第3話 ‐接近‐ 唐突な解明
誰かの泣き声が、聞こえた。
それは、少しずつ鮮明に聞こえるようになっていく。
しばらくして、それが女性のものだということがわかった。それに、顔を布団か何かに埋めているかのように、その声はくぐもっていた。
泣き声は続く。
部屋の中で反響して、俺の耳朶をしつこく打ち続ける。
いい加減、黙ってほしい。いつまで泣くつもりなのか。
そう思いつつも、それを伝える手段も止める術も持たない俺は、またしばらく我慢していた。
やがてそれは、すすり泣きに変わり、最後には収まった。たっぷり10分は泣いていたんじゃないだろうか。いい歳しながら、よく泣く。
この、紺野芽衣子という女は。
泣いている理由はわからない。女の泣く理由など、それこそ無数にあって予想も難しい。
ただ、今回ばかりは、それを特定できる大きなヒントが、直後に与えられた。
芽衣子は、一枚の写真を見ていた。写っている人間の顔は見えないが、それだけで失恋だろうということはなんとなくわかった。ただ、俺がそれぐらいの発想しかなかったというだけだが。
果たして、その予想は、どうやら当たっていたらしい。芽衣子は、唐突にその写真を破り始めた。好きだった奴でも写っているんだろう。破りたくなる気持ちはよくわかる。
紙片の一片が俺の足元まで飛んできたので、少し見てみる。
俺だった。
ちょうど頭の部分だったのでわかった。わかってしまった。見なきゃよかったと後悔しても、もう遅い。後悔というものは、往々にして手遅れなものだが。
それはともかく、俺には心当たりがなかった。誰かを振った憶えもなければ、告白された記憶もなかった。つい二ヶ月前に告白した憶えならあるが、逆はなかった。
ならあれか、それから一ヶ月後に破局する前までの、女と付き合っている俺を見て失恋したと思い込んでしまったのか。最悪の可能性としては瀬奈さんと一緒にいるところを見られて誤解されたということもあり得るが、それは考えたくないので思考から真っ先に排除した。
とはいえ、どちらにしても結果は同じだし、もっと重要なことが、今はある。
ここはどこだ。
俺の部屋ではない。
俺の部屋はここまでの生活感はない。努めてそうなるようにしているのだから、間違いはない。
結論として、芽衣子がいるのだから彼女の部屋なのだろうということに行きついた。当然の帰結だ。
ただ、そうなると次に目につくのは、部屋に置かれている呪い道具だ。
壁には、占星術に使うような表や六芒星が何重にも書かれている紙が貼られている。机にはタロットカードが散らばり、その傍らには…………、ナイフが置かれている。アセイミと言うべきだろうか。
他にも、部屋を見渡せばまだまだある。俺が名前を知らないものも、かなりの数あった。
俺は部屋を一通り見た後、芽衣子に目を戻す。彼女は、顔を俯けていた。
言い忘れていたが、俺はこの光景と同じ時系列にはいない。この光景は俺のいる時系列とは異なる、と言ったほうが正確だろうか。
簡単に言えば、俺は、俺のいる場所の記憶を辿ることができる。だから、俺は芽衣子の部屋で、過去にこの部屋で起こったことを追体験していることになる。だから、俺がこの光景を見聞きできても、芽衣子から俺を感知することはできない。
だが、今までとは違う点もある。今までは聴覚情報だけだったが、今回はなぜか視覚情報まで得られている。情報が多いのはそれで構わないのだが、余計なことまで知ってしまうような気もして、手放しで喜べるようなものでもなかった。
ただ、俺は“これ”をいつでも使えるわけではない。ましてや、気を失った状態で使えるようなものではない。
俺は一度、気を失ったはずだが、なぜこの能力を使えているのだろうか?
そんなことを俺が思案していると、控えめなノックがされた後、ゆっくりとその部屋の扉が開けられた。
―――お姉ちゃん?
晶子の声。純粋に姉を心配する優しさが、その声には現れていた。
―――どうしたの?目、真っ赤だよ?
対して、芽衣子は何も応えない。
―――…………お姉ちゃん。何かあったの?
晶子は、芽衣子の顔を覗き込む。それでも、芽衣子は反応を示すことはなかった。
―――え、えっと……、何があったのかわかんないけど、その、そんなに落ち込むことは…………ッ!
晶子は、突然、腕を掴まれて身体を震わせた。
―――…………晶子
初めて口を開く、芽衣子。その声は、本人の見た目以上に重く、低かった。それを聞いた晶子は、恐怖故か、身体を引こうとする。が、腕を芽衣子に掴まれたままだったため、それは叶わなかった。
―――晶子……、晶子は、私の味方、だよね……?
縋るような芽衣子の声に、晶子はさっきまでの恐怖を忘れて何度も頷く。
―――うん、うん!私はずっと、お姉ちゃんの味方だよっ
芽衣子は晶子の顔を見た。それだけで、晶子の表情が華やぐ。芽衣子の顔には、また新たな涙の筋が走っていた。
―――よかった……。じゃあ晶子、指切り、ね
―――うん!
そう言って、二人はお互いの小指を絡ませる。
なんとも素晴らしいじゃないか、この姉妹愛は。感動するよ。俺も妹といつまでもこういう関係を続けていきたいものである。…………本当に妹かどうかも定かではないような妹だが。
まあ、ともかく。これで、ある程度はわかった。さすがは俺だ。持っている能力は、絶対に腐らせない。
さて、そろそろ―――
“戻ろうか”
◇◇◇◇・◇◇◇◇
目を覚ましたのは、案の定、芽衣子の部屋。
真っ先に目に入ったのは、部屋の天井。次に壁一面に貼られた読解不能な文字の羅列された紙。呪詛かなにかだろうか。見つめている内にその文字がムカデのようにも見えてきて、目をそらした。
芽衣子と目が合った。
俺は思わず上体を起こして後ずさる。が、すぐに壁に到達してしまい、逃げ場を失った。扉は芽衣子の背後。俺は、諦めた。
この部屋から出ることは諦めて、芽衣子と話をすることにした。
「紺野……芽衣子、だったな?」
「あ……、私の名前、知っててくれてたんだ。嬉しい……」
本当に嬉しそうな笑顔を俺に向けてくる。あの悪寒が頭に蘇ってきて、俺は思わず自分の肩を抱いた。
そんな俺の様子を見た芽衣子は、
「あ、寒かった?クーラー効きすぎかな、ごめんね」
そう言って、エアコンのリモコンで何かのボタンを二度押した。エアコンの駆動音が小さくなった。勘違いも甚だしい。そんな気遣いができるなら、さっさとこの部屋から出ていってくれ。もしくは、出ていかせてくれ。
芽衣子は、また俺に向き直る。どうやら出ていく気も出ていかせる気もないらしい。
しかしなんだ、この部屋で正常でいられるってのも、ある意味、才能なんだろうか。四方をわけのわからん文字に囲まれていてよく住めるものだ。
―――いや
ちょっと試してみよう。
「トイレに行きたいんだが、退いてくれるか?」
「ダーメ、逃げるんでしょ?本当に行きたいならここでしなよ、飲んであげるから。あ、それとも食べなきゃいけないほう?」
予想通り、狂っている。こんな部屋なのに正常でいられるんじゃなく、狂っているからここにいられるんだ。今のこいつは、元々、正常じゃない。
言うまでもなく、スカトロジーは俺の趣味ではないので、丁重に断っておいた。
するとこいつは残念そうな顔をするのである。やってられん。
面倒くさくなって、俺が壁に背中を預けて力を抜いていると、芽衣子は気味の悪い笑顔を浮かべて俺に近づいてきた。というか、その身体をすり寄せてきた。
やがて芽衣子は、俺の股の間に身体を割り込ませ、俺の太腿に跨ってきた。やりたいことはわかった。
わかったが、芽衣子を退けようとした身体が、なぜか動かなかった。
なら、と思い、全く逆の目的で動こうとすると、動かせる。その動かせる手で、芽衣子の首を掴んで組み伏せる。どうやら、「ヤりたい」と思うと動かせるようになるらしい。なんて面倒な設定。
「やっと、してくれるの?」
やっと、と言われても。俺は、こいつがどれだけ待ったかなど知らないし、どうでもいい。
とはいえ、それは肯定する。でないと、身体が動かない。はずだ。
「ああ。……ただし、残念ながら俺は死体愛姦者でね。ヤるのは君を殺してからだ。それでもいいなら、望み通り犯してあげるよ」
もちろん、ハッタリである。俺にはそんな変態嗜好はない。
これで少しは怯むのではと思ったが、相手はやはり狂人。その顔はむしろ喜色に満ちていた。
「いいよ。殺してからでもいいし、犯しながら殺してくれてもいいんだよ?ほら、死ぬ瞬間って、アソコの締め付けがすごくきつくなるって言うから」
窒息死じゃないとその恩恵(?)は受けられないはずだが。と言っても、どうせ「なら絞殺して」と言われるのが目に見えているので言わなかった。実践したわけでもないので本当かどうかもわからない。
さて、どうしよう。
今更ながらに、俺の手札の少なさに絶望する。
小指がどうこうという事件の犯人はこいつだろう。他人の身体を動かせなくできるなら、自由に操ることもできるはずだ。自由に、とまではいかなくとも、暗示によってある程度は思い通りにできるはずだ。
その際に必要だったのが、おそらく小指の爪。操りたい人物の身体の一部でもあれば、呪いは成立する。なくても、藁人形でどうにかなってしまう世の中である。あれば、その効果はかなりのものだと思っていいだろう。
特に小指は、ゆびきりに使われることからも、重要性は比較的高い。
芽衣子は、そのゆびきりを、主従の誓いの代替行為として用いたということだろう。その際の証として、小指の爪は、芽衣子に献上されたのだ。
そして、従えた女の子たちを使って、俺を自分のものにしようとした。
ゆびきりの誓いは、おそらく感染する。芽衣子が最初にゆびきりを行ったのは晶子。そして、晶子が友人とゆびきりを行って、その友人も芽衣子の配下に、その友人がまた…………といった具合に、である。こうしていけば、自分は最小限の労力で最大限の駒が用意できる。なんとも大袈裟なことだ。
考えてみれば、少し前から知らない女からやけに話しかけられていたのだが、これが原因か。
だが、それらの推測を提示しても、それが事実だとしても、芽衣子にとっては何のダメージにもならないだろう。最終的な目的はおそらく、俺。それが実現された今なら、これまでの過程に意味はなくなる。
ならどうしようかと思ったところで、
「俺は…………」
思いついたのは、
「俺は……、狂った人間にしか魅力を見出せない」
俺自身の、身の上話だった。期待に満ちていた芽衣子の顔が、怪訝に変わっていく。俺が芽衣子の上から退くと、芽衣子も起きて、座りなおした。
「俺も最近気付いたことなんだが、俺が好きになる人間は、必ず、大なり小なりどこかが狂っている」
なぜか芽衣子は俺の話に頷きながら、親身になって聞いてくれた。ぶっちゃけ単なる時間稼ぎだし、そんな態度で聞かれても俺は困るだけなんだが。
「だから、俺は、俺のことを好きになって病んでしまった君に、少なからず興味を抱いている」
芽衣子の表情が明るくなる。興味には、正の興味と負の興味があるということをいずれ教えてやるとしよう。
だが、今は
その希望を打ち崩すのが、先決だ。
「君は、俺の恋人たりえない」
「…………え?」
芽衣子は笑顔のまま固まる。が、すぐに、それは泣き顔に歪んでいった。
「どう、して」
「俺はもう、狂いきってしまった人間しか好きにはなれない。君はまだ、正常だ。俺はもう、末期だ。仮に付き合ったとしても、君は俺ほど狂えない。狂えない人間は、壊れるしかない。だから―――」
「わ、私は!」
俺の言葉を遮って、芽衣子は叫んだ。見るからに必死だ。
「私は、一之瀬くんのためなら、いくらでも狂えるしいくらでも壊れてあげられる!一之瀬くんが狂えって言ったら狂えるんだよ?なのに、それなのに……!」
「人は、たった一つの原因で狂ってしまう。だけど、そんな簡単には狂えない。自分が狂っていると自覚している人間は、まだ狂い切れていない。俺だって、他人に言われるまで自分が狂っているなんてわからなかった。今でも、自分は正常だと思っている」
「それなら、一之瀬くんはまだ……」
芽衣子は縋るような声で、実際に俺の腕を抱いて縋ってきたが、言いたいことは予想できた。だから、今度は俺が、芽衣子の言葉を遮り首を振る。
「君はまだ、後戻りできる狂い方だ。でも、俺は取り返しのつかない狂い方だと、ある人に言われたよ。狂い方がある程度まで進むとね、人は狂気を内側に内包するようになるんだよ。君はまだ、狂気を外面で持て余している状態だ」
芽衣子は何も言い返さなくなったが、まだ俺の顔を見つめ続けていた。何を考えているのかは、推し量ることは俺にはできない。
「狂気は内包すると定着してしまうから捨てられなくなる。その上、中々、外には出てこないから外面だけでは正常な人間と何も変わらなくなる。俺は、そういう人間だ」
“ある人”の言葉を覚えている限り再現してみた。
俺の腕を抱く芽衣子の力が弱まるのがわかった。もうそろそろ諦めてくれるだろうか。
そう思ったのは、例の如く甘かったようだ。
「なら……、抱いて」
「……………………」
話を聞いてなかったのか、とは思わなかった。その結論に行きつく思考は、理解できた。
「抱いてくれるなら、他にはもう何もいらない」
抱いてさえくれれば、忘れてあげよう。どうせ、男には何も残らないのだから。だからせめて、女の自分に、交わったその証を残してほしい。
それが、芽衣子の答え。
結果、芽衣子は決定的な言葉を、その口にした。
「―――あなたの子どもが、欲しい」
これこそ、芽衣子が狂い切れていない証拠だ。
本当に芯まで狂っている人間なら、本能を、人の範疇を超えて延長させる。性欲も食欲も睡眠欲も、人を殺すという領域にまで延長させる。それが、狂気だ。
あるいは―――
「紺野、芽衣子」
それ以上に狂ったのなら、人は、本能すら、忘れる。俺のように。
「俺は、君を拒絶する」
空腹など、あってないようなもの。腹が空っぽになるのを感じ取れるだけだ。
「君は、俺のためなら狂えると言った。壊れてもいいと言った」
性欲も、湧かない。それの自己処理を最後にやったのはいつだったか、もう憶えていない。
「だが、人は誰かのため、と言った時、狂えなくなる。壊れることも、できなくなる」
睡眠も、週に2,3時間取れば十分だ。睡眠欲自体がない。一晩中寝たことなど、あっただろうか。
「狂った時、人は自分のことしか考えられなくなるから。壊れてしまったら、人は自他の区別がつかなくなるから。そうなってしまった時、君のそれは、俺のためではなくなる」
それに―――
「それに、俺の欲は、すべて狂気にしか向かない。狂気を抱いた人間に興味を引かれるのは、それが理由だ。狂った人間の、その狂気を喰ってみたいと望み、犯してみたいと欲し、その中で眠ってみたいと夢見る。だから俺は、狂っている」
俺はやはり、狂っているのだろう。狂っているものが好きな理由を訊かれても、好きな食べ物のその理由を訊かれて答えられないのと同じように、明確な理由は答えられない。強いて言うなら、好きだからだ。それは、世間一般の人間と何も変わらないはずだ。
俺は、そういう基準で暮らしている。その基準も、やはり狂っているのだろうか。
「君に似た狂気の持ち主はもう会ったことがある。それも、君よりももっと強烈な狂気だ。俺はそれを喰ったし、犯したし、彼女の狂気の中で眠ったこともある。だから、君にはもう、あまり興味はないんだよ。君のことをあまり知らない時は、もう少し興味があったんだがね」
君は俺の眼中にはないんだよ。
そう告げて、俺は立ち上がる。芽衣子による不可視の拘束は、もうなかった。
そのまま、部屋を出る。何か制止の声か行動があるかとも思ったが、それもなかった。
普通なら、一言くらいはあってもいいはずなのに。
部屋から出て、俺はすぐに足を止めた。止めざるを得ない光景が、そこにはあった。
廊下には、10人近い少女がずらり。
なんだ、この中から一人選べと?花一匁なんて久しぶりだな。
そんな軽口を言う暇もなく、先頭にいた少女が、手に持っていた彫刻刀を振り上げて襲ってきた。俺は後ろに飛び退いてそれを避けるが、背後に立つ気配を察して、反射的に屈んだ。
空を切った出刃包丁が、廊下の壁に突き刺さった。
おいおい、殺す気か。いや、殺す気なんだろうけど。
後ろにいるのは、見るまでもなく芽衣子だとわかる。どこに包丁を隠していたんだろうか。
そんなことを考える暇もなく、今度は前からバールを持った女の子とナイフを逆手に掴んだ女の子が襲いかかってきた。その後ろにもまだ、控えている。
どうすれば抜けられんだろう、これ。
俺には、怪我をさせずに彼女ら全員を無力化する術はない。かといって、女を殴るのは趣味じゃない。
バールは何とか避けたが、ナイフが俺の腕をかすめた。少量だが、赤い血が散った。
俺が慣れない出血に怯むと、ここぞとばかりに少女たちは得物を振るって、それを俺に向ける。
もう絶体絶命なんじゃないかなー、と他人事のように思っていると、
「……お」
一つ、方法を思いついた。この状況を打開する方法を。
彼女たちは、芽衣子の駒。なら、芽衣子をなんとかすればいい。
俺の背後で、芽衣子が包丁を振り上げている気配がした。避けなければ、死ぬ。
だが、俺は避けなかった。避けずに、腰を上げつつ芽衣子と向きあう。そして、突然の俺の行動に一瞬動きを止めた芽衣子の両手首を掴んで、壁に押し付けた。クッ、と息の詰まる音が、芽衣子から聞こえた。
丁度いい感じだ。俺は、そのまま―――――
芽衣子の唇を奪った。
「ん、む……!?」
目は、閉じない。驚きに見開く芽衣子の目を、俺は睨みつけていた。
後ろで、何かの倒れこむ音がいくつも響いた。同時に、芽衣子の手から包丁が落ちる音も。
作戦は成功。
とりあえず、窮地は脱した。
しかし、この後どうするかは、全く考えてなかった。
説得でもするか?いや、さっきやって失敗した。却下だ。
なら、殴って気絶させるか?できれば理想だが、さっきも言ったように俺にはその技術がない。当たり所が悪ければ簡単に死んでしまうほど人間の身体は脆いのだ。滅多にないが、万が一というのはいつもつきまとう。殺すのは、俺も本意ではない。怪我もさせたくない。
どうしようかと思案していると、
「は、ふぅ……」
と、芽衣子の口から悩ましげな吐息が漏れた。
考えている間に、何秒くらい経っただろうか。この間、無意識のうちに芽衣子の口に舌を入れていたのだが、そのせいか、芽衣子の目が恍惚と蕩けていた。
このまま快感で失神してくれたりしないだろうか。いや、俺にそんなテクニックがあるとは思ってないけど。
そんなことを考えながら、さらに舌を押し込もうとすると、芽衣子の頭も押されて後頭部が壁に当たった。これ以上当たらないように俺の右手をそこに添える。
って、何やってんだ俺は。いつのまにか左手も腰を抱いているし、結果的に芽衣子の思い通りになっているような―――――
「そーらぁ!瀬奈さんのご登場だよぉ!!」
瀬奈さんの手が、芽衣子の頭を攫った。芽衣子の頭が、今度こそ壁を陥没させるほどの勢いで叩きつけられ、手が離れた途端、床に崩れ落ちた。
そういえば瀬奈さんのことを忘れていた。大丈夫だったんだろうか。
「大丈夫だったんですか」
「あー、いやいや、お陰様でねぇ。…………なんでそんなに残念そうなんだい?」
そんなことありませんよ?
何でもない振りをして、すっかり気を失ってしまったらしい芽衣子の頭を探ってみる。怪我はないようで、安心した。瀬奈さんの乱暴な所業には、一瞬ヒヤッとしたのだが、これなら心配は必要ない。
「優しいねぇ。あぁ、これから犯そうとしてたんだから当然かな?」
「そんなことは…………」
と、瀬奈さんの軽口を否定しようとしたところで気が付いた。
俺は、芽衣子の暗示にかかっていたのではないか、ということに。
暗示にかかっていたから、芽衣子にキスをするという手段を思いつき、その先までしようとしていたのではないか。性欲を失った俺が自発的に行為に及ぼうとすることは、あり得ない。
ということは、結果的には瀬奈さんに助けてもらったということになるのだが、なんとなく癪に障るので、礼は言わず、代わりになる他の話題を探した。
「瀬奈さん」
「なにかな」
瀬奈さんは、廊下に重なって倒れる少女たちの様子を看ていた。瀬奈さんにしては珍しく丁寧な手つきだった。
「今回の事件の真相、ある程度はわかりました」
「ほー、そうかい。なら、今すぐ聞きたいところだけど―――」
「瀬奈さんなら読めていたんじゃないんですか」
瀬奈さんなら、人の過去が読める。俺の話を聞かなくてもわかるのだと思っていた。思っていたのだが……
「いいや。どうもこの娘の説明書は読めないんだよねぇ。まるで知らない言語で書かれているみたいに、全く頭に入ってこないんだよ」
「……瀬奈さんでもそういうことがあるんですね」
「あたしも始めてだよ、こういうことは。ま、いつかあるんじゃないかとは思ってたけど」
肩を竦める瀬奈さんは、少女たちを看終わったらしく、立ち上がった。俺はそれを見てから、言った。
「彼女たち、どうしますか?とりあえず芽衣子には来てもらうことになりそうですけど」
暗示によって操られていた少女たちは、記憶がないはずだからどうにかなるだろう。暗示とはそういうものだ。
問題は、芽衣子だ。場合によっては晶子も入る。晶子は被害者だが、行動の指向性を暗示によって操作されていただけで、ほとんど自我は残っていた可能性が高い。つまり、記憶も残る。芽衣子は言わずもがな、加害者なのだから、放っておくわけにはいかない。
「どうします?」
「連れて帰ろう。晶子ちゃんはうちで眠ってる。親御さんは共働きみたいだし、夕方までに話が終われば問題はないよ。怪我をしたのは君だけみたいだし、ね」
瀬奈さんは、俺の左の二の腕を見て、言った。