プロローグ
「おれ――ぼくにパンツをゆずってください。お願いします!」
額を床にこすりつけて懇願するおれの声は、試着室のカーテン越しで丸聞こえだったらしい。近くにいた女性客が金切り声をあげて走り去っていくのが聞こえた。
「そんなにパンツが欲しかったの。あきれるほどに変態だったのね、千鳥。心の底から軽蔑するわ」
「頼む葛城。おれにはお前しかいないんだ」
おれの後頭部に、幼なじみの御御足の乗る感触があった。
間髪いれず、ぐりぐりと押さえつけられた。髪の毛が抜けたらどうしてくれるんだこのアマ。
「ふぅん。あなたがそこまで言うなら、仕方ないわね」
七年ぶりに再会した幼なじみは、抑揚のない声色でどこまでもおれを辱める。
「千鳥くん、タマちゃん。まずいよ、向こうにいる店員さんがこっちを指差したよ。早く逃げなくちゃ!」
その時、外で見張りをしていたクラスメイトの敷島くるみがカーテンを細く開けて、危機を伝えてきた。婦人服売り場の空気が慌しさに包まれる気配を肌身で感じた。葛城珠に踏まれながら、ブリーフ一丁で。
そろそろ潮時か。
「敷島。ゲージはどうなった。溜まったか」
おれは、スマホを持っているはずの敷島にたずねる。
「二パーセントくらい動いたけど、それっきりだったよ。二人とも、とにかく悠長にしている場合じゃ――ってどうして本当に上半身まで脱いでるんですか千鳥くんっ」
「仕方ないだろ。臨場感を出すには実際にこうするしかなかったんだ」
「いいから早く服を着てください、千鳥くんの変態露出狂ーっ」
ほんの数週間前まで会話らしい会話をしたことのなかった敷島にまで言葉責めされて、おれのプライドはすでにずたぼろのボロ雑巾だ。
いっそ無抵抗で死んだほうがいいんじゃないか。何度もそう思った。
けれど、おれは、こんなおれにも死ぬわけにはいかない単純明快な理由があることに気づいた。
決めたんだ。
残されたわずかな時間を、恥をかきながらでも生き抜いてやると。
「顔を上げて、千鳥」
葛城が、足をどけた。
おそるおそる言うとおりにすると、葛城は唇を横に引いて妖艶に笑んでみせる。
葛城のほっそりとした手が、ためらうことなくプリーツスカートにかかった。
ぎりぎりの高さまで上げて、内側へと進入していく。
葛城の腰が誘うように揺れる。衣擦れの音が扇情的に耳朶を打ち、陶磁器のように生白い太ももから目が離せなくなる。
「んっ……」
漏れる吐息さえ、おれを縛りつける縄のようだ。
おれの人生、十六年と七ヶ月余り。
紛れもなく今が絶頂だ。こんな夢みたいな毎日を手放して死ねるわけがない。
「ちがうんです、ちょっと友達と買い物に来ていただけで。いえ、男の人とデートなんてしていません。本当ですからっ。今、試着をしているからもうすぐ出てくるはずです。お願いだから待ってください」
すでに駆けつけてきたらしい店員に対して、敷島が防衛線を張ってくれている。だがそれも長くは保たないだろう。
「急いでくれ、葛城」
「わかってるわよ。ちょっと足にひっかかって」
「足に」
「いちいち言いなおさなくていいわ。ド変態」
いかん、つい余計な想像を。
頼む、早くしてくれ葛城。じゃないと後ろに手が回ってしまう。さすがに臭い飯を食べながら死ぬのは勘弁願いたい。
「ほら、これでいいでしょ。受け取りなさい、千鳥」
すとん、と呆気なく目の前に落ちてくる。
葛城の脱ぎたてほかほかパンツ――ではなく。
「さっさと着替えて行くわよ、“ましろちゃん”」
葛城の足元に落ちたニットワンピースを手に取って、おれはいそいそと袖を通した。
散らばっていた男物の服を集めて、鞄に放り込む。
そして仕上げに、いつものウィッグを被って。
千鳥ましろという名前のニセ女が、全身鏡の中で、思わずグーで殴りたくなるほど反抗的な目つきをしていた。我ながら悲しくなるほどに、貧相な体つきの女にしか見えなくなってきた。
「なあ、葛城」
ほどいていた後ろ髪を縛りなおす葛城に疑問を投げる。狭い試着室の中で並んで立つと、同じ高さに目線が追いついた。
「なに」
「このワンピース、ずっと重ね着してたんだよな」
「そうなるわね」
「なんというか、人肌――」
「それ以上口を開くなら、今すぐ脱いで出て行ってもいいのよ?」
絶対零度の視線が射貫いた。
冗談とも本気ともつかないことを普段は得意げに言うくせに、言われるのは我慢ならないらしい。
身支度を整えて試着室から出ると、敷島が心配そうに駆け寄ってくる。
「ましろちゃん、一言もしゃべっちゃ駄目だからね」
小声で念を押すと、いぶかしげにこちらを見やる女性店員に振り返り、「友達同士で買い物に来たんです」と説明した。
「ところで春物でおすすめはありますか? じゃあ、これください」
「……かしこまりました。少々お待ちください」
店員は疑惑の目を最後までおれに向けていたが、どうにかばれずに済んだ。
「ありがとうな、敷島。お前がいなかったらまずいことになってたと思う」
ショッピングモールを出てから敷島に頭を下げると、
「ほんとだよ。二人とも、限度はわきまえないと駄目だからね」
むぅ、と頬をふくらませてみせた。本当に犬みたいな奴だ。
「しかし、こんなに身体を張っても二パーセントしか伸びないのかよ。壊れてるんじゃないだろうな、このゲージ」
「やり方が悪いんじゃない?」
と、横から葛城。
「これ以上えっちなのはよくないと思いますっ」
と、反対側から敷島。
しばし下を向いて考えこむおれたち。
「ところでさ」
おれはどちらともなく問いかける。
「なに」「どうしたの」
二人の声がステレオで重なった。
「なんで二人とも自然に腕を組んでるんだよ」
一方はさも当然という顔で。
もう一方は、今の状況を心から愉しんでいるというようにはにかみながら、
「このまま終わるのは嫌だから、でしょ?」
「私は千鳥くんにお返ししたいから」
両側からぎゅっと引き寄せられる。二の腕に当たるやわらかな何かが容赦なく理性を奪い去ろうとする。
「痛い痛い痛い痛い! お前ら、マジで痛い、千切れるから!」
ぎょっと振り返る通行人にかまわず、おれは叫ぶ。
「痛いってことは、生きてるってことだよ。私は、これからもずっと千鳥くんにお返ししたり、されたりを続けたいから! だから――」
負けず劣らず、敷島が大声で返す。
敷島くるみは成長した。きっとおれなんかいなくても、これからを自分の足で道を選んで歩いていけるはずだ。
でも。
「約束だもの。千鳥は私のドレイで居続けてもらうわ」
左側から唇の押しつけられる気配。
どこかからおれたちを囃したてる口笛が聞こえる。
「あっ、タマちゃんずるい!」
右頬にも、湿った唇が触れる。
低くのしかかった空からは、うんざりするほどの雪がしんしんと降り続いている。
ちっとも本当の色を見せない天道は祝福しているのか、おれをあざ笑っているのか。
三月九日。
いつまでも降りやまない雪と、濡れた頬の感触に酔いしれながら、まるで夢のようだと心の中の冷静なおれは思った。
願わくは、おれの経験しているすべてが夢だというのなら、目が覚める前に優しく殺してほしい。どうせあと三日で命が尽きるなら、なにも苦しまずに楽しいことやうれしいことだけで包まれながら死を迎えたい。
けれど、それは叶わない願望だ。
怠け者で、目的意識もなく毎日を浪費していたおれが、そんな都合のいい施しを受けられるはずがない。誰も幸せにできなかったことを苦しみながら、何も選べなかったことを後悔しながら事切れた後は、三日経ったら忘れてしまう申し訳程度の哀れみを亡骸に向けられるのみだろう。
そんなのは嫌だ。
苦しむのも、後悔するのも、生きているからできることで。
ハムスターが車輪の中を駆け回る程度の無駄なあがきだとしても、せめて最後までそばにいてくれる人間だけでも幸せにするためにあがきたいんだ。
だから、これは真剣に生きてこなかった愚か者への【カル魔界】からの罰なんだろう。
なあ、そうだろ――チッポ。
おれは二人に腕を引かれながら、始まりの日のことを思いだしていた。