世界はDLCのDをドレイと呼ぶんだぜ (3)
さて。
大見得を切ったのはいいのだが、全く具体的な方策を立てられないまま無為に丸二日が経過してしまった。そもそもの大前提として、恋愛経験さえない人間にドレイ志願はハードルが高すぎた。そんなことは少し考えれば、いや考えなくても自明の理だ。
表参道をドヤ顔で闊歩するリア充なら一種の冗談として受け流されるかもしれない。しかしながら、おれみたいな陰キャラサイドの男が突然そんなカミングアウトを決行すれば、次の日には「おめーの席ねぇから」などという心無い決別宣言とともに机と椅子が窓から投げ捨てられることは想像にかたくない。少なくとも、謎の連帯感を発揮した学年中の女子全員から卒業するまで汚物扱いされた挙句に侮蔑のこもった視線を飛ばされる事態は避けられないだろう。
「はぁ……」
放課後、誰もいなくなった教室で、低い空に向けて何度目かの溜め息を吐き出す。体に溜まった二酸化炭素とともに余計な思考さえも吐き出せたのならどれだけ楽になれるだろうか。
「まだ諦める時ではありませんよ。必要なのは申し訳程度の義理チョコではなく、麻代様を支配してくれる女の子なのですからっ」
後ろで流していた音楽に合わせてチッポが短い腕をうねうねさせていた。
「その踊りは何なんだよ」
「チッポ考案の『元気が出る舞い』をご披露させていただいているのですが、ご迷惑でしょうか」
「うぜえ」
「一言で切って捨てられました!」
「なあ、思うんだけどさ。どうして女子から調教を受ける必要があるんだよ」
「麻代様。以前にも申し上げましたが調教ではなくて指導です。昨今は言葉にも細心の注意を払わないと身が危ないらしいので」
何の話だよ。
「で、女子からでなければならない理由ってのは」
「やけにこだわりますね。……ハッ! まさか、男の人から愛の鞭をいただくほうがよろしかったのですか!? 麻代様がそういった嗜好をお持ちとは……ごくり。これは抜本的に戦略を練り直――ひぎゃ!」
おれは黙って画面を連続タップする。単純作業を繰り返すのは現代人の鬱積したストレスを解消するのに効果が高そうだ。
「やーめーてーくーだーさーいー」
やっぱり飽きた。奴が荒い息を吐きながら涙目で頬を膨らませている。
「いくら麻代様といえども、そのように水滴を一定感覚で顔に垂らすのにも匹敵する拷問はおやめいただけませんか。……ほぼ逝きかけたのは否めませんが」
「気持ち悪いから顔を赤らめるな」
そういえばこいつが男の娘だったことを思い出した。こいつくらい扱いやすい人間ばかりなら楽なんだろうが、そうもいかないのが世の常だ。
「ごほん。えとですね、なぜちょ……指導行為が必要かと申しますと、【カルマポイント】を発生させるのに最も都合がいい状況を生み出せるのでは、と考えられているからなのですよ」
お前も言い間違えてんじゃねえか。しかしまた聞きなれない言葉が飛び出してきたな。
「【カルマポイント】というのは――KPと省略することが一般的ですが――簡単に申しますとお金に似た概念ですね。アイテムなどの取引に用いられるほか、カード候補を一人召喚するごとに補助KPが国に交付されます。本来は条約で平等に配分されているのですが、それを独占する目的で隣国が宣戦布告を仕掛けたのではないか、とじじょーつーの間ではまことしやかにささやかれています」
なるほど、いまいちイメージが掴めない。
「結局、【カルマポイント】ってのは紙幣やコインなのか?」
「お札とちがって刷ってはいないですね。仮想通貨と表現するほうがより正確かもしれません」
仮想通貨。以前、ニュース番組のコメンテーターか世界史の教師が熱弁していたような気もするがうろ覚えだ。
ただ、世界を揺るがしかねないほどの革命と持てはやされる一方で、多くの問題を孕んでいるという一言だけは妙に印象に残っていた。
経済は体内を循環する血液に喩えられることが多いが、仮想通貨が社会に変革をもたらしたとして、流れる血は何色なんだろうか。刻々と水位を増して自分の身に迫る死と同じで現実味がなかった。
物思いに耽っている間にも、奴の説明は朗々と続いている。
「でしたら、国境を越えて利用できる税金とでも言い換えましょう。本来なら人間界から無断で取り出すことは御法度ですが、カード候補の方は魂の変異によってKPが蓄積されやすい業を背負っているのです。この性質を利用して【被虐指数】を高めたのちにワタシを媒介としてKPを魔界に送りこめば――うぃんうぃん! だと思いませんか」
「ウィンウィンじゃねえよ」
おれの人権はどこへ消えた。
「――千鳥くん? あの、ちょっといいですか」
「いいわけないだろ。つかどうやっておれに付き合ってくれる奇特な奴を見つけりゃいいんだ――って?」
振り返る。斜め後ろに濃紺色のハイソックスに包まれたカモシカが佇んでいた。
ゆっくりと視線を上げていくと、白い手袋がまず目についた。だが、ぶしつけな視線を察知したのかすぐ後ろ手に引っ込めてしまう。
それでやっと思い出した。
敷島くるみ。出席番号十三番。
気配を殺していたのか、パーソナルスペースの範囲内まで接近していたことにまったく気付かなかった。
「電話中にごめんね」
敷島は顔を強張らせる。両手を後ろに隠したまま、小動物じみた動きで一歩下がった。どうも警戒されているらしい。
「いや、もう終わった」
まあ、しかたないか。教室にはおれと敷島の二人きりしかいない状況で、ろくに話したことがないしな。
最後に話したのは、落としてしまった消しゴムを拾ってくれたときか。会話というよりはただの事務的なやりとりだな。もちろん、その程度で「こいつおれのこと好きかも」などという中学生みたいな恥ずかしい思い上がりはしなかった。断じて。
「お昼休みに探したけど、なかなか捕まらなかったから」
敷島は早口に前置きして、おそるおそる両手を前に差し出してくる。
手の中には、可愛らしいリボンで包装された長方形の箱があった。ふいに何処か懐かしさを憶える甘い香りが鼻先をくすぐった。
「いいのか、もらっても」
訊くと、敷島はうつむいた。
海賊の閉じ込められた樽にナイフを差し込むような心境で、ほのかに人肌で温もったそれを抜き取る。
礼を伝えようとすると、一瞬早く敷島は身を翻し、教室を出て行ってしまった。
残されたのは静寂と、手の中に収まった小奇麗な包装の箱。
頬をつねってみる。どうやら妄想でも白昼夢でもないらしい。
「麻代様。悠長に呆けている場合ではないですよ!」
その余韻を打ち破ってチッポが叫ぶ。ひどく切迫した様子だった。興奮気味にステッキを振り回している。
「追いかけてください。さっきの女の子を、今すぐに」
「どうして」
「その際、端末をかざした状態でお願いしますっ。ARカメラモードに切り替えますゆえ。頼みましたよっ」
聞いちゃいねえ。
おれは一つ息をつくと、さっきの女子――敷島くるみを追いかけるために立ち上がった。
幸いにして、探し人はすぐに見つかった。廊下で二人組みの女子生徒と何事か話している。その二人組の女子には見覚えがあった。向こうもこちらに気が付いたのか、手をあげるとにこやかに挨拶を投げかけてきた。
「やあやあ、チドりん。こんな時間まで居残りなんて珍しいね。どういう風の吹き回しさ。まさか君が殊勝に試験勉強をしているとも思えないし」
やべ。来週から学年末試験だったか。
彼女――奈良原陸先輩はいつでも飄々(ひょうひょう)とした雰囲気をまとっている。妹の海莉と非公認のオカルト同好会を組んで日夜問わず校内をさまよっていることがあり、一部の連中の間では奈良原姉妹の存在自体がある種のオカルト扱いされているらしい。
と、先輩に挨拶してから、はてな顔を浮かべるチッポに文章で説明してやった。
「ふん、この男が真面目に勉強するような出来た人間だったら、外は猛吹雪よ」
陸の双子の妹――海莉がぞんざいに指を差してきた。こいつとは初めて顔を合わせた頃から何かしら因縁をつけて絡まれることが多いが、理由はわからない。単に男嫌いをこじらせているだけなのかもしれないが。深く詮索するつもりもない。
「もうこのところ毎日降ってるけどね」
先輩が目をすがめて窓の外を見た。
「たしかに見飽きたわね。こう毎日降られるとありがたみがないっていうか」
「とか言いながら毎朝楽しそうに雪だるまを積み上げているよね、海莉は。可愛いなあもう」
「い、いつの間に盗み見してたのよ。お姉っ」
「実際に見てはいないけど、誰が作ったものかくらいはわかるよ。何年お姉ちゃんを務めていると思っているのさ」
男嫌いというよりは、姉妹仲が世間一般よりも睦まじいのかもしれないな。
思えば海莉が因縁をつけてきたのは決まって陸先輩ととりとめのない話をしていた時だ。話というよりは勧誘か。「君という謎を解き明かしたい」と先輩に真顔で言われたときは一週間ほど下駄箱に画鋲が突き刺さっていた。まったくもって幼稚極まりない女だ。
「はぁ、お姉にはかなわないわね。ところで、あんたはいつまで間抜けな顔をして突っ立ってるわけ。何の用事なのよ」
幼稚極まりない女――海莉が腕を組んで、女子だけの輪に割り込んだ異物を排除するべく一歩踏み出た。二つ結びのおさげにくくりつけられたリボンが、二人の姿を隠すように立ち塞がる。
「いや。用事というほどでもないんだが、その」
なんと言えばいいものかと、スマホに視線を送って助けを求める。だが、チッポは先輩の肩に飛び乗って戯れていた。
肝心なときに役に立たねえ。
口ごもるおれに、海莉が眉根を寄せる。
「ていうか、さっきからあんた、なんでカメラを向けてるの。盗撮? まさか勝手にネットでキャスってないでしょうね」
「駄目だよ、海莉。チドりんが困ってるじゃないか」
先輩の助け舟が入る。
「ふん、命拾いしたわね。お姉は誰にでも優しいからこんな奴に付け入る隙を与えるのが玉に瑕だけど」
「私は話す相手を選んでるつもりだけどなあ」
「もっと厳選すべきよ」
できれば海莉の毒気が姉にも伝播しないことを祈りたいものだ。
おれはスマホを下ろし、他意のないことを伝える。ふん、と海莉が鼻を鳴らした。
「で、用件は。あんたも同好会に入る気になったとか言わないわよね? 私の目が黒い内は絶対、ぜーったいに認めないから」
「そうなのかい? 私はいつでも歓迎だよ。オカ同は知的好奇心さえ持ち合わせていれば誰でもウェルカムだからね」
「お姉は黙って。だいたいね、もうすぐ卒業って時期にメンバーを増やしてどうするのよ」
「いざとなったら現地集合でいいんじゃないかな」
「あのねえ」
口を尖らせる海莉に、ベリーショートの髪を掻いておどけてみせる先輩。
門外漢のおれが同好会に入る気などさらさらないが、先輩の捉えどころのなさは相変わらずのようだ。
おれは二人のやり取りを眺めるふりをして、敷島の様子をそっと盗み見る。タータンチェックのマフラーに口もとを埋めながら困ったように微笑を浮かべていた。
――もう、後には引けない。
「あー。悪いんだが、先輩たちに用はないんだ」
奈良原姉妹の動きが申し合わせたように止まる。
「そうなの?」
姉が残念そうに言った。妹が勝ち誇った様子で顎を上向ける。
「ほらね。だから今更メンバーを増やす必要なんかないってば」
「私はくるみちゃんの意思を尊重したいけどね」
「敷島さんはいいのよ。そこの役立たずとは志がちがうから」
散々な言われようだが、今はいちいちこいつの挑発にかまっていられない。
「敷島。ちょっといいか」
「はいっ」
意を決して名前を呼ぶと、敷島はおびえたように鞄をぎゅっと握りしめた。
「待ちなさい。あんたって、敷島さんと仲良かったっけ?」
案の定、海莉が睨みを利かせてくるが、怯むわけにはいかない。
「悪いんだが、敷島と話したいことがあるんだ」
自分でも嘘みたいに言葉がすらすらと口をついて出てくる。
「ありゃ、私たちは邪魔者っぽいね。じゃあ、くるみちゃん。試験が終わったら連絡するから」
「あ、はい」
「後ろめたいことがないならここで言えばいいでしょ。なんか目が泳いでるし、あやしいわね」
海莉のいぶかしむような低い声に、場を去りかけた先輩が足を止める。
「重要な話なんだよ」
くそ。少しは空気を読みやがれ。無駄にデカいリボンを垂らしやがって。
「ねえ、敷島さん。こいつと何か約束でもしてた?」
突然の飛び火に困惑を隠せない敷島が、ぶんぶんと音が出そうなほど首を振る。海莉の西洋人形めいた面差しがにわかに険しくなった。
まずったな。
思い切って二正面作戦を展開したのは失敗だったかもしれない。敷島だけをこの場から連れ出す高度な技術なんて持っていたら、おれも晴れてリア充の仲間入りだ。そんなスキルを習得できるレベルや必要経験値はどこで稼げってんだ。
「敷島さんに何をしようとしたの」
海莉の中でイメージされたおれはすでに良からぬことをしでかす前提らしい。
「何もしねえよ」
「じゃあ、ここで言ってみなさいよ。お天道様の下で堂々と話せる内容ならね」
「隠れちゃってるけどね、お天道様」
先輩が海莉の手を取りながら茶々を入れる。
「お姉、やめてってば。人前よ」
「まあまあ。こうして触れ合うとお互いに温かいよ」
「それはそうだけど……」
何やら二人きりの閉じられた桃源郷に突入してしまったオカルト姉妹はこの際どうでもいいとして。
スマホをこっそり見ると、チッポが腕をぶん回している。もはや退路も猶予も残されていない。
真正面から敷島と向かい合う。
鞄をつかむ手がもじもじと動く。
大きく息を吸い込んで、戸惑いに揺れる瞳を見つめた。
「敷島、頼みがあるんだ」
膝を折り曲げ両手をつけて、頭を下げる。
一ヵ月後とこの瞬間。
じゃあ、いつ死ぬか。
「おれを、お前のドレイにしてくれないか」
社会的動物として捨ててはいけない何かが、校舎の庇から滑り落ちる雪塊にも似た音を立てながら、濃灰色の空へと身投げしていった。
「…………えっ」
突然だが、『死ぬ瞬間』という昔の偉い医者が発表した本を興味本位で借りたことがあったな、と走馬灯のように思い出していた。
クソ真面目に義務教育を受けていた頃、周りの連中より博学な振りをしてみたくて図書室にこもっていた時期があった。死ぬことがかっこいいなどという恥ずかしい価値観に目覚めていた三年前の愚か者イコールおれは、『受容のプロセス』というフレーズをいたく気に入っていたようで、ふとした折に意識の底から浮かび上がることがある。
それが、今だ。
ただし第五段階に進むつもりは毛頭ない。
空調のうなる音がやけに耳に障る。
三人はいったいどんな顔をして突然土下座をはじめた男を見下ろしているんだろうか。
蔑む海莉は容易に想像できるからいいとして、先輩にまで呆れた顔をされるのはさすがに堪えるな。
敷島は――わかるはずもない。
正直に事情を話すか?
だが、こんな突拍子もない話を裏づけもなく信じてしまうほど頭がお花畑な奴なんて、逆に信用できない。完全に詰んでる。人生に残機は一つしかねえんだぞ。
おれは覚悟を決めて顔を上げた。
「――って、誰もいねえし!」
「麻代様、やはりチッポの直感は間違ってなかったですよ」
元凶が愛くるしい外見とは裏腹に、悪魔もかくやと思わせるほどの残忍さで、磨耗した精神を断崖絶壁へと追い詰めていく。
「敷島くるみ様は、指導員として天賦の才を秘めていますっ」