モクバのご利用は計画的に(5)
「すごいよ、千鳥くん! だんだん浮き上がって、ほら、湾もうっすら見えてきたみたいっ」
観覧車に向かい合わせで乗り込み、動き始めると、敷島は興奮した様子でガラス窓に両手を押し当てて、外の景色を指差していた。素面でこんなにテンションの上がった彼女の姿を見るのは、初めてかもしれない。
「曇りにしては結構悪くない眺めだな」
きっと、高いところが好きなんだろう。観覧車は右回りにゆっくりと上昇を始めて、およそ十分ほどで頂上に辿りつく。頂上付近から景色を堪能できるのは二分程度で、再び地上へと下降していく。という係員の説明を、ぼんやりと思い出していた。
ここ数週間、毎日のように曇り空ばかりを見させられていたので、晴天というものを忘れかけてしまった。慣れというのは怖いものだ。
「ね、もっといい天気ならよかったのに。あ、そうだ。スマホ持ってるよね、千鳥くん。撮って撮って」
「ああ、持ってるが、それが――」
どうかしたかという言葉を飲み込む。そうだった。スマホが原因でおれは羞恥プレイ極まりない迷子の呼び出しを食らったんだった。
敷島は、照れ隠しのように視線をそらし、早口で言った。
「私の携帯、充電切れちゃったから。あの、ごめんなさい千鳥くん。あの時は焦っちゃって、ちゃんと言えなかったけど。迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい」
ぺこぺこと謝り倒す敷島。肩まで伸びた髪がやわらかく揺れて、仄かにシャンプーの匂いがゴンドラの中を占めた。
「気にするなよ。それより、写真撮るんだろ? ええと、ちょっと待ってろよ」
おれはポケットからスマホを取り出して、画面を見る。
何か、違和感があった。
いつもだったらしつこいくらいに構ってちゃん振りを遺憾なく発揮する、四頭身の自称ナビゲーター。
チッポの姿がなかった。
ようやく『空気を読む』という最低限の礼儀をわきまえる程度のことは学習してくれたのだろうか。それなら喜ばしいことだが、だんだんこいつへの要求レベルが下がってきている気がする。開口一番に無理難題を要求したことさえ除けば、基本的にいても無害だしな。ポスペみたいなものだと思えば諦めもつく。まあ、いなくなるのが最善ではあるが。
伝言板代わりに使っているメモアプリを立ち上げる。新着の書き込みがあった。ご健闘をお祈りしていますと書かれた文章の下に、よれよれな一筆書きの落書き。
相合傘の下で寄り添うように並ぶ、ましろ――――とチッポの名前。
撤回しよう。やっぱりあいつは絶望的に空気が読めてない。それがあいつらしさでもあるが。
「準備おっけーだ。何を撮ればいい?」
「えと、こっちに来てください」
ぽんぽん、と隣を叩くので、誘われるまま隣に腰を下ろす。
「貸して」
スマホを手渡す。敷島は、身を乗り出しそうな勢いで窓に貼りつき、何枚も激写した。
「そう、もうちょっと笑顔で、ううん、あからさまな作り笑顔じゃなくて、もっと自然に、ああ、いいですね、この角度、ベストショットだよ~」
……どうでもいいが、遠景に対してまで笑顔を要求する敷島にやや狂気が漂っていたことは、本人の名誉のために黙っておこうと思う。
「はい、こっち向いて」
不意にレンズがこちらを向いた。身体ごと向きを変えて、敷島がレンズ越しにおれを覗き込んでくる。
「むむむ。足りない、足りないですよ、千鳥くん」
そして、唸る。
「何が足りないんだよ」
「笑顔ですよ、笑顔。千鳥くんってあんまり笑うところ見せないから」
「悪かったな」
「べつにいつもにへら~って表情をしてろという意味じゃないですよ。たまに、でいいから……ってほしいなぁ……ううん、なんでもない、です」
もごもごと口ごもる敷島。
がこん、と音がしてゴンドラがかすかに振動する。もう間もなく頂上らしい。眼下にいる客が豆粒に見えた。
「わかった。貸してみろ」
「え、なにを」
敷島の手からスマホを抜き取り、レンズを自分のほうに向けたまま腕を伸ばした。インカメラのついていない機種だから、被写体がズレなければいいんだが。
「敷島」
おれは敷島の肩を反対側から引き寄せる。抵抗はなかった。膝が当たり、いい匂いのする髪が触れあう距離。
ぱちり、と。
「どうだ」
スマホを手渡し、写りを確認する。
「……綺麗に撮れてます」
「そうか」
「保存しますね」
「頼んだ」
冷静に思い出すと小っ恥ずかしいことをやらかしてしまった気がするが、たぶん気にしたら負けだ。おれは恥知らずな人間になってしまったのかもしれない。
「千鳥くんは」
頭を抱えたくなるほどの業の深さに思い悩んでいると、ぽつりと敷島が漏らした。さっきまでテンションが高かったかと思えば、じっと深い場所に沈み、考え込んでみせたりする。天気のように不安定な女子だ。だが、それさえも敷島くるみらしさの表れと感じてしまうのは、おれが世間の条理を知らなすぎるからなんだろう。
勝手に自分以外の誰かを、都合のいい解釈でとらえようとするのは、傲慢だ。
ふと、敷島越しに、誰かの姿を思い浮かべていることに気づいた。湿度を帯びた視線で、絡めとろうと近づき、底冷えのする声で囁き、唇をふさぐ誰か。
物事を知らず、周りに近づく人間を傷つけて、そのくせ泣き虫で、強引な女の子。
浮かんだイメージをかき消すように、敷島が身じろぎした。
はっと我に返る。
なんであんな奴のことを、今更考えなければならないんだ。隣にいる少女は、少し抜けたところがあって、気分屋で、内弁慶で、何かに依存したがったりもするが、そのじつ優しくて、悪い部分に自覚的で、視界に入った相手のことを気遣える一面もある。何より、こんな馬鹿げた頼みごとに付き合ってくれた。少なくとも、今のおれの目からはそういうふうに見える。
おれは、敷島のことをどう思って――
「千鳥くんのことが、たまにわからなくなるんです」
見透かすように、敷島は続けた。
「時々、変なことを言ったり行動したりするくせに、何かを押し隠しているんじゃないかって思うときがあるの」
「……」
おれは答えられない。切っ先の鋭い刃物で腹をこじ開けられている気分だ。いや、実際に手術を受けた経験なんてないから、想像でしかないが。
「勘違いや思い込みだったら、ごめんなさい。でもね、時々思うんです。今、この場で私が目を瞑ったら、次に目を開けたときに千鳥くんの存在は影も形もなく消えてしまうんじゃないかって」
「そんなことは」
「ないと言い切れますか。絶対に? 誓って?」
曇りのない瞳が睫毛の奥で不安げに揺れる。おれは、何か大事なものから背を向けて、裏切ろうとしているのだろうか。
きっと、受け入れなければならないのだ。
敷島が、手袋越しにおれの手をそっと掴んだ。火照った頬が、無機質なゴンドラと暗い湾に囲まれた遠景の中で、ただひとつ、浮かび上がっている。
「証明してください。私が目を瞑っても、消えないと」
そして、静かに瞼が下ろされる。
おれは、敷島の小さな肩にもう一方の手をかけた。まるで現実感がわかないのに、早回しで流れる映像のように、数秒先の未来が雪崩れ込んでくる。脈拍が嘘のようにばくばくと騒がしい。
癖のない髪に隠された形のよい耳。
陶器のように無駄がなく、精緻な頬。
仄かな紅を施され、きゅっと引き結ばれた唇。
喉の奥にひっかかった迷いを飲み込み、吸い寄せられるように接近していく。
一秒、二秒、三秒。
躊躇いの間が開けば開くほどに、淡く寄せられた期待と信頼は、失意と憎悪で敷き詰められてしまうだろう。
おれは。
敷島に。
証明を。
しなければ――、
「きゃあっ!」
その、瞬間だった。
敷島の身体が傾いだ。勢いあまって胸に倒れ込んでくる。
いや、ちがう。
ゴンドラ全体が激しく揺れていた。鉄の軋む音が悲鳴、あるいは怨嗟のように響く。おれは無意識のうちに手すりを掴んでいた。平衡感覚を失い、再び吐き気を催してしまいそうなほどの揺れ。
頭の中が真っ白になる。
いや、それもちがう。
ゴンドラの中が白い光で満たされていた。
眩いほどの光が、ストロボライトのように明滅している。
光の発生源は、どこだ?
どうして、こんなことに?
不意に、先輩の言葉が頭の中で鮮やかさを伴って蘇る。
『ここ数週間なんだけど、何か発光体みたいなものを上空で見かけなかったかい』
根拠のない点と点が線でつながっていく。
おれは、もう片方の手でスマホを掴み出す。
「千鳥くん! やだ、怖いよ、助けてよ……」
爪を立ててしがみつく敷島の喚声で、もやが晴れるように思考が働き始めた。
「大丈夫だ、敷島。大丈夫、すぐ収まるから」
「死んじゃう、死にたくない、やだあああぁぁぁ」
「落ち着け」
語気を強めると、敷島は押し黙った。
おれだって、怖い。死ぬことが怖くないのなら、こんなところでうだうだやってねえ。
「やっぱり、そういうことか」
光の発生源は、スマホからだった。
深紅のワンピースに身を包んだチッポが、光の中で目を閉じたまま横たわっていた。痙攣を起こしたように、手足が震えている。
「あっ――」
ひときわ激しい揺れが襲い、スマホが指から滑り落ちる。
斜めを向いた強化ガラスに跳ね返り、光は次第に弱まっていった。
呼応するように、振り子じみたゴンドラの揺れも徐々に収まっていく。
…………。
もう、大丈夫だろうか。
ロープの切れたエレベーターのように、突然落下したりしないよな。昔、邪悪な笑みを浮かべたゾンビがエレベーターのロープを断ち切るホラー映画を観て以来、そういう妄想が頭を離れなかった時期がある。
だが、もちろんそんなことはあるはずもなく、杞憂に終わった。
観覧車は緊急停止したものの、すぐに運転を再開し、客が全員降りるのを確認してから点検作業に入った。
翌朝、新聞に目を通すと、社会面の片隅に『観覧車、一時停止か』という見出しで記事が掲載されていた。乗客に怪我はなく、テーマパーク関係者は事故原因の究明に全力を挙げているという、当たり障りのない内容が書かれているだけだった。地元のマスコミ関係者がおれたちを含む搭乗者全員に事情を訊いて回っていたが、やはりそれも差しさわりのない質問だけだ。
誰もが、発光現象なんて最初からなかったという認識らしい。
おれは観覧車を降りた直後に、群がる野次馬に紛れて女二人が言い争うところを見た。
ポニーテールの女と、波打った髪型の女だ。
ポニーテールの女が一方的に何かをまくし立てているように見えたが、やがて、人垣に飲まれて見えなくなってしまった。
敷島は、ずっとすすり泣いていた。
しかし、おれは何一つ声をかけることができなかった。
言葉を交わすことも、視線を交わすこともできないまま、帰りのバスに乗り込んだ。
【被虐指数五八%/残り期限一〇日】




