6 暴露
闇の盟主はそのまま良桜の部屋へと向かう。
かかとの高い靴でありながら、足音はまったくしない。
着物の裾が床をなでる衣擦れの音だけを共に、闇の盟主は静々と歩いた。
宮良は眠れなくなった。
闇の盟主はあの後、自分にしたと同じように宮麗たちを訪ねるのだろうか。
彼女の言動は宮良を混乱させていた。
好きか嫌いかと問われれば、良桜のことはもちろん好きだ。しかしそれが恋愛感情と呼べるものなのか否かは、宮良にはわからなかった。
宮良自身は、自分のこの気持ちはむしろ雷奈と近いのではないかと考える。
でも単なる憧れと呼ぶには強すぎて、かといって恋と呼ぶのは生々しすぎる。
他種族同士は、端から恋愛対象にならないのが常である。
しかし良桜の美貌とその存在感は、その壁をいとも簡単に越えるものであることも、宮良は知っていた。
扉を開けると同時に、良桜は起き上がった。
眠っていなかったのかと思えるタイミングに、闇の盟主は足を止める。
良桜はベッドの上に座って、じっと盟主を見つめていた。
「知っていたのか?」
「何を?」
「妾がここを訪れることを」
「いや」
女は部屋に足を踏み入れる。
ベッドしかない部屋だった。知っている。ここは自分の家だ。
だが良桜の存在感は夜の中にあってなお圧倒的だ。光放つ存在というものを、女は初めて目にした。
そして麗宮王が捕らわれていた、その存在を目の当たりにしていた。
「なるほど、そなたは美しいのう」
女は良桜に近寄る。
良桜はベッドに座ったまま、女を見上げた。
「何も言わぬのか」
「何を?」
女は鼻白んだ。
「面白くない女じゃ。結局はその顔が、麗宮王様の好みであったというだけか」
「おまえの名は?」
「何じゃと?」
こちらの挑発をまったく無視した問いかけに、女は眉根を寄せる。
「おまえの名は?」
「……。そんなもの、聞いてどうする。妾は闇の盟主。それで通じるのだから良いではないか」
「麗宮王にも?」
「何?」
良桜の言葉は圧倒的に少ない。それでもまったく感情をはさまないせいか、言いたいことは的確に伝わった。
普通は逆であろう。感情のこもらない言葉には、心も動かされない。
だが良桜の声音には、どこか不思議な響きがあった。少なく平淡な言葉ながら、確実な響き。感情は読み取れないが、決して無感情ではないのだと思わせる声音。
女はいらいらと爪を噛む。良桜は、麗宮王にも己の名を告げなかったのかと問うている。
それに答えることは、女のプライドを傷つけた。
「妾の名は、妾にふさわしくないのじゃ。だから妾はその名を使わぬ」
だからあえてずらした答えを返した。
良桜からの反応はない。
良桜の顔色はまったく読めない。それは女を不安にさせた。
「……妾は名乗った。じゃが麗宮王様はその名を一度も呼ばなかった」
不安は、いらぬ言葉を女に吐かせた。言ってしまった後に、女は口をすべらせたことに気づく。
それでも、良桜は何も言わなかった。
ただ女を見つめていた。
静かな瞳で。
「麗宮王様は妾を見た途端、そなたの名を呼んだ」
良桜の前に立ちつくし、女は語り始めた。
「麗宮王様は心身共に限界であったのだろう。妾にもその心が、はっきりと“視えた”」
こんなことを言うために、わざわざここを訪れたわけではないのに。
「だから妾は“化けた”。そしてきっと……、その時の麗宮王様の表情に、妾は心を奪われたのじゃ……」
何故こんなことを話しているのだろう。女は途方にくれる。それでも口は止まらない。
「妾は名を告げた。妾は自分の名が好きではない。それでも告げた……」
どうしても、“自分”を見てほしかったから。
「じゃが麗宮王様は一度たりともその名を呼ばなんだ。呼ぶは見知らぬ女の名。そなたの名じゃ」
もはや恨みの心はない。あの頃からずっと、諦めの心しかなかった。
「回復するにつれ、麗宮王様も我に返る時があった。しかしそんな時には、妾のことなどまったく知らぬかのようにふるまう。ずっと、眼中になかったのじゃ」
女の金色の瞳はうつろに、良桜のサファイアンブルーの瞳を見つめる。
「おまえの名は?」
三度、良桜は尋ねた。
「美々」
その名を口にした途端、女の呪縛は解けた。
闇の盟主は我に返る。
「だが妾が望めば、麗宮王様の体は応えた。妾は嘘は言うておらぬ」
ぴしりと告げるときびすを返し、盟主は部屋を出ていった。
宮良は結局うつらうつらとしただけだった。
ノックの音がし、花音が顔をのぞかせる。
「朝食の用意ができました」
「ああ」
ぼんやりと答えて、のろのろと身支度をして下に降りると、もうすでに皆そろっていた。
宮良はあわてて席に着き、皆の様子をそれとなく窺う。
特に変化はないようだった。あの女は宮良の後には誰も尋ねなかったのだろう。それはそれで複雑な気分だが、とりあえずはほっとして、宮良は朝食に手をつける。
皆の食事が終わり、これもまた闇の盟主が用意したのであろうハーブティーを飲みながら、今後の予定などを話していた。
さてそれでは出かけるか、という頃合いに、ちょうど闇の盟主が顔を出す。
良桜は一歩寄り、礼を述べた。
「美々、いろいろと世話になった。礼を言う」
途端、その場の空気が止まった。
美々、と呼ばれたのはどうやら闇の盟主のようだった。かっと頬を赤らめ、まなじりをつりあげる。
「その名で呼ぶな! 妾は闇の盟主。合成獣造物主なるぞ!」
「名を呼ぶのは礼儀だ」
良桜はいつも通り。少しだけ首をかしげる。
「妾には侮辱じゃ!」
長い爪をものともせず、強く握った拳で壁を叩き、声を上げる。
「麗宮王様に呼んでもらえなかった名を、よりにもよってそなたなんぞに呼ばれたくはないのじゃ!!」
悲鳴のようだった。女自身も、良桜にだけは知られたくなかったことを、ついに口走っていた。
良桜はまっすぐに盟主を見返す。
「それは悪かった」
そしてわずかに目を伏せる。
「だが名とは、呼ばれるためにあるものだ。麗宮王がいなくなって、もうこの世にわたししかおまえの名を知るものがいないのならば、わたしが呼ぶしかない」
女は舌打ちした。
「何故名を知るが自分だけなどと思う。うぬぼれるな」
「だが花音には教えていないのだろう」
女は良桜を睨みつけたが、その視線には力がなかった。
「……何故そう思う」
「……」
良桜の瞳は、どこか悲しそうだった。常に表情を動かさない良桜だからこそ、その瞳に込められた感情は深いのだと、宮良は思った。
確かに良桜は無表情だが、決して冷酷なわけではない。誰よりもひとの心の機微に敏感だ。
「言うがよい」
女に促され、良桜は口を開いた。
「おまえは花音を、息子として愛しているわけではない。花音は、あくまで麗宮王の身代わりとしての合成獣にすぎない」
闇の盟主――、美々はうろたえた。
沈みそうになる体を必死で支え、折れそうになる心を凍らせる。
「花音は……、妾の、息子じゃ」
「麗宮王の遺伝子と、美々の遺伝子をかけあわせて造られた。そういう意味では確かに花音は息子だろう」
良桜の声が冷たく響く。
美々の体は落ちた。椅子に深く腰かけ、頭を抱える。
「だが造られた合成獣には、合成獣の紋が必要じゃ。あれは合成獣に命を吹きこむために必要なもの」
「額でなければならない、というわけではないのだろう」
そこでふと宮麗が席を立ち、部屋を出ていった。
「そなた、何故そこまで合成獣に詳しい」
地の底を這うような声だった。
良桜は目を伏せる。
「わたしのは、又聞きの聞きかじりだ。本当に詳しかったのは……、どんな知識も貪欲に欲する男だった」
それが誰のことなのか、聞かずともわかる気がした。
何故か上機嫌な顔で、宮麗が戻ってきた。
「あ、良桜の言ったことは本当だったぜ。花音、腰のところに合成獣の紋があった」
「…………」
何とも言えない沈黙が流れる。勇気を出して、雷奈は訊いてみた。
「なんで……」
それでもどのように訊けば良いのかわからず、尻切れとんぼになる。
「いや、オレも気になったから。あいつ呼んで着物ひっぺがして調べてみた」
「イヤ――!! フケツ――!!」
あっけらかんと答える宮麗に、間髪入れず雷奈の悲鳴が上がる。
「な、なんだよ。男同士なんだから問題ないだろ!?」
「だって花音さまでしょう!? 花音さまを襲って……イヤ――!!」
涙目になっている。
一同はあ然としていたが、幸いにもと言うべきか、残念ながらと言うべきか、宮良と和泉には雷奈の嘆きがわかってしまった。
あの、妙な色気を必要以上に醸し出している花音の着物を脱がすのは、たとえ男だとわかりきっていてもやりたくない。
「なんだよ。ちょっとした知的好奇心、てやつじゃないか」
予想外に予想以上な雷奈の反応に、宮麗は口をとがらせる。
「やり方が乱暴なんですわよっ!!」
「でもあいつおとなしかったぜ? 声も上げなかったし暴れなかったし……」
「あきらさまのバガ――――!!」
ボコッ。
とうとう泣き出した雷奈が、拳をつきだした。
頬を殴られた宮麗は、声も出せずにしゃがみこむ。
同情の声は、上がらなかった。
「つまり良桜の言う通り、花音は合成獣だったということですね」
どこかよくわかっていない璧玉が、冷静にそうまとめた。
「ええ。でも麗宮王陛下と……やみのめいしゅさまが、愛し合っていたというのは、うそではないと思いますわ。その、前の占者さまも同じようなことをおっしゃってましたし……」
涙をぬぐいながら、雷奈がそう付け足した。
「そういえば王家と他種族の間に子が産まれた場合、その子を神殿に入れないのは、額に眼が開くことがないからだと聞いたことがあるが……」
宮良は首をかしげる。
「しかも縦開眼の者は一世代に一人しか生まれることがなくて、今現在姉上がおられる以上、花音の額の眼は、ありえない」
「麗宮王はしばらくここに滞在したのだろう? 遺伝情報はいくらでも採取できる」
良桜が答えた。
「でもそれなら顔をそっくりにした方が楽じゃねえ?」
座りこんだまま、宮麗は顔を上げて良桜を見る。
「美々にとって重要なのは、縦開眼だけだったのだろう」
「そうか。王家は皆、肌も髪も瞳の色も同じで、しかも父王の血統はかなり濃い。顔が同じというだけではきっと、あまり意味はないと思う」
「そんなものか?」
宮麗は宮良に顔を向ける。宮良は宮麗を見下ろした。
「たとえばもし叔父上に子どもがいたら。もし姉上に子どもができたら。もしかしたらその子の顔が父王そっくりになる可能性は高い。相手の血が近ければなおさら」
「遺伝に関係なく、一世代に一人現れる縦開眼という遺伝情報の採取は、おそらく途方もなく難しい。それをやりとげた美々は、確かに闇の盟主を名乗るにふさわしい実力の持ち主なのだろう」
良桜の言葉に、女はゆっくりと顔を上げる。
「それが本当に聞きかじり程度の知識か?」
痛みをたたえた瞳で、良桜は女を見やった。
「綺羅のことは、何一つ忘れたくない。わたしもまた、捕らわれているのだ」
その静かな言葉に、女の心もまた、落ちた。
「もうよい。そなたらの言う通りじゃ」
うつむきがちに、闇の盟主は疲れた声を出す。
「何か訊きたいことがあるなら尋ねるがよい。今なら何でも答えよう」
そうは言われても、聞くべきことはみな、聞いたような気がする。
そんな中、ためらいがちに雷奈が手を上げた。
「あの……。めいしゅさまがご自分のおなまえを嫌ってらっしゃるのは、可愛らしいおなまえだからですか?」
「おまえなあ……。よりによってなんでそんな質問なんだよ……」
立ち上がりかけていた宮麗は脱力する。
「その通りじゃ」
しかし盟主のその答えに、宮麗は完全に落ちた。
「そうなのか?」
良桜が訊く。
「え、だって『みみ』って、可愛らしい響きじゃありません?」
答えた雷奈に、盟主は首を落とす。もともと好きな名ではなかった。今では合成獣造物主として名を挙げた身である。もう二度と聞きたくはなかったのだ。
「美しさを追求する名ではないのか?」
だが良桜の声に、女は顔を上げた。名の音は好きではないが、その字が示すとおりに、自分は確かに常に美しくあることを心がけている。
女は一度頭を垂れて顔つきを改め、良桜の顔を正面から見つめた。
「麗宮王様が呼んでくれなんだ名じゃ。麗宮王様が愛したそなたに呼ばれるは不快じゃが、麗宮王様が唯一愛したそなただからこそ、妾の名前を憶えていてほしい」
「……わかった」
良桜はその想いをしっかりと受け取った。
「もう行くか。何日かおっても構わぬぞ」
四角い建物の外で、花音を従えた闇の盟主が、良桜たちを見送る。
「いや、目的地までもうすぐだし、そこで冬を越そうと思っているからさ」
宮麗が言うと、盟主が目を向けた。
「目的地はどこじゃ」
「東にある人間族の村」
「ああ、それなら確かにここからさほど遠くはないな。ここは森の東のはずれじゃ。人間族の村は山のふもとであろう? しかし遠くはないと言うてものんびりとはできぬ道のり。冬の野宿は無謀じゃ」
闇の盟主は細やかに答える。
「では急ぐがよい」
闇の盟主は良桜を見た。
良桜は闇の盟主を見た。
「さらばだ。闇の盟主」
女は目を見開き、艶やかに笑った。
「さらばじゃ。良桜」
そして背を向ける良桜に、一行は続く。
闇の盟主は軽く手を上げ、花音は軽く礼をして――、見送った。
名前は呼んでもらうためにある。
良桜がその名を呼んでほしい人は、もうこの世にいない。
美々が唯一、その名を呼んでほしかった人も、もうこの世にはいない。
きっともう二度と、美々の名を呼ぶ者はいない。
だからきっと――、美々は、良桜に、その名を憶えておくことを許し――。
良桜はその願いに応えるのだろう。
美々の闇は、良桜という光によって、暴かれた。
だから闇は、光に託したのだ……。