モクバのご利用は計画的に(1)
「卒業おめでとうございます、先輩方」
クラッカーの弾ける音がいくつも輪唱するように鳴って、店内の照明が明るくなった。
三月一日、土曜日。
奈良原陸先輩が卒業生を代表して立ち上がり、居合わせた全員からの拍手を照れくさそうに受け止めている。その隣では、腕を組んで自分のことのように誇らしげな海莉の姿もある。
「みんな、集まってくれてありがとう。まさか本当に貸切状態になるなんて。しかもこんな美味しそうな料理まで用意していただいて、嬉しくて泣きそうです」
先輩が一同に向かって深々と頭を下げた。同じテーブルに腰を下ろす先輩の友人数名もならうようにして頭を下げる。
「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにして、遠慮なく食べて、ゆっくりしていってください。ついでに店のひいきになってくれたらもっとありがたいがね」
店長がおどけるように言うと、卒業生の間からくすくすと笑い声が漏れた。それをきっかけにして、ささめきのような談笑が次第に場を姦しく彩っていく。
和気藹々とした空気が、日没後の『ステイゴールド』店内に流れる。
……在校生が集まったテーブルの一区画を除いては。
「じゃあ、まず料理を取り分けよっか。みんなお皿持ってる~?」
三つ編み女子が陽気に全員を見回して声をかける。
「うーす」「はい」「おう」「ん」
鈴木が先導して彼女の呼びかけに応じると、おれを含む残りの面子も頷いた。
「私も手伝うよ、エミちゃん」
「いいって、いいって。人数もそんないないし、手間もかかんないから。あ、この中で嫌いな食べ物がある人、いる?」
女同士の水面下のバトルは、すでに火蓋が切って落とされていたようだ。もっとも、最初から我関せずという涼しい顔で“待ち娘”に徹している女も約一名いるが。
「しかし、卒業式の日まで雪が降るとは思わなかったな。ていうか、前代未聞じゃね」
フォークとナイフを手にした鈴木がおれに話を振ってくる。
「その割にはあんまり積もらないのが不思議だけどな」
「それな。ホント早く春になってほしいわ。な、エミ」
言いながら、鈴木は三つ編みの腰に手を伸ばしていた。
「あんたね。人が作業してるときに邪魔するなっ。刺すよ」
「おーこわこわ。千鳥、彼女が欲しいならこういううるさい女はやめといたほうがいいぜ。俺が保証する」
「本人の前で何堂々と悪口を言ってんの――よ!」
「いてっ。やめろってマジで。あた、あたたた」
三つ編みが思い切り鈴木の足を踏みつける。が、踏まれた側もまんざらでもなさそうだ。……お熱いことで。
しばし、取り分けられたタンドリーチキンやシーザーサラダを食べながら、取りとめのない話を続ける。
もうすぐ学年が上がること、クラス替えのこと、担任の噂、友達のこと、最近熱中した娯楽、敷島の店について、好きな食べ物、ダイエット、芸能人の噂、好きなアイドル。
鈴木や三つ編み、敷島を中心にして、いたずらに大量生産・消費される流行り物じみたサイクルの早さで、澱みなく会話が進んでいく。
おれは時折彼らから振られる話題に相槌を打ちながら、昨日までのことを考えていた。
暗がりの中で頭をぶつけあって、おれの落ち度を許してくれた敷島。
酔った勢いで自分を見失っていた敷島。
風呂場で倒れた彼女の裸身。
見開かれた瞳。あふれ出す涙。こみ上げる嗚咽。
「そういえばさ。葛城さん、って言ったっけ」
急に思い出したかのように、ムースを口に運びながら三つ編みが言った。
「なにか」
葛城は眉一つ動かさず、皿に残ったストロベリーソースをスプーンで丹念に掬い取りながら答える。
「いや、私の気のせいならいいんだけど。葛城さんって、たしか三組なんだよね。私、三組に友達がいるからさ、よく前を通りかかったりお邪魔することもあるんだけど、これ言っちゃっていいのかなぁ」
「?」
お互いに首を傾げながら顔を見合わせている。
「なんだよ、すげー気になるぞ」
鈴木が横から茶々を入れる。
「あんたには関係ない話。あのね、変なこと訊くなと思ってスルーしてくれていいんだけど、葛城さんっていつも教室にいる?」
やや間があって、葛城はふるふると首を振った。口のまわりにもついたソースには気がついていないらしい。
いかにもこいつらしいな。
「そっか。じゃあ、あんまり深いことは訊ねないでおくわ。ごめんね、ほんと」
「なんだよエミ。千鳥の彼女が保健室登校みたいな聞き方すんなよ」
「誰もそんなこと言ってないでしょうが。ところで千鳥君って、あれ――たしか?」
三つ編みが顎に手をあてた。ついで、敷島とおれの交互に視線をさまよわせる。
「ううん? どゆこと?」
三つ編みは目を白黒させて、眉間に皺を寄せる。鈴木が待ってましたとばかりに、にやりと嫌らしい笑みを口元に浮かべて、おれにきゅうり頭を近づけてきた。
「そういえばつながりで聞いてもいいか、千鳥。最近どうなんだよ」
「顔ちけーよ。どうって、何が」
「空気読めって。今の流れで最近どうって言ったら、あれしかないだろ」
「どうでもいいだろ、おれのことなんて」
空気を読んでるから言いたくないだけだっつの。調子のいい男だ。
「ねえねえ、敷島さん。千鳥とはどういうきっかけで仲良くなったの。で、どっちが本命なん。ちょっと興味あるんだよね、俺」
「はい?」
こちらからは情報を引き出せないと判断したのか、ターゲットを敷島に切り替えやがった。敷島が、一瞬おれを見る。だが、視線が合うとすぐにそらされてしまった。あれから敷島とは一言も口を利いていない。
「やめなさい、バカきゅうり。くるみをいじめないで」
見かねた三つ編みが助太刀に入った。
「いや、俺は純粋な好奇心からだな――」
「はいはい。ほら、そろそろ卒業生の人たちも帰るみたいだし、私たちもお暇しよ」
「ううむ。だったら千鳥、口で言うのが恥ずかしいならあとでメールしてこい。人生の先輩として相談を受けてやるから」
「タメだろうが。絶対しねえから」
鈴木の軽口に付き合いながら、ぞろぞろと立ち上がり、帰り支度をする。
すでに奈良原姉妹を除く卒業生たちは店を出ていたようだ。テーブルには二人だけが残っていて、テーブルの上で雑誌を広げながら討論を繰り広げていた。
「海莉にはわからないかな。ともすれば禍々しいと形容されがちなデザインにこめられた曲線美。観る者を惹きつける異形の圧倒的なリアリティ。日本の妖怪のじめじめしたおそろしさとはまたちがう趣」
「うーん、お姉の美的感覚がますますわからなくなってきたわ」
「考えるんじゃない、感じるのさ。現象をありのままに捉えた先に、得てして真実というものは当たり前の顔をして転がっているんだよ」
果たして討論と呼んでいいのかわからないほど、陸先輩が議題の主導権を握っていた。相変わらずぶれないな。
「お姉、みんな帰るみたいよ」
こちらに気づくと少しほっとしたような口ぶりで、海莉が先輩をせっつく。
「もうこんな時間だったんだ。じゃあそろそろ帰らないと迷惑だね。ごめんね、みんな。ちょっと店長に挨拶してくる」
と言い残して、先輩は奥に向かっていった。あたしも行くと、海莉もついていく。
そして、敷島親子に見送られながら、おれたちは『ステイゴールド』を後にした。
店の前で先輩たちと別れ、駅前で鈴木や三つ編みとも別れる。
最後まで残っていた葛城が、傘を畳んで改札への階段を下りようとするおれを引き止めた。静かな、けれど重みのある言葉だった。
「いいの、あなたは」
なにが、とは返せなかった。かといって、聞こえなかったふりをすることもできない。
怖かった。どんな言葉を返しても、どんな態度を示しても、見ないようにしていた領域を暴かれてしまう気がして。
臆病で、愚かで、利己的で、矮小な自分自身を鏡合わせでじっと冷徹に観察されているようにも思えて、おれは固まってしまう。
「まだ終電には早いんじゃないの?」
だが、身動きのできないおれを、幼なじみだった少女は決してゆるさない。
――ずっとつかまえててあげる。
純粋培養された約束をかたくなに果たそうとする、うさぎの少女から背を向けられない。
「知ってるぞ、言われなくても」
ひび割れた声が、喉の隙間から漏れていく。
知っている。誰かに言われるまでもなく、自分のことは自分でよくわかっている。
どうすればいいかもわかっている。わかっているから、ゆるせなくなる。
「まだあなたは間に合うはずよ」
「知ってると答えたはずだ」
ちがう。こんな言葉を葛城にぶつけたいわけじゃない。鏡の向こうにいるものを傷つけて、なんになる。
「……そうね。ごめんなさい」
葛城が踵を返して、白く閉ざされた街に歩き出していった。
引き止めることだってできた。感情のままに意味のない言葉を吐き出すこともできた。
結局、おれは何もできないまま、闇に溶けていく葛城の背中を見続けることしかできなかった。
ち。
「いいわけないに、決まってんだろ」
届くことのない強がりをお節介な女にぶつけて、元来た道へと身体を反転させた。
気持ちだけが先走り、足が思うように進まない。途中、一度だけ電話をかけてみたが、出る気配はなかった。メールにも返信はない。
大通りから中に入り、いくつか角を曲がって見慣れた路地に出る。人を寄せつける明かりの消えた裏通りは、まるで昼とはちがう世界のようだった。
街路灯の心もとない光が、ぬかるんで汚れた地面を照らす。
そこに、敷島くるみは佇んでいた。傘も差さず、マフラーに顔を埋めながら。
「……そんなところにいたら、風邪引くぞ」
敷島は顔を上げず、ふるふるとかすかに首を振る。
「さっき、外に出たばかりだから平気ですよ」
「傘、使うか」
「けっこうです」
にべもなく断られた。後を引く沈黙が、おれたちの間に横たわる溝を深めていくかのようだ。差し出した傘を畳み、敷島から少し離れたところに立った。
「遠くないですか」
今度は駄目出しされた。どうすればいいんだ、おれは。
「くすっ」
あまつさえ鼻で笑われる始末だ。やっぱり、もうおれは敷島に嫌われてしまった――んだ?
「遠いですよ」
敷島が、すぐ隣まで近づいてきた。あきれたような、困ったような表情を見せて。
「どうしたんですか? 何か話があるってメールに書いてましたけど」
「ああ、いや」
許してくれたのだろうか。いや、そんなはずはない。
意気地のない堂々巡りを断ち切った。三月にしては冷たい空気を肺に収め、煙のごとく吐き出す。
そうしておれは、彼女の曇りのない瞳をしっかりと見てから、腰を折り曲げて頭を下げた。
「敷島、悪かった」
「千鳥くん」
「おれは覗きをしてしまった最低の男だ。何も言い訳するつもりはない。殴ってくれてもいいし、嫌ってくれてもいい。本当にごめん。申し訳ない」
「顔を上げてよ、千鳥くん」
「気が済むまで罵ってくれ。敷島にはその権利がある」
「最初から怒ってないよ、私は」
驚きに顔を上げると、敷島はなだめるように言う。
「だって、私が勝手に酔っ払って暴走したのが悪いから。あの時はびっくりして、混乱しちゃって。それに千鳥くんは私を助けようとしてくれたって、あの後二人から聞きました。とにかく落ち度があったのは私なんです。千鳥くんが責任を感じてしまうことは何もないの」
「敷島」
お前は天使か。はたまた女神なのか。
「でも、謝ってくれて嬉しいです。そんなふうに千鳥くんが真面目に考えてくれてたなんて。なんだろう、話しかけにくいけど、やっぱり根は正直なんだっていう私の直感が当たってて安心しました」
「話しかけにくいは余計だ」
「私が言いたい部分は『根は正直』ってところ。言葉尻でとらえないのっ」
言ってむくれてみせる。
「はは」
へっぽこなおこ顔を見ていたら、緊張の糸が切れたというか、気が抜けてしまった。
「なんで笑うのー」
「いや、敷島ってたまに犬みたいにころころと表情を変えるからさ。それがおかしくて」
「ひどいっ、犬じゃないよ私~」
「しっぽ振ってみろよ。わんわんって」
「むむむむむぅ! それこそ謝ってよっ」
ぽかぽかとぐーで殴る真似をする敷島に、避けてみせるおれ。すっかりいつもの空気が戻ってくる。敷島はおどおどするよりも、地を出すくらいが丁度いい。ひとりで勝手に暴走してたのは、おれも同じだったみたいだ。
面と向かって謝ることができてよかった。
「多少は温まったろ?」
「そうですね」
それから、最寄の屋根つきのバス停まで歩き、雨宿りならぬ雪宿り(敷島談)させてもらうことにした。これで多少は寒さもしのげるだろう。
並んで空を見上げる。もし今日が晴れだったなら、排気ガスの蔓延する街でも多少は星を見られたのだろうか。星を見る習慣なんておれにはないが、もう見られなくなるのだとしたら、今更ながら名残惜しくなる。
もっと早く見ておけばよかった。
「ねえ、千鳥くん」
敷島が遠い目をしながら、ぽつりと小声で言った。
「なんだよ」
「温まったついでに私のことを少しだけ聞いてくれますか。取るに足らない話だけど」
「そんなに畏まらなくても、敷島の話なら最後まで聞くぞ」
「大げさだよ」
「おれは至って大真面目だ」
「調子いいんだから、もう。あのね」
躊躇う間の後、なんでもないことのように敷島は過去を語り始めた。




