千鳥、ニンゲンやめるってよ(4)
二月二十二日。とうとう決戦の土曜日がやってきた。
猫の日実行委員会とやらが今日を猫の日と制定しているが、こんな雪化粧に覆われた町並みに主賓たるにゃんこ様が威風堂々と姿を現すはずもなく、代わりに近所のばかでかい犬が興奮気味に飼い主を引っ張っていく光景が見受けられるだけの、昨日と同じ日常が続いていた。
延々と降り続く雪に順応してしまったのか、傘を差してるとはいえ幾分かジャケットの肩口に伝う水滴の冷たさにも身を縮ませる機会が減った。
こうして土曜の昼間からコンビニで買ったカップコーヒーを片手に上埜木駅前で佇んでいると、周りの人間が立ちのぼる湯気に追い立てられて生き急いでいるようにさえ思える。大いなる自然のストライキ要請にも屈しない日本社会に幸あれ。
などと愚にもつかないことを考えているうちに、待ち人は白い息を弾ませてこちらへと走ってきていた。
おい、あんまり慌てるとろくな結果にならねえぞ。
と思っているそばから、奴は悪い意味で期待を裏切らず足を滑らせ、思いっきり尻餅をついていた。黒いストッキングを履いているとはいえスカートの中が無防備に見えそうだったので、通行人がちらちらと敷島の痴態を眺めていた。
「おい、立てるか」
仕方がないので現場まで急行して手を差し伸べる。すると一旦はぎゅっと握り返してきたが、おれの顔を認識した途端、反射的に引っ込めてしまった。どちらも手袋を着けてるんだから、過剰反応しなくてもいいんだがな。
「遅れてすみません千鳥くん。少し家のことで立て込んでしまって。決して寝坊したわけじゃないの」
敷島は何度も頭を下げて、顔をあげようとしない。傘を差してこなかったのか髪やコートが濡れていた。埒が明かないので、散らばっていた手荷物を半ば強引に受け取り、代わりに傘を差し出す。
「あ、ありがとう」
やっと敷島が顔を上げた。
「気にするな。それより、これから何処に行くんだ。飯は食べたか」
「いえ、まだです。千鳥くんも?」
そうだ、と首を縦に振る。とはいえ、こういうときにどういう店に連れて行くのが常識なのか、まるでわからない。何か食べたいものはあるか、と訊いてはみたが「私はなんでもいいですよ」とあいまいな笑みを浮かべながら伝家の宝刀を繰り出してきたので、ますます選択肢が枝分かれしていく。なんでもいいと白紙委任する奴に限って、実は選り好みが激しいのはもはや鉄則だ。
しかし、頭を悩ませている間にも貴重な時間は過ぎていくばかりだ。なので、ネットで検索して出てきた近場の店をいくつか挙げる。
「そこのパスタ屋さんのクーポン、持ってますよ。使いますか?」
それを最初に言ってくれと思ったが、あえて口にせず、おれたちは昼食を摂った。薦められるがままに注文したなんちゃらの魚介類のパスタだったが、味はよくわからなかった。なにせ周りはほとんど恋人同士で訪れたと思しき客ばかりで、肩身が狭いことこの上なかった。店員も何を勘違いしたのか、気を利かせて『カップル割引』なるものをサービスしやがる始末だ。おかげで店を出てからただでさえ会話が弾まないのに、余計に沈黙が重たくなってしまった。
そういえば、結局目的地を知らされていない。
迷いのない足取りで雪道を進む敷島の背中に呼びかける。すると、彼女はきょとんと小首をかしげ、
「あれ、言ってませんでしたっけ。実はちょっと私の家に来てほしくて」
「敷島の家!?」
なんだそりゃ、初耳だぞ。というか、どういうことだよこの唐突な急展開は。それとも物語のテンプレに浸りきったおれの感覚が遅れているだけで、初めてのデートからお互いの家に行き来するのが慣わしになってたりするのか。レースゲームだけ得意な人間が実車でニュルブルクリンクを周回するくらい離れ業すぎやしないか。
「その、千鳥くんにもお休みの予定があったと思うのに、勝手に呼び出しちゃって本当にごめんなさい。でも、お父さんが一度どうしても会ってみたいって」
「お父さん!?」
なんだそりゃ(以下同文)。
家族ぐるみの付き合いと称してぶっ潰れるまで泡の出る麦茶を飲まされるのか。あるいはおれのような悪い虫がつかないように釘でも刺されそうな予感しかしない。
などと身構えている間に、敷島家に到着していたようだ。見ているだけで甘い香りが漂ってきそうな、暖色の店内照明に吸い寄せられるようにして、敷島くるみが自動ドアの向こうに消えていく。
おれは店の前で立ち止まり、間接照明の取り付けられた看板を仰ぎ見た。
『ケーキ&喫茶、ステイゴールド』
ここが敷島の家なんだろうか。雪景色の住宅に囲まれている中で、この店の明かりだけが一際存在感を浮かびあがらせている。ガラス越しに小規模の休憩スペースが設けられているが、お世辞にも繁盛しているようには見えなかった。普段着でカウンターに立つ父親らしき恰幅のいい中年とやり取りを交わすと、敷島はこちらに振り返り、手招きしてきた。
もはや観念するしかないだろうな。
「やあ、はじめまして。君が千鳥麻代くんだね?」
レジに進むと、少しばかり暖房の効きすぎた空気にも勝るとも劣らない暑苦しさで、敷島の父親が出迎えてくれた。
「はあ、そうですけど」
ウチの親父に比べれば若々しいというか、エネルギッシュなオーラが全身から溢れている。今にもエプロン姿のまま店を飛び出して雪合戦を始めそうな勢いだ。油断をすればぶっ潰れるまで泡の出る麦茶を飲まされるルートだな、これは。
「君の噂は娘からかねがね聞いているよ。なんでも、大勢の目の前で娘に告白したそうじゃないか。ははは、今時の若者にしてはなかなか気骨があると思うよ。君ならいつでも娘をもらってくれて結構だ。幸せにしてあげてくれよ?」
ははは、と歯を覗かせて笑いながら父親氏は握手を求めてきた。予想以上に強い握力で差し出した手を上下に揺さぶられる。痛い。
それにしても、敷島はいったい何を家族に吹き込んだんだ。まあ、あながち間違っているとはいえないし、まさか本当の目的を明かすわけにもいかないからな。いつか公園で見かけた使い魔が何処で行動を監視しているかわからない以上、リスキーな言動は避けるべきだろう。
父親の祝福を額面通り受け取って「やめてよ、千鳥くんとはまだそんな関係じゃないったら」とわたわたしながら頬を真っ赤に染めている敷島には悪いとは思うが。
「さて」
と、一頻り娘をからかって満足したらしい敷島父が、おれに向き直る。まるで値踏みをするように全身をじろじろと眺め回してから、腕を組んで満足げに頷き、口を開いた。
「早速だけど面接を始めようか。とはいっても君なら問題ないと思うけどね」
「ちょ、待ってください」
何やらデジャブを感じ、慌てて話を遮る。なんだこの新情報のオンパレードは。面接なんて聞いてないぞ。
敷島父は一瞬眉をひそめたが、すぐ元の表情に戻る。
「君はウチで働きたいんじゃなかったのかい。僕以外にも一人くらいは男手が欲しいなと言ったら、娘が君を紹介してくれたんだよ。それなら渡りに船だってことで連れてくるように頼んだんだけど、聞いてなかったかね」
「いや、特には」
言いながら、二人して“ホウレンソウ”の齟齬が発生した元凶に目をやる。元凶は左右を見回すと、その視線が自分に向けられているものだとやっと気づいて、はっと口元を押さえた。
「そうだ! あの時はとにかく千鳥くんに連絡しなくちゃって頭がいっぱいになってて。……はあ、どうして私っていつもこうなんだろ」
前から思っていたが、こいつは重度の言葉足らずか、度の超えたおっちょこちょいなんじゃないだろうか。どのみちおれに拒否権はないし後の祭りだが、バイトならバイトと最初に言ってくれれば備えようがあったんだがな。デートだと浮かれていたおれがとんだ道化じゃねえか。
「はっはっは。くるみは昔からちょくちょくポカをやらかすな。まっ、親としてはそういうところが可愛くもあるんだがね。たしか小学校の頃だったか。プールへ行く前に家から水着を着ていこうとしたらサポーターと間違えて下着を穿いたまま泳い――」
「ちょっと、お父さん。ヘンなこと言わないでよ。千鳥くんがいるのに!」
「そこまでムキになって怒ることでもないだろう。過ぎたことなんだから『そんなこともあったなー』と懐かしむくらいでちょうどいいさ」
「当事者にとってはまだ過ぎたことで流せないのっ!」
こんなに取り乱している姿って敷島にしては珍しいな。おれも裕子にあることないこと言いふらされると鬱陶しいから、似たようなもんか。家族って近いけど、近いゆえに余計なことまで覚えてやがるから。
「千鳥くん!」
敷島の怒りの余波がおれにも降りかかる。
「な、なんだよ」
思わずたじろぐ。
「さっきの話は、何も聞いてなかった。そうだよね」
「ああ、水着がどうのこうのって」
「千鳥くんは、何も、聞いていませんでした。りぴーと・あふたー・みー・ぷりーず」
「……ハイ。オレハナニモキイテイマセン」
命令かよ。逆らうわけにもいかないので、不承不承ながら首肯する。
「――ごほん。痴話喧嘩は程々にして面接をしよう。ついてきなさい」
苦笑いを浮かべて成り行きを見守っていた敷島父が、表情を引き締めて歩き出す。おれも続いて奥に向かった。敷島もその後ろからついてきたが、何故か頬を膨らませて睨まれているような気がした。……理不尽だ。
敷島父は事務室の革張りのソファにどっかりと腰掛け、向かい側に座るように勧められる。接客経験の有無や連絡先、交通費などの必要項目を書類に書き付けていく。それから簡単な四則計算を五十問ほど解いた。
「うん。問題なさそうだね。よし、採用だ。早速だけど今から君に働いてもらおう。さっき説明したことやその他諸々のマニュアルなんかは全部プリントアウトして追々渡すから。よろしくね」
給料や他の条件も学生ということで、最大限に考慮してくれるらしい。何か裏があるんじゃないかというくらいにトントン拍子で決まってしまった。
しかし、アルバイトか。校則で禁止されていたというわけでもないが、積極的に探そうと思ったことは一度もなかった。使える金が増えるのなら、何か欲しいゲームでも買うか。それよりもたまには裕子に気合の入ったホワイトデーのお返しでもするか。毎日顔を突き合わせているから、つい感謝の気持ちが薄れてしまいがちになってしまうが、いずれは生活費も返していかなきゃな。あんたみたいなチビすけが余計なことを気にするな、と笑い飛ばされるのは目に見えていたとしてもだ。
「制服は隅のロッカーに入ってるから。それを着てフロアに出てね」
「わかりました」
言われるままにロッカーの扉を開ける。
が。
「……? 何も入ってない」
振り返ろうとして、固まる。いつの間に移動したのか敷島父が真後ろに立っていた!
くるみといい、敷島家はニンジャの末裔かよ。
「何を言っているんだい。制服なら、ちゃんと入っているだろう」
背中から覆いかぶさるようにして、敷島父が耳元でささやきかける。
「いや、でも」
たしかに、制服はある。あるんだが。
「これ、女物ですよね……?」
腫れ物に触る心地で、“それ”をハンガーから取り外す。何処ぞの電気街の一角でご主人様に傅くことを目的として設計されたとしか思えないようなオーソドックスなメイド服だ。ご丁寧にヒールとソックスまで並べて用意してある。
たぶん今のおれの顔面は引きつっているにちがいない。おれは自分とメイド服を交互に指差して、何かの間違いではないかと必死に目で訴えてみる。
だが、一縷の望みはあっさりと敷島父の破顔一笑で砕かれた。
「苦節十数年、この日のために首を長くして待ち続けた甲斐があったよ。これでまた僕の夢が一つ叶う。家内と二人でケーキ屋を経営する夢。娘を立派な女性として育て上げる夢。そして、かわいい男の子を雇う夢だ!」
おい。最後だけ一気にスケールダウンしてるんだが。
チッポから死亡宣告を告げられたあの日よりすさまじく直接的な身の危険を感じる。
敷島父は壁に手をつき、きわめて紳士的に相好を崩してみせた。
「もしかして給料が少ないから不満だったか。大丈夫。一人きりで接客させるつもりはないし、ちゃんと娘や家内が基本的な手順を教えるから。それに、あんまり誇れることでもないがお客はほとんど常連ばかりだしね。無理なことはさせないから安心して」
「無理です」
「おいおい」
嘘つきと言われようが無理なものは無理だ。これが騙し討ちではないのなら、どんな約束を反故にしても許されてしまう。だいたい、敷島ならともかく男がこんなものを着て接客したら法的に不味くないだろうか。
ノーと言える勇気も時には必要だ。
「フツーの格好で働けないのなら、この話はご破算でいいですよね」
「ま、待ちたまえっ。君は五年に、いや、十年に一度の逸材にちがいないんだ。まだ穢れを知らない少年から、心身ともに目覚ましく成長を遂げる青年期への架け橋ともいえる、最も輝かしきティーン・エイジ。いいかい、よく考え直すんだ。この機会を逃したら二度と女の子に生まれ変われなくなってしまうよ」
「生まれ変わってたまるかっ」
決めた。敷島には悪いが二度と店には近づかないほうが吉だろう。死ぬほど恥ずかしい思いをするくらいなら平穏無事に死ぬほうがましだ。
ラスボス然として立ちはだかる敷島父の脇をすり抜けて出口に急ぐ。
事務室の扉に手をかけ――回らない。
そういえば敷島の姿が見当たらない。
閉じ込めやがったな、あの女っ……!
「おい、ここを開けろ敷島っ」
おそらくは外で通せんぼを決め込んでいるであろう敷島に向けて、扉を叩き声を張り上げる。だが、目下に迫る危機的状況において助けを求める行為は悪あがきでしかなかった。
背後から羽交い絞めされるのと同時に、あっさりと扉が開く。
「うるさい」
ところが、目の前に立っていたのは敷島くるみではなく――、
「葛城」
お前どうしてここに、という問いを口にする前に敷島の話していたことが頭をよぎる。
――お父さんが冬休みにアルバイトの募集をかけたらタマちゃんがふらっとやってきて、お父さんが即決で採用したんです。
そういえばこの女がここにいるのは何ら不自然なことでもなかったか。
葛城珠は休日だというのに何故か制服を着ていた。左手にはレモンティーだろうか。支子色の液体が注がれたトールグラスを携えている。
「葛城くん、いい所に来たじゃないか。メイクなんかの細かい仕上げは任せたからね。頼んだよ」
「……はい」
「おい、待て」
輪切りレモンを浮かべたアイスティーをテーブルに置き、そそくさと退散しようとする葛城をおれは睨みつける。
「なに」
「この状況を見て、何か言うべきことはないのかよ」
葛城はしばし穴の空くほどおれを凝視していたが、ふっと目を逸らす。
「着替え。邪魔したら悪いと思うから、外で待ってるわ」
と言って、奴は猫を思わせるしなやかな足取りで扉の隙間からすり抜けていった。もちろん抜け目なく施錠は欠かさない。
完全に共犯じゃねえか、こいつら。怒りを通り越してもはや感心すら覚える連携ぶりだ。ケーキ屋を廃業して別の商売でも始めたほうがいいんじゃないか。敷島父に至っては紅茶に何か白い粉末を混ぜ――
「って、何を混ぜてるんだよこのおっさん!」
敷島父がこちらに振り返る。
「どうしたんだい。ただのスティックシュガーだよ。ちょっとした運動の後だからさぞかし喉が渇いたことだろう」
賭けてもいい。これは、身の安全とは最も縁遠い液体だ。
「さあ、少年よ。ぐいっといこうじゃないか。ぐいっと、男らしく」
おれは吸い寄せられるように近づき、グラスを手に取る。敷島父が真顔で一挙手一投足を見つめている。
そして、追い打ちをかけるようにスマホが振動する。内容は確かめなくてもわかりきっている。結局のところ、選択権なんてないんだ。
深呼吸を一つ。一息にグラスを呷る。冷たく酸味のある液体が食道を通り胃に染みていく。やけに思考が冷静になるのを感じながら、意識を手放した。




