エピローグ
今日がホワイトデー当日ということは、嫌と言うほど思い知らされている。
裕子から鼻歌混じりに「忘れてたら、承知しないわよ」と笑顔で脅されるまでもなく、おれにはお返ししなければならない相手がいる。チョコレートくらいで受けた恩を返せるとも思えないが、こういうのは形が重要なわけで。
授業が終わると、おれは『ステイゴールド』へ向かう前に一人でショッピングモールに寄り道した。予想通り、チョコレート売り場は多くの買い物客でごったがえしている。というか、思ったよりも女性客の比率が高い。ホワイトデーって、男がお返しをする日だよな……? いや、あまり深いことを考えてはいけない。世の中には知らなければならないことと、知らなくてもいいことがある。たぶん、そういうことだ。
そういえば、どういうチョコが好きなのか訊くのを忘れていた。大誤算。今更訊くのは失礼を通り越して、もはや喜劇だ。
「お探しものですの?」
「うおっ!」
にゅっと女が商品棚の横から顔を覗かせた。ウェーブがかった髪に、薄いサングラス。春物のジャケットにフレアスカートを靡かせて、挑戦的な笑みを浮かべる。
「……ってなんだ、沙耶音か」
「なんだとはご挨拶ですわね。こんな美人をふっておいて」
「いつ、誰が、どこでそんな関係になったよ」
「冗談ですわよ。相変わらず、直情的なお方ですのね」
「ぐぬぬ……」
悔しいが言い返せない。
「チョコ、お探しになってたでしょう。わたくしのおすすめがありましてよ。いかが?」
と言って、沙耶音は身を翻すと、歩き出していく。
勧められるがままに、いくつかのチョコを購入した。財布の中身? そんなものは知らん。宵越しの金は持たない主義なんでな。バイト代の使い道くらい、自分で決めたっていいだろう。
「よさそうな商品が見つかってよかったですわね。それでは――」
「ああ、ちょっと待った」
会計を済ませてから、すたすたと歩き出そうとする沙耶音を呼び止めた。
「なんですの?」
沙耶音が振り返る。やっぱり彼女は画面の向こうにいるべき世界の人間だ、と痛感させられる。仕草の一つ一つに嫌味がない。
そう考えると、今更になって緊張してきた。
「あのさ、沙耶音が話してくれたおかげでおれはこうして生きてる。たぶん、そういうことなんだよな」
沙耶音は答えない。ただ、じっと聞き逃さないように立ち止まってくれている。
「だから、そのお礼にひとつおすそ分けしたいんだが……、駄目か?」
沙耶音はなおも答えない。しばらくすると、にっこりと口の端を持ち上げてみせた。営業スマイルって奴だ。
「お客様。わたくしはプライベートで偶然ここに立ち寄り、偶然知り合いのあなたを見かけたから、アドバイスしてあげただけの身ですわ。申し訳ないですけれど、そういう、いわれのない物を受け取ってしまうと、わたくしの仕事に影響が出て困ってしまいますの」
「あー……やっぱ、そうなるか」
「あっ、あんなところにユカリちゃんがっ」
「えっ?」
突然声のトーンを上げ、あさっての方向に指を差す沙耶音。イノガルのリーダーまで来てるのか? マジか? どこにいるんだよ。
――ちゅっ。
「それでは、ごきげんよう!」
沙耶音が、早足で雑踏の中にまぎれていった。あっという間に見えなくなってしまう。どんな表情をしていたか、うかがい知ることができなかった。
そっと、手の甲に触れてみる。
「……しばらく、手洗えねえな」
衆人環視の中で、おれの顔はさぞだらしなく緩みきっていたことだろう。人波がモーゼのごとく掃けていた。
店に到着する。いつものように敷島の両親と挨拶を交わしてからメイド服に着替え、敷島からメイクをほどこされる。流れ作業のように淡々と仕上げが終わり、敷島がそそくさと事務室を出て行った。その後に続こうとすると、店長がフロアに出ようとするおれをあわてて押しとどめた。
「少年よ。君はしばしここで待機してくれないかね。まだ、準備しているところだから」
「はあ。でも、もう営業時間ですよね?」
「ちょっとでいいんだ。な?」
敷島父は笑顔で念を押す。この人に強引に押し切られると、納得せざるをえない。つか、どさくさに紛れて顔が近いんだが。
そうして壁際に追い詰められること、数分。
「お父さん、もう準備ばっちりだよ~」
扉を開けて入ってきた敷島の一声でようやく解放された。
「そうか。じゃあ、行ってきなさい、少年」
「はっ、おい、ちょ、待――」
背後に回りこんだ敷島父にぐいぐいと背中を押され、おれはまごつきながらフロアへと進み出る。わっ、と歓声が上がった。
「うおおっ、マジで千鳥っちが女装してる!」「ギャー! き、き、キモいものを見せつけるなぁーっ」「うん。チドりん、やっぱり似合ってるなあ。でもそろそろ季節に応じたコーディネイトが必要かもしれない」「ま、麻代……?」
頭の中がまっしろになった。
なんだ、この光景は。いや、待て。おれは夢でも見ているのだろうか。そうだ、そうにちがいない。今日は、ホワイトデーであることを除けば、なんの変哲もない金曜日だ。平日、『ステイゴールド』はつつがなく営業している。そう、今は営業時間だ。営業時間中に客がいることは何もおかしくない。おかしくないんだ。
「店長……」
おれが後ろを振り返ると、敷島父は腕組みをして、ただ首を縦に振っただけだった。子供を崖から突き落とすライオンの親さながらに、自分の行動を微塵も疑っていない態度だ。ああ、絶望だ。絶望しかない。
ふわふわと現実感のないまま小股で中央に進み出ると、ひときわ歓声が大きくなる。ある女はわなわなとこちらに向かって指を差し、ある男はサイリウムを振り回している。なんなのこのカオス空間。
「え、と」
口を開こうとしたとたん、しんと静まった。見知った顔ぶれが、期待(と侮蔑)のこもったまなざしで、一斉におれを見る。
「えーと、みなさんは、どういう集まりで?」
もはや頭をかいて、あいまいに顔をひきつらせるしかない。一同は顔を見合わせる。代表するように姉貴が立ち上がって、きっぱりと宣言した。
「麻代。お返し、期待してるからね」
いえーいと姉貴が同僚とハイタッチを交わし、再び場が騒然となる。気づけばおれは各テーブルから引っ張りだこで、質問攻めに遭うこととなった。チョコを渡さなくてもいいかわりに写真を撮られまくった。撮りに撮られまくって、最後のほうは開脚させられながらダブルピースとかしてた。未来永劫劣化しないデジタルデータに黒歴史が拡散されていく。お前ら、忘れられる権利があるんだぞ、この国には。頼むからネットの海にはばら撒かないでくれよ。撒いていいのはおれの遺灰だけだ。
「えー、どうしよっかなー」じゃねえよ、そこのオカルトツインテール。嗜虐的な笑みで、おれを頭からつま先まで値踏みするような視線を向けやがって。こいつだけはリベンジする。絶対に。
賑やかな店内は、野放図に群生した雑草のごとく、それぞれ好き勝手に盛り上がる。船酔いならぬ、空気酔いしてしまいそうだ。
「ましろちゃん、大丈夫?」
一通りメニューを配膳し終えて、裏で休んでいると、敷島が目ざとく気づいて近づいてきた。こんなとき、敷島の優しさが骨身に染みる。
「これくらいの忙しさでダウンしてたら、もっと繁忙期になったら過労死しちゃうんじゃない?」
休憩中の葛城も涼しい顔でやって来た。ブラウスの上に敷島とお揃いのビブエプロンを着けている。結局、彼女はこの店でアルバイトを続けることにしたらしい。敷島父がよよよと大げさにうれし泣きして報告していた。
「タマちゃん」「くるみ」
ひし、と二人が目の前で抱擁する。敷島が髪を撫でて、葛城がされるがままに目を閉じる。
「ましろちゃんは駄目だからね。どさくさにまぎれないように」
見守っていると、先回りするように釘を刺された。
「わかってるよ」
「あ、いじけた」
と、葛城。
「いじけてねえよ」
おれは反論する。
「嘘。あれはいじけている顔ね。本当は一緒になって抱き合いたいのに、プライドが邪魔をして自分を捨てきれない」
「タマちゃん、すごいね。どこでそんな観察眼を」
「あの人、意外とわかりやすいと思う」
葛城が言うと、敷島が納得した顔でたしかに、と何度もうなずいた。
「お前ら、本人の前でそういう悪口を言うのは――」
二人がおれを見る。先に口を開いたのは、敷島だった。小さく舌を出して、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「本人の前だから言ってるんだよ。ね、タマちゃん」
ん、と葛城も同意する。真面目な顔になって、身を離した。
「だって、私たち、“友達”だもん」
敷島は続ける。
「なんでも言い合える仲になれなきゃ、友達とは呼べないよね?」
「ちょ、ちょっと待てよ」
おれはあわてて言葉を遮る。鈍器で頭を殴りつけられたような気分なんだが。
「千鳥くん。あんまり勘違いしてると、私、逃げちゃうからね」
「じゃあ私は運転手に」
「えへへ、タマちゃんナイスアイデア」
くそっ、なんだこの敗北感は。
二人はハイタッチを交わすと、ごそごそと申し合わせたようにスマホを取り出した。画面をおれに見せてくる。
「ああ――」
そこには。
見慣れた画面が。
『男の子ぷらねっと』のホーム画面が、それぞれ映し出されていた。
そして、よく見慣れたアバターの姿が。
「昨日ね、二人で本物のタマちゃんのお見舞いに行ったの。そしたら、本物のタマちゃんが目を覚ましていて。でも、“タマちゃん”や千鳥くんのことは覚えてなくて。それで、気づいたらこのアプリがインストールされていて――千鳥くん。どうしたんですか。大丈夫ですか、泣いてるんで……」
敷島の声が、よく聞こえない。
よかった。
よかった、本当に。
まだ、あいつは存在して――、ん?
よくよく画面を見直す。アバターの姿は、チッポとは似ても似つかない、金髪碧眼美少年の姿形をしていた。
「これは」
訊ねると、敷島は葛城と顔を見合わせて、笑みを向けてくる。
「千鳥くんだって、同じことしてたでしょ。だから、お返しだよ」
【被虐指数】ゲージに相当する部分には【浮気指数】とおどろおどろしいフォントで書かれていた。なにこれこわい。
「私たちは」
葛城が口を開いた。聞き逃さないよう、彼女の一言一句に耳を傾ける。
しばらくすると、首を横に振って言い直した。
「私は、自分の生き方を探そうと思う。誰かに仮託しない、夢や目標を持って」
「葛城……」
「もし、私から一本取りたくなったら、いつでも来て。千鳥。相手になってあげるから」
そう言って、こつんと頭を叩いた。
むぅ、と敷島が割って入るように頬を膨らませる。
「千鳥くん。私は簡単に振り向かないからねっ。みんなゼロからヨーイドンでやり直すの。その時に私を選ばなかったことを後悔させてあげるんだから」
「ははは」
「笑わないでよーっ」
二人の言うとおりだ。今の自分に妥協せず、ゼロから行動を起こさなければ、そばにいてくれる人たちもやがて愛想を尽かして去っていってしまう。
「タマちゃん、千鳥くんがいじめるーっ」
「最低ね、千鳥」
「お前ら、そういう時だけ無駄に息合ってんな!」
いつか、互いのことを心から許せる特別で奇特な誰かがそばにいてくれたなら、今までの自分を笑って話せるような人間でありたいものだ。
「あ、もう“タマちゃん”は卒業するんだったね」
「――ええ」
そういえば、名前を聞いてなかったな。
二人は、おれを置いてけぼりにして、勝手に盛り上がろうとしている。
「なんだよ。おれにも教えてくれよ」
おれが割り込むと、葛城は「あら」と眉を上げた。
「女の過去を詮索するとは感心しないわね」
「名前は未来永劫ついてまわるものだろうがっ」
彼女は、おれを見て、寂しげに笑う。けれどそれも一瞬のことで、吹っ切れたように姿勢をただした。幼さの目立つうさぎのヘアピンは、もう着けていない。
彼女が息を吸い、口を開く。
それは、季節の息吹を予感させる、彼女にふさわしい名前だった。




