ライン
集まった人狼達は四方八方に一斉に走り去り、樹の下にはフェンとゲイルだけが残っている。
「今のうちに幾つか話しておこうか……」
ゲイルは少し疲れた様子で樹の根本に座った。
「お前の成長はこの数年見続けていたが、正直驚いた。まだまだ私には及ばないだろうが、少なくとももう教えることはない。あとは実戦で経験を積め」
「な、何を言っているんですか?僕はまだゲイルから学ぶべきことが……それに、そんな言い方じゃまるで死…………」
フェンは全て言い切る前に悟った。ゲイルは“決戦”で死ぬつもりだ。それを察してかゲイルはうなされたように言葉を続けた。
「私は何百年と続くこの戦いを生き延びてしまった。同世代の戦友は皆戦いの中で死んだ。気が付けば私は人狼の族長だ。あ、これは初めて言うな。
察しているようだが、その通り。私は今度の戦いで死ぬ。だが、ただ死ぬつもりはない。
フェンよ…………もしも、吸血鬼との戦いが終わったら自分のために生きろ。伝えておきたかったのは、それだけだ」
ゲイルが立ち上がり、森へと歩いていく。フェンは何も言わずに、ゲイルの後を追うが、その視線に写るゲイルの後ろ姿がいつもと違って見えた。いつもは逞しくて勇ましい大きな背中だが、今は怯えている訳でも、戦う喜びに震える訳でもなく、落ち着いているように見えた。何らかの達成感すら感じる。
「ゲ、ゲイル……」
「なんだ?」
「あ、その……な、何でもありません」
何か重大な覚悟を決めたゲイルに対して、自分に何が言えるだろうか?何も言えるはずがない。
二人はそのまま森へと消えていった。
それから数日後。
“その日”が来た。
僕は“この日”を一生忘れない。
満月だ。
黒い夜空には星が煌めいているが、月だけは太陽に照らされて白く輝いている。それがまるで、これから始まろうとする人狼と吸血鬼の戦いなど興味なさそうにしている神のようだ。
人狼と吸血鬼は“ライン”に集結していた。フェンがレナと出会った場所のすぐ近くだ。正直、フェンはあの場所の近くで、これから人狼と吸血鬼の決戦が始まってしまうのに気が引けた。フェンにとって、あの場所は綺麗な思い出の場所だった。出来ることなら、流血を伴う争いは避けたいと思っている。しかし、決戦の地として“ライン”ほど都合のいい場所はない。互いの領域の境界線であり、有史以来大きな決戦は必ずこの場所で行われてきた。ましてや、川を挟んだ対岸には深紅の鎧を身に纏った吸血鬼達が開戦を静かに待っている。人狼達も始まるのは今か今かと興奮した様子で待っている。逃げ出すことも、場所を移すことも許されない状況だ。
人狼側には先日集まった数より、さらに大勢の人狼が集まっている。歴戦の戦士から、フェンと同じくらいの人狼まで、老若男女多色多様な人狼が集結している。
対する吸血鬼は基本的に老いとは無関係で、全員若く見えるが、風格から経験の差を窺わせていた。
満月が両者を照らしていた。吸血鬼は蝋人形のように身動き一つしないで、その時が来るのを待っていた。フェンには隊列を崩さず、身動き一つしないその光景から、吸血鬼達の暮らしぶりも垣間見るような気がした。規則正しく、規律に縛られた息苦しい生活をしていそうだ。
それに対して人狼は隊列に相当するものはない。着ている服も皆異なる。生活も自由だ。いつ寝るのも、いつ起きるのも、いつ狩りをするのも個人の自由。吸血鬼から見れば、そんな人狼は野蛮な種族なのだろう。しかし、人狼は野蛮ではない。誇り高き戦士だ。だからこそ、人狼の誰もが勝利を強く望んでいた。それは吸血鬼も同じだろう。
分厚い雲が、満月が隠した。フェンは対岸にいる吸血鬼を睨み付けた。戦いの目前にフェンの心臓は踊っている。それが恐怖や緊張なのか、それとも悦びなのかわからない。
両者の間で緊張感が高まった。風が吹き、雲を拭い去り、再び満月が現れた瞬間、人狼の大人達は次々と変身を始め、全身が黒や茶色の体毛に覆われている獣の姿に変身した。対する吸血鬼達も一斉に剣を抜いた。白刃が月明かりを反射している。
遂に臨戦体制に入った両者。両者の間で高まっていた緊張が弾け、それを合図に両者は橋へと流れ込んだ。
開戦だ。
大勢が橋に流れ込み、両者は橋の中央で激突した。先陣を切った一人の人狼が吸血鬼の寸分の狂いの無い隊列に突進した。対する吸血鬼は一斉に剣を突き出しだ。まるで、剣の壁。そこに突進した人狼の体に剣が突き刺さるが、深く突き刺さるのも厭わず突き進み、吸血鬼の隊列を力任せに無理矢理崩した。その後ろから次々と人狼が吸血鬼の隊列に流れ込んだ。鋭い牙が吸血鬼の鎧と盾を砕き、鋭い爪が吸血鬼の肉体を引き裂いた。
しかし、吸血鬼にとって身を守るはずの鎧や盾は本来必要無かった。吸血鬼が持つ驚異的な治癒能力があるかぎり、吸血鬼は通常の攻撃は無意味だ。吸血鬼は再び立ち上がり、人狼に襲い掛かった。ある者は剣を使い、ある者は大勢で一人の人狼に襲い掛かり、その血を啜った。人狼は強靭な肉体を持っているが、吸血鬼のように驚異的な治癒能力は持っていない。首を落とされれば命を落とす。心臓を貫かれれば命を落とす。大量の血を流せば命を落とす。しかし、不利な状況でも人狼は決して怯むことはなかった。
「心臓だ!心臓を狙え!」
人狼の誰かが叫んだ。驚異的な治癒能力を有する吸血鬼にはどんな攻撃も無意味だが、唯一心臓を貫くことでしか吸血鬼を倒す方法はない。
人狼は襲い掛かる吸血鬼の心臓を捨て身の攻撃で貫いた。ある者は剣を受けながら捨て身で吸血鬼の心臓を貫いた。またある者は吸血鬼の身体を捩切って現れた心臓を噛み潰した。
対する吸血鬼は人狼の攻撃の隙を狙って反撃してくる。剣で人狼の身体を切り裂き、切り口から人狼の血を吸い取った。戦況は互角だった。故に瞬く間に戦場に互いの屍が重なり、“ライン”は鉄色に染まった。時間の経過とともに戦いの激しさは増し、遂に直接ラインを渡り、戦いの激しさは更に増した。
吸血鬼の中にはフェンの両親を殺した醜い化け物の姿をした吸血鬼もいる。その吸血鬼はフェンと同世代の比較的幼い人狼中心に狙っていた。
フェンは目の前の人狼に気を取られてる吸血鬼に向かって、高々と跳躍して、空中で回転を加えて、吸血鬼の頭に踵落しを喰らわせた。フェンは吸血鬼を地面にたたき付けて、素早く首を持つと自分よりも二回りは大きいであろう吸血鬼を投げ飛ばして、地面に仰向けにした。そこへ仲間の人狼が襲い掛かり、吸血鬼の心臓をえぐり取り、握り潰した。この数年間ゲイルに鍛えられた成果はちゃんと出ている。
しかし、吸血鬼一匹倒したくらいで安堵している暇はない。橋の上では歴戦の戦士達が激闘を繰り広げ、対岸からは次々と吸血鬼が攻めて来る。多くの吸血鬼が狙っているのは実戦経験の浅い幼い人狼達だ。
「ウワァ!」
フェンの近くで悲鳴が聞こえた。振り向くと、フェンより幼い人狼が腰を抜かして動けなくなっていた。その視線の先には吸血鬼の牙が迫っている。
フェンは吸血鬼の後ろから襲い掛かり、首に噛み付き、そのまま首を噛みちぎった。血が噴き出して返り血を浴びてしまったが、怯むことなく、背中から爪を突き刺して心臓を貫いた。さすがに貫通するまではいかなかったものの、心臓には充分達していた。
「大丈夫かい?」
フェンは絶命した吸血鬼の屍の上から手を伸ばした。
「う、うう、うん」
酷く怯えていた。いくら戦うことに悦びを感じる種族であっても、恐怖心がない訳ではない。フェンにはかつての自分を見ているようで、この幼い人狼の気持ちがよくわかった。
「た、助けてくれて、あり……」
恐怖の中にほんの少し見えた希望の光に幼い人狼は安堵した。いや、安堵してしまった。この戦場に安堵できる場所はないというのに!
吸血鬼が目の前を飛び去り、そのまま幼い人狼を連れ去った。吸血鬼の腕の中で再び恐怖に抱かれた幼い人狼はフェンに助けを求めて、手を伸ばしていた。しかし、フェンの手も幼い人狼の手も届かなかった。そして、夜空に紅い花が散った。
虚空に浮かぶ手は余りに無力だった。
吸血鬼が再びフェンのところに戻ってきた。その醜い顔には、微かに残っていた温もりも凍り付いてしまった幼い人狼の血で濡れていた。フェンは正面から吸血鬼を受け止めて、口から腕を突っ込んだ。そして、吸血鬼の心臓を引っ張り出し、敵の目の前で握り潰した。
数年間、必死に特訓を積み重ねてきた。吸血鬼を倒すためではない。吸血鬼から自分と仲間を守るために。
「だけど、甘かった」
フェンは憎しみに満ちた鋭い眼差しで対岸の吸血鬼を睨みつけた。
その時、強烈な稲妻が橋に落ちた。
つづく