世界はDLCのDをドレイと呼ぶんだぜ (2)
昨夜から降り出した雪は一夜にして見慣れた街並みを銀世界に変貌させた。点けっぱなしのテレビからは、太平洋側の地域で数十年ぶりに記録的な積雪が観測されたと繰り返し報道している。雨合羽を被ったリポーターが、興奮気味にマイクを街の通行人に向けていた。
ベランダの窓を開けると、肌を刺すような空気が眠気を一息で吹き飛ばした。眼下に見えるマンションの駐車場には、誰かの作った雪だるまが寄り添うように並んでいる。
いってらー、と魂の抜けたような裕子の挨拶を背中で受け流して、おれは学校に向かった。自転車を使うのはやめて駅まで徒歩で向かうことにする。足首が埋まるほど積もっていないのが幸いだった。
地下鉄を降りてコンビニに寄ったあと学園に到着する。正門前で生活指導の教師が「寒い中ご苦労だったな」と腕組みをして生徒一人一人に呼びかけている。大きなお世話だ。
教室に入り、何人かのクラスメイトと挨拶を交わしてから席につく。ぱっと見た限りでは、意外にも欠席している生徒はほとんどいなかった。進学校でもないのに真面目なものだ。
あくびをひとつ漏らすと、前の席で週刊漫画雑誌を読みふけっていた田中が、じゃがいもじみた巨体をのそりと揺らしてこちらに振り返ってきた。
「おはよ、千鳥っち。道路、けっこう積もってたね。休もうかと思ってたわ」
この男は大抵ダルそうにしているが、ローテンションな時間帯の話し相手としては、一番ちょうどいいかもしれない。
「奇遇だな、おれもめんどいから休みになってほしかった。漫画、後で貸してくれ」
「あいよー。あ、そういやこれ返すの忘れてた」
田中はそう言って、鞄からゴソゴソと何かを漁りはじめた。はて、こいつに貸した物なんてあっただろうか。ぼんやりと考えを巡らせていると、
「うーす、千鳥」
今度は朝から鬱陶しいテンションで、きゅうりのように細長い頭の男が寄ってきやがった。名を鈴木という。おれはこいつらのことを心の中で野菜コンビと呼んでいるが、たぶん口に出すことはないだろう。
「朝から機嫌よさげなのな」
皮肉まじりに言ってやったが、鈴木には通じなかったらしい。鬱陶しさ指数を更に上げて、被せ気味に畳み掛けてくる。
「そりゃ機嫌もよくなるさ。なんせ『太陽』の正位置が出たんだぜ。今日でガチャ運使い果たすかもしれねえわ俺」
「セイイチ? 何の話だよ」
よくわからない単語を朝から聞かされる身にもなれよ。
「ほら、占いだよ。タロット占い。さっき敷島さんに占ってもらったから、ばっちり頑張れそうだわ」
鈴木は顎をしゃくって、廊下側に視線を向けた。おれもつられてそちらを見やる。
席のまわりを数人の女子に囲まれている地帯があった。窓側からだとほとんど聞き取れないが、真剣に耳を傾けている様子がうかがえる。
シキシマって、たしか下の名前はくるみだったか。
たいてい教室の隅で固まっていることくらいしか印象に残っていない。他に知っていることといえば、いつも手術のオペにでも使いそうな手袋をはめていることくらいだ。言うまでもなくほとんど会話を交わしたこともない。接点すらもない。地味を絵に描いたような女子だ。まあ人のことを偉そうに批評できる立場でもないが。
「お前も占ってもらいに行ったらどうよ」
「いや、おれはいいし」
鈴木みたいに女慣れした奴ならともかく、おれが今更話しかけたって変な奴と思われるのがせいぜいだろ。波風は立たなければ立たないほどいい。何もないのが一番だ。
「つれねえなあ。おっと、担任が来たっぽい。んじゃ、また後でな」
鈴木が去ると、タイミングを逸していた田中がそそくさとCDを手渡してきた。
「ほんと、悪気はなかったんだ。すぐ返すつもりだったんだよ」
と言って、奴は逃げるように前に向き直る。『恋は試行回数』――最近売り出し中のアイドルグループ・イノセントガールズが半年以上前に発売したCDだ。ケースが擦り傷で若干汚れている。そういえば田中に貸したのは一学期じゃなかったか。ほとんど新品に近い状態で貸したような記憶がふつふつとよみがえってきた。
……野郎。
いつか仕返ししてやろうかと考えているうちに、担任が教室に入ってきた。最後まで気ぜわしく喋っていた連中も、あわてて自分の席に戻っていく。
ふっ、と誰かが廊下を通り過ぎていくのが見えた。
黒くて長い髪――隣のクラスの女子だろうか。
その女子が、ほんの一瞬だけこちらに横目を向けた気がした。粘り気のある、嫌な感じのする視線だ。まるで心の奥を見透かすような。
いや――気のせいか。
おかしな夢を見たせいで気が立っていたのかもしれない。どうも眠気が抜けず、気分が晴れない。一刻も早く放課後になることを祈りつつ、おれは浅い夢の世界を堪能することにした。
本日十数回目のチャイムが鳴る。
授業の内容も田中や鈴木と交わしたはずの会話もほとんど頭に入ってこなかった。ストーブの前でたむろしていた女子数人に挨拶を返し、足早に教室を出た。
ぐちゃぐちゃに踏まれて固まった雪に何度となく足を取られそうになりながら、近場の携帯ショップを目指す。だが、ショップがあったはずの場所にはシャッターが下りていた。『閉店のお知らせ』と貼り紙に書かれている。
「マジかよ」
まあ潰れてしまったなら仕方ない。
というわけで、思いつく限りの携帯ショップを何軒か回ってみた。が、カルテルでも結んだのかってくらいにどの店も営業していなかった。
こうなったら作戦を変更しよう。プランBだ。
おれは人がいないのを見計らい、植え込みや路側帯に携帯を落としたふりをして立ち去ってみた。のだが、その度に誰かが追いかけてきて、「落としましたよ」と手渡してきやがった。地面に投げつけてもどういうわけか傷一つ付きやしない。
あまりにも出来すぎた偶然。
何者かの手で無遠慮に全身を撫で回されているかのような不快感が付きまとう。
つまり、その何者かの存在を認めるのは、昨日見た奇妙な夢が現実の延長線上だったことに他ならなくて、胸糞悪いことこの上ない。
周囲を確認してから人のいない公園に入って、携帯のバッテリーを装着する。
すると、自動的にアプリが起動して、例の無駄にキラッキラしてる美少年イラストを背景に奴――たしかチッポと名乗ったか――が膝を抱えて眠り込んでいた。らせん状の巻き髪が時折思い出したように揺れている。
このまま眺めていても埒があかないので、本体を揺らして無理やり起こす。
「おい、起きろ」
「んあ……?」
チッポがのそりと顔を上げる。寝ぼけ眼をしょぼつかせて小さく欠伸を漏らした。
やがて焦点の合わない瞳がおれを捉えた。
「おはようございまふ」
「もう夕方だっつの」
「あれま、すみません。チッポ朝には弱い体質ゆえ許していただけないでしょうか。ふわぁ……」
「そんなことより、説明しろ」
「そんなことで流されました!」
これ以上奴のペースに巻き込まれて主導権を握られるわけにはいかない。おれは拳の代わりに携帯を握りしめた。
「携帯を捨てられないのはお前の仕業なのか、って聞いてるんだよ」
「殺生な! 麻代様に捨てられてしまったら、ワタシはどうすればよいのですか」
「知らねえよ。超能力か精神世界だか知らないが、おれを巻き込むな。だいたい、人の生き死にを勝手に決めつけてんじゃねえよ。病気なんか患ってないっつの。宗教の勧誘ならもっと上手くやれ」
「うぅ。嘘は申してないですよ」
「だったら説明しろ。納得のいく説明をな」
「わかりました。守秘義務があるので明かせない部分も多々あると思いますが、了承していただけますか」
いいから話せと催促すると、チッポは姿勢を正した。
「実はワタシ、落ちこぼれなのです」
言葉の続きを待っていると、気まずそうに視線を落とす。
「ワタシたちは【ナビゲーター】と呼ばれる存在で、あなたのように健康な男子を連れて行く使命があります。使命には努力目標が課されていまして、ワタシは最終通告を受けて派遣された次第です」
「最終通告?」
尋ねると、チッポは苦笑いを浮かべる。影のある笑みだった。
「ですから、落ちこぼれなんですよ。どうもワタシには才能がないみたいで。人さらいをしているような気分にさせられますし」
「実際人さらいだよな」
いちいち疑っていてはきりがないのでひとまずこいつの話を受け入れることにする。
「ですよね。でも女王様は厳しいお方で、とうとう勘当のような形で叩き出されてしまいました。ですから、麻代様にまで見捨てられてしまったら、もう」
チッポはうつむき肩を震わせる。
だが、見え透いた三文芝居にほだされるおれではない。
理解はするが同情するのも利用されるのも真っ平ごめんだ。
「ふん、お前の立場はわかったよ。でも、どうしておれが死ななくちゃいけないんだよ。それにちょ、調教がどうとか言ってたような」
「憶えててくださったのですね。あ、ちなみに調教ではなくて“指導”です。お間違えのないよう」
どうでもいい訂正が入った。
そりゃあんな突拍子のない話をされたらな。
チッポは涙を拭い、「では少し長くなりますが、現状についてお話しますね」と断って、何処からともなくホワイトボードを引っ張り出してきた。ポシェットから眼鏡を取り出してかけると、板書しながら解説をはじめる。
「【カル魔界】とは精神世界です。すぴりちゅあるがどうとか言えばおわかりいただけますでしょうか。普段はこちらの世界と物質的な接点がありません。魔界にはいくつもの国があるんですが、チッポの暮らしている国は隣国から宣戦布告を受けていまして、兵力が足りてないらしいのです」
なるほど。だからこんな男にもお呼びがかかったのか。
でも、待てよ。
「なあ、お前の国では兵力が必要なんだよな。だったら、どうしてもっと喧嘩の強そうな奴か頭のいい奴を選ばなかったんだよ」
「理由は簡単ですよ。カル魔界における戦闘力はカードの数値に依存しているからです」
奴は背伸びしながら落書きじみた絵を書きつけていく。
「国家間戦争はカードで行うと条約で規定されており、召喚された男の子たちをカードとして使役しています。実際に戦っているところを見たことはないですが。ただ、仄聞したところによりますと――麻代様のレアリティはSR、あるいはHRクラスだとか」
「人をカード扱いした上に値踏みまでしやがるのか、お前の国の女王は」
つい舌打ちが漏れる。
どうやら守秘義務に抵触する部分なのか、身振り手振りを交えながらの饒舌な語り口から一転して、奴は貝のように押し黙った。
しかしまあ、こいつに頭を下げさせることに意味はないし、鬱陶しいので先を促した。
「お気遣いありがとうございます。納得がいってないのはワタシも同じです。なので、ワタシは失う物のない立場を利用することにしました。すなわち、全責任を負うことを条件にお上から代案を引き出すというウルトラC! 聞いて驚くなかれ、ですっ」
自信満々にチッポが胸を張る。深紅のワンピースにあしらわれた水晶のブローチが光沢を帯びた。
こういうときのろくでもない予感は、往々にして的中するものだ。
「麻代様が女の子のドレイになれば円満に解決するのですよっ」
しばし、時間が固まった。
色々と言いたいことはあった。
だが、もう自分の気持ちに素直になるべきだと悟った。
「殺すぞ」
「満面の笑みなのに目が笑ってないですよ麻代様!?」
いいことを思いついた。火にくべればさすがに燃えるかもしれない。勿体ない気もするが急を要する事態だ。背に腹は代えられないだろう。
「はわわ、何事も誤解を解くには対話が必要ですよっ。どうか早まらないで――」
「チュン!」
焼却炉を目指して足を向けようとした刹那、小さな影が蜂のような音を立てて耳の真横を横切っていった。かろうじて目で追える程度の速度で上昇していくその影は、しばし上空で旋回すると、ホバリング状態で短い翼をはばたかせていた。目を凝らしてみる。野鳥か? それにしては図体が丸っこいし、何かをくちばしで咥えているように見える。
ぼやっと気を取られていると、影は急接近していた。おれを目がけて急降下している、と気づいたときには、もう目の前に迫ってきていた!
「やべっ――」
「おやめなさいっ」
仰け反りそうになる直前、どこからともなく女の声が聞こえた。よく通る、鈴を転がしたような声だ。だが、辺りを見回しても、それらしき人物はいない。幻聴、じゃないよな。
ちゃり、と鎖の音が鳴り、音のほうへ向き直る。
人を襲う野鳥が、威嚇するようにおれを睨みつけていた。
そいつは糸の切れた人形のようにはばたきを止めて砂場に降り立っていた。改めて観察しても、丸々と肥えていて目つきが悪い。鋭角のくちばしは人を攻撃する役割に特化した形をしている。くちばしに咥えているのは、鎖――いや、首輪だろうか。ペットショップで売られていそうな、きわめて標準的な首輪だ。それを、おれの目の前でぽとりと落とす。
謎の鳥は一瞥すると、再び灰色の空へ向けて飛び去っていった。丸いシルエットが粉雪のヴェールに覆い隠されていく。
残されたのは、静寂と、首輪のみ。
「いったいなんだってんだ」
しゃがみこんで、おそるおそる首輪を拾い上げてみる。しかし、ためつすがめつ眺めたところで、やっぱり何の変哲もない代物だった。
「麻代様。ワタシ、わかっちゃいましたよ」
チッポが思い出したように声をあげた。
「わかったって、何が」
ろくな発想じゃないだろうが、念のため訊ねてみることにする。
チッポは満面の笑みを浮かべた。
「麻代様がご着用するように用意された、カル魔界からの粋なはからいですよ。間違いないです。ワタシのケージの勘がそう告げてますっ」
「お前はどこからそういう無駄知識を仕入れてるんだよ」
やっぱり、ろくなものじゃなかった。
どうせこれも捨てようとしたところで妨害されるんだろうな。引き出しにでもしまっておくか。
さっきの害鳥は、カル魔界からの使者かもしれないというチッポの説明を、なんとなく聞き流す。いくら説明されても、そういうものだと言われたら、否定する手段がない以上、太刀打ちできやしない。それにいい加減寒くなってきた。
スマホをポケットにしまい、立ち上がる。
「あわわっ、目の前が真っ暗に! ど、どちらに行かれるのでしょうか」
「家に帰るんだよ」
「あの、怒らないのですか」
「何が」
「ですから、麻代様を巻き込んでしまったことについて」
「おれが抗議したら、お前やさっきの害鳥ごと消えてくれるのかよ」
チッポは押し黙る。
「ふん、だったら無意味じゃねえか」
別にこいつのためではないが、降って沸いたような理由で犬死にするのはごめんだ。
「――ありがとうございます。では、しばらくの間ご厄介になりますが、よろしくお願いしますっ」