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お返しはテホドキのあとで(1)

 もう逃げ続けるのは止めにする。

 平日の真昼間から四方を薄い壁に囲まれた個室の中で、ロダンの考える人と同じ体勢でうんうん唸っていたって、何も解決なんてしない。そんなことは百も承知だ。

 遊園地での騒動から三日経ち、おれは意図的に二人と会うことを避けていた。敷島からのメールは、あの日以来、途絶えたままだ。

 おれは敷島と何を話せばいいか、わからなくなった。思い上がりや妄想でなければ、ゴンドラの中で『消えない証明』を欲しがって瞼を閉じた彼女は、きっと前向きで決定的な返事を期待していた。おれもこの数週間、彼女と過ごした時間に、なんとなく心地よさを覚えていたのは事実だ。好きか嫌いかでいえば、嫌いではないと断言できる。

 けれど、ともう一人の自分が悪意的な仮定を持ち出す。

 もしも閃光騒ぎが起きなかったとしても、おれは敷島にキスを交わせただろうか。

 すぐに結論を出せないことが、何よりも雄弁に答えを裏付ける。

 恋心を利用して、目的を果たそうとする己の醜悪さをおれは最初から知っていた。そのことが彼女に対する判断を鈍らせる。どんな顔をして敷島に接すればいいのか。

 いっそのこと、すべて打ち明けてしまおうと思った。むしろ、打ち明けないほうが不誠実だ。おそらく真相を最後まで聞いた敷島は心の底から軽蔑し、おれのもとを去っていくだろう。でも、もういいんだ。

 カル魔界の存在を第三者に教えることによって、おれの身にいかなる制裁が下されようとも、おそれることはない。

 そう考えたら、不思議と心は軽くなった。

 苦みばしった缶コーヒーを飲み干し、立ち上がる。


「それでいいよな――」


 チッポ。

 無意識のうちに立ち上げた『男の子ぷらねっと』の中に、うざったいほどの陽気な笑みで答えを返すアバターの姿はなかった。

 教室へ戻る前に、中庭に寄り道する。葛城は今週になってから一度も学校に姿を見せていない。今日も、中庭には誰もいなかった。薄く積もった雪の上には、足跡ひとつついておらず、真新しい。まるで最初から葛城珠という名前の少女が存在していなかったかのように、糸の切れた日常が続いている。

 もしかしたら、すべて幻だったのだろうか。

 だが、『男の子ぷらねっと』のアプリはこうして存在しているし、今この瞬間も悪趣味きわまりない創英角ポップ体が、死亡予定時刻をカウントダウンし続けている。被虐指数ゲージは、およそ六割近くまで達していた。百パーセントまで到達しなかった場合、問答無用で兵役を課され、女王の駒と成り果てるのだろう。その世界は、駒の重要度が下がれば、プレイヤーたる“神”から容赦なく切り捨てられるろくでもない世界だというのは想像にかたくない。ソーシャルゲームにおいて、レアリティの落ちたカードは、キャパシティを圧迫するだけの合成素材でしかない。

 完全なる実力主義。

 完全なる弱肉強食。

 “神”は、我欲を満たすために、あるいはほんの暇つぶしに、ガチャを回し続ける。

 ――クソみたいな世界だ。

 教室に戻ると、廊下側の席で一人静かに読書している敷島を発見した。ちょうど目の前にストーブがあるから、数人の女子も周辺でたむろしている。

 おれは後ろから敷島に近づき、何気なさを装って声をかけた。かけようとした。


「しき――」


 その瞬間、本を閉じ、勢いよく椅子の音を立てて敷島が立ち上がる。一度もこちらを見ないまま、早足で教室を出て行った。周りにいた女子が、取り残されたおれをちらちらと見て、何事か囁きあっている。


「クソが」


 睨みつけると、女たちはぴたりと話を止めた。だが、席に戻ると、またひそひそ話を再開する。

 なにもかもうまくいかない。

 言いたい奴には言わせておけばいい。周囲に当り散らしたって、何の解決にもなりやしない。こいつらには何の関係もないことだ。こいつらだけじゃない。自分以外の他人に、自分のすべてを理解してもらいたいという、その発想自体が傲慢だ。

 だというのに、人はしばしばありのままの自分自身を理解してもらいたがる。他者の中で受け入れられることを望もうとする。認めてもらいたいと願うようになる。

 そんな都合のいいものは、すべて、幻想だ。

 幻想にすがるよりも、目の前に迫るどうしようもない現実を生きるしかない。

 最悪の結果に陥らない、最善への道を泥臭く探し続けることしか残されていない。

 おれは、死にたくない。

 まだ伝えたいことを、伝えるべき人に、伝えきるその日まで。

 諦めるわけには、いかないんだ。

 放課後、野菜コンビからのラーメン屋への誘いを断って、おれは『ステイゴールド』に足を向けた。今日はバイトのない日だが、二人とも普通に働いているかもしれない。だが予想に反して、店内には敷島の両親しかいなかった。店長に訊ねると、


「くるみは誰とも会いたくないそうだ。部屋にひきこもってしまったよ。君の気持ちもわかるが、今日は遠慮してやってくれないか」

「じゃあ、葛城は」

「葛城くんなら、先日退職届を提出したよ」

「なんだって……?」


 どうして突然、そんなことを。 


「僕も驚いたよ。あまりに唐突だったからね。理由も訊いたが、結局教えてくれなかったよ」


 本当に残念だ、と店長はため息を漏らした。ややあって、おれの肩に手をかけ、上目遣いをする。


「君は、辞めないよね?」

「これ以上従業員にパワハラを強要するなら訴えますよ」

「ぐすん」


 ぐすん、じゃねえよ年齢を考えろ。

 そんなことより、おれはまだ店長から引き出すべき情報がある。敷島は篭城している以上、正面から立ち向かっても聞く耳を持ってもらえない可能性のほうが高いだろう。だったら、葛城の線から攻めていくしかない。葛城は、まがりなりにもこの店で働いていた事実がある。だとすれば――

 おれは店長に、葛城の履歴書を見せてもらえないかと頼みこんだ。「そういうのは困るよ」と渋面を作ってみせた店長だったが、敷島母が奥から音もなく現れると、態度を百八十度変えて、「偶然書類が散らばって見えてしまったなら、しかたないな」と妥協案で手を打った。どうやら奥さんには頭が上がらないらしい。にしても、やっぱり敷島家はニンジャの末裔じゃないかってくらいに気配を消す能力に長けているな。マジで。

 おれは葛城の履歴書に目を通すと、住所をしっかりと頭に入れてから、敷島家を辞去した。最寄り駅まで地下鉄で移動して、地図アプリを頼りながら、閑静な住宅地を右に左に折れていく。

 やがてたどり着いたその住所には、ぽっかりと空洞ができたように駐車場があるだけだった。電柱のすぐそばで、誰かの作った雪だるまが崩れかけながら佇んでいる。

 なんとなく、そうなんじゃないかという気はしていた。

 葛城は、嘘をついていた。嘘をついてまで、隠しておきたい事情がある。

 思い返せば、最初から不審な点はあった。いくら違うクラスだからと言って、あんなに特徴のある女を校内で見かけたことがなかったのは、不自然だ。それこそ、保健室登校でもない限り。

 芽生えたいくつもの疑問は、やがてひとつの推論に収束していく。

 その推論を本人の前で口にする前に、もう一人だけ会っておきたい人物がいる。もっとも、一般人のおれごときが『彼女』に接触する方法なんて、現実離れも甚だしいが。

 延々と考えているうちに、自宅のマンションまで戻ってきていた。階段を使い、部屋まで戻る。


「はぁ……」


 玄関の扉を閉めて、人心地つくと、リビングの照明がついていた。珍しいこともあるもんだ。


「おかえり、麻代」

「おかえりなさいませ」

「ただいま」


 コートを脱ぎ捨て、ソファの定位置に腰を沈める。

 ……ん? 来客か。

 ジャージ姿の姉貴とよその学校の制服を着た女子が膝を突き合わせて、テーブルの上に教科書と筆記用具を広げていた。自宅に生徒を招いてまで個人指導とは、相当熱が入っているな。


「だからね、最後の文章は経験を表す過去完了形でいいのよ。『サイモンは高等学校教育を終えるまで環境問題に関するレポートを仕上げたことがなかった』で通じるわよね?」

「やっと得心がいきましたわ。ありがとうございます、千鳥先生」

「いえいえ。リスニングとスピーキングに関しては、あなたのほうが教師である私よりも優れているのだから、もっと自信を持っていいのよ」

「わたくしは感覚的な文法に頼りすぎていましたから、先生のアドバイスに救われていますわ」

「あら、そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃない。そろそろ休憩にしよっか」


 女子生徒の言葉にまんざらでもなさそうな裕子が立ち上がり、飲み物を取りにいく。


「何か飲みたいものある? 紅茶とココアくらいしかないけど。あ、麻代は残った牛乳ね」

「おいこら」

「くすくす……仲がおよろしいのですね。では、ココアをいただけますか」

「そうよー。いつまでも姉離れのできない弟で、苦労させられてるわ」

「勝手にシスコン扱いすんなよ」


 ちょくちょく抗議を挟んでも、まったく懲りやしない。困ったもんだ。

 そんなおれたちのやり取りに、口元をおさえて、上品に笑う女子と目が合った。


「お前は――」


 思わず眉間にしわが寄った。まじまじと凝視する。 

 目鼻立ちの整った顔立ち。髪型こそ片結びでカモフラージュしているが。


「お待たへ」


 姉貴が三人分のココアを持ってやってきた。


「はい、さやちゃん」

「ありがとうございます」


 裕子がソーサーの上に来客用のカップを置くと、さやちゃんと呼ばれた女子は、流れるような仕草でお辞儀をしてみせた。


「ごめんごめん麻代、牛乳切れてたわ。後で買ってきてくれない?」

「わかったよ」


 いただきます、と裕子が呟いて、湯気の立ったココアをふーふーと冷ましながら啜る。

 しばし、三人とも無言でずず……とココアを啜る。

 聞き出すなら、今しかないと思った。


「あのさ、質問してもいいか」

「んー? いきなり堅苦しい口調でどうしたのよ。さては、さやちゃんに一目惚れしちゃった、とか?」

「ばっ――そんなんじゃねえよ」


 茶化されないように、おれは質問をつなげた。


「姉貴が自分の学校の生徒を家まで招くなんて珍しいから、気になったんだ」

「あー、そゆこと」


 裕子はココアを置くと、視線を彷徨わせる。だが、それも一瞬のことで、先輩風を吹かせた少女のように、意地の悪い笑みを浮かべた。


「やっぱり、あんた気があるんじゃないの」

「ちげえっつってんだろ」

「はいはい、すぐ怒らない。モテたかったら我慢する。さやちゃんはね――言ってもいい?」


 確認を取ると、女子はあいまいにはにかみ、頷いた。


「あのね、彼女、私の担当学年ではないけど、留年しそうになってるのよ。だから、私のところまで相談に来てくれたの。今時、真面目な子よね」

「真面目な奴は留年しないだろ」

「はぁ…………」


 心底あきれたと言いたげに、ため息をつかれる。


「あんたはね、もう少し想像力と女の子に対するデリカシーってもんを鍛えたほうがいいわ。ねえ、さやちゃん」

「いえ、弟さんの言うことにも一理ありますわ。事実、わたくしはこうして留年の危機に瀕しているのですから、申し開きの言葉もございません」

「よくできた子ねえ。よかったわね、麻代。あんたのデリカシーのなさを許してくれるって」


 結局、どうあってもおれが愚弟であると結論づけたいだけじゃねえか。

 ほどなくして、裕子による個人指導は終わった。「さやちゃんを送り届けるついでに、食材の買い出しよろしくね。間違っても送り狼にならないように」と時代錯誤な警告をありがたく受け取って、マンションを出た。駅まで同じ方角ということもあり、つかずはなれずの距離でおれは、『さや』と並んで歩く。

 当たり障りがなく、脈絡のない会話を少しだけ交わすと、何も話すことがなくなった。

 否――話すべきことなら、ある。

 いつかチッポと話した公園の前で、おれは足を止めた。

 数歩遅れて女子が立ち止まり、首を巡らせて振り返る。

 しかし、彼女は、突然立ち止まったおれをいぶかしげな様子で見てはいなかった。

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「一条沙耶音」


 白く流れる息とともに、その名前を吐き出す。彼女の唇の端がかすかに持ち上がる。作り物めいたその面差しは、興味深いおもちゃを見つけた仔猫にも似ていた。ふっと視線をそらしてしまえば、爛々(らんらん)と瞳を輝かせて飛びかかってくるのではないかとさえ思えた。

 だが、おれの懸念をよそに、先に視線をそらしたのは彼女のほうだった。くるりと身体ごと向きを変えると、軽い足取りで公園の敷地内に入っていく。それに従うことを疑わない足取りだった。

 “一条沙耶音”はブランコに歩み寄ると、積もった雪を払って、いとうことなく濡れた木製の板にちょこんと腰かけた。そしてロープを握り、身体を軽く後ろに引いて前後に漕ぎはじめる。すらりと伸びた足に、つい目を奪われそうになるが、すんでのところでこらえた。


「貴方も一緒に座ったらいかがですか」


 口を開こうとすると、先回りするように彼女が言った。


「そんな気分に見えるのか。ブランコに乗るような年齢でもないだろ」

「あら、たまには童心に返るのもいいものでしてよ。それに、お話をするなら、お互いに同じ目線でするのがフェアだと思いません?」


 振り子のように揺れながら、挑戦的に見上げてくる。しぶしぶながら、従うことにした。同じようにして、隣のブランコに腰かける。

 しばし互いに、ちがうリズムで漕ぎつづける。身体の芯が温まりはじめた頃、彼女は気まぐれに漕ぐのをやめた。おれもそれに合わせると、前を向いたままで本題を切り出した。


「最初に申し上げておきますと、わたくしは、貴方の敵でも味方でもありませんわ。もちろん、葛城さんの敵でも」

「お前は、一条沙耶音で間違いないんだよな」

「この姿であれば、そういうことになりますわね」

「悪いがおれにはあんたの行動が理解できない。全部教えてくれないか。あんたは知ってるんだろ。カル魔界のことも、葛城のことも。いったい何が目的なんだ」

「くすくす。先生のご指摘どおり、せっかちなお人ですのね。わたくしは逃げませんわ。あなたの知りたいことに、答えを用意してお待ちしています。それと」

「それと?」

「『お前』でも『あんた』でもなく、沙耶音とお呼びしていただけると助かりますの。これでも結構、気に入っている名前ですので」

「……そうかよ」


 おれはため息をつく。どうしてこう、おれが接する機会のある女は、妙なところでささいな違いにこだわる人間が多いのかね。とはいえ、偉そうに語れる経験はないが、形にこだわる人間が多いというか。類はなんちゃらって奴か。


「わかった。教えてくれ――沙耶音」

「ええ」


 沙耶音はようやく満足げに頷いた。


「順を追ってお話したいところですが、時に、千鳥さん」


 不意に苗字を呼ばれ、ドキリとする。現役アイドル(仮)に面と向かって名前を呼ばれる機会なんてそうそうあるものじゃない。


「結局、首輪はつけてませんのね」

「首輪?」


 言われて、思い出そうとする。そういえば、チッポとこの公園で話をしたときに、使い魔がくちばしにくわえて持ってきたな。気味が悪いから、引き出しにしまいこんだままだが。そうか、あの時使い魔に命令をしたのが、沙耶音だったのか。


「千鳥さん。貴方は反骨精神に溢れていて、幸運でしたわね。もし素直に首輪をつけるようなお人でしたら、三月二日、貴方はゴンドラの中でナビゲーターとともに命を落としていましたわ」

「は――?」

「と、過ぎたことを言っても仕方ありませんわね。それでこそ、観測しがいがあるというもの」


 声をひそめて、沙耶音が笑う。嘘や冗談を言っているような口ぶりではなかった。


「さて、前置きが長くなりましたわね。では、そうですね。カル魔界の成り立ちから順を追ってお話しすることにしましょう。質問は随時受けつけますわ」


 沙耶音は膝の上で手を組むと、昔話をするように遠い目をして、事の経緯を話し始めた。

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