4 救済
「族長補佐……」
男のつぶやきを耳にし、宮麗は眉をひそめる。
「まさか良桜は……、これを待っていたのか?」
今思えば、良桜の行動はおかしかった。普段なら、無意味に時間をつぶすようなことはしないはずである。話だけなら、歩きながらでもできるのだから。
女は洞窟の中の男に気づいたようだった。するすると近づいてくる。
確かに、男が説明したような外見をしていた。
しかし薄緑の肌は、思っていたような違和感はない。黒みがかった緑の髪は、両脇を少し取って後頭部でゆるく結んでいた。黄色い瞳にまつげのない目はやはり瞳孔が針のように細く、首も細長い。
ただし男とは違い、きちんと衣服を身に着けていた。なで肩によく似合う、黄緑の着物である。襟と同じ濃い緑色の帯。髪に結んだリボンの色も同じである。
裾からのぞくは、見事な二重六角模様を持つ緑色の蛇の尾。
やはり鼻梁も唇もない、凹凸の乏しい顔に、紋は、額と右頬。そして細長い指を持つ左手の甲にもあった。
「あなたたちが『種』を拾っておいてくださったのですね。ありがとうございます」
女は少し腰をかがめて洞窟の中の男を認めると、良桜を振り返った。
「わたくしは蛇女族の族長補佐、黄玉と申します。『種』の確保に感謝いたします。旅の方のようですから、お礼は食料でよろしいでしょうか」
男は絶望に身を伏していた。
雷奈たちは、息をつめて良桜を見守る。
良桜は少し、首をかしげた。それは否定の意思表示だった。
「わたしの名は良桜。望みは、その男の自由だ」
男はのろりと、顔を上げた。
黄玉は細い眉を寄せた。
「……『種』が欲しいとおっしゃるのですか? それはわたくしたちに返すつもりはないということですか? ご存じでしょうが、異種交配は合成獣を産みますよ」
女の声は落ち着いていた。一方の良桜も、まったくの無表情。
「わたしがほしいのは『種』ではない」
良桜の言い分は、黄玉には理解できなかった。『種』の存在価値は、ただ女に子を与えることのみ。他種族のこの女が持っていっても、何の役にも立たない。
しばらく考えてから、黄玉は男を振り返った。
「それでは蛇女族を抜けるということですね」
男は呆然と、黄玉を見上げる。
女はそれに冷ややかな視線を返し、再び良桜に向き直った。
「前例のない話ではありません。一匹の『種』に入れこんでしまった同族の女が個人所有してしまったことや、あなたのように旅の方が連れていってしまった例もあったようです。しかしそれは『種』であることをやめること。種族からは抜けねばなりません。故に……、族長の許可が必要です」
目を伏せがちにして、女は滔々と述べ立てた。
「本来なら旅の方は客人として村でおもてなしするのですが、そういうことなら申し訳ないのですが今回はご遠慮願います。族長にはわたくしがお話ししましょう。族長の返事を伺ってから、また改めてこちらにお邪魔します」
さらりと、頭を下げる。
「村からここまでは遠いのか?」
良桜の問いに、女は薄い笑みを見せた。
「いいえ。一日もかかりません。確かにその『種』が脱走してから数日経っているようですが、そもそも逃げたことに気づくこと自体が遅れました。どの方角に逃げたかもさっぱり。ですが遠くまで行けるような体ではないことは承知しておりました。……正直わたくしたちは、死骸を見つけるだろうと思っておりました。拾う者がいたとは、運の良いこと」
口元を袖で隠し、女は冷笑する。
「ですから明日にはご返事できると思います」
そして居住まいを正すと、女はしげみの奥へと消えていった。
「あー、なんかオレ、わかっちゃった」
「なんですか?」
「蛇女族の女にとっては、男って家畜同然なんだ」
宮麗と雷奈は、話しながら外へと出てくる。
「必要があるから飼っているだけで、人格なんて認めていない。だからあいつには名前もないんだな……」
『種』としか呼ばれない男を振り返る。男は身を起こして良桜を見ていた。
己の身に何が起こったのか、理解しようと必死なのだろう。
あんなにも求めていた自由に、もしかしたら手が届くのかもしれない。
しかしそんな男の渇望の果ての行動も、女にとっては鼻で笑う程度のことだった。
男が何日もかけて逃げてきた道のりを、女はたった一日で追いついた。
やるせなさに、宮麗はため息をつく。
(それでも彼は、自由を求めたのだ)
洞窟の奥で身じろぎもせず、和泉はじっと入り口に立つ男を見つめた。
そんな状態にありながらも自由を望み、そして死を覚悟して行動に移した男を、和泉は素直に賞賛する。
それは、和泉にはできなかったことだ。
翌日。
良桜たちは外で、黄玉の訪れを待っていた。
昼を少し回った頃、昨日と同じしげみが鳴り、黄玉が姿を現す。
今日は一人ではなかった。黄玉の後に続いて姿を見せた人物を見て、男は驚きに声を上げた。
「族長!」
その呼びかけに、宮良たちの間にそこはかとない緊張が走る。
族長と呼ばれた女は、まだ若く見えた。黄玉よりも質素ないでたちで、ボタン一つで前を留めただけのマント姿だった。丈も短めで、かろうじて手が見えない程度。
マントから上には、目元のきつい女の顔。黒みがかった緑の髪を頭頂に結い上げ、赤いかんざしをさしている。細い瞳孔を持ちまつげを持たない目は鋭く、瞳は黄色。薄緑の肌に紋は額と両頬、そして細長い首にもあった。やはり凹凸のない顔だが、口にさした赤い紅が少し印象を変えていた。大きく開いた胸元に、マントはその肩にかろうじてひっかかっている。そしてそのマントから下には、黄玉よりもシンプルな六角柄を持つ緑色の蛇の下半身。
「こんにちは。良桜、さんでしたね。こちらは蛇女族族長、珊瑚です。昨日話をしましたところ、直接会いたいとのことでお連れしました。族長、こちらが――」
黄玉は良桜に手を向ける。珊瑚はうなずき、後を続けた。
「初めまして。珊瑚じゃ。『種』が欲しいと言うはおぬしか」
するすると、良桜に近づく。
「初めまして。『種』は別にいらない。ただあの男は自由を欲している」
良桜が男に顔を向けると、珊瑚は男に近づいた。
男は慌てて頭を垂れる。
その男の上から、珊瑚は身をかがめた。
マントが揺れる。それは不自然な形だった。
「蛇女を抜けるか」
構わず珊瑚はささやく。
男は震えながらも、「はい」とうなずく。頭は垂れたままだ。
「ふん」
珊瑚は鼻で返事をすると、背を伸ばし、良桜の方へと向き直った。
「それでは良桜。こやつに“名”を、つけてくれ」
静かに黄玉が、息を呑んだ。
「『種』には必要ないものだが、名前を持つ“男”は蛇女族には必要ない。『種』を男として扱う、そなたが名前をつけよ」
珊瑚は良桜の前に立った。
良桜は珊瑚を見つめ、黄玉に目をやり、最後に男を見つめた。
「璧玉」
ぽつりと、一つの名をこぼす。それを受けた珊瑚は目を見開き、口元をほころばせた。
「璧玉、か……。良い名をもらったな」
穏やかな表情で振り返ると、一転、表情をひきしめて男に近寄る。
男は――、璧玉は、まだ頭を下げたままだった。今何が起きているのか、理解できていない。
珊瑚は左手で男の顎を上げると、目を合わせる。
「これから二つのことを言う。よいか」
「は……はい……」
男の赤い瞳はおどおどと不安に怯え、女の黄色い瞳は厳しくそれを捕らえ、視線をはずすことを許さない。
「一つ。これからおぬしの名は璧玉じゃ。二つ。これからおぬしは二度と蛇女族を名乗ってはいかん。誓うか」
「……誓います」
小さくともはっきりと答えた男に満足して、珊瑚は手を離す。
「では最後にこの痛みに耐えよ!」
一声告げると、珊瑚は男の首の輪にその指をかけ、思い切り横に引いた。
「ぐっ!」
のどをつぶされるような痛みとともに、男は横に引き倒される。
しかしすぐに違和感に気づいた。
首輪が、ない……。
男は首元に手をやり、そろそろと顔を上げる。
族長が、引きちぎった鎖を捨てていた。
珊瑚は璧玉を見つめる。
「これでおぬしは自由じゃ」
男は深々と族長に頭を下げ、目を見張り息をつめて見守っていた黄玉は、静かに深く息を吐いた。
「それでは後のことはまかせたぞ、良桜」
珊瑚は良桜の脇を通り過ぎる。
良桜は頭を下げて見送った後、声をかけた。
「しかし良かったのか? あの男はおまえの……」
珊瑚は振り向いた。
「良いのじゃ。それは黄玉が勝手に決めておったこと。わしはむしろ……」
左手で、右の肩をつかむ。やはりマントの形は不自然で、良桜はやっと、この族長が隻腕であることに気がついた。
「わしは生まれつき右腕がない。これは悪い遺伝情報じゃ。同じく悪い遺伝情報であるアルビノの『種』とはかけあわせたくはない」
「しかし族長! 他の二匹の『種』はもう何年も使い回されて弱り始めています。族長にふさわしい『種』だとは思いません」
「わかっておる」
声を上げた黄玉に、珊瑚は笑みを見せた。
「わしなら次の『種』でもまだ間に合う。それに……。族長は血統ではないのじゃ。あえてこの悪い遺伝情報を後に残さずともよかろう」
「族長……、まさか……」
「ああ。もしかしたらわしは、子を産まぬかもしれぬの」
うなだれる黄玉の背に手を回し、珊瑚は進んだ。
「さらばじゃ。あと申し訳ないがおぬしたちは『種』を一つ奪っていくことになるゆえ、食料を提供してやることはできん」
「わかっている。わざわざすまなかった」
珊瑚は手を上げて良桜に応え、再び黄玉の背に手を当てて促し、去っていった。
璧玉はのろのろと体を起こし、良桜に頭を下げた。
「ありがとうございました」
良桜は無表情に見返す。
「それが当たり前という環境の中にあって、一人自由を望んだのだ。その思いは本物だ。だからわたしは、それに手を貸しただけだ」
男は惚けた顔でその美貌を仰ぐ。
「はい。それでもぼくは……、あなたが、手を貸して下さったことに、心から感謝します」
再び頭を下げる。
「そうか、良桜の狙いはこれか」
「え?」
宮麗がぽつりとつぶやくと、雷奈が振り向いた。
「良桜がここを動かなかった理由だよ。蛇女族の誰かが来るのを待ってた、ってのは当たってたんだがなあ」
頭をかいて、良桜の方を振り仰ぐ。
「こいつを引き渡すためじゃなくて、こいつを自由にするためだったんだな」
良桜からの返事はない。
「状況は似てても、雷奈や和泉の時とは違うんだな」
「違いますか」
「話し合いでカタがついたろ?」
「ああ」
雷奈は納得する。
「そういえば彼の鎖にも手をつけませんでしたね。良桜さまならあんな鎖、簡単にちぎっちゃいそうなのに」
「ちぎっ……。ま、まああの鎖は実用っていうより装飾とか儀式っぽい感じなんじゃねえ? 族長が解放することに意味があるんだろ」
いくら良桜でも鎖を引きちぎったりはしないだろう、と宮麗は思う。そんな力にまかせなくとも、良桜には金属を灼き切れるだけの“力”がある。
とすると、鎖を砕いた族長の力も、蛇女族の特殊能力か何かだったのだろうか。
「そんなことより」
良桜の声がする。
「先程からやけに動きが鈍くないか」
「あ……。なんだか、寒くて……」
見下ろす良桜の声に、璧玉はゆっくりと頭をもたげる。
「えー! まさか冬眠じゃないですよね?」
雷奈の声がひどく近くに聞こえた。そんなはずはない、と答えようとして、今まで自分は一度も“外”に出たことがなかったことに気づく。
村の小屋より寒い場所は知らない。
「はい! 体温は頭から抜けていくんですよー」
急に、頭が暖かくなった。
雷奈がかぶっていた丸い帽子を、どうやらかぶせられたらしいと気づいた時には、すでに雷奈は背を向けていた。
吸血鬼の夫人からの受け売りだが、さっそく使えた雷奈の気分はいい。
「おっ。じゃあオレはこれな。末端は冷えるんだぜ」
宮麗は手袋をはずすと、男の手にはめた。そしてすぐに雷奈の後を追う。
「……」
宮良は無言でマフラーを投げてくる。しかしそれは、きちんと璧玉の首にまきついた。通りすがりの顔をして過ぎて行く。
「どうぞ」
和泉は少し迷ってから、マントを着せかけた。
迷ったのは、このマントは宮麗が選んでくれたものだから。
けれど和泉が自分の意志で選んだことなら、宮麗はむしろ喜んでくれるだろう。自分は春夏秋冬を、もっと粗末な服で連れ回された。
きっとこのマントは、自分よりもこの男に必要なものなのだろう。
そう思い、和泉はマントのボタンをとめ、ひもをくくる。
そしてマフラーをかけ直し、髪を整えてやると、宮麗の後を追った。
「あ……」
璧玉は、ただ呆然としていた。
自分の身に何が起きたのか、よくわからず視線をさまよわせていると、良桜と目が合った。
良桜は微笑んでいた。
「璧玉」
名前を呼ばれ、男は途端に状況を理解する。
かすかな笑みの残像を残して、良桜は背を向けた。
璧玉は一生懸命歩みを進める。
早く。早く追いついて。
皆に礼を言わなければ。
「すまない」
「え?」
帰り道。
前を行く珊瑚がぽつりともらした詫びの言葉に、黄玉は顔を上げる。
「おぬしがあの『種』に執着しておることを知っておった。だからおぬしの方から一言あれば、何とかしようと思うておったのだが」
「いいえ……」
珊瑚は歩みを止めない。振り返らない。
だから黄玉も、歩みを止めなかった。
「執着というほどのものでもありません。ああして出ていったところで、なんとも……」
「それでも他の女にはやりたくなかったのであろう? だから自分が一番に指名した」
「……」
すぐに否定しようとして、しかし言葉は出てこなかった。歩みを止めない珊瑚にほっとしながらついていく。
「おぬしはずっとあの白い『種』を気にかけておったな。そろそろ女たちにもアルビノを試してみようとする者たちが現れるのに気づいて、おぬしは先に指名した。族長補佐の指名じゃ。しかもその後は族長に、つまりわしに献上すると言った。そう言われてしまえば、他の女たちはもうあの『種』を指名できん」
族長をたばかることなど、最初から無理だと知っていた。今口を開けば余計なことを言ってしまいそうで、黄玉は黙って族長の後に続く。
それに所詮自分には、村を捨てる覚悟などできない。
『種』よりも村を選んだ。それだけのことだ。
ふと歪んだ笑みを浮かべると、急に珊瑚が立ち止まった。
びくりとして、黄玉はその後ろ頭をじっと見つめる。
珊瑚は振り返らなかった。
「おぬしは『種』に対する恋情よりも、村に対する愛情を選んでくれた。族長として、心から礼を言う」
黄玉は目を見開く。苦笑を浮かべた顔が、ゆっくりとこちらに向けられた。
「わしはおぬしがおらねば困る。それでも……」
珊瑚は振り返った。
「寂しくはないか?」
「……!」
涙は我慢できなかった。顔を覆った黄玉に、珊瑚は身を寄せ、左手を回す。
「ありがとう」
抱きしめてささやく珊瑚の声に、黄玉は自分の選択が正しかったことを知った。
『種』よりも、誰よりも、この族長の側にありたいと、心から思った。