宣戦布告
“あの後”のことはほとんど覚えてない。無我夢中でゲイルを担いで逃げ出したことは覚えている。敵に背中を向けて、敵前逃亡とは人狼にとって恥ずべき行為だった。だけど、それでも構わなかった。
ゲイルを助けたかった。もう顔も朧げになっている両親が吸血鬼に殺された時と同じ思いはしたくなかった。
ただそれだけの思いで逃げ出した。
フェンが一瞬振り向くと、ヴァンパイアクイーンを強く抱きしめて鳴咽するレナの姿があった。その後ろから吸血鬼が迫ってくる。その表情、その瞳には怒りが溢れていた。
逃げるフェンの横を駆け抜けて、人狼の仲間が追っ手の吸血鬼と戦った。
「行け!!」
彼らの言葉には怒りよりもフェンと同じ感情が現れていたと思う。フェンは振り向かずに走って、森の中に駆け込んだ。背後では仲間達が押し寄せる吸血鬼達を食い止めてくれていた。フェンは決して振り向かずに森を走った。肌にゲイルの冷たい血が触れる。フェンはさらに速度を上げて走った。もう戦いの音は聞こえない。
「と、止まれ……フェン」
ゲイルが弱々しく震える声で言った。だが、フェンは止まろうとしなかった。助けたいという一心がフェンを支配して、ゲイルの声が届かなかったのだ。
「……止まれ……止まれ、小僧!!」
ゲイルは力任せにフェンを殴り飛ばした。そのせいでゲイルはフェンから振り落とされ、フェンは地面を転がって木に激突した。あまりの衝撃で木は折れ、フェンの額から微かに血が流れた。
「ゲ、ゲイル?何をしているんですか!?」
「黙れ小僧!誰が助けろと言った!?誰が担いで逃げろと言った!?」
ゲイルは消えかかった命の焔を再び燃え上がらせフェンを怒鳴り付けた。しかし、怒鳴る度に心臓から血が噴き出し、もはや美しい銀色は錆びて赤茶けた鉄のような色になっている。彼はもう立っていられるはずがなかった。しかし、彼は立っている。立って、命の焔が燃え盛る瞳でフェンを見つめた。
「フェンよ……よく聞け。生きているものは遅かれ早かれいずれ死ぬ。我らも……いずれ戦って死ぬ。だが、決して死ぬことを恐れるな。負けることを恐れるな。本当の恐怖は逃げることだ。それは戦いに賭けた思いを投げ出すことだ。フェン……戦え……己の思いと願いのために」
ゲイルは力無く崩れていった。
「ゲイル!!」
フェンは慌てて駆け寄りゲイルを受け止めた。もう虫の息だった。だが、最期の最後まで意識を保っていた。
「ゲイル……死なないで。僕はこれからどうしたら……?」
「甘えるな……小僧。もうわかっているだろう……?自信を持て。これからは……お前が“白銀の王”だ」
彼は弱々しく微笑み頭を撫でてくれた。その手は大きくて、温かくて、記憶の片隅に眠っている父親の記憶を呼び起こした。しかし、すぐに離れていった。
涙が、感情が溢れて止まらなかった。吸血鬼を退けた仲間達が現れたのにも気付かずに泣いた。たぶん、現れた仲間達も偉大な戦士の死に涙を流していたと思う。でも、わからない。
「一つだけ……一つだけ、貴方に言えなかった。…………ありがとう……父さん」
ゲイルは父同然だった。
時に厳しく、
時に優しく、
時に冷たく、
時に温かく。
いつも追い掛けていた大きく遠い背中は結局手の届かないまま、届かないところに逝ってしまった。手を伸ばせば伸ばした分遠く離れていった背中に結局最後まで届くことはなかった。
“今”の俺なら少し近づけたかな?父さん。
~第2章~
あれからどれだけの月日が流れたか。あの日を知る者は極僅か。しかし、あの日の出来事を知らない者はいない。
昼。人間が街を埋め尽くしていた。人間を見るのは面白い。太った奴もいれば、痩せた奴もいる。生まれたての赤ん坊から、骨に薄皮が張り付いただけの老いぼれもいる。豆みたいに小さい奴も、無駄にデカイ奴もいる。全身汗くさい奴も、鼻が曲がるほど強烈な香水の匂いを漂わせている奴もいる。一組の夫婦がいた。なかなか仲の良さそうな若い夫婦だが、男のほうは連れの女と別の女の匂いを微かに漂わせている。
レンガ造りの建物に寄り掛かる、銀色の髪と蒼い瞳が特徴的な青年が鼻で笑った。青年の名前はフェン。見た目は二十歳前後の青年にしか見えない彼は人狼だ。人狼は人間の血肉を求めて狩りをする種族だが、フェンは生まれて今まで一度も人間を狩ったことがない。本来なら人間特有の匂いを嗅ぐと人狼は食欲と狩猟本能が爆発する。しかし、フェンはその食欲と本能を抑制出来る。他の人狼には出来ない芸当だ。そのため、人間を食料としてではなく、一個の動物として見ることができる。時々、こうして人間観察のために町に足を運ぶことがある。
しかし、今日のフェンは人間観察をしにこの街に来たわけではない。“探しもの”をしに来ていた。目の前を黙殺するように通り過ぎる人間達を蒼い瞳で見つめ、鼻と耳に意識を集中させていた。さらに目に見えない警戒網を周囲に広げ、探しものを続けた。しばらくすると、警戒網に何かが引っ掛かり、鉄の匂いが混じった風が通り過ぎた。
フェンは建物から離れ、ごく自然に歩き出した。彼の足は人込みから離れて行く。街の中は賑やかだが、少し離れた場所には誰も住まない廃墟がある。十数年前に起きた人間同士の戦争の爪痕が、今なお残っている。
街の中の赤褐色のレンガとは違い、灰色のレンガ造りの建物は無造作に崩れ、雨風に晒され、風化がかなり進んでいる。あと少し力が加われば簡単に倒壊するだろう。
フェンは廃墟の中心で立ち止まり、廃墟を見渡した。
「……そろそろ出て来たらどうだ?」
フェンは瓦礫の壁を睨み付けた。蒼い眼差しは壁を貫くように鋭い。
瓦礫の向こうから全身黒い服を纏った数人の男が現れた。つばの広い帽子まで被ったその服装は、まるで太陽を嫌っているような服装だ。
フェンは賭けに勝ったように細く笑った。
「貴様……人狼だな?」
一人の男がフェンに尋ねた。しかし、フェンはその問いに答えなかった。
フェンの前に現れたこの黒服の集団は吸血鬼だ。吸血鬼は昼間の行動を控えている。太陽の光を浴びると体が焼け、灰になってしまうからだ。そのため、やむを得ず昼間に行動する場合は太陽の光から身を守るため、全身黒い服を身に纏うのだ。
フェンのいるこの場所は吸血鬼の領域だ。人狼と吸血鬼の領域は“ライン”によって区切られ、本来互いの領域を荒らすことは許されていない。しかし、“ライン”を越えて互いの狩場を荒らすのは珍しいことではない。人狼と吸血鬼の争いが絶えないただ一つの理由だ。
数人の吸血鬼はいつでもフェンに襲い掛かれるように取り囲んだ。多勢に無勢。数の上で有利なのは吸血鬼達だった。しかし、フェンは依然として余裕の表情だ。
「ヴァンパイアクイーンの命により、侵入者を廃除する。許せ、名も知らぬ人狼よ」
吸血鬼達が一斉に襲い掛かって来た。しかし、フェンは再び細く笑った。
まず一番接近していた一人目を手の甲で横に殴り飛ばした。一人目の吸血鬼は頭蓋骨が砕け、フェンの手の甲の形の通りに顔が変形し、そのまま廃墟に突っ込み、倒壊した建物の下敷きになった。
二人目と三人目はフェンの背後から迫って来た。フェンは身体を捻り、ムチのような鋭い回し蹴りを喰らわせ、一人目と同じように廃墟に蹴り飛ばした。
次に吸血鬼は三人同時にフェンに飛び掛かり、フェンの動きを封じた。一人は上半身を、あとの二人は脚を押さえた。そこにもう一人現れ、細長く鋭い爪でフェンの心臓目掛けて襲い掛かった。しかし、吸血鬼の爪はフェンの強靭な肉体の前に小枝同然に折れた。唖然とする吸血鬼を嘲笑い、頭突きで地面にたたき付け、身体を押さえている三人の吸血鬼を力任せに引きはがし、次々と建物に投げ飛ばした。三人は建物を貫き、ドミノ倒しのように建物が倒壊していった。
戦闘は一分とかからずに終わりを告げ、舞い上がった埃が微かに戦いの余韻を残していた。
フェンは吸血鬼唯一の弱点である心臓をわざと外して、吸血鬼を生かしておいた。心臓さえ無事なら吸血鬼はどんな傷も治癒し再び活動出来る。もちろんフェンがわざわざ“ライン”を越えて、自分を襲った吸血鬼を生かしておいたことにも理由がある。フェンはある目的のために“ライン”を越えて、吸血鬼を探しにきたのだ。
フェンは最初に殴り飛ばした吸血鬼に近付き、瓦礫の中から引きずり出した。吸血鬼の顔は原型を留めておらず、瓦礫の下敷きになったせいで全身複雑骨折していた。骨が皮膚から飛び出していて、生きているのが不思議なくらいの重傷だ。しかし、傷はゆっくりではあるが確実に治癒されている。吸血鬼の治癒能力は驚異的だ。数十分すれば元通りだろう。それにこの吸血鬼は既に意識を取り戻している。
「キ、キサマ……何者だ?」
完全に治りきっていない口が不気味に動いた。
「俺は白銀王・フェン。人狼の長だ。長居するつもりはない。ヴァンパイアクイーンに伝えよ。
『欠けた月は満ち、歩いた道は黒く染まり、緑の木々も紅い鉄と化した。幾度互いの血で地を染めよう?幾度同胞の前で血の涙を流そう?ならば、次の満月の夜を最期に我らが血にて純白無垢の月を紅に染めよう』
…………必ず伝えろ」
フェンの言葉は吸血鬼の長、ヴァンパイアクイーンへの宣戦布告だった。ただし、その内容は吸血鬼全体ではなく、ヴァンパイアクイーンただ一人に向けられた言葉だった。フェンはこの言葉を伝えさせるためだけに吸血鬼を探していたのだ。
用事が終わったフェンが吸血鬼の領域に残る理由はない。フェンはそれ以上何も言わずに立ち去ろうとした。しかし、酷い怪我も治りきっていないのに吸血鬼は立ち上がり、再びフェンに襲い掛かろうとしていた。
「待て、白銀の王よ。俺はまだ戦える!」
吸血鬼はフェンの背に鋭い殺気を放った。もちろんフェンもそれを感じていたが、これ以上戦うつもりはなかった。構わず歩き出した。
「人狼の長が敵前逃亡とは!人狼の誇りも地に堕ちたな!」
吸血鬼はフェンを挑発しながら時間を稼いでいた。もちろんフェンにもそんなこと百も承知だ。戦える最低限の回復が終われば吸血鬼は再び襲ってくるだろう。
フェンはため息をついて、ゆっくり振り向いて蒼い瞳で吸血鬼を睨み付けた。その眼差しには吸血鬼が放つ殺気とは比べ物にならないほど強烈な殺気と存在感が篭っていた。吸血鬼の殺気は一瞬で掻き消され、圧倒的な力の差を見せ付けられた吸血鬼はその場に崩れ落ちた。
そして、今度こそフェンは何も言わず静かに立ち去った。
つづく