二十四時間コウソクされますか(3)
「……?」
葛城の動きが振り上げたまま固まる。出来の悪いからくり人形みたいなぎこちなさで、首を巡らせ、無粋な侵入者をとらえた。
ただのエゴかもしれない。自己満足かもしれない。
それでも、彼女が誰にも心を開けなかった“うさぎちゃん”に戻ってしまう予感に突き動かされていた。
「練習中に邪魔して悪かったな」
ばかげた妄想だ。もうおれたちは何も知らないままでいられた子供じゃない。大人にはあと一歩届かないが、図体だけは立派に大きくなっている。心だってそうだ。変わらずにいるものなんてない。それを望むかどうかにかかわらずだ。
「昼飯、まだ食べてないだろ。よかったら食べないか」
そばに近づくと、かすかな汗と葛城のにおいがした。
あいつに追い回されて潰れかけてしまった惣菜パンを差し出す。
「平気よ。授業が終わってから食べるから」
葛城が首を振る。汗のにじんだ額をタオルでたんねんに拭う仕草がやけに色っぽく見えた。
「でも授業中に腹が減ったら困るだろ」
「私には、やらなくちゃいけないことがある。あと、当たったら危ないからちょっと離れて」
と言って、竹刀を握り直し、素振りを再開してしまった。かけるべき言葉が見つからず、しばし手持ち無沙汰で眺める。
間近で見ると、遠くからではわからなかったものが鮮明にわかる。
シューズが床を力強く踏み鳴らす音。竹刀を握る手が赤くなっていること。何より、そこにはいない対象を見据える、感情のこもった眼差し。
「ねえ」
見とれていると、向こうから話しかけられた。
「見てて、たのしい?」
そう言って、首を傾げる。そうか、葛城は自分自身がどんな風に見えているかわからないんだな。
「まあ興味がないといえば嘘になるかもな」
「そう」
「なんていうか、様になっていると思う。素人のおれが偉そうなことは言えないけどさ。姿勢も綺麗だし」
「そんなに夢中で私のことを見てたの。変態ね」
おい。せっかくボキャ貧な脳を働かせて褒めたのにその言い草はないだろ。
「冗談よ。半分は、ね」
にこりともせずに葛城。どこまでが冗談なのか、さっぱり見分けがつかないのも困りものだ。話はこれで終わりだとばかりに、また一人稽古に戻ってしまう。
「なあ、ひとつたずねてもいいか」
今度は反応しなかった。だけど、こちらの話に耳を傾けているものだと信じて、おれは葛城に疑問をぶつける。
「おれの記憶が確かなら、前に部活はやっていないって言ってたよな。それが昼休みから食事も惜しんで急に練習を始めてさ。大会が近いから、切羽詰まってんのか」
「…………」
「もしかして、おれ邪魔か? 何か手伝えることはあるか? よかったら練習相手になってもいいぞ? 小学生の頃に子供会の行事で参加したことくらいしか経験はないけど」
葛城は無言のまま、竹刀を振り続ける。
なんでおれ、必死になってんだろ。別にこいつがどんな動機で素振りを始めようが、何も関係ないのに。相手の望まない奉仕なんて、ただの独りよがりだ。大きなお世話以外の何者でもない。
でも、どうしてだろう。こいつに無視を決め込まれると、心の底で固まっていた根雪じみた感情の澱を土台から揺さぶられる。
崩したくて、たまらなくなる。
おれは大縄跳びの要領で機を見て、上段に構えた葛城の前に飛び出す。両手を交差して頭をかばいながら前屈みで立ち向かう。
刹那。びりっと電気が走ったように、掌から感じる風圧。
防具も身に着けていない頭の上に振り下ろされる直前で、それはぴたりと止んだ。
「危ないからどいて、って聞こえなかった?」
「変態呼ばわりでもなんでもいい。質問に答えてくれよ。うさぎちゃん」
優しく剣先を握りこみ、互いの顔が見えるように下ろさせる。
葛城の黒々とした両眼が、内側から溢れる感情の昂ぶりを示すようにおれを射貫く。
真正面で向かい合うと、自分の小ささを思い知らされる。そういえば昔はこいつのほうが背が低かったのにな。
――うるさい。そうやってしつこく付きまとうあんたなんか死んじゃえばいいんだ。
今のこいつが逆立ちしても言いっこない、記憶の断片が弾けては消えていく。
――嫌い。みんな嫌い。大嫌い。その中でもとくにあんたの存在が死ぬほど嫌い。
おれだって好きじゃなかった。嫌いでもなかったけど。
「……私には、守らなければいけないものがあるから」
どれだけ相対していただろうか。やっと葛城の口からまともな返答がこぼれた。それをまともと呼んでいいかはわからないが、とにかく答えを引き出せたことに安堵した。
「守らなければいけないものってなんだよ」
「質問はひとつだけじゃなかったの。わかったなら、そこをどいて。本当に怪我するわよ」
「いいや、どかないね」
奇天烈な行動で散々振り回されてきたことへの、ささやかな仕返しだ。そうじゃなければ、ドレイ宣言の真意も、今になって接触してきた理由も訊けずじまいじゃねえか。キスされ損のままで、終わりたくなんかない。
一瞬鼻白む葛城に、おれは畳みかける。
「ここを素直にどいたら、お前の言う『守らなければいけないもの』も守れないんじゃないのか。おれに構わず続けろよ。それともお前の守りたいものっていうのはその程度の価値しかないのかよ」
ああ、悪い癖だ。さすがに言い過ぎたか。こんな風に挑発してどうすんだ。調子に乗ると災いしか生み出せない自分の口が憎らしい。
葛城の瞳が好戦的な色を帯びた。「言ってくれたわね、この男」と目が口ほどに物を言っている。
「わかったわ。千鳥はどうしても私と勝負したいと。そういうこと」
ぶつぶつと独り言を漏らし、何度も頷いて勝手に納得している。どうでもいいが、ちょっと怖いぞ。
「千鳥」
葛城が竹刀を構えなおす。決意のみなぎったその立ち姿に、知らず背筋が伸びる。
「だったら、私から一本を取ってみて」
「おれがお前に勝負を挑むのか」
こくり、と硬い調子で首を縦に振る。
「もしも、あなたが私から一本を取れたなら、その時は質問に答えてもいい」
「わかった。何本勝負だよ」
「べつに何本でもいいわ。千鳥の気が済むまで何度でも挑めばいい。そこで立ってるだけよりは、よほどマシだから」
「……そうかよ」
ち、舐められたもんだ。
いくらほぼ未経験者同然だからと言って、奇跡やまぐれで一本を取れるかもしれないという可能性をこいつは考慮していないのだろうか。それにおれだって腐っても男だ。自分から喧嘩を売っておいて負けるのは沽券にかかわる由々しき問題だ。
「あ。それと」
「まだ何かあるのか」
何を思ったのか、葛城は持っていた竹刀を放り投げて寄越してきた。おれは落とさないように慌てて受け取る。これを使いなさいってことだろうか。
葛城が鞄の置き場所から戻ってくる。
「どういうつもりだよ」
「さあ、はじめましょう。時間もあまりないし。いつでもいいから、来て」
戻ってきた奴の両手に握られていたのは、竹刀ではなく――縦笛。
それも、袋に仕舞ったままの。
舐めプもここまで徹底されるといっそ清々しいな。
「一応あらかじめ言っておくと、こんな得物でも当たればそれなりに痛いから」
「それはこっちの台詞だ。つか防具はないのかよ」
「……着ける?」
「いや、おれじゃなくてお前な。怪我してからじゃ遅いし」
そもそもこいつの性格からして剣道場の使用許可を取ってなさそうだ。何か事が起きてからでは、あの老魔女がどんな形相ですっ飛んでくるかわかったものじゃない。
「私は平気よ。そうやって人の心配をするより、自分の心配をしたら」
「言ってくれるじゃねえか。つまり、手加減はいらないと」
返事の代わりとばかりに縦笛を構え、じりじりと間合いを詰めてくる葛城。
なかなかにシュールな光景だ。誰かに目撃されたらおれが悪者にしか見えないだろうな。
実際のところ、葛城がどれほどの腕前かはわからない。しかしながら、己の実力を過信して油断している今こそが絶好の機会ではないだろうか。
先手必勝。やられる前にやれ。
当たって砕けろの精神で行けばワンチャンもあるかもしれない。
「あ。それと」
「まだあるのかよ」
急に思い出したように「待った」をかけるなよ。気勢が削がれるっつの。
「……よろしくお願いします」
面食らっていると、葛城は腰を曲げて、深々と頭を下げた。後ろ髪が流れるように肩にかかり、つい目を奪われる。
「お、おう」
「礼儀をきちんとしないと、うるさいから」
いきなり何の真似かと思えば、ちゃんと覚えていてくれたのか。
そうだな。
「よろしくお願いします」
勝ち負けに関係なく、相手に対して礼を尽くすこと。
当たり前のことだが、当たり前であるがゆえに、その大切さを忘れてしまう。当たり前であるがゆえに、蔑ろにしてしまう。
――忘れてしまうがゆえに、大切さに気づかされる。
「行くぞ」
おれは柄をかたく握りしめた。床を蹴り、葛城の間合いに踏み込んでいく――――




