第9話 ‐再会‐ 憎き顔、愛した身体
翌日。
非常にいい天気だ。
日が昇って間もない時間に俺は起きた。真夏でもまだ夜の涼しさが残る中、外に出てみれば空はまさに雲ひとつない快晴。気持ち良すぎて吐きそうだった。
早くに出るという親父に簡単な朝食と弁当を作り、その後で俺と璃茱の朝食に取りかかった。璃茱の弁当も、当然、俺が作っておいた。
その後、璃茱を幼稚園まで送った俺は、家の居間でテレビの音量を最小にしつつくつろいでいた。暇を持て余した時の俺のよくする暇つぶしだ。特別聴くような音楽もなく、これといった趣味もない俺にとっては、これこそが平穏かつ安息の時間だった。
だが、その平穏をぶち壊し、安息を台無しにする存在が現れた。
といっても、瀬奈さんや芽衣子のような面倒な性格というわけではない。ただ、実家の懐かしい空気に浸って穏やかになっていた心をこれ以上ないほどに乱す存在だった。
もう会うことなどないと思っていた。連絡はしていたはずだが、あの人の葬儀にも姿を現さなかった。だから、既に日本に戻る気はないものだとばかり思っていた。
親戚とか友達とか、そんな言葉では片付けられないような関係にあったわけだが、会えなくなるならそれはそれで良かった。
最悪の別れ方をしたから。
それでもまだ、好きだから。
だから、会えなくなるならそんな面倒な問題はなかったことにできる。会いさえしなければいずれ、そいつのことは忘れることができるはずだった。事実、笠良木北に通っている間はほとんど忘れかけていたのだから。
しかし、この世界はとことん俺の人生を踏みにじるのが好きらしい。
あんな母親の下に生まれさせたのを筆頭に、俺の好きになった女の子は皆どこかが狂っているし、付き合いでもすれば何かしらの形で怪死する。元凶であるあの人は俺が手を下すその前に勝手に死にやがった。俺の人生の中で唯一俺の願望が反映されていると言ってもいいのが、美代だ。美代だけは、狂っていない。
とにかく、俺の、あいつとだけは会いたくないという願望は、儚くも消え失せた。
親父が何を考えているのかは知らない。俺とあいつの関係は知っていたはずだが、それでもあいつを寄こすなんて愚行をやってのけたのは、単に無神経なだけなのか、それとも復縁でも望んでいるのか。前者はまだしょうがないかと諦めもつくが、後者なら本当に大きなお世話だ。死ねばいい。
だがここにいない人間に悪態をついても何が変わるというわけでもなく、それは口には出さず心の内に留めておいた。
その存在は、インターフォンの前で微笑んでいた。
予想とは違った顔がそこにあり、俺は何かしらのショックを受けることは覚悟していたが、実際に受けたそれは、覚悟していたものとは全くベクトルが違った。
俺が入るよう指示すると、ややあって玄関から扉の開く音が聞こえた。鍵は閉めていなかった。
そして、そいつが居間の扉を開けた時、そこに数年ぶりの対面が、望まず、叶った。
「や。久しぶり」
「ああ。帰ってきてたんだな」
「うん。つい先日、ね」
その姿を見て、俺は動揺を隠すのに必死だった。目が泳ぎそうになるのを目の前の瞳を凝視することで防ぎ、拳を作ろうとする右手を左手で抑えた。
「ほんと、久しぶり。3年ぶりかな」
「ああ」
「全然連絡がなかったから寂しかったんだけどな。メールの一つくらいくれてもよかったのに」
「そうだな」
「ちょっと気まずいのもわかるけどね。でも、もうあの時のこと気にすることもないでしょ」
「…………」
「とにかく―――」
正直、俺はこの時点で限界だった。俺は俺自身を抑制できるほど自分に厳しくなかった。
だが、次の言葉で、俺の感情はついに限界を突き破った。
「また瑠樹に会えてよかっ」
そいつを壁に押し付け、拳を振り上げた。
ガンッ!!
と、拳は壁を打った。寸でのところで、理性が拳の軌道を修正していた。
だが、あと数cmずれていたら顔面に拳が喰いこんでいたはずなのに、そいつは瞬きの一つもせず、俺に微笑みかけた。
「乱暴だね?でも、僕はこれくらいの方が好きかな」
ほとんど空いてなかった距離を詰めて唇同士が軽く触れる程度のキスをしてから、そいつは言った。
「おかえり。そしてただいま。また瑠樹に会えてうれしいよ」
あの人を彷彿とさせる顔が、眼前にあった。
3年ぶりに会ったそいつは、あの人に似ていた。
あの人。俺の母、一之瀬舞美。忌々しいその人に、そいつは似ていた。
島津知朱。それが、今俺の目の前にいる女の名前。彼女はあの人の兄の娘であり、俺とは母方の従姉の関係にある。昔から名前も顔も知っており、よく遊んでもらった記憶がある。
遊んでもらった、というのは、知朱は大学生、今年で20歳になるはずだからだ。つまり、3歳年上。幼少のころならば3歳の差は大きく、必然的に遊んでもらうという形になりがちだった。
その関係―――従姉、あるいは友達と言う関係が崩れたのは、俺が中一の時だった。
知朱を抱いた。
その時好きになった人が死んで、それを慰めてくれた知朱を、そのまま抱いた。
あの人以外と肉体関係を持ったのはその時が初めてだった。
俺が第二次性徴の真っただ中で、あの人の虐待がエスカレートしてきた時期だった。あの人に汚された身体を浄化せんが如く、知朱の身体を貪った。あの人は学校にいる時は俺を拘束することはできなかったから、俺の家ではできなくても学校や知朱の家ですることはできた。二人の通う中学と高校は近かったから、どちらかといえば学校でする方が多かった。放課後の、校舎の隅にあるような空き教室で、いつものように行為に及んだ。今考えればよくそんな体力があったものだと感心すら覚える。
だが、それもすぐに終焉を迎えた。
翌年、知朱はドイツに行くことになった。ありきたりな理由だが、親の仕事の都合らしい。知朱の親が務める企業がドイツへの進出を計画し、その計画を進める一員として、ドイツに行くことになったという。当然、計画というくらいだから長期だろうし、それに知朱はついていくことになった。
俺は知朱を引きとめた。彼女には日本に残る兄もいるのだから残っても問題ないはずだ、そもそも外国に行くのは色々大変だろう、など、尤もらしい理由を並べ立てた。だが、本心は知朱がいなくなったら誰に縋ればいいのかという不安と恐怖だけだった。
当然、知朱は俺の言葉を聞くことはなかった。
彼女が別れ際に俺に寄こした視線は、女が男に向ける典型的な嫌悪の目だった。「お前は身体しか求めていないんだろう」と、その目が如実に語っていた。
事実だった。知朱の人格に目を向けたことは、俺にはなかった。
だから、俺は負け惜しみすら言えなかった。
そんな俺に、最後の最後に笑いかけた。蔑むような視線を消して、逆に慈しむような表情で俺の頭を撫でた。高校生である知朱からすれば、当時の俺は子どもにも見えただろう。その扱いは理不尽なものではないが、俺は当然反発を覚えた。
反発した俺が何を言ったのかは興奮していたから覚えていない。だが、その直後に知朱の浮かべた悲しそうな表情だけは覚えている。それから察するに、碌でもないことだったということはわかる。
だからといって今更自己嫌悪するということはしない。
もっと重要なことがあった。
知朱は、3年経ってあの人にそっくりになっていた。
猫のような大きくもややつり上がった目も、微笑んだ時に右頬にだけできる笑窪も、長さこそ違えど軽くウェーブのかかった栗色の髪も、顔全体の目鼻立ちも、体型も、仕草さえも似ていた。
だから、彼女が居間に入ってきた時、あの人を見た時と同じ感情に囚われた。
恐怖があった。それを悟られたくなくて、暴力的にならざるを得なかった。
怒りがあった。それに任せて拳を振るった。
歓喜があった。これであいつを殴れると、俺の拳が喜んだ。
だが、それらを向けられた知朱は、微笑みしか浮かべなかった。思い返してみれば、知朱が怒りを露わにした姿を見たことがないことに気付いた。
微笑みは、知朱のものだった。知朱はあの人に似ていても、決定的に違う。知朱は、知朱だ。そう割り切ろうとしても、あの人の顔はまだ俺の記憶を支配していた。死んでもまだ、あの人は俺を苦しめる。
それでもなんとか時間をかけて気持ちを収めた。知朱を知朱として見られるようにはなってきた。
「ふふ……。前より上手になった。3年もあったから経験も多かったのかな」
「……どうだろうな。確かに、一人暮らしだと多くなりがちだったけど」
「多くなりがち、じゃなくて毎日やってたんじゃない?」
「俺だってそこまで暇じゃない」
「でもすっごく手慣れた感じだったよね」
「…………悪いか」
「ううん。嬉しい」
知朱は笑う。あえて忘れたかったその笑顔が目の前にあることで、俺の理性が軽く揺らいだ。
しかし、久しぶりだという味噌汁をすすり無邪気な笑顔で溜息を吐く知朱を見ていると、一瞬浮かんだ下劣な感情もすぐに収まった。
来てすぐに、知朱は朝食を強請ってきた。家で食わなかったのかと訊けば食べる時間すら惜しかったと言う。その朝食と天秤にかけたのは、俺と会うことなのか、それとも別の何かなのかは知朱の言葉からはわからなかった。
「あっちはどうなんだ」
「ん?」
「ドイツでの生活。楽しいのか?」
知朱は口に放り込んだ玉子焼きを飲み込んでから答えた。
「楽しいよ。友達もたくさんできた。ドイツ語もなんとか話せるようにはなってきたし」
「なら―――」
なぜか、次の言葉は自然と口から洩れていた。俺の知らないところで知朱を幸せにする連中に嫉妬したのかもしれない。もしかしたら、という恐怖もあった。
「恋人は……、いるのか?」
言い終わってからすぐ、自分を殴り殺したい衝動に駆られた。自分が感情を共有する第三者なら、もう殺している。俺がそんなことを訊けば、未練があるのかと思われてしまう。実際、未練がないのかと問われればないとは言い切れないが、しかし、それをわざわざ知朱に知らせることはない。むしろ、知られたくない。
しかし、その一方で知朱の交友関係に興味があったのも事実だ。
恐る恐る、知朱の顔を窺う。
「……?」
知朱は、首を傾げていた。その顔は全体で疑問を訴えている。戸惑う俺に、知朱は俺の思いも寄らなかったことを言ってくれた。
「なんで?瑠樹がいるのに」
「…………っ」
理性の偉大さを知った。
「そう、か」
「うん」
隠しきれない動揺を隠そうとして失敗している俺に対して、知朱はあくまでもいつも通り。そのまま、俺の用意した朝食を10分ほどで平らげた。
空の茶碗とお椀と皿を前に知朱は手を合わせた。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
「そりゃ良かった。もう少し手を抜いてもよかったかな」
冗談を言いつつ立ち上がろうとすると、知朱に手で制せられた。
「片付けくらい僕がするよ。瑠樹は座ってて」
皿や茶碗を重ねて手に持った知朱は紺色のスカートを靡かせながらキッチンへ向かった。
といっても、この家のキッチンはカウンターキッチンになっているため、お互いに顔は見える。会話も当然できる。
「ごめんね」
唐突な謝罪。心当たりが思い浮かばず、訊ねた。
「なにが?」
「舞美さんのお葬式に出られなかったこと。ゼミの先生に気に入られちゃって離れられなかったんだ。途中で放って帰ってくるわけにもいかなかったしさ」
知朱の真摯な言い訳は相変わらずだ。許してもらおうというわけではなく、事実を伝えるためだけの言い訳。今更ながらに3年前の知朱を思い出し、自然と笑みが浮かんだ。
「いいよ。知朱、あの人とはあまり交流なかっただろ?」
交流がなかったどころかあの人は知朱を毛嫌いしていた。俺を盗られるとでも思っていたんだろう。
嫌がらせのようなことは俺の知る限りしていなかったが、見かける度に睨んでいたことは覚えている。だから、会話すらしたことはない気がする。
「あまり気にしなくてもいい。帰って来るにも時間とか金とかかかるだろうし」
「ん。ありがとう」
申し訳なさそうな表情で知朱が言ったところで、会話が途切れた。
こうして、会って世間話をして、話題が尽きたところで行為に移る。それが、3年前の俺たちの逢瀬の流れだった。
だが、今はそんなことをする気にはなれない。引け目や記憶が邪魔をする。……別に今ここでしたいわけではないが。
「そうだ」
皿を洗い終わってタオルで手を拭きながら知朱はそう切り出した。
「璃茱ちゃん、元気?たしかもう5歳だよね?」
対面に座る知朱は懐かしそうに笑う。
「どれくらい大きくなったかな……。会うのが楽しみ」
「かなり驚くだろうな。一年半ぶりの俺でさえ見違えたんだから」
「ふふっ……、そんなこと言われると余計に会いたくなっちゃうな。僕と会ったら喜んでくれるかな?」
「ああ。きっと喜んでくれるよ」
そんな風にして、俺たちは他愛もない会話を続けた。
こんな風に普通の会話をここまでしたことは、今までなかった。
会う目的と言えば一つしかなかった。だから、会話も最小限で、しても世間話程度。
好きな人と話すことが、こんなに楽しいことだとは知らなかった。
しかし、俺の中にはまだ躊躇いがあった。
あっちで人の最悪な死に方を見てから、瀬奈さんと出会ってから、俺はもう誰も好きになりたくなかった。どうしても美代や知朱を、あの姿に重ねて見てしまう。その度に吐き気が込み上げてくる。彼女らを好きになったらそれが現実になるのかと思うと、恐怖すら感じる。
だから俺は、知朱と恋愛関係には戻りたくなかった。昔のような毎日身体を貪り合うような関係になりたくないのはもちろんだが、それ以前に知朱と恋人には戻りたくなかった。恋愛感情を捨てたかった。それだけで、知朱は救われる。俺の狂気に殺されることもない。そんなことならお安い御用だ。いっそのこと、嫌われてやろう―――
と、思っていたのに。俺は知朱からも美代からも、嫌われることを恐れていた。
我ながらどこまでへたれれば気が済むのかと呆れたくなる。二人を救うには俺が離れるのが一番なのに、それを他ならぬ俺が最も恐れている。まさにヤマアラシのジレンマ。近づいたら傷つけることがわかっているのに、離れることも怖がっている。
そもそも、彼女らを救うなどと言っているが、俺如きがそんなことを言うこと自体おこがましいのではないか?彼女らが救ってくれと頼んできたわけではない。遠ざけようとする俺の行為はただの独りよがりではないのか。その独りよがりすら、俺は実行できていないわけだが…………
とにかく彼女たちのためにと何かを考えてもそれは俺の自己満足にしか思えず、かといってその反証をしようとするとどうしても彼女たちと一緒にいることを正当化するための言い訳にしかならなくなる。
いっそ開き直るのもいいかもしれない。今まであの二人だけは俺と一緒にいて何も変化がなかったのだから、これからもそうに違いないと、そう考えれば俺があの二人と仲を違える必要もなくなる。俺が離れねばならない理由を一掃できる、まさに究極の正当化だ。一回死ぬといい。
さて、考えるのも疲れた。頭の中では何かが色々とぐるぐる廻り廻っていたが、結局のところ俺のしたいようにすれば問題はない。今は俺が知朱と一緒にいたいから一緒にいる。それになんの問題がある?
「どうしたの、瑠樹」
「……ん、なんだ?」
「顔、なんか怖かった。考え事でもしてた?」
知朱は俺の顔を両手で挟んで頬をぐりぐりとし始めた。なんというか、これは……
「俺はもうこんなことをされて喜ぶほど子どもじゃないんだけど」
「僕からすれば、高校生の瑠樹くんは子どもみたいなものだもん。それとも僕にこういうことされるの、イヤ?」
無邪気な顔で首を傾げられては、俺も何も言えなくなる。
代わりに思い浮かんだのは、なぜ知朱が手伝いに、ということだった。
「そういえば、手伝いって知朱だけか?業者にはこの家まで運んでもらうだけになってるし、荷物も重いものが多いから知朱だけだと……」
「ううん、僕は早めに来ただけだよ。兄貴たちも来るから安心して」
「そうか、ならいい」
手伝ってくれると聞いていたからてっきり男が来るものかと思っていた。親父も「島津さんのところ」としか言っていなかったし、知朱の兄は日本に残っていることは知っていたが知朱が帰ってきていることも知らなかったから、というのもある。だから知朱の姿を見た時、俺は様々な理由で驚く羽目になったわけだ。
することもなくなって、終わり際の情報番組をBGMにしつつ俺たちは久しぶりの会話を続ける。話題は会っていなかった3年間のことが中心だった。
そして10時も30分ほど過ぎた頃、知朱の2人の兄、そして引っ越し業者はほぼ同時に到着した。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
「ともちゃん、バイバイ!」
「ん、バイバイ」
璃茱と知朱は笑顔を交わしながら手を振り合う。この数時間で、二人はすっかり意気投合してしまった。というか、知朱に璃茱の迎えに行ってもらったのだが、帰ってきた時には既に今とほとんど変わりない様子だった。つまり、幼稚園から家までの道のりでこの二人は仲良くなってしまったということである。璃茱は初めて会う人には人見知りするタイプだったのだが……。3年前に会ったことを覚えていたのだろうか。知朱自体は人懐っこい性格だが。
「知朱」
知朱が帰ってしまう前に呼び止めることに成功する。「ん?」と言って振り向いてくれた。
「今日は助かった。おかげで早めに終わらせられた」
「ん。じゃあお返し、期待してるね」
平然と言いやがる。が、礼をすることには吝かではない。
「まぁ、考えとく。お兄さんたちにもよろしく言っておいてくれ」
「うん。兄貴たちはあんまり気にしないと思うけど」
「そうか?……あぁそうだ、本当に帰るのか?夕食くらいは出せるけど」
「いいよ。兄貴は用事があるみたいだし、僕も、もっと違うものでお返しはしてもらいたいしね」
ちっ。ここで借りは返しておきたかったんだが、そう上手くはいかないか。
「さっき舌打ちした?」
「いや、なんで?」
女の勘の良さについて一度は調べてみたいものである。
と、まぁ、くだらん冗談は置いておこう。あまり知朱を引きとめても悪いかもしれない。心の奥底では名残惜しさ100%の未練が反乱を起こしつつあったが、それを理性で鎮圧弾圧して俺は知朱を見送った。
「じゃあ、また。改めて、今日は助かった」
「ん、どういたしまして。じゃあ、また明日」
「バイバーイ!」
璃茱の元気いっぱいな声とともに知朱はタクシーの後部座席に乗り込み、窓越しの笑顔を残して去っていった。そのタクシーも曲がり角を曲がって見えなくなったところで、「おにーちゃん、おなかへった!」という璃茱の言葉とともに家の中へと戻った。
知朱の「また明日」という言葉を軽く聞き流していた俺は、翌日、男として非常に耐えがたい苦痛に苦しむことになるのだが、それはまた別の話とさせてもらおう。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
ある真夏の蒸し暑い夜。
しかしまだ街は眠らず、明かりの消えた窓はどの建物からも見えない。走る車も往来する人々も昼間と変わらず、慌ただしく街を駆け抜ける。星の見えない漆黒の夜空が対比となって、むしろそれは昼以上に慌ただしくも見えた。
その街の中に、一つの雑居ビルがある。十数年前に建てられた高層マンションと隣り合わせに立つそのビルは、大通りに面しているわけでもないため、影は非常に薄い。地下に麻雀荘が入ってはいるものの、それ以外の階はすべて空いており、そのビルは常に明かりを外に漏らすことはなかった。
しかし、その日だけは違った。
3階。そこは、何もないはずだった。誰も、いないはずだった。
故に、その窓から明かりが見えるということは異常と言うしかなかった。
だからといって誰かがそれを気に留めたということはなかった。不審に思っても、それは多くが個人の中で自己完結されていった。
清掃業者がいるのだろう。新しくどこかの会社が入ったのかもしれない。理由など、いくらでも思いつくものである。わざわざ確かめに行く目的のある者もいない。ゆえに、そこで何が起こっていようと誰一人、気付くはずがなかった。
―――一人の女性が、それを目撃してしまうまでは。
深夜の静寂を破って、甲高い金切り声が、夜空を貫くかのごとく響いた。