表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

第7話 ‐離別‐ 割と安めの涙



「―――ってわけで、実家に帰ることになりました」


 通夜も葬式も一通り終わり高校への退学手続きも完了した俺は、8月に入ってさほども経たないこの日、瀬奈さんに事情を説明し、この古本屋を辞める旨を伝えた。瀬奈さんはそれを、やたらと分厚い装丁の古い本を読みながら聞いていた。

 だが、それに真っ先に応えたのは芽衣子だった。


「え……、先輩って一人暮らしだったんですか!?」


 少しずれた質問だったが。


「言ってなかったか?高校に入る時に家を出たんだ」


 そう言うと芽衣子は意外そうな顔で息を吐いた。その後に「なら忍びこめばよかった……」などと聞こえた気がしたが、怖いので気のせいということにしておく。


「え、でも、実家に帰るって……どういうことですか?」


「そのままの意味だ。隣の県だからそこそこ遠いな」


「ッ!そ、そんな!」


 芽衣子は、店の掃除をしていたのか箒の柄を握ったまま俺に詰め寄った。


「ま、まだ決めたばかりなのに!戦うって!逃がさないって!決めたのに!」


 芽衣子の気持ちはわかる。俺はそうするよう発破をかけた張本人だ。だというのにわずか一週間で去ろうというのだから納得できないのが当然だろう。

 だが、もう決めたことだ。


「まあまあ。あまり瑠樹くんを困らせるものじゃないよ、芽衣子ちゃん」


「で、でも……!」


 瀬奈さんが宥めても効果はあまりない。

 なら俺が、と思い芽衣子に説得を試みる。


「残念ながら退学届けはもう高校に出した。あっちの高校の編入申請も親父が出してるだろうし、もう後戻りはできない」


「な、なら、私の高校に入れば……」


 芽衣子の言葉に、瀬奈さんが割り込んできた。


「そういえば芽衣子ちゃんは高校どこなの?」


「じ、神路高校、です……」


「へえ、ここらじゃ有名な私立じゃないか。偏差値はかなり高いみたいだけど瑠樹くんが入れるのかな?」


「う……」


 おいこら、そこで詰まるってだいぶ失礼だぞ。


「瑠樹くんはどこだったっけ?」


「笠良木北ですけど」


 芽衣子が喜びを見せた。


「え、それって、すごい進学校じゃないですか!」


「二人とも、私立と公立の名門なんだねぇ。本当に自慢できる部下だよ」


「そうですよ!先輩なら神路ぐらい入れると思います!」


 ものすごく喜んでいるところ悪いが、その提案も受けられない。


「妹がいるんだ。仕事で親父はまともに世話ができないし、俺が帰ってやる必要がある」


 だが、ここで食い下がってくるのも芽衣子である。


「な、なら、その妹さんをこっちに連れてくるとか―――」


「おい」


「あ……」


 俺がたしなめると、自分が何を言っているのか自覚したのか、芽衣子の表情は申し訳なさそうなものに変わっていく。

 瀬奈さんは、溜息をついてから芽衣子に言った。


「この辺りはしょうがないよ。瑠樹くんの家のことだからね。あたしたちにはどうすることもできない」


 こういう時、執着のない人は助かる。


「ありがとうございます」


「いやいや、大丈夫だよ。君とは一ヶ月しか一緒ではなかったけれど、とても楽しませてもらったからね」


 瀬奈さんはカラカラと笑う。会った当初は不快だったが、今となってはむしろこの人といえばこれ、とも言える笑い方だ。

 だが、笑う瀬奈さんとは対照的に、芽衣子はがっくりと肩を落として落ち込んでいた。


「うぅ……、私はどうすればいいんですかぁ……」


「あぁ、芽衣子ちゃんもあまり無理はしなくてもいいんだよ?」


 「え?」と言って瀬奈さんを見る芽衣子。目には、わずかに涙が浮かんでいた。


「瑠樹くんがいるからここで働いているのなら、別に辞めてもらってもいいよ。瑠樹くんがいなきゃ苦痛なだけだろう?」


「そんなことないですっ。ちゃんと働きますよ!」


「そう?」


 元気よく答える芽衣子に、瀬奈さんは笑いかける。芽衣子も案外、律儀なところもあるものだと思わず感心してしまった。


「ってそうじゃなくて!」


 が、芽衣子の懸念はそれではないらしい。声は心なしか、鼻声だった。


「先輩のこと、どうすればいいのかわからないんですよぉ」


「うーん……、―――それこそやめなければいいんじゃないかな?」


 あれだけ攻めてきた芽衣子にしては弱気な発言。俺は瀬奈さんと全く同じことを思っていた。


「別にどちらかが死ぬわけではないんだからいつでも会えるさ。待っていればその内チャンスは来るよ」


「そうですけど……」


「それに、待つだけが手段じゃないからね」


 怪訝な表情で瀬奈さんを見返す芽衣子に、瀬奈さんは耳打ちをした。その途端、芽衣子の表情は異常なまでに明るくなり、瀬奈さんも耳から離れる一瞬、俺に一瞥をくれた。何を吹き込みやがった。


「わかりました!先輩、あっち行っても頑張ってくださいね!」


 この急な物分かりの良さはなんだろうか。逆に怖い。


「うん、これで心置きなく君も帰れるね」


 いやいや。最後に懸念が残ってますよ。芽衣子が怖いですよ。


「ところで瑠樹くん、いつここを発つんだい?」


「明日には帰りますけど」


「明日ですか!?」


 俺の返答に反応したのは例のごとく芽衣子。しかし声が大きい。


「早いです!」


「早いと言われても……。一週間前から準備はしていたし、別に早くはない」


「私にとっては早いんです!時間がなさすぎです!」


 と、言われても。編入試験受けたり、それに受かれば正式な手続きも必要だし、引っ越しやらその他諸々を考えるとあっちに行ってからの時間は多いほうがいい。8月31日まで律儀に夏休みを取ってくれる高校なんてこの辺にはない。

 それを伝えると、芽衣子は不満げながらもなんとか納得してくれた。

 だがその直後、芽衣子は何かを閃いたように手を叩き、


「店長!今日これで上がってもいいですか!?」


 大声でそんなことを瀬奈さんに言った。そろそろ瀬奈さんのことを「店長」と呼ぶ芽衣子に慣れたい。

 瀬奈さんは、芽衣子に笑顔で承諾を表した。


「大丈夫だよ。何か用でも?」


「はいっ、今思いつきました!」


 思い出したじゃなくて?


「先輩っ!」


「なんだ」


 勢いよく振り向いた芽衣子に押されて、若干、返事に余裕ができなかった。


「帰るのは明日なんですよね?フェイントで今日帰っちゃったりしませんよね!?」


「ああ。まだ準備ができてないし、これから帰ってする予定だ」


 『明日』の部分をやけに強調した芽衣子に、俺は答える。

 すると、芽衣子は箒を店の奥に仕舞って、「では失礼します!」と快活な声を残して去っていった。

 ともに残されたのは俺と瀬奈さん。芽衣子が来るまでは一ヶ月間、これがデフォルトだった。

 芽衣子が来てそれは変わったようにも見えるが、あの人が亡くなって俺がここを離れるのだから結果はほぼ同じ。

 特に、自分以外がすべて“モノ”にしか見えない瀬奈さんにとっては、傍にあった人形が新しいものに変わるぐらいの認識しかないだろう。

 とまで考えて、ふと思い出す。


「そういえば、瀬奈さんのこと、芽衣子に言ってませんね」


「そうだねぇ。晶子ちゃんには言ったんだっけ?」


「はい」


「まぁいいさ。いずれ話すよ」


 晶子は、俺があの人の通夜に向かう前日にこの店に現れ、芽衣子の目の前で俺に告白した挙句、「負けませんよ」といった旨のことを芽衣子に伝えて帰っていった。

 あの様子だと、今回は真似をするというより、完全に芽衣子を敵視しているから、案外本気なのかもしれない。なんて面倒くさい。


「でも、いいのかい?」


「?」


 何が言いたいのわからず、表情で疑問を示してみる。


「彼女に関してはまだわからないことが多い。特に、あの暗示能力はあたしたちのものとは全く違うものだ。あれの“源”、あるいはきっかけが何なのかは、あたしにも予想すらできない。―――君は知りたくない?」


「……………………」


 知りたくないかと問われれば、それは当然、知りたい。

 芽衣子があの能力を手に入れたきっかけ、あるいはそれを芽生えさせた源。それがなんなのか、芽衣子の話からは一切わからない。

 晶子が原因ということを考えられるが、そこまで長期的なストレスでは、異能は生まれない。

 何か、瞬間的に大きなトラウマが刻まれるような事件ないしは事故が起きなければ、科学や医学に則らない異能は、人に芽生えない。これは、俺の経験則だが、おそらく瀬奈さんも同意見だろう。

 だからこそ、他人を操るという強すぎる能力が生まれた原因が、一体どれほど悲惨で、凄惨で、残酷で、非情で、非常識で、狂っているのかを、俺は知りたかった。

 俺が実家に帰る上での心残りを訊かれたら、まずこれを答えるだろう。


「ま、いいさ。どちらにしろ、君は帰ってしまう。この質問はあまり意味がなかったかな」


「…………そうですね」


 俺は曖昧に答えた。それ以外に何を答えればいいのかわからなかった。

 と、唐突に瀬奈さんは話題を変えてきた。


「それで、君の妹は可愛いの?」


「可愛いですよ。おそらく、世界で最も」


 妹が世界一可愛いと信じてやまない俺だが、瀬奈さんの手前、少しは控えめに言っておく必要があるだろう。一応、おそらくとつけておいた。正直に言ったら、会いに来かねない。


「君がそこまで言うんならよっぽどなんだろうねぇ。一度は会ってみたいものだね」


「会いに来ないでくださいよ」


「そうかい?それは残念」


 正直に言わなくても、会いに来るかもしれない。はて、何が悪かったのだろう。

 しかし、瀬奈さんは俺の妹のことも人形のようなものという認識のはずだ。瀬奈さんにとって、モノには喋るものと喋らないもの、動くものと動かないものがある。俺たちと違うところは、所詮、そんなものではあるが。

 さて、と。帰る頃になって、ようやく考える。

 俺は、こんな短い時間でも、彼女の孤独を紛わすことができただろうか、と。

 できていたとして、今度はその役目を芽衣子に一任するわけだが、芽衣子にはそれができるだろうか。

 俺が考えても意味はないのに、どうしても考えてしまう。

 俺にはもう関係ない。俺はそう結論付けて、意味もないに等しいこの問答を切り上げた。

 それを見計らったかのように、瀬奈さんが言う。


「―――帰るのかい?」


「そう……ですね。家に帰ります。」


 この時の“家”が、どの家なのか、瀬奈さんにはわかったはずだ。

 同時に、これが最後の会話になることも。

 だから、なのか。瀬奈さんは、俺から目を離そうとしなかった。


「元気でね、瑠樹くん。それと、君のお母さんの冥福も祈っておくよ」


 ついでのように冥福を祈られたことに抗議もせず、俺は頷くだけだった。こういう時に限って、俺の感情は溢れだしそうになる。

 会えなくなるわけではない。

 電話でいつでも話せる。メールで何度でも言葉は交わせる。

 そうわかっているのに、どうも落ち着かない。

 ああ、と、唐突に納得する。俺の帰郷を惜しむ芽衣子の気持ちは、もしかしたらこんなものなのかもしれない、と。

 この人のことが好きというわけではない。そんなこと、考えただけで背筋が凍りそうだ。

 だが、嫌いでもなかった。

 初めて会ったのはいつだったろうか、と、まるで年老いてから幼少の頃の初恋を思い出すように、たった一か月前の記憶を探る。同時に胸糞悪い光景も浮かび上がるが、その直後に、俺の頭を自分の膝に乗せて微笑みかける瀬奈さんの顔が、網膜に再生された。この人は優しくしてほしくない時に限って優しいから困る。

 ふと、違和感を覚えて頬に手をやる。


「……………………」


 なんということだろうか。頬は濡れていた。何に濡れていたのかは言う必要はないだろう。


「全く……。瑠樹くん、男はね、用が済んだらすぐに立ち去るものだよ?」


 呆れたように、瀬奈さんは言った。


「そうやって格好悪いところを女に見せないように、男ならするものじゃないかな?」


 なんてことを言うのか。自分は女なのに。自分以外はモノでしかないのに。なのに瀬奈さんは、自分にとってモノの一つの性質でしかないはずの、“男”について語っている。

 なんて、不公平な。

 俺には、女を語る権利も、材料も与えられていないのに。

 これでは、瀬奈さんに憎まれ口を叩くことすら、できないではないか。

 せめて最後くらい、何か気の効いたことを言いたかった。


「どうせ隣県だよ。寂しがることはない。話したくなったら電話してくれればいい。会いたくなったら会いに来ればいい。どうせあたしは年中暇だしね」


 だが、瀬奈さんは言わせてくれなかった。

 瀬奈さんばかり、話している。まるで俺に何も言わせたくないかのように。

 俺は、


「瀬奈さん」


「ん?」


「―――――ありがとうございました」


 頭を下げた。

 それを見て、瀬奈さんは笑う。カラカラと、俺には決してできない明るすぎる笑顔で。


「何に対する感謝なのかいまいち分かりかねるけど……、せっかくだから受け取っておくよ。どういたしまして」


 頭を上げて瀬奈さんと対する。

 そのまま踵を返して、店の扉へ、歩き出す。

 店を出る直前、最後にかけられた瀬奈さんの言葉を、俺は頭の中で何度も反復した。




「今度どこかで会えたら、その時は感謝しよう。あたしたちを会わせてくれた、粋な因果に、ね」




◇◇◇◇・◇◇◇◇




 翌日。

 準備も片付けも部屋の解約も引っ越し業者による荷物の運び出しもすべて終わり、あとは出発時間までただ待つだけだという頃。

 芽衣子が来た。

 予想はしていた。こいつの俺への執着心は狂気並みだ。むしろ来なかったら心配しているところだ。

 芽衣子はなぜかめかしこんでいた。服装そのものは普段通りの夏らしいパンツルックだが、今日は薄くではあるものの化粧が施されていた。俺と会うであろう瀬奈さんの店で働く時ですら、していなかったというのに。それに加えて髪型もいつもと違って後頭部で括っており、いわゆるポニーテールの形になっていた。


「こんにちは」


 もうほとんど何も残っていない部屋に座布団を敷いて、芽衣子をそこに座らせた。


「なぜここがわかった」


 大体見当はつくが。


「店長に教えてもらいました」


 予想通りだった。あの人もここに来たことはないはずだが、別に知っていてもおかしくはない。


「いつ、出るんですか?」


「11時半発の特急に乗るから、その30分前には出る」


 教えると、芽衣子が安堵と思しき息を吐いた。


「よかった……。ちょうどいい」


「なにがだ」


「あ、はい。これ、よかったらどうぞ。電車の中で食べてください」


 差し出されたのは、小さめの手提げ袋。受け取って見てみると、


「弁当?」


「はい。私が晶子に勝てる数少ない分野の一つですっ」


 芽衣子は自信満々といった風に拳を握る。


「なるほど。それは期待できるな」


「あ、でもあんまり期待されても……、先輩の口に合うかどうかはわかりませんし……」


 芽衣子はそう言うが、これはかなり助かる。駅で何か買おうと思っていたが、それも必要なくなった。昨日帰ったのはこれの準備のためか。

 芽衣子が自慢できるぐらいなのだから、不味いということはないだろうと思う。晶子の料理スキルが底辺近くだというのならわからんが。

 と、思い出す。


「そういえば、晶子はどうした。来ないのか?」


 芽衣子が来て晶子が来ないのはおかしかった。誰か他に好きな人ができたというのなら、それはそれで楽になるしいいのだが。

 だが、はたと思い至る。

 こういうことは、訊いていいものなのか、と。

 案の定、芽衣子の顔には「不機嫌だ」と、でかでかと書かれていた。


「悪かった。俺が浅慮だった」


 素直に謝ることにする。一度振ったとはいえ、自分のことを好いてくれる人に対してさっきの質問はまずかった。

 俺の謝罪が功を奏し、芽衣子の表情は明るいものに戻っていった。


「自分で気付いたことは評価してあげます」


「…………感謝する」


 何様だ、と叫んでやりたかったが、現状の立場は俺の方が下。墓穴は掘りたくない。


「晶子は塾で模試があるそうです。受験生の宿命ですね」


「結局答えるのか」


「訊かれたことには答えますよ。当たり前じゃないですか」


 一度狂った人間に当たり前とか言われても。

 俺が芽衣子を見返すと、何がおかしいのか突然笑い出した。俺の顔、そんなに変だったろうか。


 話題が尽きた。お互いまだ一週間程度の付き合いだ。共通に理解できる話題など、そう思いつくものではなかった。

 沈黙が続く。

 なんとなく視線を廻らすと、ふとショートパンツから伸びる生足に目が止まった。特別な部位に興味があるわけではないから意識したことはなかったが、こいつは足が長く、綺麗だ。瀬奈さんのような女性らしい起伏には乏しいが、健康的なスレンダー体型とでも言えばいいのか、スタイル自体は十分いい。


「…………なにじろじろ見てるんですか」


「悪い」


 謝って、目を離す。俺のことが好きなはずなのに、芽衣子はまるで暴漢寸前の痴漢を見るような目で俺を見ていた。女はわからん。


「………………」


「…………………………」


 沈黙が、さらに続く。

 しばらくして、芽衣子が自分の長い髪を手に載せながら、訊いてきた。


「先輩」


「ん?」


「この髪型、どうですか?」


「似合ってると思うぞ?」


 俺が正直な感想を言うと、芽衣子は「そうですか」と満足そうに、また少しはにかみながら微笑んだ。こういう初心なところは可愛いとは思うが、それを口にすると碌なことにならないので黙っておいた。こいつは狂っているというということを忘れてはいけない。


「「…………………………」」


 沈黙は、また続く。

 そのまま、俺の出発の時間が近づきつつあった。


「……先輩」


「ん」


「そろそろ……、ですよね」


 芽衣子の言う通り、携帯には10:54と表示されていた。

 俺は、最低限の荷物をまとめたバッグを持って、立ち上がる。続いて、芽衣子も立ち上がって玄関に向かった。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




 駅。

 特に大きくもなく、行き交う人もさほどの数もいない。バブルの頃に勢いだけでかなりの増改築を行ったらしいが、あれから20年も経った今では新鮮さもなければ、無駄に派手にしたせいで老朽化した部分が際立って目立つ。

 この駅を使うのは二度目。一度目は、ここに来る際に使った時だ。

 なぜ30分もかけてこの駅に来たかといえば、最寄りの駅に、俺の乗る特急が止まらないからである。

 なぜか芽衣子は、わざわざホームにまでついてきたが、駅に来る道中も、駅に入ってホームに向かう間も、俺たちの間に会話はなかった。

 ホームに着いて数分待っただけで、目当ての電車は俺たちのいる乗り場に来た。

 ドアが開いたのを確認して、乗り込む。その直前、


「先輩」


 芽衣子に呼び止められた。振り返る。

 芽衣子は、笑っていた。やはりこいつは強い。俺は、瀬奈さんとの別れ際で笑うことができなかったのに。


「待っててください。私、絶対いつか、先輩の隣を勝ち取ってみせますから」


 こいつは気丈だ。

 いや、こいつにとって、この状況は耐えるまでもないことなのかもしれない。

 俺がただ、離れるだけ。物理的な距離は、おそらく問題になっていない。

 そんな風に思えるのは、やはり強さなのだろうか。

 同時に思う。こんなに強いのに、なぜ狂い、俺のことを好きになってしまったのか、と。この強さがありながら、なぜ芽衣子は異能を芽生えさせるまでに狂ってしまったのか。

 狂わなければ、俺なんかのことを好きにならなくて済んだ。俺のことを好きになった奴の中に、ろくなことになった奴はいない。それも、教えた。

 それでも、芽衣子は言った。俺のことを想っている、と。

 俺には、拒絶という選択肢しかないと知っているはずなのに。

 それでも強くいられる芽衣子に、俺はせめてもの報いとして、今できる最大限の笑みを、向けた。


「そんなに、待っていられるか」


 芽衣子は、笑いながら驚くという器用な真似をしてみせた。


「先輩って……笑うんですね」


「…………俺をなんだと思ってるんだ」


「え、へへ。すいません。でもなんか、ほんとに意外で」


 俺が何に起因するかわからない恥ずかしさを覚えて顔を背けると、その先には時計があった。時間を確認して、慌てる。


「そろそろ時間だ。行くぞ」


 踵を返して電車の中に向かう。


「先輩!」


 そこに芽衣子から名前を呼ばれる。俺は少々うんざりしつつも、まだ何かあるのかと振り返り―――




 口づけを受けた。




 たっぷり10秒、唇を合わせ続けていた。

 顔を離すと、芽衣子の顔に浮かぶ不敵な笑みが目の前にあった。


「2対1、です」


「は?」


「私からキスしたのが、2回。先輩からが1回です。私の勝ち越しですねっ」


 なんとくだらない争いか、と思ったが、同時に、芽衣子からの1回目のキスはいつだっただろうかと記憶を探り、すぐに思い出すとともに一つ忘れていた疑問も掘り起こされた。

 今のうちに、訊いておく。


「最後に一つ、訊いておきたいことがある」


「?」


「お前と初めて会った時、異様な寒気がしたんだが―――あれは、なんだ?」


 あの時だけでなく、晶子と初めて会った時も、そうだった。

 あれがずっと、気になっていた。

 一体なんだったのか、わからないのだ。

 それを訊かれた芽衣子は、


「………………………………」


 笑っていた。

 だがその笑いは『不敵』というよりも―――


「さあ?なんでしょう?」


 『邪悪』だった。




 直後にドアが閉まり、俺と芽衣子を寸断した。




 電車が動き出してもしばらく、俺はドアの前に立ち尽くしていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ