第8話 ‐帰郷‐ シスコンと片想い
少女が一人、ある古本屋の前に佇んでいた。
その古本屋は一つの特殊な分野の人間に有名だった。なぜならその古本屋には、中世以降の文献が非常に良い状態で保存されており、なおかつ既に絶版となった出版物すら複数冊その地下に保管されていたからである。加えて、有名舞台の台本までもが、どこから入手したのか、複数種あった。
さらに極端なことを言うと、戦後以降に出版されたものならほぼすべて揃っている。
だがなぜか、一般の客はほとんどと言っていいほど来なかった。
少女は思う。
「こんなおどろおどろしいデザインじゃ、入りたいとは思わないよね……」
思うというか、口に出ていた。
ちなみにその古本屋の看板は、異形の怪物が乱れ交わる光景を簡略化したものだった。簡略化されているがゆえに分かりやすく、その恐怖も伝わりやすい。子どもなら間違いなく、近寄りたくない類のものだった。
いつもここに通う少女ですら、前にする度に委縮するほどである。
といっても、彼女は慣れのせいか躊躇することもなくその扉に手をかける。
「こんにちはー……」
少女には少々重いであろう扉を開けながら、彼女はここの店主にあいさつをしてみる。小声なのは、この時間は寝ているであろう店主を気遣ってである。
と、その彼女の耳に、
ドドドドドドドドドド!!
そんな轟音が響き、彼女は思わず扉から手を離してしまった。扉は当然、閉まってしまう。
少女は慌てて再び扉を開け、店内に転がり入る。
店を見渡し異常がないことを確認するとすぐに、少女は立ち並ぶ本棚の間を掻い潜り、カウンターの奥の地下に続く階段へと向かった。
その地下にも、無数の、と言ってもいいほどの数の本を収めた本棚が並んでいるが、階段の途中で何が起きたか、少女にはすぐにわかった。
正確には、何が起こったかはわからなかったが、その何かの起こった結果は見えてしまった。
「えー……、なにあれ……?」
本が、山積みになっていた。その前の本棚からは本が根こそぎなくなっており、そこから落下したものだと容易に想像できた。
そこから、
ボコッ
と、腕が生えた。
突然のことに「ひっ!?」と怯える少女の耳に、
「いたたた……」
と、聞き慣れた声が届く。
もう一本の腕も現れ、本をかき分けた末に出てきたのは、
「店長……」
「おや、芽衣子ちゃん。おはよう」
本の山から上半身だけを出したこの古本屋の店主―――篠崎瀬奈が、アルバイトの紺野芽衣子に笑顔を向けた。
瀬奈のくしゃみが、埃を舞い上がらせた。
「もう。なにしてたんですか。本もこんなに落ちてますし」
芽衣子はテーブルにコーヒーを注いだカップを置きながら訊ねる。この地下には、芽衣子と晶子を寝かせたソファに、それに挟まれたテーブル、加えてガスコンロがあった。そのソファに瀬奈は座っていたが、床に散らばった本を見て、困ったように笑いながら答えた。
「いやぁ、ちょっと探し物をね。知己に頼まれたものだから断れなくて。今日のお昼にも来るって言ってたから急いでたらあんなことに」
「探し物ですか?何を?」
自分の分のココアを入れる芽衣子に、瀬奈はコーヒーを一口飲んで答える。
「『Anne of Green Gables』だよ」
「……え?」
予想していなかった日本語以外での回答に、芽衣子は思わず手を止めた。
瀬奈は手に一冊の本を持っていた。
「日本では『赤毛のアン』っていうのかな?これなら知ってる?」
「あ、はい。読んだことはありませんけど」
机を挟んで瀬奈の対面に座った芽衣子は、ココアを一口飲んで「甘すぎた……」と呟いた。すぐにカップをテーブルに置いて、瀬奈の差し出した本を受け取った。
それをぱらぱらと捲っていた芽衣子だったが、しばらくして閉じて、瀬奈に返した。
「……どう?」
「さすがに全文英語じゃ読めませんよ」
「そう?それは残念」
そう言ってしまおうとした瀬奈に、「でも」と芽衣子は続けた。
「『聖書』の文が引用されてませんでした?」
「…………」
瀬奈は目を見開く。
芽衣子は当然、それを見て戸惑う。驚く瀬奈という姿は、見たことがないからだった。
「よくわかったね」
「いえ、親が二人ともカトリックなので……」
「だとしたらかなり敬虔な信者なんだねぇ。子どもに聖書を読ませるなんて」
芽衣子は困ったように笑う。
「そうでもないですよ。聖書に関しては私が好きなだけですから」
「ふーん?ま、この作品には『聖書』だけじゃなく、詩の句なんかも使われてるらしいよ。あ、あと、シェイクスピアもだったかな?実際に目を通したことはないからあたしにはわからないけど」
机に置かれた本を見ながら、ふと思ったことを芽衣子は訊ねた。
「店長」
「ん?」
「それって原本なんですか?」
芽衣子が持ってきたアンパンを齧ろうとして、瀬奈は答えることを優先した。
「いや、その写しだよ。誰が書いたかもわからないような代物だけどね」
言ってからアンパンを一口齧り、瀬奈は顔を顰めた。
「餡子が入ってないね」
「偏ってるんじゃないですか」
さらに齧って、瀬奈は「なるほど」と呟いた。
それを見た芽衣子も「クリームパン」とでかでかと書かれた袋を破って、中身にかぶりついた。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
「―――ただいま」
俺の実家。
葬式の際に帰ってきた時も思ったが、俺がここを出る時と全く変わっていなかった。
庭とも言えない小さい庭も、玄関に置かれた背の低い観葉植物も、扉を閉めるための磁石が取れてしまった靴箱も、そして―――
「おかえり、瑠樹。葬儀以来、か」
家の中ですらスーツ姿の親父も、相変わらずだった。
「どうだ、久々の故郷は」
玄関を上がって廊下を渡り、居間へと向かう。一年半離れていたとはいえ、それまでは生まれてからずっと住んでいたのだから居間の場所を忘れているはずもなく、迷うこともなかった。そもそも、迷うほど大きい家でもないし、あの人の葬式のときに一度来ている。
「別に。笠良木のほうもここと大して変わらないから」
俺がいたのは笠良木市。県こそ違えど、規模は大して変わらず、駅前と距離を置いて住宅街があるところも同じ。景色自体は変わり映えのしないものだった。
「寂しいことを言うな。といっても、葬式の時に来たからさほどの感慨もないか?」
「そうだな……、まあ、あの時は大した会話もできなかったから、どうも新鮮な感じはするが」
答えて、居間のソファに座りこむと、親父が前のテーブルにコーヒーを置いてくれた。
「悪い」
「疲れただろう。特急で3時間とはいえ」
「ああ、まあ……、どちらかといえばその前の疲れのほうが重いような気がする」
あの街の最後の思い出が芽衣子の嫌な笑顔である。それを除いても芽衣子とのキス。どう解釈しても、俺にとってはいい思い出になるはずがなかった。
芽衣子の笑みの意味は、電車の中で考えた末、無視することにした。考えたところで、わかるはずがない。
「そうだ、璃茱は?」
そういえば、と思う。妹である璃茱の姿が見えなかった。葬式の際は落ち込んでいて会話すらできる状態ではなかったが、今も部屋に籠っているのだろうか。
「幼稚園に行っている」
親父の素っ気ない答えに、少しばかり不安になる。
「……いいのか?あれからまだあまり経っていないけど」
「璃茱が行きたいと言ったんだ。葬式のすぐ後だといって家に閉じ込めておくわけにもいかんだろ」
璃茱にとってあの人は普通の母親だったはずだ。ましてや璃茱はまだ5歳。あの人が亡くなった時の衝撃はどれだけだったのか、俺には想像もできない。
あの人が死んだと聞いても、俺には虚無感しかなかったから。
「そういえば親父」
憎悪が蘇ってくる気がして、すぐに意識を変えるべく親父を呼ぶ。
「ん?」
「仕事はいつから再開するんだ?」
親父はほとんど考えることもなく答えた。
「明日にはもう忙しくなるだろうな。今日だって午前は仕事だったんだ。完全な休みなんてほとんど取れない」
「そうか……、参ったな」
「……?どうした」
これからの予定を頭に描きつつ、俺は親父に訊いた。
「ってことは、土曜日も休みは無理か?」
「今週のか?それは無理だな。―――なにかあるのか?」
「編入試験があるんだ。一日中あるらしいし、その日の間、璃茱はどうなるのかと思って、な」
土曜日は幼稚園も休み。となると、家には璃茱一人になる。
心配だ。
非常に心配だ。
親父に頼ろうとしていたが故に、今回の誤算は少々痛い。できれば璃茱も学校に連れていければいいが、結局試験の際は俺の目を離れる。璃茱のことは信用できる人間に見てもらいたい。
「他の日、平日に変更はできないのか?」
「どうやら無理らしい。その日以外の日にすると色々あって編入が夏休み明けに間に合わないんだとさ」
むぅ、と親父は唸る。心配しているのは親父も同じか。その度合いは負けない自信があるがね。
とはいえ、本当にどうしようかと悩んでしまう。
親父は仕事を休めない。
試験日の変更は無理。
璃茱を連れていくのは却下。
と、するならば―――
「―――そうだ」
思いついた。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
我が妙案に従い、俺はお隣さんの家の前に立っていた。
どんな風にして驚愕を伴った再会にしてやろうかと10秒ほど考えた結果、普通に会うことにした。「小早川」と書かれた表札の横のインターフォンを押す。
少しして聞き慣れた声がインターフォンから聞こえてきたので、「宅配便です」と強盗が使い古してカビどころかキノコまで生えていそうな常套句を言っておいた。
それほど待つこともなく、その家の扉は開いた。
出てきたのは、少女。といっても、俺と同級生だ。
名前は、
バタンッ!!
と、勢いよく扉は閉められた。
…………
………………
あれ……?
俺、まだ入ってませんよ?
扉って、来客が入ってから閉めるもんではないのだろーか?
俺が割と本気で落ち込んでいると、
そ、と、今度は非常にゆっくりと、扉が開いた。わずかに開いたその隙間から、目だけがこちらに見える。
彼女は、自信のなさそうな小声で、言った。
「る、るっくん……?」
「そうだが……。そろそろその呼び方は改めてもらえませんかね、美代さんや」
「え、え……、えぇ!?なんで、るっくんが……!?」
まるで動く死人を見たかのような驚愕に囚われた彼女は、それはそれは面白い反応をしてくれた。どうやら、俺自身が驚愕に値するようである。俺の要望を無視されたことは無視することにした。
「帰ってきた。ただいま」
「え、あ、うん。おかえり……」
どうも釈然としていない表情の彼女の名前は、小早川美代。幼稚園から中学卒業までほとんどずっと一緒だった、腐れ縁な友人である。夢のある言い方をすれば、幼馴染と言ってもいい。
一年半ぶりだが、髪型や体型はあまり変わっていなかった。といっても、俺も高校に入ってから5mも伸びたから、美代も同じように成長しているかもしれない。髪型に関しては以前と同じ、ツインテールだ。
「あ、あの、るっくん」
「……他に呼び方はないのかね」
「え、えと……、じゃあ、瑠樹?」
「なんだ」
美代から呼び捨てにされるのは少々落ち着かないがどうせいずれ慣れるだろう。
「なんで……帰って来たの?」
その質問には、わずかな期待が含まれていた。それがどんな期待なのかは、気付かない振りをした。
代わりに、からかってみることにした。
「帰ってきてほしくなかったのか?」
「え!?……そんな、ことないよ、帰ってきてほしかっ……、でもなくて、ええと……帰ってきてほしくなかったなんてことはないけど、でも別に帰ってきてほしかったなんてことも…………」
色々混乱しているようだがなんとなく面白いので放置してみる。
するとどんどん自分だけで泥沼にはまっていくのである。見ていて飽きない。こいつの昔からの気持ちを知っている身としては笑うことはできないが。
まあ、いつまでも放っておいても話の進行は見込めないため、俺から助け舟を出すことにした。
「あの人がいなくなったからな、戻ってきたんだ。璃茱のこともあるし」
「あ……、そうなんだ……。るっく……瑠樹って、舞美さんと仲、悪かったよね……」
「………………………」
「……?瑠樹?」
俺が黙ると、美代は首を傾げる。
やはり違和感があった。落ち着かない。
「やっぱり昔からの呼び方でいい。ただ、人前では恥ずかしいから他のにしてくれると助かるが」
「え…………?……あ、呼び方のこと?うん、わかった」
美代はなぜか非常に嬉しそうな顔で俺を見る。
「るっくん」
「なんだ」
「えへへ」
芽衣子と同じようなやりとりをしたような気もするが、美代には気味の悪さを感じなかった。
美代は、俺と長い付き合いになるのになぜか狂気とは一切無縁の人間だった。
俺には美代と同じくらい、どころか、1年以上持った友人というのがほとんどいない。いても、もうこの世にはいないか精神病棟で寝ていたりするんだろう。
家族でも、母親は最初から狂っていたし、それを妻として選んだ父親も正常とは言い難いだろう。狂気の交配で生まれた妹は果たしてどうなのだろうか。
つまるところ、俺の周囲で正常なのが美代だけ。だから俺は、こいつのことを大事にしたいし、今以上の関係になって、こいつを狂わせたくない。この考え方ができたのは瀬奈さんと出会った後だが、それ以前も美代の気持ちに気付きながら、なぜか応えようという気にならなかった。だというのに美代から離れようともしないという、中途半端な関係を続けていたのだ。
今の俺は、このツケをいつ返させられるのかと密かに怯えているわけだが…………、本人を前にすると忘れて、いつも通りに接してしまう。
はてさて、どうしたものか―――
「るっくん?」
「ん。どうした」
思考を中断する。目の前には、美代の笑顔がある。
「えと……、何か用事があったんじゃ?」
おお、そうだった。まさか璃茱に関する大事を忘れるとは。俺の人生最大の失態と言ってもいいだろう。…………大袈裟?黙れ。
「土曜日なんだが、大丈夫か?」
「え、土曜日?……あ、うん!大丈夫!」
まずい。期待させるような言い方をしてしまったか。次が言いにくい。
「あー……、今週の土曜日な、編入試験があって、家に璃茱一人になるんだが」
「あ、編入試験。……それって、うちの……?」
落胆した後に、控えめな期待を込めた疑問を投げかけてくる。だが俺はそれを、真っ向から否定する。
「んなわけがあるか。お前の嬢育高校はお嬢様学校、女子高だろうが。俺が受けるのは創葉だ」
「う……ごめんなさい」
謝られても困るんだが。まあいい。
「とにかく、そういうわけで璃茱が一人になるから、璃茱のお守を頼めないか、と思ってな。こうしてわざわざ出向いてやったわけだ」
「それはそれは御苦労さまです」
「いやいや、それほどの苦労でも」
実際数メートルだし。
しかし美代も立ち直りが早い。俺の唐突な冗談にも対応できるのは長年の付き合いの賜物だろうか。
「で、頼めるか?」
「うん、大丈夫だよ。いつごろ終わるかな?」
「どうだろうな。五教科やった後に面接もあるらしいから少なくとも昼は過ぎると思うが」
「じゃ、璃茱ちゃんにはうちに来てもらおうかな?お昼作ってあげなきゃいけないし」
「お前、料理できるようになったのか?」
「こ、この一年でだいぶ上達したんだからねっ。いわゆる高校デビューだよっ」
いや、それはちょっと違うような気がする。
しかし、あんなに不器用だった美代が料理ねえ……。心配だが、それ以外は任せるに足るし、一応は信用しよう。あと料理で思い出したが芽衣子の弁当は非常に美味だった。
「じゃあ、土曜日、頼んだぞ」
「うん。大船に乗ったつもりでいいよっ」
なぜか自信満々な美代に、「おうよ」と返し、小早川家の門を離れる。
と、
「るっくん!」
呼び止められる。
「おかえりなさい」
美代は、得意技である微笑みを向けてきた。やもすれば小学生にも間違われそうな童顔に浮かぶ大人びた微笑みは、俺の自然な笑みを誘うのに十分すぎた。
「ただいま」
美代は俺にとって唯一、俺と普通を繋いでくれる存在だ。俺は、このままでいたかった。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
俺は、幼稚園の保母さんと対峙していた。
ちなみに言っておくと、この人とは、面識はない。だから当然、名前も知らない。ついさっき肩がぶつかったわけでもない。
だというのに、幼稚園に入ろうとしたら止められたのである。文字通りの門前払いだ。
俺が自分なりの疑問の表情を向けるとそれが伝わったらしく、その保母さんは何かを指差した。その先には、「関係者以外の方は立ち入りをご遠慮ください」という文が。
だから?
だからどうした。
あれか?ちょっと伸びすぎた後ろ髪を束ねてその束ねたゴムから1mくらいのチェーンをぶら下げてると問答無用で部外者になるのか。
人を見た目で判断するなと教わらなかったのだろうか。
「一之瀬璃茱の兄ですが」
「ああ!どこかで見たことあると思ったら」
おいこら、そりゃどういう意味だ。見たことあると思ったんなら入れろよ。そうしないとしても何か訊けよ。
と、抗議する前に保母さんは幼稚園の中へと消えていった。やるせない気分だけが残る。
しかしそれもすぐに忘れた。
「おにーちゃん!!」
満面の笑みで駆けよってきたそいつは、俺の足に元気のあり余ったタックルをかましてきた。正直よろけかけたが、なんとか踏ん張ることができた。
「おお、元気だな、璃茱」
「うん!りじゅ、げんきだよ!」
―――一之瀬璃茱。5歳。俺の唯一の妹。あるいは娘。
妹か娘かということは今となってはどうでもいい。今は、璃茱が俺の前にいるということが重要であり、それだけで俺は満たされる。
一年半ぶりに会った璃茱は見違えていた。背が伸びているのはもちろんだが、髪が伸びるとここまで変わるものかと驚いてしまった。そして、可愛さは変わらない。いや、むしろ倍増している。このまま抱き寄せて頬ずりしたい気分だ。……したら変態確定なのでねだられない限りしないが。
―――あ?なに?シスコン?わざわざ褒めてくれてありがとう。
「お兄さん、久しぶりじゃないですか?」
保母さんが連絡帳を俺に渡しながら、そんな質問をしてくる。やはり一度ならず、会っていた。ならさっきのあれはなんだったのかと尚更言いたくなったがなんとか堪えた。
「ええまぁ。一年半、他県の高校に行ってましたから」
「今は帰省中ですか?」
一瞬、答えに詰まった。
「―――いえ。母親が亡くなったので帰って来ました。こっちの高校に入る予定です。父は仕事で忙しいですし」
「あ……、そうなんですか……」
一瞬申し訳なさそうな表情をしたと思ったら、保母さんが変な笑みを向けてくる。一体なんなのだろうか。
と、深く考える前に異変に気付く。
「むぅ……」
璃茱が、拗ねていた。そして、俺の太腿を抓っていた。ジーパンの上からだからさほど痛くはないが、璃茱の機嫌を損ねたという事実は俺の心を引き裂かんばかりだった。…………大袈裟?黙れ。
「悪い、璃茱。久しぶりなのに放っておいて」
そう言いながら俺は璃茱を抱きかかえる。さすがに一年半も経てば体重もかなり増えている。一年半前ほど軽々と持ち上げるというわけにはいかなかったが、それでもまだ5歳。俺の腕力でも割と楽に持ち上げることができた。
「む~……おんなはこんなのじゃごまかされないんだからねっ」
「わかってるよ。俺がしたいんだ、許してくれるか?」
「ん~……、ならゆるす!きょうだけだからね!」
璃茱はそんなことを言うが、顔は嬉しさに満ちていた。いつからツンデレ能力を習得したのだろうか。それを見て、俺の顔も自分でわかるぐらいに緩んでしまう。
まるで照れ隠しのように、璃茱は俺の肩を叩いた。
「おにーちゃん、かえろ!」
「ああ。―――それじゃ先生、お世話になりました」
「せんせー、バイバイ!」
「はい、それじゃまた明日」
なんとなく嫌な予感を呼び起こす笑みに見送られて、俺と璃茱は幼稚園を後にした。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
俺は、璃茱を抱きかかえたまま家路についた。降ろそうとしても璃茱が駄々をこねるので、家に辿りつくまで璃茱は俺の腕の中だった。俺の後頭部から伸びるチェーンを、終始弄っていた姿が可愛かったことも付け加えておく。
帰る道中、髪型を変えたことを指摘すると恐ろしく可愛い笑顔を見せてくれた。それだけで俺は癒された。…………あっちで溜めに溜めたストレス自体は、璃茱の愛らしさをもってしてもなくすことはできないだろうが。
ちなみに、璃茱は髪を伸ばし、その両サイドで小さく結んでいた。自分でやったというわけはないだろうが……、まさか親父がやったのだろうか?―――次からは俺がやろう。
家に帰ると、親父は居間のテーブルに座って待っていた。ノートPCを開いているところを見ると、どうやら仕事をしていたらしい。親父は俺たちに気付くと、PCを閉じて璃茱へと微笑みかけた。
「おかえり、二人とも」
「ただいま」
「パパー!」
璃茱は親父を呼ぶが、俺の腕から逃れようとはしなかった。一応、帰ってきた時の反応としては間違っていることを教えておく。
「パパ、じゃなくてただいまだろ」
「ん!パパ、ただいま!」
「ああ、おかえり」
親父は璃茱の頭を撫でる。璃茱は目を閉じてくすぐったそうにした。
一通り帰宅の儀を終えて、試しに璃茱を降ろそうとすると、案外簡単に降りてくれた。璃茱はそのまま脱衣所にある洗面台へと直行する。手を洗おうというらしい。あとで褒めてやらねば。
「瑠樹」
俺が璃茱の姿を見守っていると、親父が呆れたような表情で俺を呼んだ。その顔はなんだ。
少し睨んでみたが、親父はそれを受け流して話を始めた。
「お前の荷物だが、いつ頃届く?」
ほんの少し記憶を探って答える。
「業者によると明日の午前に届けてくれるそうだけど。手伝ってくれるのか?」
親父は仕事があるはずだが。
案の定、親父は首を振った。
「いや、手伝いはするが……、俺じゃない」
「?」
他に誰かいただろうか?この時期に暇な人間といえば学生かニートくらいなものだが。
親父は、
「手伝ってくれるのは―――」
俺が疑問を言う前に、聞いた途端すぐに後悔を覚えてしまう、その名字を答えた。
忘れたかったのに。