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お返しはテホドキのあとで(2)

 【カル魔界】について語るにあたり、沙耶音はまず、二〇四五年問題を喩えとして取り上げた。二〇四五年問題は、おれのように浅学な人間でも聞いたことがある。コンピュータが人間の知能を上回り、社会に変化が訪れるのではないか。その技術的特異点が生じるのが二〇四五年であると推測されている。そのような予測を指して、そう呼ぶんだったか。いつだったか、プロの棋士がコンピュータと将棋を指して負けたというニュースを読んだ覚えがある、

 カル魔界とは精神世界だ。精神世界とは、人々の思いが寄り集まってできた世界であると沙耶音は説明する。精神世界は、人の数だけ存在していて、同じコミュニティや言語、価値観、似たような境遇にいる人間、つながりのある人間を中心に構成される。

 通常、物質世界の枷にとらわれた人間が精神世界のありようを知ることはできない。


「でも、貴方がた。千鳥さん、葛城さん、あと……オギソさん?」

「敷島な」

「そうそう、敷島さん。貴方たちは、特殊だった。特殊であるがゆえに、互いの精神世界がシェアされ、現実を飲みこもうと牙を剥きましたのよ」


 人々の思いによって作り上げられた精神世界は、物語られるだけの存在だった。だが、精神世界は、物語られるだけの現状をよしとしなかった。自らの意思を持ち、独自の理で、社会を発展させていこうとした。一筋縄ではいかない現実を生きるおれたちからすれば、いびつで、ままごとじみた“未完成”の世界だ。

 しかしながら、それはしかたないことだと沙耶音は苦笑しながら注釈を入れる。


「精神世界に反映されるのは、その人の深層心理。つまり、表面には現れない本当の願望や感情、行動原理、価値観などが、単純化、あるいは先鋭化されますの。だからたとえば、政治家や、経営者、教育者のような一廉ひとかどの人物であっても、言葉で言い表せない心象世界が広がっている可能性はじゅうぶんにありえますわ」


 いくら人格者を求められる立場の人間でも、心の中まで高潔さを求めるのは酷でしょう、と沙耶音が言う。もちろん、どんな身分の人間であっても、世界が先鋭化されていることは珍しいケースではないらしい。


「葛城さんの精神世界は、その中でもとりわけ特殊なものですの。彼女はある思い込みを自らにかけていた。それゆえ、近くに位置していた精神世界と混ざり合うことで、甚大な影響を及ぼしました」


 そこで沙耶音は、おれを見る。何もかもを見通す、“観測者”の目だった。


「葛城さん――いえ、葛城珠の思い込み。それは、彼女自身が『カル魔界の住人である』と思い込み、それを自らの現実として受け入れて暮らしていたという誤った世界認識にすべては起因していますわ」

「どういう意味だ」

「まだ、わかりません? 彼女には、幼少期に人を傷つけた過去があった。それがきっかけか、もっと以前からかはわかりませんが、彼女はいつしか、現実を誤認するようになっていましたの。『自分の暮らす世界はここではなく、カル魔界である』と」

「なんだって……」


 つまり、こういうことか。

 葛城は、自らの殻に閉じこもり、偽りの世界の中でロールをこなし、現実から目を背けていた。中学生のときに、ノートを真っ黒にして書きつづった設定や妄想をリアルで演じ続けるようなものだ。

 どうしてだろうか。自分の身に起こったことではないのに、ずきずきと痛みを覚える。おもに腕の辺りとか。


「彼女は自らを『王女』という役割に当てはめていました」


 沙耶音が説明を続ける。 

 カル魔界において、女王は、王女を束縛していた。箱入り娘として育てられた王女は、ある時、「世界を見たい」と家出する。視察と称して現実に目を向けるが、現実世界において彼女の家庭は父親の転勤による引越しが多く、本人の性格もあって、友達を作ることはできなかった。

 そんな彼女にも、一人だけ友人がいた。

 友人の女の子は心優しく、葛城がどんなにひどい言葉をぶつけても、決してそばを離れず、いつもにこにこと笑顔を浮かべていたという。その友人の女の子といる時だけ、葛城はカル魔界のことを忘れることができた。

 しかし、調理実習の時間に、葛城はささいなことで唯一の友人と喧嘩した。その時に、葛城は持っていた包丁で、誤って女の子の手を切りつけてしまった。


「その友人の女の子は、どうなったんだ」

「幸いにも、軽い怪我だけで済んだそうですわ。その後、葛城さんはすぐに転校してしまったので、友人の顛末がわからないままでしたの。だから、葛城さんの心の中では、彼女に対する罪悪感が深層意識に残っているんじゃないかしら」

「まさか、その友人ってのは」


 不意に浮かんだ疑問をぶつけると、沙耶音は静かに首を振る。


「敷島さん、でしたっけ。彼女とは別人ですわ。でも、手袋を見るたびに何か思うところがあったでしょうね」


 一週間ほど前の出来事を思い出す。

 風呂場で使い魔に遭遇して倒れてしまった敷島を、直接飛び込んで助けようとしなかった葛城。

 そういうことだったのか。


「話がそれてしまいましたわね。ともかく、それ以来、葛城さんはより精神世界に依存する生き方を選ぶようになってしまいましたの。そんな彼女にしつこくまとわりつく男の子がいた。それが」

「おれか」

「ご明察ですわ」


 沙耶音が笑みを作る。その一部始終は誰よりもおれ自身が憶えている。葛城は交わした約束を、自らに課せられた使命のように受け止めていた。だから、おれを守るために再び現れた。辻褄はあっている。あっているが、感情の部分では納得できない。

 沙耶音の説明は、カル魔界で起こっている現状に移っていく。

 概ねはチッポの説明と一致していたが、チッポが守秘義務と称して明かさなかった部分にも切り込んでいく。


「チッポちゃん、可愛らしい名前ですわね。チッポちゃんの属する国は、便宜的にα(アルファ)とでもしておきましょうか。α国は、ω(オメガ)国から宣戦布告を受けていた。そこで、より希少価値の高い戦力を集めるために、貴方のような男性を現実世界から招集することにした――という設定でしたわね」

「ああ」


 設定呼ばわりが気に入らないが、ひとまず相槌を打ち、先を促す。


「ω国の王女は、α国に千鳥さんが奪われるという情報を知り、女王の制止を振り切って国を飛び出しました。ご存知のとおり、現実世界で千鳥さんを守るために孤軍奮闘されました。その時に、わたくしの存在に気づいたのでしょう。彼女からすれば、こそこそと嗅ぎまわるわたくしが敵に見えたのかもしれませんわね。わたくしは、純粋な好奇心から貴重なデータさえ取ることができればよかったのですが……ご理解いただけなくて残念至極ですわ」


 もっともらしく、ため息を漏らしてみせる沙耶音。芝居がかった口調が、いい加減鼻についてきた。


「沙耶音、ひとついいか」

「なんですの。わたくしの年齢でしたら、嘘偽りなく永遠の素数ティーンですわ」


 沙耶音は、計算された角度で首を傾げる。彼女の正体を知らない男からすれば、さぞご褒美のように見えることだろう。


「沙耶音は自分のことを“観測者”と言ったな」


 相手の返事を待たずに、おれは続ける。


「なぜ、おれたちのことを観測しようとするんだ。いったい何が目的で、そんな悪趣味なことを」

「ストップ」


 やや語気を強めた流暢な発音で、沙耶音が手を挙げた。仮面のごとく貼りついた笑みに、一瞬だけ陰が差す。それは、表舞台に立つ一条沙耶音が決して見せないかおだった。


「念のために確認いたしますけれど。千鳥さん、貴方がわたくしを呼び止めたのは、諦めたくない理由があるから。そうですわね?」


 そうだ、とおれは首肯する。


「同じことですわ。貴方がそうであるように、わたくしにも諦めたくない理由がある。だから、貴方にこうしてお話をしてますの」


 それ以上の詮索をする必要はあるのかしら、と言外に滲ませて、噛んで含めるように言う。


「人は、社会は互いに利用しあって生きてます。利用して、利用されあう。善悪の意志に関係なく、それを止めることは誰にもできませんわ。だから、交わらない物語に耳を傾けるよりも、これからの物語を話すほうが有意義だと思いませんこと?」


 彼女が何を思ってその言葉を発したのか、真意はわからない。ただ、少しだけ声が震えているように思えた。

 ひときわ冷たい風が頬を叩く。すでに陽は落ち、街路灯が足元を照らしはじめていた。

 おれはかじかんだ手をこすり合わせながら、一言一句聞き漏らさないよう、沙耶音の言葉に耳を傾ける。やがておれたちは別れた。たぶん、もう二度と言葉を交わす機会はないだろう。帰ってから裕子にこんこんと説教を食らったのは言うまでもない。その説教がどこか暖かく感じてしまった。

 さて、答え合わせをしよう。

 冬を終わらせるために。そして、春を始めるために。


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