5 妖狐
夕暮れ、森を抜けると、唐突にその建物は現れた。
目の前にあるのは、白い立方体。一行はしばしその建物を見上げていた。
玄関らしきものを見つけ、良桜は近寄り呼び鈴を鳴らした。
建物に気配が生まれる。
気配が近づいてくる前に、他の五人も良桜の立っている辺りに寄ってきた。
しばらく待っていると目の前の壁が割れ、扉となり、開かれる。
「何か」
中から女の声がする。
「旅の者だが、一夜の宿をお借りしたい」
良桜が言うと、女は姿を現した。
美しい女だった。
長い黒銀の髪。金色の瞳。着物は白く、薄紫の襟を下に見せ、同じ色の帯を締めている。袖も裾も長く、足は見えない。しかし綺麗に化粧を施している女は指先まで手入れを怠らず、長い爪もまた、綺麗だった。
銀色のふさふさしたしっぽは九本。三角の耳。額の紋は妖狐族である。
女は良桜を見ると目を見開き、そしてゆっくりと唇を笑みの形に歪めた。
「どうぞ。もてなしはできぬが、ゆるりとしていくがよい」
良桜は特に反応せず、一礼して建物の中に入る。
女は後に続く者たちを一人一人じっくりと眺めていたが、最後に入ってきた璧玉を見ると、今度ははっきりと驚きの表情を浮かべた。
璧玉は女を見返したが女は特に何も言わず、扉を閉めると、良桜たちを奥へと招き入れた。
女は闇の盟主と名乗った。
「ハーブティーじゃ。疲れが取れる」
台所らしき場所に引っこんだ後、良桜たちの前にカップを並べる。
「闇の盟主とおっしゃるのは、通り名か何かですか?」
座ることのできない雷奈は立ったまま、温かいカップを両手で包みこんでいた。
「そうじゃ。妾はここで合成獣を造っておるでのう」
建物の主であるはずの女も立ったまま、ソファに銘々腰かけている一同を眺め渡す。
そして璧玉でぴたりと目を止めた。
「しかし蛇女の『種』とは珍しいモノを連れておるのう」
値踏みするように眼を細める女に、璧玉は身を固くする。
「蛇女族の村は近いで何度か寄ったことがあるが、あやつらは決して『種』を外には出さぬ。そなたら、どうやってこの『種』を持ち出した?」
しかもアルビノとはさらに珍しい……、と女は続けた。
「そいつは自ら村を出てきたのだ」
ソファに深く腰かけ、視線はやらずに良桜は答えた。
「ふむ……。そなた、ここに留まる気はないか?」
宮良と宮麗の間に座っている璧玉の後ろに回り、背もたれ越しに女は腰をかがめてささやく。
「え……っ」
どうしていいかわからず、硬直してしまった璧玉に代わって、宮良が顔を上げた。
「それは実験動物として、ということですか?」
女は腰を伸ばすと、じっと宮良を見つめる。気後れしながらも、宮良は目をそらさなかった。
「そなたの名を訊こうか」
「……宮良です」
女は指を口元にあてがい、ふむ……と宮良を見つめなおすと、瞳に愉悦を浮かべて口を開いた。
「麗宮王陛下の御子かの」
「……。そうです」
宮良は顎を引き、慎重に、それでも肯定した。そして女が目をそらすと、ほっとしてカップに口をつける。
「まあ実験動物じゃな。蛇女の『種』など手に入らぬゆえ。しかし切り刻んだりはせぬ。命の保証はするぞ」
女はまるで宮良に対する興味を失ったかのように、話を元に戻す。
璧玉はうろたえて良桜に助けを求めたが、良桜はこちらを見ていなかった。
まるで無関心である。
璧玉はなんとなく寂しい心持ちになったものの、頭をフル回転させ、やっとのことで震える声をしぼり出した。
「おことわりします」
「そうか」
あっけなく、女は離れた。
ほっとして、璧玉はもう一度良桜を見る。
やはり視線は合わなかった。
「マスター」
声がして、扉代わりの掛け布がめくられる。
ひどく美しい男が立っていた。
着ている着物の襟を肩の下まで下ろしていなければ、その平らな胸板が見えていなければ、女と見紛う程の、色気過多な美しさである。
男は盆を手にしていた。
「夕食の用意ができました」
「良し。こちらで食べよう。持ってきておくれ」
「はい、マスター」
男は軽く一礼すると盆の上のものを机の上に並べ、一度奥へ引き返すと、再び盆を手に戻ってきた。
そして今度は食器を並べる。
男もまた、闇の盟主と同じ長い黒銀の髪と、盟主よりも薄い金色の瞳の持ち主だった。長いまつげにふちどられた目は愁色に満ちながら澄んでいて、長いくびから肩につややかな髪が流れる様には、匂い立つような色香がまとわりついていた。
額の紋は妖狐族を表していたが、彼には三角の耳も、ふさふさのしっぽも見当たらなかった。
「こちらが盟主さまの造られた合成獣ですか?」
大きな瞳をさらに丸くして男を凝視しながら、雷奈が尋ねた。
「いいや。この者は妾の息子。名は花音じゃ」
「息子さん? でも耳としっぽは?」
首をかしげる雷奈ではなく、一人無関心を決めこんでいる良桜を見つめて女は答える。
「花音は合成獣ではある。妾と、麗宮王様との間に産まれた子じゃからのう」
そして、
「花音」
と呼ぶと、男は伏せ目がちにうなずいた。
すると、男の紋の真ん中が割れ、紫水晶の瞳が現れる。
――縦開眼。
良桜はさらりと受け流した。
和泉と璧玉にはよくわからなかった。
闇の盟主は笑みを浮かべ、花音は静かに佇んでいる。
それでも。
雷奈と宮麗、そして宮良の三人によって――、部屋の空気は凍りついた。
家の主が勧めないので、誰も食事に手が出せない。
主は良桜の表情をうかがった後――、少し失望の面持ちで、客に食事を勧めた。
雷奈と宮麗はショックを受けながらも、それは自分たちが口出しすべきでないことを知り、黙って食事に手をつけた。
宮良は――、混乱していた。
闇の盟主を見返すこともできず、ただ黙って膝に置いた己の両拳を見つめている。
嘘だ、と叫ぶことは何故だかできなかった。良桜が何も言わないからだ。
そっと良桜を窺うが、良桜は知らぬ顔で食事を口に運んでいる。
宮良は一層混乱する。
「それは……、いつ、の話なのですか?」
「王はその座につく前に旅に出るのであろう? その旅の途中ここに寄られた。だから陛下がまだ殿下であられた頃のことじゃな」
女は宮良の質問に答えると、ゆっくりと良桜の対面に腰を下ろす。
「麗宮王様は大層衰弱しておられた。そこで我が家にご逗留いただき、妾たちは惹かれあい、愛しあった」
女もまた食事に手をつける。目は伏せていたが、明らかに良桜の様子をうかがっていた。
良桜は顔を上げた。
「花音は食べないのか?」
その視線は女ではなく、まっすぐ男に向けられる。
「気になるのか?」
愉悦をこめて見つめると、良桜の無表情な視線が返ってきた。
闇の盟主に対して、少しの関心も持っていない、透明な瞳。
女は気分を害した。
「花音。出ておゆき」
「はい、マスター」
半眼で良桜を見つめながら、後ろを振り向きもせずに言い放つ女に、それでも男は丁寧に一礼して、部屋から出ていった。
「盟主さまはお母さまなのに、花音さまにマスターと呼ばれているのですか?」
良桜の背後で一人立って食事をしている雷奈が、立ち去る花音の背を見送って尋ねる。
「妾は母である前に合成獣造物主じゃからな」
そっけなく、女は答えた。
「でも……」
反駁しようとして、雷奈は言いよどむ。
闇の盟主は、明らかに良桜を意識していた。
それは、良桜と麗宮王の間にあった感情の交流を、知っている者の瞳だった。
だから雷奈は口をつぐむ。ここでは所詮、自分たちは部外者だ。麗宮王の息子である宮良に対してすら、闇の盟主はどこかそっけなかった。
しかし良桜は、それ以上に女に無関心だった。
裏も表もない、まったき無関心――。それは闇の盟主をいらだたせた。
「そなたは麗宮王陛下の占者に会うたことがあるのか」
耐えきれなくなって、女は口を開く。良桜はそこでやっと目を上げ、闇の盟主の問いが自分に向けられていることを確認してから答えた。
「ある」
「先日、と言うても夏の終わり頃かのう。そやつもまた旅の途中で倒れておったので、妾が拾って世話をした」
「煌さまが?」
思わず声を上げてしまった雷奈は、直後すぐさま後悔した。良桜の背に、わずかに緊張が走ったのがわかってしまったから。
前占者の名は、良桜にとっては全く別の字を持つ、特別な音だ。
良桜のわずかな反応を、どう見てとったのかは知らないが、闇の盟主は目に見えて気を良くした。
「あやつ去り際に、妾とそなたが出会うであろうと言っておった。占者であったことに関わりがあるのかどうかは知らぬが、言うた通りになったようだの」
良桜は今度は明らかな困惑を表した。女の意図がわからなかった。
「占者でなくなった者が、予言などできるのであろうか?」
食器を置き、闇の盟主はじっと良桜を見据える。
「力の強い占者には、なにがしかの力が残ることもあるのだと、聞いたことがある」
良桜もまた手を止めて、女の視線を真っ向から受け止める。
女は一層気を良くした。
「のう、妾とそなたは似ておろう?」
「何が?」
女は眉をひそめる。
「顔じゃ」
「そうか?」
「似てません!」
軽く首をかしげた良桜の背後から、雷奈が勢いよく否定した。
これだけは、黙っていられなかった。
「全っ然、似てませんっ! 良桜さまの方が、はるかにお美しいですわっ!」
「何じゃと?」
闇の盟主は顔を上げ、雷奈を睨んだ。それでも雷奈は、スプーン片手に一歩も引かない。
「盟主さまのお顔が良桜さまにそっくりだとおっしゃるなら、あたしたちの中の誰かが反応したはずですわ! でもあたしたちは、あなたを見ても誰もなんとも思わなかったもの!」
半眼のまま表情を消して雷奈の言い分を聞いていた女は、無造作に髪をかきあげた。
「!!」
するとその動作一つで、女の黒銀の髪は、黄金へと色を変えた。狐の耳も消えている。
「そうか?」
良桜をはさんで反対側に座っている宮良に顔を向ける。
一瞬、宮良は気圧されたが、それでもきっぱりと言い切った。
「そうだ。僕たちは誰も、あなたが良桜に似ているとは思わなかった。そうして髪を変えた今でも、だ」
怒気に頬を染め、女はさらにその隣にきっと目をやった。
強い視線を当てられた璧玉は、身をすくませる。
似ているか、と問われれば、そうかもしれないとは思う。しかし自分よりも良桜との付き合いの長い二人が違うと言い切るのならば、そうなのだろうとも思う。
良桜は稀な程に美しい女性だとは思う。しかし璧玉は今まで顔の造作ではなく、身体的特徴で区別していたのだ。これまで村はおろか、小屋の外へさえも出たことのない身だ。『種』に名はなく、族長と族長補佐の名すら、璧玉は知らなかった。
そのような身では、他種族の顔の造作の違いなど、こんな短期間では覚えられない。だから璧玉は、良桜は黄金の髪の女性、雷奈は下半身が馬の女性、宮良は額に目を持つ男性、宮麗は背の高い黒い男性、和泉は白い男性、として区別していたにすぎない。皆の種族がバラバラだったのは、璧玉にとっては幸運だった。
それでもやっぱり、良桜の美しさは特別なのだと思う。
声も出せぬまま固まっていると、隣に座っていた宮麗が口を出した。
「そんな風にしてそこまで言われれば、そうかなあという気にはなるが、オレたち良桜と顔合わせてる時期長いしさ。何、前の占者にでも似てるって言われたの?」
「そうじゃ」
視線が外れ、璧玉は心の底からほっとする。
「麗宮王様も、妾のことをその女だと思っていた」
「んー、麗宮王サマは知らないけど何つーかさ、あんたと良桜じゃ、存在力? そんな感じのものが全然違うんだよなー」
「もうよい!」
女は椅子をけたてて立ち上がると、和泉には目もくれずに部屋を出ていった。
入れかわりに、花音が部屋へと入ってくる。額の眼は閉じていた。
緊張した空気に構うことなく、食器を片付けて出ていく。そしてまた盆を片手に入ってきた。
「食後のお茶をどうぞ」
「……」
ずいぶんと怒っていた割には、行き届いた配慮である。
「寝室の準備が整いましたらお呼びしますので、ごゆるりとどうぞ」
穏やかに一礼して出ていく。
「……実はおやさしい方なんですね」
ずず、とお茶をすすり、雷奈はつぶやいた。闇の盟主に対する感想である。このお茶も、食前に飲んだものとはまた別のハーブティーだった。
「あの色男が勝手にやってるだけだろ」
行儀悪く足を組んで、カップを片手に宮麗が答える。
ずっと入り口を眺めたままカップに口をつけ、良桜はひとりごちた。
「いや、おそらく花音は闇の盟主の命令なしには動かないだろう……」
その本意は、おそらく誰にもわからなかっただろう。
しばらくして二階に案内された一行は、狭いながらもそれぞれに個室が与えられた。
「意外と広い建物なんだな」
最後に案内された宮良が振り仰ぐ。
「マスターは奥の部屋です。何かありましたら、どうぞ」
「はあ……」
曖昧な返事に花音は微笑みかけると、背を向けて去っていく。
普通は、何かあったら自分を呼べと、言うのではないだろうか? 首をひねりながら、宮良は部屋の中へと入る。
どのみち、宮良には夜分に女性の部屋を訪れるという選択はまるきりなかった。
ふと息苦しさを感じて宮良が目を開けると、黄金の髪の女性が自分の上にのしかかって、覗き込んでいた。
「う……っ!!」
上げかけた悲鳴を、手でおさえこまれる。カーテン越しの月明かりでも、その女が妖しく微笑んだのがわかった。
宮良の衝撃がおさまったのを見計らって、女は口をふさいでいた手をはずす。
「……何をしているんですか、あなたは……っ」
上半身を肘で支え、宮良はおさえた声で非難した。
す、と顔を寄せてくるので、宮良は片腕で無理矢理女を押しのけ、ベッド際まで後ずさった。
「つまらぬ」
女は、闇の盟主だった。
「こんなに接近されるまで気がつかないなんて……。あなたは何者なんですか」
宮良は自己嫌悪に頭を抱える。
寝込みを襲われるなど、相手によっては命にかかわる。
「食後に出したハーブティーには、神経を休めて安眠をもたらす効果がある。それに妾には敵意がない。そなたが気づかぬとて、仕方のないことじゃ」
闇の盟主は乗り上げていた体を起こす。
「いっそ最後まで気づかねば、良い気持ちにしてやったものを」
「何をしに来たんですか」
「夜中に女が男の部屋を訪ねてすることなど、決まっておろうが」
艶を含んだ瞳と、嘲りを含んだ声音で、さすがに鈍い宮良も、途端に顔を赤くする。
「だがそなたの反応がつまらぬゆえ、興がそがれた。そなた、父親とは似ておらぬのう」
「僕は……っ!」
赤い顔で、それでも険しい視線で宮良は女を睨む。
「……あなたは、本当は何がしたかったんだ……?」
闇の盟主は顔を背け、ベッドの下に脱いでおいたハイヒールに足を通す。
「麗宮王様や煌と同じ状況にあれば、そなたも同じ反応をするであろうと思うたのじゃ。じゃが……」
そして立ち上がり、扉まで歩くと振り向いた。
「おもしろくない」
冷めた視線と声音。
「僕のところに来たのは、僕が麗宮王の息子だからか?」
宮良もまた、落ち着きを取り戻した。
「それもある。じゃがそなたが一番おもしろい反応をするであろうと思うたのじゃ」
盟主はため息をつく。
「何故あの女だと思わなんだ。寝ぼけた頭でこの顔を見れば、そなたならあの女と間違えるであろうと思うたに」
悪いのは宮良の方であるとばかりに、低い声音で責めたてる。
宮良はまた、息苦しさをおぼえて喉をおさえた。
「言ったはずだ。あなたと、良桜は、全く似ていない。髪の色を変えようと、間違えたりはしない」
「間違わずとも惑えば良かったのじゃ」
「なに?」
「そなたはあの女を抱きたくはないのか」
「――!!」
宮良にとってそれは、酷い侮辱も同様だった。
あまりといえばあまりにもあけすけな言い様に宮良が言葉を失っている隙に、女は闇へと消えた。