お返しはテホドキのあとで(3)
翌朝。午前中の授業をサボり、おれは私服で市内の総合病院へ向かった。最寄り駅まで地下鉄で向かい、そこからバスに乗り換える。サボり初体験のおれは、どこかで顔見知りに見つかって告げ口されないかとひやひやしていたが、どうやらそこまで神経をとがらせなくてもよかったらしい。
正面玄関を抜けて、受付に向かう。面会の旨を告げると、看護師は素っ気ない対応で病室まで案内してくれた。院内にいるのは、年寄りやその付き添い、子連れの母親がほとんどだった。同年代らしき人間は入院着の患者ばかりで、肩身が狭い。
廊下の突き当たりにある病室までたどりつく。ご家族の方がいらっしゃいますからお静かにお願いしますねと注意をして、看護師はきびきびとした足取りで去っていった。
表札を確認する。
この病室に、本物の葛城珠がいるはずだ。
ノックをひとつし、返事があることを確認してから、中に入る。
広い個室だった。病室であることを差し引いても、整然としすぎていた。それに、あまりにも静かすぎる。
パイプ椅子に座っていた葛城の母親らしき中年女性が、やつれた表情で会釈をする。葛城の友達であることを伝えると、母親は目を見開き、一筋の涙をこぼした。まるで自分のことのように、何度もありがとうございます、と頭を下げる。
そんな母親の様子を見ていると、何も見舞いの品が用意できなかった申し訳なさのほうが先に立ってしまった。
「いいんです。また、いつでも会いにきてください」
母親は、なかば祈るように深く頭を下げた。
それから、ベッドの上で昏々と眠りつづける葛城の髪に、そっと触れる。だらりと垂れ下がった手を、かけ布団の中に戻す。
面会の間、医療器具をつけられた葛城珠が目を覚ますことはなかった。
「はい。また来ます。必ず」
それだけを最後に告げて、おれは病室を後にした。
願わくは、次にこの病室を訪ねるときには、本物の葛城と話せることを信じて。それが初恋という名のセンチメンタリズムだとしても、せめて奇跡が訪れることを願ったっていいはずだ。
そうだろう――?
病院を出て、真っ直ぐ上埜木駅まで戻ってくる。神出鬼没の“彼女”とどのように接触しようかと考えていたが、考えるまでもなかったらしい。
「こそこそ隠れてないで、出てきたらどうだ」
立ち止まり、視線を背後に向ける。
振り返ると、制服の上からコートを羽織った女が、幽霊のごとく音を殺して立ち止まった。後ろで縛った髪が、大げさに揺れる。
病院を出る頃から気配に気づいていたが、どうやらずっと一定間隔を保って、後を尾けていたらしい。
女が、正面からじっとおれを見つめる。感情を滅多にのぞかせないその瞳を、おれも見返す。
「葛城珠に会った」
なんでもないことのように報告すると、女はかすかに頷いた。
「そう」
「おれはひとつ残念に思っていることがあるんだが、話してもいいか」
「やめて、と言ったら、あなたは口を閉ざしてくれるの?」
「その時は、聞こえるように独り言を続けるだけだろうな」
「なら、いちいち確認しなくてもいいんじゃないかしら」
彼女が珍しく眉をひそめる。その仕草に、少しだけ溜飲が下がった。
「おれには確認する必要があるんでな。エゴで悪いが、付き合ってもらうぞ」
そう、エゴだ。
おれは自分自身のために、彼女の嘘を暴く。
「と、その前に」
話をするにしても、どこか屋内に入って暖かい飲み物でも欲しいところだ。
ちょうど近くにファストフード店があったので、中で話をしようと提案する。葛城は、黙ってついてきた。ドーナツと紅茶を二つずつ注文して席に着く。大学生の一団が奥の一角を陣取っているだけで、店内はがら空きだった。こちらの声が聞こえることはないだろう。運ばれてきた紅茶を一口啜り、ようやく一息ついた。
「飲まなくてもいいのか」
「私は、いらない」
「熱いうちに飲めばいいだろ」
勧めても、静かに首を振るだけだ。妙なところで頑固な奴だ。まあいい。
「それじゃ、そろそろ話をするか。葛城――いや、“幽霊”さんよ」
葛城の肩が、ぴくりと跳ねる。
「おれが残念に思っているのは、どうしてお前が正直に目的を話してくれなかったのか。それだけだ」
「言ったでしょう。あなたに話しても結果は変わらない――」
「それでもだ」おれは葛城の言葉を遮る。「たしかに、お前が【カル魔界】の箱入り王女で、おれを外敵から守るためにやってきたという“設定”をあの時点でおれに打ち明けたとしても、電波女の世迷いごととしか思えなかっただろうな」
「だったら、なおさらじゃない」
「ちがう。おれがお前のことを電波女だと疑ったとしても、打ち明けてほしかった」
「あなたは自分の身に迫る危険を私に話してはくれなかった。もちろん、あの子――敷島さんにも打ち明けた様子は見られなかった。あなたは全部、一人で抱えこもうとしていた。同じことじゃないかしら」
だんだん早口になっていく。都合の悪いことを追求されると、人は饒舌になる、と何かの本で読んだことをふと思い出してしまった。
「そうだな。おれは自分が死ぬことを隠して、自分の目的のために葛城と敷島を利用した。これは百パーセントおれの落ち度だ。申し訳ない」
「……」
「謝ったところで水に流せないのは知ってる。とくに敷島には何を言われても受け入れるしかない。それを踏まえた上で、隠し事はなしにしないか」
一転して、視線をテーブルに向けたまま葛城は沈黙する。だいぶぬるくなった紅茶を口に含み、おれは彼女に構わず話を続けた。
「お前は、最初からカル魔界と現実に及ぼす異変について知っていた。それから、一条沙耶音がこそこそと周辺を嗅ぎまわっていたことも。あいつ――沙耶音は敵でも味方でもないそうだ。実際のところは何を考えているかわからないけどな。知っての通り、沙耶音から話を聞いて、おれは本物の葛城珠が入院している病院に行った。中学に上がってからずっと入院してるって母親が教えてくれたよ。眠り続ける彼女の精神世界が、カル魔界の根幹をなしているんだってな」
正面に座る相手からの答えはない。黙りこくったまま、やり過ごそうとしているのか、それとも全部間違った思い込みだと言いたいのか。
だが、はっきりと言えることがある。
目の前の葛城には、足がある。それに、あの日、頬に押しつけられた唇の感触も。
「葛城――いや、お前のことはなんと呼べばいいんだろうな。幽霊じゃあんまりだろ」
葛城の視線が動いた。怯えたように、唇を噛む。
「そう思わないか、葛城の友達。悪いが、お前の名前を忘れちまったからまた教えてくれると助かるんだが」
「……いや」
「なんだって」
「やめてよ……どうしてそんな意味のわからないことを」
彼女が耳を塞ごうとする。だが、そうすることはできないはずだ。
「お前は全部わかっている。葛城の深層心理と彼女の願いにリンクして受け入れたお前ならな」
単純な話だ。
葛城の友人――名前を思い出せないのがしゃくだが――は、自分の中に“葛城珠”という存在を作り出した。それが、彼女のイマジナリーフレンドだ。
しかし、本物の葛城が昏睡状態に陥ったとき、眠り続ける彼女の作り上げた精神世界が、現実に影響を及ぼすようになる。友人にとって自分の現実を補完する、都合のいい代弁者に過ぎなかったイマジナリーフレンドが、自我を持ってカル魔界の存在や自らに課せられた使命を物語るようになってしまった。
怖かったはずだ。おれだって、あの落ちこぼれからカル魔界がどうとか説明されたときは、頭がどうかしているとしか思えなかったしな。
「お前は、全部受け入れることにした。そして、自分自身の生き方を手放した。どうしてか。それは」
「やめてって言ってるでしょう!」
彼女が、拳をテーブルに叩きつけた。口をつけていない紅茶がこぼれ、音を立てて床に落ちる。店内が痛いほどに静まり返った。
店員があわてて拾いにやってくる。ひそひそと交わされる言葉。やがてそれも、元の声量に戻っていった。
彼女は肩で息をついていた。顔を朱に染めて、ちぎらんばかりに唇を噛みしめる。そして、感情を押し殺した声で、言葉を吐き出した。
「わかったような顔で、私を知ったつもりになって楽しいかしら?」
「知りたいんだよ。おれはお前を」
「嘘つき」
言葉は刃物より鋭く、おれを突き刺す。
「あなたが私の正体を知らなかったとしても、同じことを言えたのかしら。何も知らないくせに、耳触りのいい言葉を抜け抜けと。あなたが見ていたのは、“葛城珠”よ。決して私じゃない。私は、あなたの前で、都合のいい“初恋の人”を演じてみせただけ。だって、それが珠の願いだったから。珠には叶えられない願いだから。私は間違ってない。あなたに、あなたなんかに、私を説明されたくない」
彼女は、どこまでも平板な声色を崩さない。
しかし声とは裏腹に、まなじりから涙がこぼれていた。その一筋の軌跡は、頬を伝って、音も立てずに落ちていく。
やがて震える手つきでうさぎのヘアピンをはずし、手の中で握りしめた。
「葛城――」
「ちがう、私は、私は……」
「おれは、おれにとってはお前も葛城だ」
“葛城”が信じられないものを見るように、目を見張る。それでも、おれは自分の身勝手さを貫きたい。そうしなければならない気がするんだ。誰のためでもなく。
「おれはお前のことを何も知ろうとしなかった。今だって、わかんねえことだらけだ。ぶっちゃけ、おれは何のために生きようとしがみつくのか、自分のことですらわからねえ。でも、お前はおれを助けようとしてくれたじゃねえか」
「だから、あれは演技だって」
「そんなのはどうだっていいんだよ!」
おれはきつく握りしめた葛城の手を掴む。振り払われたっていい。言いたいことを最後まで言わせてくれるのならな。
「自分勝手だって思うけど、全部まとめて解決できるハッピーな方法があるって信じたいんだ」
わからないことだらけでも、わかりあえない者同士でも。
「お前の悩みも、葛城の願いも、敷島の気持ちも、おれの死に様も」
わからないということを知っているおれたちが、最善に至れる方法。
「信じてほしいんだ、葛城。最後まで、“指導”に付き合ってくれよ。頼む、この通りだ。お願いします」
それは――
「ばかみたい」
葛城が、涙を隠さずに言う。
「ああ、そうだ。馬鹿で何が悪い」
「開き直ったって、私の結論は変わらないわ。私は言われるまでもなく“葛城珠”のふりをしつづける。少なくとも、あなたがカル魔界に連れて行かれる日までは」
「それじゃあ――」
「怖いの。私は、怖い。なにもかもが怖い。全部終わったらあなたがどうなってしまうのか、私の中で生きている珠と眠りつづける珠がどうなってしまうのか、わからないから怖い。確証がないから。あなたのばかさ加減についていけない」
手を振りほどくと、葛城は立ち上がった。
「さよなら」
かすれた声で呟いて、そのまま小走りで店を出て行く。
おれは……いや、諦めるわけにはいかない。
――麻代様! 呆けている場合ではないですよ! 追いかけてください、今すぐに!
誰かのせかす声が、頭の中で聞こえたような気がした。
幸いにして、探し人はすぐに見つかった。駅前の屋根つきの駐輪場で、敷島の胸に顔を埋めながら、葛城は身を縮ませて泣きじゃくっていた。敷島は何も言わず、彼女の髪を撫で続けている。
「敷島」
「駄目だよ、千鳥くん」
近寄ろうとすると、やんわりと拒絶された。
「私はタマちゃんと話したいことがあるから」
そう言って、葛城の背中に手を回す。
おれはもどかしさを覚えながらも、その場を敷島に任せて、遠くから彼女たちの様子を見守ることにした。
やっぱり敷島を呼び寄せて正解だった。彼女には感謝してもしきれない。今朝、おれは事のあらましを洗いざらい白状する内容のメールを送った。結局ほかに方法が思いつかず、一種の賭けだったが、こうして来てくれてよかった。
ぼそぼそと、二人の話す声が聞こえる。しばらくするとそれも落ち着き、敷島がこちらにやってきた。
「もういいよ。タマちゃんは落ち着いてくれたみたい」
敷島の声はあくまでいつも通りだった。むしろいつもよりも弾んでいる気がする。
「敷島、おれは今までお前に迷惑を――」
「だから、もういいよって言ったよね?」
言葉にトゲが混ざった。
「……悪い」
「だって、このまま千鳥くんのことを見捨てたら、私、薄情者じゃないですか。あの世からうらまれ続けても嫌だし。正直、どんな顔をしたらいいか、怒るべきなのかわからないけど」
そこで言葉を切ると、ちらりと視線を背後に向けた。ハンカチで口元を押さえた葛城がのろのろと近づいてくる。
「タマちゃん」
敷島が葛城の手を取る。
「千鳥くん」
それから、おれに命令した。
「手を出して」
言われるまま手を前に出すと、その上に敷島、やや遅れて葛城の手が重なった。そして、もう片方の手も。
四つの手が中心で重なり合った。
三人で円陣を組む。
二人が、おれを見た。頷く。
「おれのために、おれをドレイにしてくれ!」
我ながら間抜けな掛け声だと思った。




