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第4話 ‐抑圧‐ 発露と拒絶




 いつのまにか、私は寝てしまっていたようです。

 ただ、一体いつから寝ていたのかが思い出せません。あの古本屋に行って依頼の取り下げをお願いしに行ったところまでは覚えているのですが…………

 とりあえず私は、目を開けました。

 まず見えたのは天井です。少し目を上下させると、天井に吊り下げられた明かりの点いていないシャンデリアが見えます。でも、豪華な印象はありませんでした。ほこりをかぶっていて、色もくすんでいるからでしょうか。

 頭を右に倒して部屋の全容を見ようとすると、本がぎっしり詰まった本棚に視界を遮られてしまいました。その本棚には、様々な本がありました。

 雑多な、と言ったほうがいいかもいれません。

 辞典みたいに分厚いものや、絵本のように薄いもの。図鑑のように大きなものから、文庫本くらいの小さめなものまで。果ては、何枚もの紙を束ねただけの、本ですらないものも。

 日本語もあれば、英語もあります。漢字ばかりなのは中国語でしょうか。英語に似たアルファベットのものはもちろん多いですが、それにも劣らず、蛇の這ったような文字のものも、象形文字の背表紙のものもたくさん見えます。

 ここは、私が来た古本屋なのでしょう。私は、そこで眠ってしまったのかもしれません。だとしたら、失礼にもほどがあります。早く謝らないと。

 とは思いますが、なぜか身体に力が入りません。しょうがないので、せめてと思って、頭を左に向けます。

 そこには、姉がいました。

 姉はソファに座って、誰かと話しています。もしかして、眠ってしまった私を迎えに来てくれたのでしょうか。

 私はいつもこうです。

 姉だけではなく、周りの人にいつも迷惑をかけてしまいます。昔からずっと、多分、これからも。

 自分がいやになります。もう、私は自分に期待したりもしていませんが、それでも他人に迷惑をかけないように暮らすようにしてきたのに。

 慣れないことをしたからでしょうか。

 姉が、何か落ち込んでいるのを見て、その直後に小指の事件があって、姉の役に立ちたいと思ってしまったからでしょうか。

 私は、そんなこと思ってはいけないのに。

 私は、お姉ちゃんについていっていれば、それでいいのに。

 私は、お姉ちゃんの言うことを聞いていれば、それでいいのに。

 余計なことをしたばっかりに。


 お姉ちゃんにはもう、私しか、味方はいないのに。


 姉が泣く姿を最後に、私の意識は再び闇に落ちました。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




「……、ん」


 そんな声が聞こえて、俺はページをめくる手を止めて、芽衣子に目を向けた。

 紺野芽衣子。

 今回の事件の、有り体に言ってしまえば、犯人。

 なぜか、人を操る術を持つ少女。その能力ちからを使って、妹を始めとする11人の少女たちを操り、俺を我がものにしようとした。その片鱗が、今回の小指の爪の事件だ。

 こんな小規模な事件に、なぜあの人が興味を抱いたのかは、疑問だが。


「や、起きたかい?」


 どうやって察知したのかはわからないが、店のほうにいたはずの瀬奈さんが、階段を降りてきた。

 ここは、瀬奈さんの古本屋の地下だ。ここには無数の本を収めた本棚が壮観な光景を創り出しているが、その一角にスペースがあったため、そこにソファを並べて芽衣子及び晶子を寝かせているのだ。

 芽衣子はついさっき、起きたばかりだが。


「ここは……」


「ん、あたしの店さ。正確には、その地下だね」


 芽衣子の疑問に、いつのまにか目の前にいた瀬奈さんは答える。

 それを聞いているのか聞いていないのかわからない表情で、芽衣子はこの部屋を見渡し―――


「っ!!」


 俺と目が合った瞬間、あらぬ形相で飛びかかってくる。

 と、思っていたら、その顔を一気に赤く染めただけだった。ボンッ、という効果音まで聞こえそうなくらいの急変だった。

 芽衣子の部屋での彼女からすると、ありえない反応だ。行動もえらく挙動不審である。


「え、あ、や、あの」


 芽衣子は顔を真っ赤にして、何かを言おうとして失敗している。

 こうして見ると案外可愛いと思えてしまうのだから女というのは性質が悪い。

 が、今回ばかりは見れば見るほど白々しい。

 騙された振りをするのも一興かとも思ったが、考え直してみると面倒なのでやめた。


「女なのに演技は上手くないんだな」


 努めて冷たく言い放つと、芽衣子はさっきまで真っ赤に染まっていた顔を平常に戻した。その顔は、次の瞬間にはなぜか薄く笑っていた。


「男なら、女の演技に騙されてくれるのが礼儀ってものじゃないの?」


 何気に理不尽なことを平然と言ってくれる。

 やはり演技だったのかとは思わなかった。確信はあったからだ。


「君に礼儀を尽くす必要性はないだろ。それに、包丁を持って襲いかかってくるような奴が、何が礼儀だ」


 一歩間違えば本当に死んでいるところだ。

 というか、こいつは今の自分の立場を弁えているのだろうか。この不遜な態度の理由は、一体なんなんだ。殴ってもいいだろうか。


「まぁまぁ。瑠樹くん、女の子には優しくするものだよ?あたしがこの娘を殴った時だって、君、心配してたじゃないか」


 瀬奈さんが俺を諭すついでに余計なことまで言いやがったせいで、芽衣子の顔に喜色が浮かぶ。

 単純に、怪我をされたらこちらの寝覚めが悪いと思っただけで、他意はない。なのに、瀬奈さんの思わせぶりな言い方のせいで、芽衣子は非常に迷惑な勘違いをしてくれた。


「心配、してくれたんだ……」


 迷惑である。

 もう一度言おう。迷惑だ。そんな希望に満ちた瞳で見つめられても困る。

 こいつには振られたという自覚がないのか。


「心配なんぞ誰がするか。ただ、する必要のない怪我をされても、こっちの気分が悪くなるだけだから一応確認しておいただけだ。勘違いするな」


 あれ。なんかツンデレのテンプレをなぞっているだけな気がしてきた。

 不安なのでもう一押ししておく。


「それに先に言っておくが、あの時のキスだって君の暗示のせいだろう?あれについてどうこう言っても、俺は取り合わんぞ」


 あれのせいで瀬奈さんにも散々からかわれたのだ。先手を打って言っておくに越したことはない。

 が、


「ふーん……」


 芽衣子は笑っていた。まるで勝利を確信したかのような笑みだ。とてつもなく不安になる。何かやらかしただろうか。


「一之瀬くんの、“アレ”。私の、暗示のせいなんだ……?」


「っ……ああ、当然だろうが。それ以外にどんな原因がある」


 俺にとっては揺るがざる勝利宣言だったのに、それを突きつけられたはずの芽衣子は、さらに笑みを深くした。

 これは、まさか―――


「私には思いつかないけど。でも、一つだけ、知っておいてもらいたいことがあるんだよね」


「…………なんだ」


 聞きたくもないのに促してしまうのは人間の性。仕方ない。


「私ね、対象人物の爪を持ってないと、その人の意志に大きく干渉できないの」


「………………………………」


 俺、絶句。

 真っ白になった頭で、しかし記憶だけは冷静に芽衣子に対抗できる材料を探し出してくれた。


「なら、君の部屋で俺の身体を縛っていたのはなんだ?あれは君の暗示なんじゃないのか?」


 渾身の一撃。というか反撃。

 だと思っていたのに、それもあっさり芽衣子は回避してくれた。


「あれも一応暗示だけど…………、あんまり長くは続かないし、準備にも手間がかかるから。ほら、一之瀬くん、すぐに動けるようになったでしょ?」


 「ヤりたい」と思うと動ける、というのは、俺の勘違いだったということか。

 いや、それ以前に、芽衣子の話から考えるに、俺がこいつに100%自分の意志でキスをしたということになるのだが…………

 瀬奈さんは堪えようともせずに大笑い。

 芽衣子は芽衣子で、恋する乙女のような、というかそのものの目で、俺を見ていた。もうこいつの言いたいことが予想できた。


「というわけで一之瀬くん」


 とはいえ、これはまずい。優位性は完全に芽衣子の手中にある。

 これ以上の弁解も墓穴を掘るだけになる。かといって黙っていては芽衣子の思い通りになる。八方ふさがりってのはこういうことか。


「一之瀬くん、―――ヤろ?」


 状況は不利だ。だが、芽衣子のこの言葉は、俺が怒りを覚えるには十分だった。


「ふざけるな。冗談も大概にしろ」


「ふざけてないよ。冗談でもない。本気だよ?」


 芽衣子はまだ笑っている。

 俺はその気に喰わない笑顔を睨んだ。


「だとしたら尚更だ。言ったはずだろ、君は俺と一緒にいられるほど狂えはしない、と」


「私も言ったはずだよ?あなたのためなら、いくらでも狂えるって」


 いよいよ本格的に苛立ってきた。こいつは人の話を聞いていたのか?


「もう少し狂えばあなたの理想になれるんでしょ?だったら―――」


「なら、」


 芽衣子の言葉を遮る。こいつはおそらく、現実を知らしめないと諦めてはくれない。

 だから俺は、言うことにした。


「なら君は、本当に狂った人間を見たことがあるか?」


「そんなの、ない……けど」


 それはそうだろう。そう簡単に人は狂気に負けない。だから、狂ってしまった人間もそう見るもんでもない。

 だが人は、たった一つのきっかけで、狂気に取り込まれることがある。


「俺が行った時、その時には既に手遅れだった」


「瑠樹くん」


 瀬奈さんが語調で俺を止めた。


「俺は、言いますよ」


「…………そうかい。それじゃ何も言わないよ」


 瀬奈さんは溜息をついて晶子の寝ているソファへ向かい、その腕置きに腰かけた。ここは俺に任せるということだろう。

 なら、それに甘えさせてもらおう。


「俺は一か月前まで、ある女と付き合っていた。そいつは昔から自傷癖があって、それをリストバンドで隠していた。だから俺も、行為に及ぶまでそれに気付かなかった」


「っ、そ、その人のことが忘れられないのなら―――」


「黙ってろ。今は俺が話してる」


「……ッ」


 芽衣子の瞳に初めて怯えの色が宿った。


「彼女の自傷癖に気付いてから、俺はそれを止めるように言った。彼女は俺の言う通りリストカットをやめてくれた。―――――彼女が死んだのはその二週間後だった」


「え……」


「彼女が耐えられる限界が、二週間だった。二週間で、彼女は自身の内包する狂気に、取り込まれた。彼女は元々狂っていたが、俺のせいで彼女は狂気に殺された」


 芽衣子は完全に怯んでいたが、俺はまだ言いたいことを言っていない。芽衣子を諦めさせるにはまだ足りない。


「俺が彼女の下に向かった時、彼女は既に自分の腹を包丁で切り開いていた。で、はらわたを引きずり出して、自分で食べていた」


「……ッ!!」


「見た時は驚いた。死んでもおかしくない……いや、死んでいないとおかしい傷を負いながら、笑って自分の内臓を食べているんだから。今でも思い出しただけで吐き気がする。それほどにその時の光景は、おぞましかった」


「…………ぅ」


 芽衣子は俯いていた。想像したのかもしれない。


「君には、自分の内臓を食べるほどに狂う覚悟はあるのか?狂気に呑まれるっていうのはそういうことだ」


「そ、そんな、の……」


「狂うっていうのは人間をやめるのと同じことだ。簡単に狂いたいなんて言わないでほしい」


 一通り話し終わったので瀬奈さんに視線を向けると、瀬奈さんは芽衣子に歩み寄り、その肩を叩いた。


「そういうことだよ、芽衣子ちゃん。君は願望だけで覚悟がない。だからこいつも君に魅力を感じないんだよ」


 瀬奈さんはもっともらしいことを言っているが、俺はただ単純に、芽衣子が正常すぎるから好きになれないだけだ。瀬奈さんもそれはわかっているはずだが、今はそんな些事で話の腰を折るようなことはしたくなかった。

 結局、俺が芽衣子に惹かれることはない。それに変わりはない。

 俺はなぜか狂気を孕んだ人間に惹かれるが、かといって正常な人間を狂わせようとは思わない。いくら芽衣子が俺になんでもすると言っても、それを俺が望んでいない限り芽衣子に可能性はない。

 それを、芽衣子に教えたかった。俺の知っていることだけが現実だ、などと大層なことを言うつもりはないが、少なくとも芽衣子の知らないことを俺は知っている。

 芽衣子は、知らないから今までの態度を貫けた。

 知ってしまった今では、それもできていない。


「ま、君の気持ちもわからないでもないよ。好きな人に尽くしたいというのは誰しもが思うことだしね」


 瀬奈さんの慰めにも、芽衣子は反応しない。


「そうそう……、これは、君の妹も同じことなんだよ」


「……晶子、が……?」


 しかし、家族の名前を出されて、芽衣子は応じた。


「君たちは姉妹だから言っておくよ。芽衣子ちゃん、君は確かに若干ながらも狂気を抱えている。それはとても純粋な感情に基づいたもので、感情の矛先が消えない限りはその狂気も消えることはない」


 瀬奈さんが怖いことを言いだした。俺は殺されるのか。


「もちろん、君が狂気を捨てる気がないことは知っているよ。ただね、君以上の狂気を持つ人間が君の身近にいることも、知っていてほしいんだよ」


「っ、それって……」


「もちろん、晶子ちゃんのことさ」


 芽衣子の息を呑むのがわかった。

 瀬奈さんから聞いた時は俺も驚いたが、同時に納得もした。


「晶子ちゃんはね、君のことが大好きで大好きで仕方がないのさ。だから、その感情が飽和して、狂ってしまった」


「な、なに、それ……。だって、私…………」


「晶子ちゃんの想いは恋愛ではなく家族愛でね、これは少し珍しいんだよ。半ば強制的に一緒にいることになる家族への感情が狂気に変わるまでに大きくなるのは、ね。だから、瑠樹くんも彼女に多少は惹かれてしまったんだよ」


 認めたくないがその通りだ。

 家族愛の飽和というのは、今まで見たことがない。家族に対する独占欲や憎悪や恋愛に基づく狂気はいくらでもあるが、家族愛で狂った人間は初めてだ。

 だから、多少なりとも俺は晶子に魅力を感じてしまったということだ。

 だがそれは、芽衣子にとって由々しき事態になるだろう。その証拠に、芽衣子はまだ眠っている晶子を睨んでいた。


「その憎悪を糧にして、狂ってみるか?」


「……っ!」


「晶子は、君を慕っていた。君に憧れていた。いっそ君になりたいとでも思っていたのかもしれない」


 あの後―――瀬奈さんが芽衣子を気絶させた後、俺は“あの家の記憶”を探った。

 あの家が最も鮮明に憶えているのは、幼い芽衣子を連れて入居してくる初々しい夫婦の姿ではなかった。晶子が生まれ喜びに沸く家族の姿でもなかった。微笑ましい家族団欒でも、醜い夫婦の喧嘩でもなかった。

 “表向きは”仲良く、微笑ましく、ともに同じ空間を共有する、姉妹の姿だった。

 そしてその家は、“裏”も知っていた。芽衣子を愛する晶子と、晶子を疎む芽衣子の姿もまた、家は記憶に残していた。

 その歪な関係は、小学生のころに始まっていた。

 芽衣子を愛するがあまり、晶子は芽衣子の真似ばかりしていた。

 その当時はまだよかった。小学生くらいなら、姉妹で着るものを合わせることも、同じ場所で遊ぶことも、そう珍しいことではない。

 だが晶子は、好きな人まで、真似をした。

 芽衣子が好きになると、晶子は同じ人を愛した。

 芽衣子が付き合うと、その男に晶子も告白した。

 その結果は知らない。すべて晶子に奪われたのかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、晶子からすれば大好きな姉の真似をしたかっただけだという行為が、芽衣子の視点からは愛する人を奪う行為に他ならないのだ。疎む理由としては、十分すぎる。

 だが、芽衣子は逆に晶子に対して好意的に振る舞った。そうすることで、晶子に対する嫌悪を隠そうとしたのだろう。あるいは、晶子を嫌悪する自分を許せずせめて行為だけでもと思ったのかもしれない。

 しかしどちらにしろ、それは晶子の感情を肥大化させるだけでしかなかった。

 やがてそれは、狂気となって晶子の中に留まることになる。

 “結果、その執着の狂気が、芽衣子自身も狂わせてしまった”。おそらく、芽衣子が後手に回ったのはこれが初めてなのだろう。だから、嫉妬する。


「どうだ?自分の持っていないものを持っている妹というのは」


「…………そんな、の」


「自分の好きな相手が、妹のことを好きだと聞いて、どうだ?悔しいか?」


「……―――じゃない」


 何かを言ったらしいが聞きとれなかった。


「なんだって?」


「そんなの当たり前じゃない!悔しくないわけないでしょ!?本当に好きなのに、本気で愛してる人なのに、毎回毎回……、あの娘は、あいつは、晶子は……!」


 芽衣子は少女にあらぬ表情で毒づく。こいつ、こんな顔もできるのか。

 と、わけのわからん感慨を覚えるが、今はとりあえず忘れる。


「なら君は」


 少し威圧して、芽衣子を黙らせる。叫ぶ奴は、案外簡単に黙るものだ。


「あれだけ聞いてもまだ君は狂いたいとでも言うつもりか」


「だから!言ってるのに!一之瀬くんのためなら狂えるって!」


 また同じことを……。こいつは……!


「なんで私の想いをわかってくれないの!?こんなに……、こんなに好きなのに―――!」


「お前こそなぜわからない!!」


「ッ……!」


 抑えられなかった。抑える必要もないと思った。


「お前は聞いてなかったのか!?俺は狂った人間しか好きになれないんだよ!狂った人間は人間ではなくなる。俺は人でなしなんだよ、だから俺は“人”を好きになれない!」


「そ、そんなの……わからな……」


「わかるんだよ、俺は!俺だって一度はあるさ、普通の人間を好きになろうとしたことぐらい。付き合ったこともあるさ、でも!そいつも俺の狂気に中てられて、俺の目の前で発狂しながら死んでいったんだよ!!」


「そん、な……」


「俺が好きになった奴は狂っていようが狂っていまいがその人生が狂うんだよ!俺が狂わせてしまうんだよ!そして狂った奴はほとんどが死ぬんだ!」


「あ……ぁ、」


「何人も何人も何人も何人も何人も何人も俺の目の前で死んでいった!みんな俺が好きになった奴だ!たとえ元から狂っていても俺が近づいただけでその狂気は膨れ上がって呑み込まれるんだ。そんなのはもうごめんなんだよ!!好きな奴が死んでいく光景なんてもうみたかねぇんだよ!!」


 叫んだ。


 …………


 ………………


 ……………………


 吐き出した。

 言わなくてもいいことを。

 伝えるはずのないことを。

 言いたくなかったことを。


 こんな弱いところを、見せたくはなかった。

 恥ずかしすぎて、顔を床に向けた。

 本当の感情を知られるのがこんなにも恥ずかしいことなのかと、改めて思い知る。

 感情を抑えることに慣れていた。

 感情を表現してはいけなかった。

 感情は消えたと思い込んでいた。

 感情は捨てられるものだと、そして既に捨ててしまったと、俺は自分自身を“過小評価”していた。

 俺は、自分の感情から目を背けられるほど、弱くなかった。

 一度狂ってしまったから。

 感情に臆病になっていたから。

 欲望も、それに準ずる感情も、俺の中にはないと思い込んでいた。


 だが、違った。


 俺は、自分の気持ちを直視できるほどに、強かった。

 狂ってしまうほどに、弱いのに。

 俺は、自分の気持ちを人にぶつけられるほどに、強かった。

 その究極の形である恋を、敬遠していたはずなのに。


 たった一か月前の決心が、ここで簡単に崩れた。


 これ以上、何も言いたくなくなった。口を開くと、また感情のままに叫んでしまいそうで。

 どうしようもなくなって、ただ床を見ることしかできなかった。


 温かい感覚が、背後から俺を包んだ。

 誰なのかは、見なくてもわかった。こういう時だけ、この人はとても優しい。


「…………これでわかったかな、芽衣子ちゃん」


「え……?」


「この子はとても強いんだよ。強大で、なおかつ根の深い狂気を孕んでいながら、この子は全くそれに負ける気配がない。とても、強い子だ」


 この人の評価は、たまに甘い。だから俺も困る。


「でもね、この子はとても脆い部分がある。それは、心の壁だ」


「こころの、壁……?」


「そう。この子はね、心を閉ざすための壁がとても脆いせいで簡単に他人に心を開いてしまうんだよ。そうなるよう、心が作りかえられてしまったんだ。だから、感情も表に出やすいし、逆に抑えるのが難しい。―――あたしが初めて会った時は、全く真逆の人格を演じていたけどね」


 演じていたなんて人聞きの悪い。もう少しマシな言い方はなかったのか。


「ま、今も―――いや、ついさっきまでも、そうだったのかな。感情を抑えるのにとても必死だった。でも、今は違うね。この子がこんなに叫んでいる姿は、あたしも初めて見たんだ。君は運がいいと思うよ?」


 俺は珍生物かなにかか。そんな言い方はやめてほしい。

 などと軽口が叩ければ、どれだけ楽だろうと思う。だが今の俺は、それもできない。喉が枯れるまで叫びたいというわけのわからない衝動を抑えるには、全身全霊をかけて口を閉ざすこと以外に方法がなかった。

 それをわかってくれているのか、瀬奈さんはまだ話を続けてくれた。…………ただし、俺のためかどうかは定かではないが。


「さて、この子のことは話した。今度は、君の番だ」


「え……、私、の……?」


「そう。あたしは時間をあげたよ?選択肢を作って、その内から一つを選ぶには十分な時間だ」


「どういうこと……?」


「君が本当にこの子のことを想っているのなら、あたしがこの子を抱いてあげる前に、君が手を差し伸べるべきだったよね?」


「……ッ!」


「君は何を躊躇っていたのかな?もしくは怖がっていたのかな?あたしにとっては別にどちらでもいいけどね。君は、どんな理由があっても躊躇ってはいけなかった」


「そ、それは―――」


「人でなしすら抱く覚悟がないなら、さっさと手を引きな。この子は、好きな人なら血塗れでもキスする覚悟を持っていた。骨と皮だけになっても抱いて愛でる狂気を持っていた。人並みの覚悟と狂気でこいつを愛せるなんて思うな」


「っ……、ぅ」


 瀬奈さんの話す間に、俺の気も少しずつ落ち着いてきた。

 が、今度は芽衣子が追い詰められたような表情をしていた。絶望を突きつけられた、という表現でも正しいかもしれない。

 だが、瀬奈さんにここまで言われて耐えているのだから気丈なやつだ。普通なら泣いていてもおかしくない。

 俺が頭を廻らそうとすると、瀬奈さんはそっと俺から離れた。背中を温めていた心地良い感触もともに離れていく。…………胸の感触については憶えていないということにしておきたい。

 ともかく。なんとか落ちつけたのは瀬奈さんのおかげだ。


「……すみません。手間をかけさせました」


「いやいや、君に抱きつけるなんてそうないからねぇ。役得ってやつだね」


 こんな時にも無駄口を叩ける余裕があるのは正直羨ましい。


「瀬奈さんには弱点とかないんですか」


「んー……?どうだろうねぇ。どこでも責められたら感じちゃうけど」


 んな話してんじゃねえよ。


「なんでそんなことを急に?」


「いえ、別に。理由はこれといって」


「そう」


 瀬奈さんは晶子に目を向けた。俺も釣られて見ると、やはりまだ眠っている。あれだけ怒鳴ったりしたというのに眠っていられるのは才能と言えるのだろうか。

 芽衣子に目を戻すと、彼女は項垂れていた。さすがに言いすぎたのかもしれない。とどめは瀬奈さんだったが。しかし、されたことを考えると同情もできない。


「ところでさ、芽衣子ちゃん」


 芽衣子は顔を上げ、涙の浮かんだ目で瀬奈さんを見る。


「君は、あたしのことを知ってたの?それとも、あたしを選んだのは晶子ちゃんなのかな?」


 瀬奈さんの質問は、晶子に話を聞くよりも、会うよりも前に、俺が疑問に思ったことと同じだった。

 ここは、表向きはただの古本屋だ。仮にも傷害事件にもなり得ることを、こんな得体の知れない店の、なんの専門家でもない経営者に相談しようと思うはずがない。

 探偵業をやっているというわけでもなく、おそらく瀬奈さんも、今までに何かの事件を解決した経験はないだろう。

 やはり結論は、芽衣子の暗示ということになるのだが、


「……知らない。晶子には、行動の指向性を制限する暗示をかけただけだから」


「指向性の制限?なんで」


 俺がオウム返しに訊き返すと、芽衣子は頷いた。


「一之瀬くんの近くの人に近付け、って」


 俺が訊きたかったのは、なぜ晶子を完全に操らなかったのかということなのだが、芽衣子のその答えは、また新たな疑問を創り出した。

 つまり、晶子は、俺と瀬奈さんの関係をどこで知ったのか、ということだ。

 行動の指向性の制限、即ちそれは命令とほぼ同義だが、俺に近い人物に近付けと命じられたのなら、まずは俺の家族、友人、いれば恋人にその対象は絞られる。

 家族や恋人はともかく、学校で世間話をするような友人はいくらかいる。それを差し置いてまで、なぜ瀬奈さんなのか?

 まったくもって、疑問は尽きない。

 しかし、それらを訊ねても成果はなかった。芽衣子は晶子に命じただけで、晶子の行動自体は把握していなかったという。俺を攫った時は、晶子を尾行していたらしいが。


「ま、それはともかくさ。瑠樹くん」


「はい」


 思考の途中で割り込まれたが応える。しかし、ここまでわかっていないことが多いのに、ともかく、で済ませてしまう瀬奈さんは一体どういう神経をしているのだろうか。まあ、時間はあるし今訊かなければならないということもないが。


「この娘は君と違って弱いのに堅いね」


「はい?」


 突然の話題転換に戸惑う。それがなにか?


「あたしはこの娘に興味がある」


「………………」


 嫌な予感だけが俺の頭を廻る。手段があるならこの人を止めたい。

 だが、今の俺にはそれもなかった。成す術もなく、瀬奈さんの言葉を待つしかなかった。


「うん、決めた。芽衣子ちゃん―――――うちで働かない?」


 その一言で、俺は既に諦めていた。





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