第5話 ‐回想‐ おぞましくも、最愛
そいつは、俺と同じく一人暮らしをしていた。
女子高生の一人暮らしというのは少々危険ではなかろうかという判断があり、俺はまめにそいつの家に通っていた。恋人なのだから問題はない。
お互いに通っている高校からさほどの距離もない高層マンション。実家が金持ちなのか、初めて来た時はどこの富豪かとも思ったが、今はもう慣れた。
部屋番号を入力して彼女にオートロックを開けてもらい、やけに広いエレベーターへと向かう。
彼女の部屋のある8階まではさほど時間はかからない。
躊躇いなどなかった。慣れていたから。
迷いもなかった。その必要がないから。
扉は、何の抵抗もなく開いた。
玄関の扉を開けた時、“臭い”がした。その臭いは、今までも何度か嗅いだことのある臭いだった。ただそれは、彼女が焼いてくれたケーキの香ばしい臭いだとか、料理の食欲をそそる臭いだとか、そんな平和的なものでは決してなかった。
それは、血の臭い。そして、糞尿の臭い。それらが入り混じって、独特なきつい臭気となって俺の嗅覚を刺激した。
俺は靴を脱ぐのも忘れて部屋の中に転がるように入りこんだ。
俺の目に飛び込んできた光景は、到底目の前にあると信じられるような類ではなかった。
部屋と玄関を隔てる扉、床に敷かれたカーペット、クローゼット、ベッド、机、テレビ、その他家具すべてに、真っ赤な飛沫がかかっていた。
そして、床には夥しい量の血。必死で気付かなかったが、それは玄関付近にまで広がっており、俺の靴も、それに浸っていた。
その血の海の中に座り込んでいるのは、この部屋の主。
彼女は、手に何かの肉片を持って、それをしきりに口に運んでいた。クチャクチャという何かを咀嚼する音と、ピチャピチャと何かを舐め取る音が、同時に聞こえてきた。
俺が弱々しくも声をかけると、彼女はピタリと全身の動きを止めた。俺はその人間らしくない機械的な動きにおぞましさすら覚えたが、彼女は恋人だと思いなおして、彼女の前に回り込んだ。
後悔した。
彼女の腹部には、何もなかった。すべて、床に零れ落ちていた。
腹の穴から肉や脂肪の引っかかった肋骨が見え、そこから血が滴っている。肋骨に囲まれた心臓は脈打っており、その両脇の肺も健在だった。胃と十二指腸は見えたが、その先にあるはずの小腸と大腸が綺麗になくなっていた。肝臓はおそらく、彼女の太腿に乗せてある肉の塊だろう。
普段は見ることのない臓腑が目の前に晒されていた。
当然だが、吐いた。
人間の所業には見えなかった。
服はぼろぼろで、上半身はほとんど裸の状態だったため乳房が露わになっていたが、そんなものがこの光景のおぞましさを和らげてくれるはずもなく、むしろ際立たせており、俺はただただ血の海の上に吐瀉物をばら撒き続けた。
彼女はそれでもいつものように笑ってあいさつをするのだ。「いらっしゃい」と。
口の周りを赤く光沢を放つ血脂で濡らした彼女の笑顔は、まるで人喰いの鬼に見えた。
いや、そんなものなら、今までに2人は見てきた。彼女は違う。
自分の肉を喰い、自分の血を啜っている。自慰行為の究極だろう自傷行為は、さらに突き詰めるとここまでになる。俺は、ここまで育った狂気を見たことがなかった。
どうやってオートロックを開けたのかという疑問など、浮かぶ余裕もなかった。
ありえないと否定することも、この現実を前にしてはできなかった。
彼女は自らの大腸の半分を食べつくしていた。ぶちぶちと繊維を噛み千切ろうとする音が俺にも聞こえた。その中から、残っていた糞がびちゃびちゃと床に落ちる。臭いは、さらに強烈になって俺の胃を再び襲う。吐くものなどもう何もないのに、胃液だけが止めどなく込み上がってくる。
なぜこんなことになってしまったのかと、今さらながらに思った。
考えるまでもない。俺が、彼女の自傷行為を禁じたからだ。
彼女にとって、自分の手首を切るというその行為が、最良の精神安定剤だったのだ。俺がそれを禁じてしまったから、彼女が今まで抑えられていた狂気を育ててしまうという結果になった。
最終的には、これだ。
結局、死なせてしまった。今までもそうだったのに、そうならないようにと考えた行為が、かえって彼女を苦しめていた。
なぜ、気付けなかったのか。
こんなに近くにいたのに。
なぜ、わかってやれなかったのか。
思い返せば、サインはいくらでもあったのに。
なぜ
なぜ
なぜ
彼女が何かを手に持って、俺の前に差し出してくる。
なんなのだろう。
見てはいけないとわかっている。
彼女の手には、何が載っているのだろう。
見たら必ず後悔すると、そんな未来は見ずとも瞭然だ。
彼女が勧めているのに、悪いものであるはずがない。
見てはいけない、今の彼女は正常じゃない。
元々正常ではなかったのだから、今さら問題はない。
彼女が何を持っているのかわからないのだから、見ずにいるのは危険だ。
なら、見ればいいじゃないか。
―――――あれ?
見た。
彼女の、子宮だった。
◆◆ ◆◆
いっそ彼女に嫌われていたらこんなことには、と、どうにもならない過去を願った。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
「これはまた……、大量の血の臭いがすると思って来てみたら―――。さすがにこれは予想外だね」
「いやぁ、これは酷い臭いだね。豚の屠殺場のほうがまだマシだよ」
「んん?なんだい、君、まだ生きてたのかい?血塗れだから気付かなかったよ。こっちの娘はお腹がすっぽりないから死んでるんだろうけど」
「それにしても幸せそうな顔だねぇ。この娘、君の恋人かい?恋人に看取られて嬉しかったのか、はたまた恋人と一緒に死ねたと思い込んでいるのか…………、一番の幸は無知だというけど、本当にその通りなのかもね」
「とはいえ、君たちの過去はとても面白いね。二人とも、とても強烈な過去だ。一つの物語にでもできるんじゃないかな?どちらも十八禁になってしまうけど」
「彼女は―――でも、結局は輪姦に話が集約されてしまうからつまらなくなるかな。もう死んでしまっているし。でも、君は―――」
「とても興味深い。君の知っていることしかあたしにはわからないけれど、それでも色々と予測はできるよね」
「なんてことだろうねぇ。君のお母さんの独占欲は人並み外れている。それはもう、人ではなくなるくらいに。幼少時から君を犯してしまうくらいに」
「あぁ、だから君は、妹が君とお母さんの子どもじゃないかと疑っているんだね?精通も早かったみたいだね。それは疑うのも無理はないよ。…………あ、ちなみにその是非はあたしにもわからないよ?さっきも言ったけれど、あたしが知ることのできるのは君が知っていることだけだからね」
「でもそれ以上に面白いのが、君の女性関係だね。まだ高校生だろう?なのにこれだけの数の女の子と……ねぇ。ま、どれも不幸な結末に終わってしまっているらしいけれど」
「知ってるかい?知らないか、これはあたしの持論だからね。……とにかく、男の子が好きになる女の子はね、少なからずその娘に母親の面影を見るものなのさ。だから君が好きになる人は皆、多少なりとも狂っているんだよ」
「ん?あぁ、そうだね。人でなしは人を好きになれない、ねぇ。確かにそれも、面白い考えではあるよ」
「小学生の時に好きになった娘は、好きな子の名前を大学ノート100冊分にひたすら、指が歪んでしまうまで書き連ねるような娘だった」
「中学生の時に好きになった娘は、好きな子と両想いだと知った途端、無理心中を仕掛けるような娘だった」
「そして、高校で初めて好きになった娘は、こうして死んでしまった」
「誰を好きになっても狂っている。好きになった人は皆、死んでいく。しかも、わざわざ死に様を見せつけるように、君の目の前で。正常だった娘さえ、狂って死んでいく」
「君は、とても脆い。感情を抑える蓋が、とても脆い。だから、狂気に準じた感情は、純粋な狂気を含んだまま、それを向けられた人を狂わせ、狂気を育てる」
「君が罪悪感を覚える必要はないよ。そうなったのはおそらく君のお母さんが原因だ。かといって、恨めとも言わないけれど。始めから恨み憎んでいるみたいだしね」
「しかし君はとてもあたしに似ているね。持っている能力といい、境遇といい…………、ん?能力?あぁ、もしかして今回の事件をきっかけにして生まれてしまったのかな、君の能力は」
「あれ?でも、ならなんで君の過去にこれがあるのかな?……まあいいや。そんなことより、君には一つ話、というか提案があるんだけどね」
「ねぇ、君」
「うちで働かない?」