第12話 ‐侵入‐ よりどころ
芽衣子に動かないようにと言いつけてから、瀬奈はその家へ入っていった。
インターホンを押すことも、ノックもしない。瀬奈は、既にこの民家の内部が正常な状態ではないことがわかっていた。家の外、車の中からでもわかった。空間そのものが狂っているとでも言えばいいだろうか。狂った人間がいると、その空間が狂気を孕んで外界と隔離されることが間々ある。特に物理的な隔たりがあると、それを境界にして隔離が起こる。今回は、それがこの家だったということになる。
あの被害者の、実家。この家の住人が全員、発狂していることも覚悟しつつ、瀬奈は玄関から伸びている、まだ昼だというのにやけに薄暗い廊下を進む。履いているロングブーツも当然脱がない。
底の硬いブーツで廊下を鳴らしながら少し進むと、右に扉、左に2階へ向かう階段が見えた。まずは1階を調べておこう、と計画して、瀬奈は右手にある扉のノブに手をかけ――
ごとっ……
という、何かの落下音らしき音が聞こえてきた。
瀬奈は動きを止める。それは明らかに背後から聞こえてきたが、瀬奈は固まって振り返ることができなかった。
その間に、
ごとっ、ごとっ……
と、その音は、間隔を短くしながら続いた。続いて、また、同時に大きくなってきていた。
――――まるで、近づいてくるかのように。
ごとっ……、ごろ、ろ……
そして、最後のその音は、すぐ背後から聞こえて、転がるような音が瀬奈の真横まで接近してから、止まった。
ここに至ってようやく、瀬奈は動いた。首だけを下に向けて、転がってきたその“何か”を、確かめようとした。
視界の端に、何かが入ってきた。昼にはありえない薄暗さの中、黒い何かを、視界が捉える。さらに首を曲げて、その“何か”は視界の焦点の合う領域まで入ってきて、ちゃんとした像を結んだ。その正体を瀬奈が認識して、目を見開いた瞬間、
「ッ!!」
即座に振り返って、ドアノブを掴んでいた右手で落ちていたそれを持って正面にかざした。
階段から落ちるように、人影が包丁を前方に構えて瀬奈に突っ込んできていた。ぞぐっ、と、包丁は重力と人間の力を借りて、瀬奈の持っていた人間の頭部を、その肉と骨を、おぞましい音とともに貫いた。
瀬奈は持っていた頭を両手に持ちかえて身体ごと捻り、刺さりっぱなしの包丁を離そうとしないその人影の体勢を崩し、自身は左に、つまり玄関側に身体を逃がした。
瀬奈は即座に立ちあがって、自分を襲った人物の正体を探るためにその全体を眺める。
人間の頭から包丁を抜いて、瀬奈と同じように立ち上がったのは、女だった。実際は20代なのだろうが、廊下の暗さと歪みきったその顔のせいで、年齢どころか性別まで判然としない有様だ。辛うじて、髪の長さと服装で予想できる程度。服も、飛沫を浴びたような黒い模様の中に、ところどころ白い部分が見える。元々白い服に、返り血を浴びたかのようなその様相に、瀬奈は嫌な冷や汗が頬を伝うのを感じる。
その女が、血にまみれた包丁を右手に、覚束ない足取りで足を踏み出した。さっきまでの俊敏な動きとは全く真逆に、ゆっくりと、緩慢に、勿体ぶるように、瀬奈に近づく。瀬奈は、身構える。先の襲撃があった段階で、この女に殺意があるのは明白だ。背後の玄関から逃げてもいいが、それは本当に危なくなった時の最後の手段にしたかった。外まで追いかけてこないとも限らないし、何より瀬奈が玄関を背にしているのは自分が逃げるためではない。この女を逃がさないためである。芽衣子を危険な目に遭わせないためでもあったが、それはあくまでも付随的な目的。自分だけが人間である瀬奈にとって、自分以外の何かの生命は、無理して守るほど重いものでもない。
諸々の理由から、瀬奈は戦うことに決めた。でなければ、殺される。
とりあえず心の準備を終えた瀬奈に、唐突に、女は包丁の刃を向けて、走りだした。
「っ!」
予兆すらなく行われた攻撃に、瀬奈は、水平に掲げられた包丁を握る腕を中腰になってかわしつつ、その鳩尾に容赦のない、全力の拳を叩きこんだ。
げぼっ、と息を無理やり吐かされた女は、たたらを踏んで数歩後退した。瀬奈はさらに右足だけで立ち上がり、それを軸足にして、立ち上がった勢いも加えた回し蹴りを叩きこみ、女を吹っ飛ばした。飛んだ距離は、それこそ数m。女の身体は廊下の突き当たりにある扉に大きな振動と音とともに衝突して、床に倒れた。
人間なら、この時点で既に意識を失っていてもおかしくはない。意識があっても、身体を苛む激痛は動くことを許してはくれないはずだ。
しかし――
「これでも色々と鍛えてるから自信はある…………あったんだけど、ねぇ……」
瀬奈の言う間に、女は立ち上がっていた。その姿に、ダメージは見えない。瀬奈は肩を竦めて、露骨な落胆を示した。
悠長にも見える瀬奈には構わず、女は既に臨戦態勢。間を置かず、まるで地を這うような低い体勢で、女は廊下を駆け、瀬奈に迫る。極端な静動の差に瀬奈は息をのむが、女の包丁による一閃を脊髄反射で身体を翻して避け、勢い余って廊下を滑る女の頭を掴んで、床に思いっきり叩きつけた。
めしっ、と床からか頭からか、軋むというには破壊的な音が聞こえ、瀬奈の腕にも確かな手応えがあった。これでさすがに、と思う瀬奈の腕を、
「!?」
あり得ない角度に腕を曲げた女の手が掴んだ。その握力に思わず瀬奈も力を緩め、女はその隙に身体を起き上がらせて右手の包丁の切っ先を瀬奈に向けた。瀬奈は上半身を反らせてその包丁を避ける。遅れて身体に追従した服に刃が掠め、服だけが切り裂かれた。臍から胸の辺りまで肌が見えてしまうほどに裂けてしまったが、命の危機の迫っているこの状況で恥じらう余裕などなかった。
「露出サービスも忘れないってか?……いいねぇ、好きだよ、そういうの……!」
ただし、冗談を言う余裕はあった。しかし、言いながら反撃は忘れない。足で女の足を払って、再び床を這わせた。隙ができたのを見て、瀬奈は廊下を走って突き当りの扉を蹴り開けた。
扉の先にあったのは、キッチン。瀬奈は迷わず奥へ向かい、引き出し、収納、とにかくありったけを開けて、武器を探す。菜箸、栓抜き、はさみ、包丁、パン切り包丁、まな板、etc……。武器になりそうなものはいくらかあったが、それらを吟味する暇は与えられなかった。
女がキッチンに入ってきていた。瀬奈は、背後から包丁で真上から切りかかってくるのをまな板で防ぎ、はさみを少しだけ開いて女の腹に突き立てる。すぶっ、とはさみの刃が肉に埋まるのを感じてから、ジョギッ、と間に挟まった肉を引き千切った。びぐんっと女は身体を痙攣させて動きを止め、生温かい血が瀬奈の顔に降り注ぐ。それらは無視して、瀬奈はさらに手の平ではさみを腹に突っ込んだ。
「ぎっ……!」
どうやら痛みそのものはあるらしい。なら今までの痛みを無視したような行動はなんだったのかと瀬奈は疑問を抱いたが、とりあえずは好都合であることに変わりはない。瀬奈は女を蹴り飛ばして距離を取る。女の顔は血塗れだった。鼻は潰れて、穴から血がたらたらと流れ続けていた。切り傷も顔中にあり、一目では原型のわからないものとなり果てていた。自分でやったことが原因ではあるが、その変わりように瀬奈は若干引いた。
しかし、
「……っ」
女が唐突に、嗤った。口を、頬が裂けたように、耳にも届かんばかりに歪めて、嗤った。
限界を超えて口元を伸ばし、壊れたような顔で女は瀬奈を見る。瀬奈にも常識はわかる。人間は、顔面を血塗れにして、腕の関節を自分で外して、腹をはさみで抉られて、笑っていられるはずがない。その笑みそのものも、人間のそれとは明らかに超えてはいけない一線を画していた。
瀬奈は決意する。もう、これを生物としては見ない。破壊すべき怪異の一部として捉えることにした。手加減はしない。ただ、あれの形を壊すことだけを、考える。
これで戦いやすくなる。武器はいらない。今までセーブして使っていた自分の肉体をフルに使える。
そう思うと、瀬奈の顔にも笑みが込み上げてきた。獲物を前にした猛獣の笑み。得物を手にした狩人の笑み。瀬奈の顔は、そんな獰猛な表情に染められていた。
「来なよ、狂ったお人形さん。狂気に溺れた人形を溺死させるのが、あたしの仕事さ。――さ、沈んでしまうまでは限界まで足掻いてみようか」
手に縫い付けてあるかのように未だに手から包丁を離さない女は、顔面と腹部から血を流しながら、何の計画性も持たない直線的な軌道で瀬奈に迫った。
瀬奈は避けない。刃が自分に届く直前で女の腕を掴んで止める。腕を抜こうとする女を引き寄せ、顔面に右肘を喰いこませた。
「ぐっ、ぶっ」
口から血の塊を吐きながら女は後退する。それでも戦意は挫けず女は包丁を持った腕を真後ろまで振りかぶる。が、瀬奈は反撃を許さない。ブーツを履いた右脚で女の顎を蹴り上げ、戻した脚で今度は踵落としを頭に向けて下ろした。しかし、それは女の腕に阻まれる。女の腕から骨の折れる音がしたが、女に怯む様子はなく、まだ敵意は瀬奈に向いている。
両腕をだらりとぶら下げた状態で頭突きするように突進してきた女を、瀬奈は側頭部を膝打ちして真横に吹っ飛ばした。壁にぶつかって床に落ちる前に頭を掴んで、瀬奈がその身体を壁に縫い付ける。そのまま頭を壁から離して、再び壁に叩きつけた。壁に穴が開くほどの勢いで押し付けられた頭は、瀬奈が手を離すと、ずるり、と重力に従って床に落ちた。その頭の上に砕けた壁の欠片がぱらぱらと降った。
「……終わった……かな?」
瀬奈が息切れも混ぜながら呟く。つま先で頭を小突いて反応がないのを見取ると、瀬奈は女に背を向けてキッチンから出ようとして――
――ごっ!
瀬奈の裏拳が、突如立ち上がった女の頭を捉えて、女は再び床に倒れ伏した。さらに、瀬奈は女の頭をブーツで思いっきり踏みつぶす。めきっ、と、聞こえてきてはいけないはずの破壊音が女の頭から聞こえ、眼と舌が視神経と血を伴って、それぞれ眼窩と口から飛び出た。
それは、今度こそ止めの一撃となった。
◇◇◇◇・◇◇◇◇
一之瀬家から逃げるようにして出てきた日向朱莉は、その心中を後悔だけで埋め尽くしていた。
瑠樹へ言ったことは嘘ではなく、本音ではある。親友である周静流が瑠樹と付き合っている時から、彼は明らかに周囲の人間とは何かが違っていた。違っているはずの、その“何か”が何なのかは、わからない。しかし、何かが違うことは、少なくとも朱莉にとっては決定的に明らかだった。
だが、それを誰かに言ったことはなかった。静流にすら言ったことはない。
それは、朱莉にとって、当時の最大の後悔だった。言って信じてもらえるとは思っていないが、自分が何かしら心配するようなことを言えば、少なくとも静流が死ぬような結果にはならかったのではないか。朱莉は、幾度となくそう考えていた。
まだ年齢以上に精神の幼かった朱莉は、(認めたくはないが)静流に最も近かった瑠樹に責任を転嫁することでしか、その後悔を乗り越えられなかった。静流が自分の意思で死んだと認めることはできなかった。それは静流の人生そのものを貶めることに他ならないし、朱莉が静流を戒めることができずに死なせてしまったことを認めてしまうことと同義に思えてしまうからだった。比重としては後者のほうが重い。静流の尊厳を保つことよりも自分の責任を認めないことのほうが重要だった。だから、他ならない自分が静流を軽んじていることも含めて認めたくはなかった。
静流は、自分にとって最初で最後の親友だ。いや、親友という言葉では収まりきらない存在かもしれない。親以上に自分に理解を示してくれていた。他にも友達は多く、瑠樹という恋人もいたのに、時間の大半は朱莉とともに過ごしてくれた。瑠樹も含めた三人で遊ぶことも多かった。相談にも、単なる愚痴にも、下手な助言などせず、ただただ聞いてくれていた。助言は、本当に困った時だけ、進むべき道の方向のヒントを与えるような、ほんのちょっとのものだった。
静流のおかげで、学校で孤立することもなく、朱莉は過ごせた。良好とは言いにくいかもしれなかったが、それでも悪くはない関係を、静流以外のクラスメイトとも築けた。クラスの中でも中心を担う存在だった静流は、朱莉にとって庇護者であり、社会との仲介人であり、目指したい目標だった。もし朱莉が死んだら自分はどうなるのだろうか、と半ば本気で考えて落ち込んだことさえあった。死にはせずとも、いずれ別れは来る。その時、自分は一体どうなるのだろうか。それは、本気で考え、結局答えを出せずにいた問題だった。
実際に悪夢として現実に舞い降りたのは、前者だった。静流は死んだ。朱莉の知らないところで、考え得る限り悲惨な最期を遂げた。それを止められる立場にあったはずの瑠樹は静流の死にただ呆然としていて、朱莉が責めても、詰っても、侮辱しても、何の反応もしなかった。それに余計に腹が立ち、さらに苛烈な言葉で責め立てたことも憶えている。当時の朱莉に、誰かを、何かを責めずには静流の死を受け入れることはできなかった。
ただ、今なら、朱莉も認められるようにはなった。静流は自らの意思で死を選んだ。それに、瑠樹は関係ない。もしかしたら動機の一部になっていたのかもしれないが、それでも瑠樹に止められる状況ではなかったと、瑠樹本人が言っている。朱莉は知っているのだ。瑠樹は、静流のことに関してだけは、決して嘘を言うことはない、と。そもそも、保身のためとはいえ、嘘を言えるような精神状態ではなかった。
だというのに。今日、朱莉は瑠樹にあんなことを言ってしまった。
瑠樹は正常じゃない? 狂っている? 失礼にもほどがある。気心の知れた相手だとしても、さすがにこれは許される所業ではない。それに加えて、あんな、まるで誘惑するようなことまで……。自己嫌悪と恥ずかしさが同時に襲ってきて、朱莉は路上で頭を抱えたくなる。
――と、
「!?」
朱莉の視界が傾いた。正確には、朱莉の身体が、バランスを失って倒れかけたのだ。なんとか見知らぬ家の門に手をついて倒れるのは防いだものの、脚が震えていた。まともに歩けそうにない。
「こん、な、時に……?」
発する言葉にも力がない。
まるで何かに怯えているように、何かの脅威から身を潜めているかのように、朱莉はその場から一歩も動けず、声はかすれていて小さい。
朱莉は脚と同様に震える手でポケットから携帯を取り出し、普段の倍以上に時間をかけて目当ての番号を呼び出す。
数回のコール音の後。
『――朱莉か? どうした?』
男の声が、出た。たったそれだけのことに、朱莉はとんでもなく救われたような気分になって、安堵の息を漏らした。しかし、それでもなおかすれた声で、朱莉は答えた。
「ごめ……隆幸……、いつもの、公園、に、来て……」
『朱莉……? っ、朱莉、どうした? 今どこにいる!? 近くに住所のわかる建物はないか!?』
問われて、偶然近くにあった公民館の住所を、うろ覚えながら答える。
『わかった、そこで待ってろ。いいな?』
そこまで聞いて、朱莉は力を失ったように腕をだらりと落とした。
安堵の笑みは顔にあったが、暑さのせいではない冷や汗が、朱莉の全身から溢れ出ていた。
朱莉とその恋人である九重隆幸は、公園の木陰にあるベンチに座っていた。
木陰に入っても、朱莉の汗は止まらない。暑さによるものではないのだから当然だ。しかし、気分だけはいくらか楽だった。隣に隆幸がいるからだろう。
「ごめんね、隆幸……、無理やり呼びだしちゃって……」
息も絶え絶えに、と言うと大袈裟かもしれないが、それに近い状態で謝る朱莉に、隆幸は優しく微笑みかける。
「いいさ。俺もちょうどお前に会いたくなってたところだ」
「……ん、ありがと」
こういった恥ずかしいことを臆面もなく言えるのが隆幸だ。普段なら突っ込むところだが、朱莉にその気力はなかった。
「どうだ? 楽になったか?」
「うん、なんとか……」
「本当か? 横になったほうがよくないか?」
「いいってば、そんなの」
過保護な隆幸に苦笑する。しかし、隆幸は頑なだった。
「横になったほうがいくらか楽だろう。今は無理するな。ほら」
そう言って、隆幸は自分の太腿を叩く。そこに頭を置けということだろうか。
朱莉は、考えただけで恥ずかしくなった。が、
「……やけに素直だな」
「ん……、私はいつも素直だよー……?」
言いつつ、朱莉は隆幸の膝に頭を置いた。
実のところ、拒絶するのも億劫だったからなのだが、心配させたくなくてちょっとした冗談を言ってみる。それでも、隆幸に通じているかどうかは疑問だった。
隆幸は労わるように朱莉の髪を撫でる。朱莉は目を閉じ、隆幸のなすがままに任せている。傍から見ればバカップル同然だが、朱莉にとっては“症状”が出た時はこれが一番効くのである。恥ずかしいと思わないでもないが、人気のない公園ならそれも最小限に止まっている。
「……朱莉」
「ん?」
徐に、隆幸が朱莉の名を呼んだ。
「そろそろ、自分で持っていてもいいんじゃないか? この薬」
言って、隆幸は錠剤の入ったケースを示す。朱莉の状態を落ちつかせたのはこの薬のおかげなのだが、それを所持するのは隆幸の役目だった。
「ダメだよ。私が持ってたら際限なく飲んじゃうから」
隆幸の提案を朱莉は拒否する。しかし、隆幸はやはり引かなかった。
「でもな、今日みたいなことがあって、俺と連絡が取れなかったらどうするつもりだ? お前が持ってたほうがいいのは明白だろう」
「私が電話して隆幸が出ないことあった?」
「これからはあるかもしれんだろ」
「むぅ……。でもその薬、麻薬みたいなものなんだよ?隆幸が持ってないとすぐなくなっちゃう」
「麻薬みたいとはいえ、ただ依存性と軽い禁断症状があるだけだろう。脳にも臓器にも障害はない」
「それでもお金はかかるの。禁断症状だってたまに重いのが来ることだってあるじゃない。今日がそうだったんだから」
「だからお前が持っていたほうがいいって言っているんだ」
「う……、そうだけど……」
少しずつ論点をずらされ、結局は隆幸の言う通りに誘導されている。それを指摘できない朱莉は溜息をついて、
「でも、ダメ。やっぱり隆幸が持ってたほうがいい」
「しかしだな、俺が持っていると――」
「隆幸がずっと私の傍にいてくれれば、問題ないよね?」
膝の上から朱莉に見上げられ、隆幸は押し黙った。そして顔を逸らして視線を彷徨わせつつ、「あー」とか「えー」とか言い始めた。
「赤くなってる」
「っ、なってない……」
指摘されて、隆幸は本当に顔を赤くして否定する。朱莉は手を伸ばして隆幸の頬に触れた。
「かわいっ」
「……頼むからそういうことを言うのはやめてくれ」
隆幸は疲れたような溜息をついて、頬に当てられている手を取って朱莉の胸元に置く。朱莉は隆幸の行動に拒否は見せず、それきり黙りこんだ。
朱莉は、静流の死以来、心のバランスを崩していた。原因は十中八九、静流の死そのものだろう。診た医者もそう言っていたし、何より朱莉本人がそう自覚していた。こういう精神病で原因を自覚できるというのも珍しいが、発症した時期からも、それ以外に原因らしきこと、ものはなかったのだから、朱莉にもわかってしまうのは当然だった。
ともかく、その時以来、朱莉は精神の安定性を欠いていた。
その不安定な精神を抑制するために、朱莉は精神安定剤を服用していた。それだけならまだよかったのだが、その精神の不安定さは、精神安定剤への依存に繋がった。朱莉の場合、時折、発作的に精神安定剤への欲求が高まることがあるのだ。少しの緊張やストレスでも、欲しくなることがある。言ってしまえば、精神にちょっとした負荷がかかると、欲求が鎌首を擡げてくる。特に、普段から演技にも近い態度で他人と接している朱莉は、事あるごとに薬を欲するようになった。
故に、持ち歩くのは数錠だけで、隆幸という恋人ができてからは、彼にそれを託した。母親は信用ならない。
服用し続けて3年近く。隆幸に託して一年ほど。今では、隆幸の姿を探していると、薬が欲しくて探しているのか、単に愛する人を視界に入れたいから探しているのか、動機がわからなくなってしまうほどだ。そんな自分が重症であることは自覚している。隆幸もおそらく理解しているだろう。一月置きには大きな発作の来る自分が、軽く見られるほどの症状であるはずがないのだ。
隆幸にとって、自分は一体どんな存在なんだろう、と、朱莉は時々思う。
朱莉は、中学卒業まで、他人と会話するというその行為に若干の恐怖さえ感じていた。それは相手の感情を表情や語調から勝手に推測して、負の感情が現れた時、それが自分に向けられているのではないかと恐れているからだった。朱莉にとって、何かしら負の感情を向けられるのが、最大の恐怖だったのだ。
そしてその恐怖が、人に対する恐怖になった。感情が人から生まれるものなのだから、対象がシフトするのはおかしなことではない。しかし、人間にとっては致命的でもある。人を恐怖し、遠ざけるということは、即ち社会性が欠如しているということに他ならない。最低限、社会というコミュニティに所属し、それに干渉し干渉されながら生きていく人間にとって、そういった人間は異物でしかない。本人も自覚できてしまうから、尚更差は開く。コミュニティから外れた人間は、そうした差をなくすために、恐怖を見ないようにするか、他人そのものを見ないようにするか、どちらかを選択することになる。
朱莉は、前者を取った。自分の中に湧きあがる恐怖を無視して、その恐怖を湧き起こす人間と空々しく笑い合うことを選んだ。
それは苦痛でしかない。心も磨耗する。何度も逃げたくなった。逃げなかったのは、隆幸がいたからだ。
静流の代わり、ではなく恋人という今までなかった存在のおかげで、なんとか苦痛は和らげられ、心の安らぎも得られた。
朱莉にとっての隆幸とは、つまりそういう存在。
では、隆幸は? 朱莉をどう思っているのだろうか。隆幸から好きだと言ってきたのだから感情は疑うべくもないが、しかし。
朱莉は時々、怖くなる。
隆幸がいなくなったら。自分への愛情が突然、あるいは徐々に消えているとしたら。考えても詮無いことだが、だからといって考えないようにできるなら、朱莉はこれほど精神安定剤漬けにはなっていない。
もし隆幸が自分の前から消えたら。その懸念は、静流に頼って生きていた3年前の朱莉となんら変わりはなかった。心の拠り所である隆幸がいなくなったら、朱莉は以前の状態に戻ってしまう。そうなる自信があった。
考えれば考えるほど泥沼になる。抜け出せない。
いっそ、自分と隆幸の二人だけの世界があれば、と思うこともよくあるのだ。
「もうイヤ……」
隆幸の膝に顔を埋めて、心の声を、声にする。
何がイヤなのか、本当は自分でもよくわかっていなかったが、とりあえず声にすれば楽になれるかと思ったのだ。結果は……何も変わらなかった。
しかし、一つだけ。
「俺がいるんだから、イヤなら言え。全部俺が取り除いてやる」
隆幸の手が朱莉の頭を撫で、耳元でそんなことを囁いた。
朱莉はなんとなく負けた気がして、聡い恋人の太腿を抓った。
「……痛いんだが」
「うっさい……」
自分の顔を見られたくなくて、朱莉はもう一度顔を太腿に擦りつけた。
陽が、赤くなり始めていた。