第2話 ‐開花‐ 嫌悪の接吻
「よくもまあ、初対面の相手にあそこまで話せるよねぇ。よほど追い込まれてるんだろうね」
俺たちは晶子と別れた後、ある場所に向かっていた。市街地からは既に外れて住宅街に入っているため、人の往来はまばらだ。
あんたが話せと言ったんだろう、とは言えなかった。
話すかどうかの選択肢は与えた。その上で話したのは、彼女だ。
今回、会ったのは、実は情報収集が目的ではなかった。依頼者がどのくらい協力的なのかを知るためのものだった。
結果は、非常に協力的である、ということがわかったのだった。しかも、不自然なくらいに。
確かに、知らない内に小指の爪がごっそりなくなっていたら不気味にも思うだろう。加えて、彼女の話を聞く限りでは、痛みも出血も一切なかったという。
まるで、最初からそこには爪がなかったかのように。綺麗さっぱりなくなっていたというのだ。最後まで見せてはくれなかったが。
異常が重なれば、多少必死になることもわかるし、誰かに縋りたいという気持ちも理解できるが……
「瀬奈さん」
この人の名前を呼ぶのは若干苦痛だったが、最近やっと慣れてきた。
「んー?なにかな」
「あの娘が嘘をついているという可能性はありませんか」
「なんで」
なんでと来た。俺は一瞬口籠る。その間に、瀬奈さんはさらに言葉を重ねた。
「わざわざあたしたちのことを調べて連絡を取って呼びだして1時間も話した挙句、全部嘘でしたって?そんなことしようと思った理由は思いつく?」
「加害者が被害者を装うため、とか」
「あの性格でそんな行動力があるかね?爪を剥ぐということも、あたしたちに嘘をつくということも含めて、あの娘一人で出来ると思う?」
「演じている可能性は?」
「…………君の話は全部可能性でできてるんだね」
反論できなかった。なぜ、俺はここまでむきになってるんだろうか。
瀬奈さんは、再び俺のほうを見ずに口を開いた。その横顔はなぜか楽しそうで、なのにわずかに怒りを内包していた、ように感じた。
「あの娘のことが気に喰わなかったの?それとも―――」
その先は予想できたが、止めなかった。止められる材料がなかった。
「―――惚れたの?」
「…………なぜそう思います?」
言葉がすぐに出てこなかったのはまずいと思ったが、幸い瀬奈さんはそこを指摘しなかった。あえてしなかったのかもしれないが。
「そのほうが面白くなると思ってね」
「人をおもちゃみたいに言わないでください」
「でもね、瑠樹くん」
俺の抗議は無視された。されたが、瀬奈さんの声がいつもならざる真剣味を帯びていることに気付いて、俺は続く言葉を待った。
瀬奈さんは、立ち止って、俺を見た。
「依頼者に何かしらの感情を抱くのはよくないね。嫌悪も好意も同情も興味も怒りも感謝も、恋情はもちろん無関心ですらあってはいけない。それらはすべて依頼達成を妨げる」
どうしろと。
「俯瞰しなよ。主観も客観も捨てて、主体と客体を忘れて、自分が媒介になる。媒介として、依頼者と依頼内容を俯瞰する。それが、依頼された者の理想的な態度だ。もちろん、簡単ではないけどね」
「瀬奈さんは……、それができてるんですか」
矛盾に溢れた瀬奈さんの助言は、言葉通り人間にできるとは思えなかった。
瀬奈さんは、にやりと、チェシャ猫のように笑った。それはどこか作りものめいていた。二の腕に鳥肌が立つ。寒気ではなく、神経を直接愛撫されているような、ある種性的快感に似ていて、それでいて生理的嫌悪にも近い感覚が、全身に走った。
「できてたら、こんなところにはいないよ。少なくとも、君がいなければ、ね」
瀬奈さんが歩き始めても、鳥肌はしばらく収まらなかった。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
私は、家に帰ってすぐに、真夏の猛暑から逃れるためにクーラーの効いているはずの居間に飛びこみました。
案の定、そこには姉がいて、クーラーで涼みながらお昼によくやっているバラエティ番組の再放送を見ていました。クーラーの設定温度は22度。地球温暖化なんてお構いなしです。
私は設定温度を3度上げて居間の奥にあるキッチンに向かいました。
「あ、晶子。おかえりー」
その途中で姉に気付かれました。別に隠れていたわけではないので、私も「ただいま」と返しました。
キンキンに冷えた麦茶を一杯飲んで、居間に戻りました。
姉の服装は、朝から全く変わっていません。下着に、上だけパジャマを着ている、姉の夏用の寝巻です。これを同年代の男の子が見たらどう思うのでしょう。百年の恋も冷めるくらいのショックを受けるのか、色っぽいと思ってしまうのか。私にはよくわかりません。
不意に、さっき会った男性が頭に浮かびました。多分、あの人も高校生くらいのはずです。あの人ならどう思うでしょう。
少し観察してみましたが、私と会っている間は全然笑顔を浮かべませんでした。それどころか、表情をほとんど変えませんでした。この辺りではおいしいと有名なホットケーキを食べても無表情でしたし、彼女らしい美人のお姉さんにホットケーキを半分盗られた時も、ほんの少し睨んだだけで残りを淡々と食べ続けていました。
もし、あの人がこの姉を見たらどう思うでしょう。もしくは私なら…………
「晶子ー?どったの?」
「えっ……?ううん、なんでもないよっ」
「そーお?」
私は何を考えているのでしょう。今日会ったばかりの人なのに、姉のことを知っているはずもないのに。それに私なら、って…………
穴があったら入りたい、とはこのことでしょうか。誰に聞かれていたわけでもないのに、恥ずかしさで顔に血が上ってくるのがわかりました。
「ほんとにどうしたの、晶子?顔、真っ赤だよ?」
「え、や、その……」
「そんなに外、暑かった?」
「あ、うん、すっごくっ」
そう言うと、姉は「外、出なくてよかったー」と言って身体をテレビに向け直しました。なんとか変に思われることは避けられました。
それにしても、と今更になって思います。
なんで、私はあの人たちにあんなことまで話してしまったんでしょう。
たしかに小指の爪がないことに気付いた時は、少し泣きそうになるくらいに怖かったことは認めます。
でも、だからといって、自分の私生活までさらけ出すようなことまで言うなんて、どうかしているんじゃないかと、今になって思うのです。
ネットで見つけた電話番号に最後の望みとしてかけてみた時、女性が出た時は本当に安堵しました。それを、あの時まで引きずっていたのかもしれません。
でも―――
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「小指……、大丈夫?」
一瞬、何のことかわからない、と姉は首を傾げますが、すぐに思い当たって笑いました。
「だいじょーぶだってば。こんなのただの怪我じゃん?爪なんてすぐに生えてくるしさ」
「うん……。そうだね」
姉が、自分だけでなく私のことも励ましてくれているのだと気付いて、私が「ありがとう」と付け加えると、にかっ、と人好きのする笑顔で笑ってくれました。
そう、こんなに思いつめる必要もないのです。あれから、他の指の爪には何もありませんし、もう小指の爪も再生し始めています。何人も同じ被害に遭ったというのは不可解ですが、あまり難しく考える必要もないかもしれません。血が出たという人も数人いるみたいですし、完全に同じ例ではないのです。
私は着替えるために居間を出て、自分の部屋に向かいます。
もらった名刺の住所を見て、明日、依頼の取り下げと、謝罪をしに向かおうと決めました。電話では、失礼だと思うので。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
その家の前に、一組の男女が佇んでいた。
その視線は、総じてその家の二階に向けられており、カーテン越しに動く影を凝視していた。
「…………で、こんなストーカーみたいなことして何がわかるってんですか」
男の影が、女に向かって不満げに言った。
しかし女は、男を見ることもなく、その頭をはたいた。
「依頼者の所在は知っておくのが常識だろ。何かあった時どうすんのさ」
言っていることは正論だが、やっていることは犯罪者と同等だろう。と、男は口だけを動かした。実際、知るだけならもう帰ってもいいはずだ。
男は背を預けていた電柱から離れ、歩いてその場を離れ始めた。それを気配で察知しても、女の視線は目の前の家の二階に向けられていた。
「どこに行くの?」
「何か食べるものでも買ってきます。何か欲しいものはありますか?」
「んじゃ、ビール」
男は顔を不快に歪めた。
「未成年なんで無理です」
「だろうね。それじゃ、なんでもいいからサンドウィッチ」
「……わかりました」
最後まで顔を向けなかった女に呆れ顔を作り、男はその場を離れた。
女は相変わらず、影の見えなくなった部屋のカーテンを見つめている。
不意に、懐から「チョコでコーティングされた棒状菓子」を取り出し、ぽりぽりとかじり始めた。一本目は手を使わず、口に咥えたまま少しずつ食べていく。が、中ほど辺りで落としそうになり、慌てて指でつまんで、今度は手で食べ始めた。二本目も同様に、手を使って最後まで食べ終わる。そして、三本目を手に取り、先端を前歯で咥えて、そのまま口の中に押し込んでいく。
ふと、その途中で、女が口と手を止めた。
視線の先にある部屋の明かりは消えていた。
直後、その家の玄関が開き、一人の少女が顔を出す。
女は、それを見ていた。否、それを読もうとした。
が、
「へぇ……」
一瞬驚いた女は、次の瞬間には笑みを浮かべていた。目だけはそのままに、口は下弦の月のような弧を描いて。
「おいおい…………、どっか行くなら一言くらい言えよ……」
男が一人、呟いた。
ビニール袋が、ガサリ、と揺れた。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
客の来た合図である鈴の音が鳴ったため、カウンターに出てみると、そこには昨日会った紺野晶子の姿があった。
彼女が会釈したので、俺も同じように返す。
一体、何の用だろうか。俺が、昨晩のストーカー紛いの行為がばれたのかと、心中で怯えていると、晶子は非常に申し訳なさそうな表情で、再び頭を下げた。ただし、今度は会釈程度ではなく、腰を直角近くまで曲げるくらいのものだった。
「すみません……、私、依頼の取り下げに来たんですけど…………」
俺は少々驚いて、「そうですか」としか答えられなかった。
原因を考えてみる。
これは瀬奈さんの趣味で、別に依頼料を取っていたわけではないから、金銭面での問題ではないはずだ。
なら、依頼に値するかどうかという問題だろうか。昨日の件で、こいつらは役に立たないと判断されたのかもしれない。
まあ、どんな理由であれ、面倒事が消えてくれるなら、俺はそれを全力で歓迎したいところだ。相手の事情など、こちらの知ったことではない。
だが、あの人が、そう簡単に引き下がるとは思えない。
いや、絶対に引き下がらない。
「理由を、訊こうか?」
いつのまにか俺の背後に立っていた瀬奈さんは、笑顔でそんなことを言った。
もちろん、腹の底でも笑っているはずは、ないのだが。
「それで、その……、そこまで深刻にならなくてもいいのかな、って…………。お姉ちゃんも、ただの怪我だって言ってますし……」
「ふぅん……。それが君の考え、か」
姉のことを絡めた晶子の説明を聞いて、瀬奈さんは深刻な顔をして頷いた。
それを見て、晶子の表情もわずかに和らぐ。
「それじゃあ―――」
「でもね、晶子ちゃん」
瀬奈さんは遮った。この人は、絶対に他人の思い通りにはならない。頼まれたからする、拒絶されたからしない、そんなものは、この人には当てはまらない。
「君の事情なんて、こちらの知ったことではないんだよ」
「……ッ」
思考回路は俺と同じだが、その辿りつく結果は俺とは全くの真逆だ。
頼まれなくてもするし、頼まれてもしない。拒絶されなくてもしないし、拒絶されてもする。そんな、天邪鬼の精神が、この人の根底にある。もちろん、興味のあるものには、依頼の是非に関わらず首を突っ込むが。
「君の依頼によって、あたしはこの事件を知った、だから、あたしはこの事件を調査する。別に、きっかけは君の依頼でなくてもいいんだよ。重要なのは、“そういう事件があるということ”だけだ。君の依頼は、あたしたちがこの事件を調査するかどうかを左右しない。正直に言うと、君の依頼なんてどうでもいいんだよ。君に話を聞いたのは、君が現時点で最も協力的だろうという予想に基づいてのことだ。それを量るのが昨日の話だったわけだけど…………、今はもうどうでもいいよ。昨日の時点で、君がこの事件の中核に最も近いということはわかったからね」
「えっ……?」
呆然と瀬奈さんの話を聞いていた晶子は、最後に付け加えられた言葉に、疑問符を浮かべた。それは俺も初耳だった。どういうことだ、一体。
瀬奈さんは、にやりと笑う。
「今日の君の依頼は却下するよ。君は、当事者も当事者、事件の中心人物を最も知っている人の一人なのだから、ね」
晶子だけではなく、俺もその言葉に動揺する。
小指の爪を失った人物の名簿は、なぜか瀬奈さんが持っていたので見せてもらった。ほとんどが女子高生、あるいは女子中学生だったが、その中に、一人だけ心当たりがあった。
だが、瀬奈さんは、すぐには核心を語ろうとはせず、俺の心労を増やす筆頭とも言えることを、その口で紡ぐ。
「でも、説明の前に、一つの前提を教えておきたい。それがないと君も理解できないだろうからね」
俺が視線で制止を訴えるも、瀬奈さんは気付いていながら無視した。“そのこと”は、こんな娘に教えるようなことではないというのに、瀬奈さんは何の躊躇いもなく口を開いた。
「あたしはね、『孤独』なんだよ」
「………………え?」
晶子の反応は正しい。唐突に自分は孤独だなどと言われても、どう応えればいいのかわからないのは当然だ。俺だって、初めて聞いた時は戸惑った。
だが、こればかりは説明してわかるようになるものでもない。俺もまだ、“そういうこと”だと知っているだけだ。
「今までで一番納得されやすい方法で説明するよ。―――簡単に言うと、あたしはね、自分自身以外は人間に見えないのさ。あたし以外はただのモノ。家具や道具と同じ。君らと話しているのだって、ぬいぐるみと話しているのと大して変わらないんだよ。あたしの認識では、ね。つまりはそういう病気さ」
改めて聞いてみても、わけがわからない。
理屈はわかるが、それが理解の領域まで及ばない。近くで暮らしていると“そういう人”なのだと慣れるものだが、初めて聞く晶子にとってはそれもできない。頭の中を疑問符が踊っているのが容易に想像できる。
「人間は自分だけで、他はモノ。ほら、孤独じゃないか」
そう言っても、晶子の顔から困惑が消えることはなかった。俺に目を向けたのがわかったが、残念ながら俺に助け舟を出せるほどの理解力はない。
察したのか、晶子はすぐに目を落として俯いた。が、瀬奈さんは構わず続ける。
「で、あたし以外はモノなわけだけどね、ほら、モノには説明書が付きものだろう?あたしはね、それが読めるのさ。君の説明書も、こいつの説明書も、あたしはいつも目の前にあるみたいに読めるんだよ」
「こいつの説明書」の部分で瀬奈さんは俺の頭をはたいた。意味もなく叩いたりするのはやめてもらいたい。
「……あぁ、もちろん説明書っていうのは単なる比喩でね、実際は君らの過去の情報を知ることができるというだけなんだ。それに、君らの主観に則った過去だから、客観的な事実は知ることができない。家電製品のそれみたいに、本体についてしか書かれてはいないのさ」
つまるところ、他人の過去をのぞき見できるということ。こんなことを説明されても、普通なら病院を勧めるところだが、実際に知られているはずのない過去を言い当てられたら、信じざるをえなくなる。
「例えば……、そう。母親に叱られた腹いせに、猫を一匹、殴り殺した……、とかね」
「ッ!!」
こんな風に。この人は、他人の最も黒い過去を、証拠として提示する。
俺も、同じだった。
「な、なに、そんな、こと……」
「いやぁ、君も大概、狂ってるよねぇ。だからこいつも好きになるわけだ」
晶子は自失したように言葉の出ない口を動かし、瀬奈さんは笑う。俺は特に驚いたりはしなかった。俺が恋愛感情の欠片でも抱いた人間は、大抵が狂っている。とはいっても、晶子のことが好きになったわけではなく、少々気になったくらいだが。
「他にもほら、去年のことかな?捨てられていた子犬を大雨で増水した河に―――――」
「瀬奈さん」
俺が語調も強く言うと、瀬奈さんは晶子の顔を見る。その顔は憤怒と恥辱に塗れていたが、瀬奈さんは笑顔を崩さなかった。
「おっと、言いすぎだったかな?つまりだ、簡単に言うと、そこまで狂っている君なら、友達の爪を剥いで回ったりしてもおかしくないということだけれど―――」
「私じゃありません!!」
突然、大声を張り上げて立ち上がる。俺は驚いて、瀬奈さんの表情を窺う余裕もなかった。どうせ、笑っているのだろうが。
「たとえ、あなたの言っていることが本当だとしても、私はそんなこと…………!」
「うん、知っているよ?やったのは君じゃない」
虚を突かれたような顔をする晶子に、瀬奈さんは心底楽しそうに言った。
「人の話はきちんと最後まで聞くものだよ?」
諭されて、晶子は座る。ただ、その目は鋭く瀬奈さんを睨んでいた。
「さっきも言ったじゃないか。犯人は、君が最も近くにいる人間だ、とね。わからない?わかるだろう?君はまだ、それがわからなくなるまで狂ってはいないはずだから」
晶子は口を噤んで顔を背けた。何も言いたくないということだろうか。こういうところはやはり、中学生相応で、まだ狂い切れていないようだ。惜しい。
「……ねぇ、瑠樹くん。どう思う?」
「もう少し狂わせたらどうですか」
「くくくっ、酷いことを言うねぇ、君は」
考えていたことを思わず口走ってしまった俺の肩を、瀬奈さんはなぜか嬉しそうに叩いた。晶子は…………、非常に怖い目つきで俺を睨んでいる。怒りの矛先が俺にシフトしたらしい。が、全く怖くない。その様子はむしろ微笑ましい。言ったら余計に怒るだろうか。
そんなことを思っていると、徐に瀬奈さんが立ち上がった。
「では、瑠樹くん」
頭上から、そんな声が降ってくる。見下されるのは好きじゃないので、俺も立ち上がる。
「お、やる気だね。じゃ、早速行こうか」
勘違いした瀬奈さんがそう言って、店の出口に向かって歩き出す。
晶子は座ったまま。瀬奈さんは本当にこの娘のことはどうでもいいらしい。かくいう俺も、もう興味はないので、瀬奈さんに追従して店を出ていく。
「―――その必要は、ありませんよ?」
その声に、俺は足を止めて晶子を見た。瀬奈さんも、振り返りはしていないものの、店の扉を凝視したまま立ち止まっていた。
一体、何の必要がないのだろうか。
「別に会いに来てくれなくても、こちらから行きますから」
訊いていないのに答えてくれたが、お前はここにいるだろう、と言いたい。まるで遠くにいる人間と電話しているような言い方だ。わけがわからない。
そうして思考の止まる俺とは逆に、瀬奈さんは平然とした態度で店の扉を―――いや、その向こうを見ていた。
「―――たしかに、手間は省けたけどねぇ……」
前言撤回、平然とは、していなかった。その声は、少なからず負け惜しみを含んでいるように、俺は感じた。
からんからん、と
上部に付けられた鈴を鳴らしながら、扉が開いた。
店の中は暗く、逆光のせいでその人物の顔が影になって見えない。ただ、髪の長さと服装から、女性だということは辛うじてわかった。
その女は、その足を店に踏み入れる。その途端、あの喫茶店に入った時と同じ悪寒が、俺の背中を走った。ふざけるな、何度こんなものを味わえば気が済むんだ。
女が近づく度に、その悪寒が身体の芯に染み込んでいくような感覚があった。当然、気持ちのいいものではない。背中の皮一枚下を無数の毛虫やムカデが這い回っている、そんな生理的恐怖が神経を貫く。むしろ、神経を焼くぐらいの恐怖がある。
まずい。吐き気が抑えられない。既に口の中には胃液の味が広がっている。朝に何も食べなくてよかった、と安堵する。食べていたら、本当に吐いていただろう。
「―――――一之瀬くん」
気付けば、目の前にその女がいた。声には、聞き覚えはない。
なぜ俺の名前を知っている。吐き気のせいでそんな簡単なことすら言えず、黙っていると、
ふわり、と
何かに包まれた。
数秒経って、やっと抱きしめられていると気付いた。背中をさすられていることにも。
誰だ。
こんな風に抱きしめられたら吐き気も和らぐようなものだが、
「……ぅ、え」
悪寒はさらに激しくなり、俺はえずいた。まるで、脳髄を直接、犯されているようだ。それに加えて吐き気まで、どんどん酷くなっていく。
誰だ、やめろ。
苦しすぎる。
「ふふ……、苦しいの?」
ああ、お前のせいでな。毒づこうと思っても、口を開いたら胃液だけでも吐きそうだ。
「大丈夫だよ」
何がだ。お前が原因だろうが。
頼むからさっさと離れてくれ。そう思った瞬間、今さらながらにこの女を突き飛ばすという行動に至った。
思いっきり突き飛ばしたはずの女は、俺の予想に反して、少し後ろに下がっただけだった。身体の力もなくなってきているのだろうか。
女は、ワンピースを着ていた。色はわからない。たとえ店が明るくても、色を判別できるほど正常ではなかっただろうが。
顔を見る。なぜかすぐに、晶子と似ているな、という印象が湧いた。
ああ。
なるほど。紺野晶子の姉か。根拠はないが、確信した。
名前はたしか―――紺野芽衣子だ。被害者の名簿にあった。芽衣子は、きょとんとした表情で俺を見ていた。本当に不思議そうだが、俺のほうがきょとんとしたいところだ。
脚に力が入らなくなり、俺は膝をついて崩れた。もう限界かもしれない。
そこにまた、芽衣子は近づいてくる。
来るな来るな。
なぜ、来る。
瀬奈さんはどうした。昨日のように、このわけのわからない恐怖を取り除いてくれないのか。
そう期待していたが、瀬奈さんの気配はなぜか全く動こうとしなかった。
「いや~……、ごめんねぇ、瑠樹くん。―――全然、動けないんだよねぇ…………」
そんな声が聞こえて、俺は絶望に打ちひしがれた。
というほど大袈裟でもないが、救いがなくなったことに諦念を抱いたのは事実だった。フグにはフグの毒は効かないと聞いたことがあるが、ここではその法則は通用しないらしい。異能を持つ瀬奈さんなら、異能には耐性があると思っていたのだが、あてが外れた。いや、慌てふためいていないという点では、耐性はあるのだが。
「ね、一之瀬くん」
名前を呼ぶな、気色悪い。
それも、言葉にならない。
青白い手が、俺のあごに添えられる。そのまま、力の抜けた俺の顔は正面に向けさせられた。
芽衣子の吐息が、俺の鼻にかかる。鳥肌が立った。
顔が、近づいてくる。
「これで、あなたは―――」
唇に、冷たく、柔らかい何かの感触が触れた途端、俺の意識は暗転した。