延々と転げまわるほかない。どうしろってんだ、他に。


『こんな千載一遇せんざいいちぐうの機会はないですよ麻代様っ。多勢に無勢ならばより隷属感は強まりますからね。追っちゃいましょう、二兎』


 当然のような顔をして携帯に住み着いてしまった異界生物の世迷い言が頭の中でリフレインする。

 もう逃げるわけにはいかない、か。

 とにもかくにも、真意を問いただす機会が必要だな。どうやって敷島を呼び出すかシミュレーションしながら、眠りの海に沈んでいった……。

 敷島と接触する機会は早くも翌日の昼休みに訪れた。

 食堂組の田中や鈴木たちと別れパンを買いに購買へと向かっていると、後ろから距離を保ってついてきている人影に気づいた。歩調を速めると、肩まで伸びた濡れ羽色の髪を跳ねさせながら、ぱたぱたと小走りで追いかけてくる。小犬みたいな奴だ。

 角を曲がった先で足を止める。そいつは大げさに肩を震わせてつんのめり、弁当箱を取り落としそうになっていた。

 案の定、敷島くるみだった。


「ついてきてるんだったら話しかけてくれよ」

「ごめんなさい。何だか忙しそうに見えたので」

「お前は忙しそうに見える人間の後ろを追いかけたくなる習性でもあるのか」


 知らず皮肉が込もってしまう。実のところ、敷島のように己を主張せず何を考えているのかわからない人間はどちらかというと苦手なタイプだ。そもそもわかりあうほど話した女子なんていないのはひとまず置いても、だ。

 敷島は悲しそうに目を落とす。


「悪い。言い過ぎたな」


 気まずい空気を振り払いたくて、おれは頭を掻く。


「敷島は食べてから帰るのか?」

「ちょっと図書室で明日の出題範囲の最終確認をしようと思って」

「気合入ってるな」

「いえ、そんなことは。ノートを整理してると意外と楽しいし」

「そういうもんかね」

「そういうものですよ」


 空疎な相槌をお互いに打つと、再び沈黙が訪れる。廊下で立ち止まるおれたちを訝しむように何人かの生徒が通り過ぎていった。


「とりあえずパンを買ってきてもいいか」

「はい。どうぞお好きなだけっ」


 好きなだけも何もないと思うが。おれは敷島をその場に待たせると列に並び、いくつかのパンと飲み物を確保する。そして待たせたことを詫びるために戻ろうとすると――


「お前は」


 絶句する。

 モデルと見間違うほどの長身に、馬の尾のように後ろで束ねた長い髪。

 あの女がいた。

 何も適切な言葉を絞り出せずに固まっていると、おれを恐怖と混乱に陥れた張本人は呆れたように息をつく。


「人を指差したままというのは感心しない。私は、三組の葛城かつらぎたま。好きに呼べばいいと思うわ。少なくとも会うたびに指を差されるよりは、ね」


 葛城珠は、当然のようにこちら側へと近づくと、腕を絡めようと手を伸ばしてきた。


「やめろ」


 咄嗟に振り払うと、それ以上迫ってはこなかった。だが、依然として食虫植物じみた捕食者の余裕が態度から滲み出ている。油断も隙もないとはまさにこのことだ。

 はっきり言ってこの女の行動は常軌を逸している。人をからかうにしても、越えちゃいけない限度ってものがある。頭がどうかしているとしか思えない。


「ち、千鳥くん。タマちゃんとは知り合いじゃなかったの?」

「は?」


 慌てて場を取り繕おうとする敷島に、今度こそ自覚できるほどの苛立ちが漏れた。

 知り合い? 葛城が、おれと?

 でも、待てよ。何かが記憶の底でひっかかる。

 約束。おもちゃの手錠。うさぎの髪飾り。


「お前――まさか、“うさぎちゃん”か」


 当て推量の問いに、葛城が目を見張る。その表情は現在の容姿に比べてひどく幼く見えた。


「たしかに、そう呼ばれていた頃もあった。でもよく憶えていたわね」

「女子の知り合いなんて数えるほどしかいないからな」

「胸を張って言うことかしら」


 また冷たい表情に戻る。記憶の中のうさぎちゃんとは見違えて見えた。

 まさか、あの泣き虫だった葛城が同じ学園に通っているとはな。言われなければ一生気付かなかったと思う。

 素直な感想を述べれば、綺麗になったなというのが本音だが、口にするのははばかられた。いくら免疫のないおれでも、好きでもない女に再会するやいなやキスされて舞い上がるほどめでたい思考回路は持ち合わせていない。


「あの」


 小さく咳払いをして敷島が言った。


「二人とも、とりあえず食べませんか」


 というわけで、寒さが凌げてかつ人目のつかない場所を探し求めたおれたちは、卒業を間近に控え自由登校期間中の三年生の空き教室を利用させてもらうことにした。

 幸いにして先客は誰もいなかった。暖房を点け手近な机を固めた後、敷島と葛城が隣り合わせで腰を下ろしたので、おれは敷島の向かいに座る。

 敷島は巾着袋から小ぢんまりとした弁当箱を取り出し、照れくさそうに差し出してきた。


「お腹すいてたら、私の分を食べてもいいですよ」


 勧められるがままに蓋を開けてみる。中には、きんぴらごぼうや一口大のハンバーグ、ほうれん草のゴマ和え、だし巻き卵などがほどよく敷き詰められていた。色も配分も均整が取れていて、ただただ「すげえ」と感嘆詞が漏れるばかりだ。


「まさか全部自分で作ったのか」


 好奇心から尋ねてみると、

 

「半分くらいはお母さんに手伝ってもらってます」


 敷島は謙遜しながら、上の段を取り外した。下の段にはそぼろご飯が詰められている。


「半分だけだとしても、めっちゃ苦労してるだろ。おれにはとても真似できねえ」


 もはや敷島の圧倒的女子力に感心しかできない。


「慣れですよ、こんなの。千鳥くんだって毎日お弁当作りを続ければ、お弁当マイスターになれますよ、きっと」

「それができたら苦労しねえ……」

「じゃあ、今度教えましょうか? ウチの自己流でよかったらですけど」

「いや、それはさすがに」


 女子とこういう会話を続けてると、どうにもこそばゆくなる。なんというか、どこに自分の気持ちを落ち着けたらいいかわからねえ。だからモテないんだろうな、おれ。

 などと自己嫌悪におちいりかけていると、横から割り箸が伸びてきて、ハンバーグを掠め取っていった。

 盗人は涼しい顔で、もぐもぐと口を動かしてやがる。言うまでもなく葛城だ。

 奴の机にはいかにもコンビニで買ってきましたと言わんばかりのジャンクなフード群が陳列されている。

 おれがこの世で最も許せない禁忌を破ったようだな、この女は。戦争だ。


「待て。お前、まだ『いただきます』をしてないだろ」


 おれの先制攻撃に、ポニテ女は動じる気配がない。

 それどころか、先遣隊に続いて第二陣を投入する姿勢まで見せてやがる。ずいぶんと舐められたもんだ。

 奴の得物が弁当箱に伸びる。その行儀の悪い手をはっしと掴む。


「痛い」

「食べる前に、言うことがあるよな」


 たとえ女だろうが変態サディストだろうが食物に感謝を捧げることのできない奴だけは天地がひっくり返っても許すわけにはいかねえ。裕子に散々いびられた影響なめんな。

 葛城はどうして注意されたのかわからないという顔できょとんとしていたが、やがて観念したように手を合わせると、「いただきます」と呟いた。これにて一件落着。


「千鳥くん、意外と細かいことにこだわるんだね……」


 敷島があっけに取られているが、そんなことはたいした問題ではない。


「そういえば、二人はいつも一緒に食べてるのか?」


 手を合わせてからどちらともなく訊いてみる。すると、二人は顔を見合わせて、


「昼食を一緒に摂ったのは初めてです」「食べたことがない」

「……マジで」


 無茶苦茶自然になじんでいたから、てっきりランチメイト同盟でも結成しているのかと思いきや。女ってわかんねえ。


「じゃあ、どういうつながりなんだよ。部活とかか」

「部活は違いますよ」

「部活。やってないし、興味ない」


 人間模様はいよいよ迷宮入りの様相を呈してきた。今しがた頬張った焼きそばパンのごとく絡まっていく謎に、敷島が微笑しながら回答を口にする。


「タマちゃんには家のお店を手伝ってもらってるんです」

「店?」

「私の家がケーキ屋さんってことは話したよね。お父さんが冬休みにアルバイトの募集をかけたらタマちゃんがふらっとやってきて、お父さんが即決で採用したんです。だよね、タマちゃん」

「ん」


 十円(税込み)で買えるうまそうな棒をかじりながら葛城が首を縦に振る。

 どうでもいいが、そんな食事で栄養を摂取できんのか。人のことは言えないが。


「何度かお喋りするうちに同級生だってことがわかって、でもクラスは違うからあんまり会う機会がなくて」

「なるほどな」


 それほど長い付き合いでもないらしい。見るからに接点なさそうだしな。うさぎちゃんだった頃の葛城を思い返せば、お世辞にも友達の多いタイプではなかった印象がある。いつも周りの人間を拒絶しては泣いていた女の子。それが、遠い記憶の中で溶け残り続ける『うさぎちゃん』のイメージだ。


「仕事中に葛城は迷惑をかけてたりしないか?」


 だから、泣き虫でトラブルメーカーだった頃の彼女と現在の葛城に共通点を見出したかったのかもしれないな、おれは。


「迷惑なんてことはないよ。タマちゃんは働き者だし、最初は時給もいらないって断っていたくらいだし」


 タコさんウインナーをフォークで突きながら、敷島が過去を懐かしむように目を細める。


「あ。でも、お店に並んでたケーキを間違えて食べちゃったことがあったような」

「大事件じゃねえか」

「一度だけですよ。売れなかった商品をみんなで分けることはよくあることだから」

「とりころーるえくれあ。あれは格別に美味しかった。ぐー」


 葛城がぐっと親指を突き立てると、敷島が「ねー」と同調する。なんつーアバウトな店だ。いずれにせよ、葛城が迷惑をかけていないのならそれに越したことはない。誰彼構わず奇行に及んでいないか気がかりだったが、そこは心配なさそうだ。たぶん。

 しばしケーキ談義に興じていた二人だが、一度ひとたび会話が途切れると、途端によそよそしい空気が教室を支配した。

 おれは一足早く自分の分を食べ終わる。多少の空腹感を覚えたが、敷島の弁当に手をつける気分にはなれない、

 葛城はなんのつもりで接触を図ってきたのか。

 そのことばかりが気になって、どう話を切り出すべきか考えていた。

 しかし、あと一歩、尋ねる勇気が踏み出せない。

 敷島が面白おかしく土下座のことを話して、昔を思い出した葛城が悪乗りしているのかもしれない。

 人の心は移ろうし、時間は流れつづける。

 周囲に溶け込めず独りぼっちだった葛城珠が、過去のクラスメイトに対して静かな復讐心を秘めているとして、誰が責められようか。

 ……なんてのは考えすぎか。そんなとばっちりならお断りだが。

 と、メールが着信する。

 チッポが吹き出しを掲げて待機していた。あいつ、学校じゃ構ってもらえないからって、新しい手段を取ってきやがった。構ってちゃんもここまで来るといっそ清々しい。

 題名は、えんもたけなわですが本日のノルマです。

 果てしなくろくでもない予感しかしないが、開けて本文を確認する。


『麻代様、時間は有限です。指導を受ける者の心構えとして、いついかなる時も、献身的に振舞うべきなのです。お二人の箸が転がったならすかさず拾いあげ、「お濯ぎしましょうか」と進んで箸を洗いに行く。そういう積極性が求められています。敷島様のお弁当の中身は空ですか? お残しになっているのならチャンスですよっ。その先は言わなくてもわかりますよね。ではでは、ご武運を』


 叩き割りたくなる衝動を抑えてスマホをポケットに戻す。 

 アドバイスのつもりなのか、これは。


「どうかしましたか。鼻に皺が寄ってますよ」

「いや、なんでもない」


 敷島に気遣われてしまった。返事を濁しつつ、弁当箱の状態を盗み見る。まだ半分以上残っている状態だ。あまり腹は減ってなかったのだろうか。


「あ、さっきも言ったけど遠慮なく食べていいですからね。味の自信はないですけど、ぜひぜひっ」


 視線に気づいたのか、敷島は待ち構えていたように弁当箱を押し出してくる。期待と不安の入り混じった笑顔を向けられては、もう拒絶することなんて出来なかった。

 どうする。今しか機会はないぞ、おれ。

 でも、どうやって切り出せばいい。普通に食べるだけではKPが蓄積されないことは火を見るよりも明らかだ。恥ずかしい思いをしなければゲージは反応すらしないだろう。

 恥ずかしい。弁当。女子。

 瞬間、頭の中で渦巻いていたパズルの最後のピースが埋まった。

 と、同時に対角線上から求めていた答えが鼻先に突き出される。


「食べないの?」


 葛城が澄ました態度で、身を乗り出して箸をこちらに突き出している。形のよい卵焼きが間に挟まっていた。

 固まる時間。頬を染める敷島。対峙するおれと葛城。

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