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第11話 ‐訪問‐ 二本の一本道




 瀬奈と芽衣子は二人、遼太郎から聞いた殺人事件の現場に来ていた。

 場所は、瀬奈の古本屋から車で30分ほど。さほど遠くないところで起きたことに芽衣子は驚いたが、それ以上に瀬奈が車を所有し、免許まで持っていることに驚いていた。

 ちなみに遼太郎はあの後すぐに、瀬奈に追い返されるように帰っていった。

 現場だという雑居ビルの前に駐車し、エンジンを切ってから瀬奈は車から降りる。その間に、芽衣子は既に降りて雑居ビルを見上げていた。次いで、その視線はスライドして隣にそびえる高層マンションに移る。


「時間帯によっては人通りの多そうな場所ですね。誰かが悲鳴聞いてたりしないんですかね?」


「それも含めてこれから調べるのさ。さ、行くよ」


 言ってから瀬奈は先を歩き出す。

 芽衣子は階段を昇りながら、ふと「あれ?」と思ったことを訊ねてみた。


「そういえば、なんでこの事件のことを調べる前提なんですか?」


 この場に来てから訊くようなことではないが、瀬奈は特に気にした風もなく答えた。


「あいつがこういう話を持ってくるのは、つまりあたしたちと同じようなのが事件に絡んでるからさ。でなきゃ、ただの殺人事件なんてつまらない話、しないよ?もし仮にしたとしたらその場であたしが殺してるしね」


「……ってことは、何か特殊な力を持った人間を捕まえろってことですか?」


「そうじゃあないよ。たとえば君みたいに人を操って人を殺したとしても、この国の法では君を裁けないだろう?君が操っただけなら、裁かれるのは実行犯だけさ。その人間を操っていたなんて君以外は誰も実証できないからね。捕まえても意味がないよ。そうでなくても、もしかしたら被害者自身が異能の持ち主だって可能性もある。ただ事件になんらかの形で“絡んで”いれば、あいつは話を持ってくるんだよ」


 芽衣子は納得したのかしていないのか、「はぁ……」と曖昧に返す。犯人ではなく異能の持ち主を探すのが目的だということはわかったが、探して一体どうするつもりなのだろうか。真意は読めないが、芽衣子は瀬名におとなしくついていった。瑠樹も同じことをしていたのだと思うと心が躍った。

 会話の間に、二人はビルの3階まで昇ってきていた。扉はところどころ塗装がはがれていて、お世辞にも綺麗という感想は抱けない。

 その扉の前には一人の警察官がいた。猟奇死体の見つかった翌日だというのに規制線すらなかったのは不自然だったが、その警察官が瀬奈の顔を見た瞬間、顔を強張らせて背筋を伸ばしたのを見た時は、芽衣子も何事かと瀬奈の顔を見つめてしまった。

 瀬奈は緊張しているその警官に言う。


「この娘はあたしの助手だよ。どうせ必要なものはあらかた運び終わった後だろうから、別にいいよね?」


「は……、問題はないと、聞いております」


 明らかに年下である瀬奈に堅苦しい敬語を使う警官は、そう言ってから扉を開けて、二人をその中に促した。一体誰に聞いたのだろうという、おそらく訊いてはいけない疑問を抱いた芽衣子は、それでも瀬奈に従って部屋に入った。

 入って、まず抱いた感想は


「……何もありませんね」


 だった。事実、この部屋には何もなかった。人が居住していた気配もなければ、何かしらの会社が入っていたような痕跡もない。壁も天井も床も真っ白で、無機質極まりなかった。

 ただ――道路に面している窓に、乾いた筆で描いたような赤黒い血の痕がある以外は。

 瀬奈は迷わず、その血痕の下へ向かい、しげしげと眺める。そして、


「……なるほどね」


 そう呟いた。芽衣子は何がなるほどなのかわからず、訊ねる。


「なにが、ですか?」


「被害者が赤毛だったという話についてだよ。日本人ではないのかもしれないとも思ったけど、どうやらそれも違うらしい」


 瀬奈は、血痕から視線を外してから、言った。


「この血痕は、被害者の髪によってつけられたものだね」


「それは、つまり……」


「うん。被害者の髪は、血によって赤く染められていた、ということさ。だから、発見された直後は赤毛に見えた。そういうことでいいのかな?」


 瀬奈の最後の言葉は部屋の入り口に立っている警官に向けられていた。二人の視線を受けてようやくそのことに気付いた警官は、それでも慌てることなく答えた。


「ええ、そうなります。――被害者の名前は“藤城杏子ふじきあんず”。もちろん、日本人の女性です。年齢は22、九州の大学に通っていますが、殺害当時は帰省中だったそうです」


「ふぅん……。死因は?」


「おそらく、腹部からの大量出血による失血死かと。正確な報告は司法解剖による結果待ちですが」


「失血死、ねぇ……」


 呟いた瀬奈は、もう一度部屋をぐるりと見渡す。


「血痕はここに残っているこれだけ?」


「はい。他にルミノール反応の出た場所もありませんでした。なので、彼女は他の場所で殺害された後、ここに運ばれたのではないかと――」


「普通の死に方をしたのなら、そうなるだろうね」


 警官のセリフを遮って言った瀬奈に、警官は怪訝な顔をする。芽衣子には瀬奈が何を言いたいのかがわかっていた。

 つまり、狂気の中で死んだ可能性。


「被害者が殺された場所の見当は?」


「いえ、まだ……。この付近は調べましたが、今のところそれらしいところも見つかっていません」


「そう……そうだろうね」


 小さく、芽衣子にだけ聞こえるように言ったそれには、確信が込められていた。その意味を問おうとしていた芽衣子だったが、それに先んじるようにして瀬奈は言った。


「芽衣子ちゃん、帰ろう」


「え、もうですか?」


 予想外にあっさりした瀬奈に芽衣子は驚く。瀬奈は部屋の出口に向かいながら頷いた。


「うん。もう十分だよ、これで。あとは、彼女がどんな性格だったのか、それさえわかれば、それでいい」


 芽衣子が瀬奈の背中を追っている時、瀬奈はさらにもう一言、言った。


「所詮、人形が壊されただけの事件……それがただの人形なら――興味はないし、ね」


 それは、どこか独白めいていた。






 現場を離れ、車内。

 助手席の芽衣子は運転席の瀬奈から、あの現場でわかったことを聞いていた。


「被害者があそこで殺されたって可能性は高いかもね」


「……え?」


 警官とは真逆の見解を示した瀬奈に、芽衣子は思わず声を上げる。入り組んだ道を抜けて、大通りの目の前の信号で止まってから瀬奈は言った。


「血液というものは時間が経つと酸化して色が変わるものなんだよ。だから、髪に血を塗っても、赤毛に見えるのは酸化してしまうまでの短い時間だけ。もし他の場所で殺して髪に血を塗ってあそこに運んだとしたなら、発見された時に赤毛に見えるはずがない。酸化する前でないと固まってしまって窓にも付着しないだろうしね。それに、あそこで塗ったとしても、窓だけに血の痕が残るはずがない。塗る時に床や壁にも飛び散るはずだからね」


「そう、ですね。近くで殺された可能性も低いって言ってましたし……、って、あれ?」


 芽衣子は何かに気付いたように顔を上げた。


「あの部屋で殺されたとしても血痕があれだけっておかしくないですか?お腹を刺されたなら、血はもっと他にも飛ぶと思うんですけど」


 芽衣子の当然の指摘。しかしそれに、瀬奈は笑った。気付いてほしいところに気付いてくれた、とでも言いたげに。


「その通り。だからあたしたちが調べてるんだよ?」


「あ……」


 芽衣子も気付く。


「狂気の異能によって殺されたなら、わからないだろう?どうやって失血死するほどの血をあの髪に塗りたくったのかはわからないけれど……退屈はせずに済みそうだよ?」


 言って、くっく、と今度は声を出して笑う瀬奈。その笑いは、ありふれたものでありながら、同時に異常だった。人を殺すほどの狂気を前にしてもいつも通りに笑っていられる人間が、正常であるはずがない。

 それは、芽衣子も同じだった。


「確かに……、退屈はしないかもしれませんね。色んな“愛”が見れそうです」


「おや?彼女を殺したのは愛ではないかもしれないよ?それでも?」


 やや語調の浮ついている芽衣子を瀬奈は戒める。しかし、そう言う瀬奈の顔もまた、楽しげだった。芽衣子は、極限に純粋な、故に正気からずれた満面の笑みで、言った。


「そんなことありませんよ。この世のすべては“愛”でできているんです。喜びや怒りも、哀しみや楽しみも、善意や悪意も、恐怖や安堵も、優しさや厳しさも、憎しみさえも、人の感情はすべて愛が根幹にある。涙を流すのも、手を差し伸べるのも、抱きしめるのも、キスするのも、それらすべての強要も、束縛も放置も暴力も虐待も強姦も、殺すことさえ、ありとあらゆる人の行動はすべて愛に起因する。だって――」


 しかしその笑顔は、もはや瀬奈にとっても理解の及ばない領域に至っていた。


「――だって、人って、親にもきょうだいにも親戚にも友達にも親友にも恋人にも夫にも妻にも子どもにも、全然知らない人にさえも、すべての感情を抱きながら、どんな行為だってできるんだから。世界には、“愛”が溢れてるんですよ?」


「……そうだねぇ」


 おざなりに同意しながら、瀬奈は考える。もしかしたら、“愛”というものは、その向けるべき対象が離れていると、増幅し、同時に歪むのかもしれない、と。

 いや、芽衣子の場合、歪んでいるのが当たり前になってしまっただけなのかもしれない。だとしたら――


「怖いね……」


 自分もそうだが、狂気を当たり前に抱える人間ほど恐ろしいものはない。狂気と正気の境界がなくなった人間は、もう正気には戻れない。その人間にとって、客観的な狂気が、主観的には正気なのだから。

 芽衣子の狂気はいつのまにか、瀬奈や瑠樹と同じ段階にまで進行していたと、この時瀬奈は初めて気付いた。




 気付いて、嗤った。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




「……」


「…………」


 玄関で、立ち尽くした。


「なにしに来やがった」


「遊びに来た」


 何か喋ろうとしてつい心の声が漏れてしまったが、目の前の女はそれを気にした様子もなく平然と答えた。


「……俺と璃茱の水入らずで過ごせる大切な日曜日を潰しに来たのか?」


「だから遊びに来たって言ってんじゃん。別に潰す気はないよ?」


 水入らずだと言っているはずなのに第三者であるそいつはそんなことを言う。

 久しぶりに帰ってきて、久しぶりに何もない日曜日だ。璃茱と二人っきりで過ごせると思っていたのに、そろそろ昼飯を作ろうかという11時半なんて中途半端な時間にこいつは他人の家に押しかけて来たのである。

 心底、迷惑だ。

 と、文字通り心の底では思っていたが、それを口にしない程度の良識は俺にもある。わざわざ来てくれた客を追い返そうとも思わない。


「……まぁ、上がれ。茶くらいは出せると思うし」


「うん、最初からそのつもり」


「……」


 こいつは一体いつからこんなに図々しくなったんだろうか。


「昔の慎ましやかな性格が懐かしいな……」


「んー?誰のこと?」


 わかっていて訊いているのか、それとも本気でわからないのか。判断はできなかったが、「俺のことだ」と言っておいた。


「えー、慎ましい瑠樹くん?想像できないんだけど」


 そしたらこれである。こいつ、遊びに来たとか嘘で、実は喧嘩を売りに来ましたとかじゃないだろうな?むしろそっちのほうがしっくり来る。今までの言動を見る限りは。

 学校案内をしてもらった時以上に俺に遠慮のない日向朱莉は、そんな俺の心中など知る由もなく、靴を脱いでずんずんと家の奥へ、リビングへ向かっていく。そこには絵本を呼んでいる璃茱がいるはずで、果たして璃茱は朱莉にどんな反応を示すのか、少し興味があった。

 だから、俺はわざとゆっくりリビングで向かう。

 朱莉がリビングのドアを開けて1秒と経たず、「ふにゃっ!?」という璃茱の驚く声が聞こえてきた。……可愛すぎて悶え死にそう。

 で、俺がリビングに入ると、


「んぎゅ~~!このひとだれ~?」


 璃茱の矮躯は朱莉の腕の中にあった。朱莉は恍惚とした表情で「かわい~!」と叫びながら璃茱に頬ずりしていたのだ。

 しばらくして満足したのか、璃茱を解放して俺に振り返った。


「ね!この娘、何!?誰!?めちゃくちゃすぎるぐらい可愛すぎるんだけど!?」


 興奮しすぎて日本語がめちゃくちゃになっているが、相手すると面倒そうなので無視する。俺の反応がないのを見ると、再び朱莉は璃茱をホールドして頬ずりを再開した。璃茱が「おにいちゃ~ん!」と助けを求めてくるようになって、俺は止めに入った。

 璃茱は半泣きだったが、対して、朱莉は不満げに頬を膨らませた。


「なんで止めるの?」


「璃茱が嫌がってるからだよ。いくら璃茱が可愛いからって――」


「え、璃茱って、瑠樹くんの妹!?これが!?」


 これとか言うな。立派な人間だよ。

 璃茱が俺に抱きついてきたのでそれらの言葉は呑み込んで、璃茱の頭を撫でて安心させてやった。璃茱はくすぐったそうに目を細める。


「ふーん……瑠樹くんの妹がこんなに可愛いなんてねぇ。いやはや」


「どういう意味だ」


 問うと、あからさまに朱莉は目を逸らした。


「別に?これじゃあシスコンになってもしょうがないかな、って。そう思っただけ」


 何とも苦しい言い訳だが、あながちただの言い訳でもないかもしれない。半分は本音が入っているだろう。その証拠に、朱莉は璃茱を見て微笑んでいる。


「あっ、そうだ。自己紹介がまだだったね、璃茱ちゃん。――私は日向朱莉。よろしくね」


「……」


 璃茱は怯えるように俺の後ろに隠れた。顔だけを窺うようにして出している。さっきの朱莉の行為がトラウマになっているのかもしれない。


「あちゃー……嫌われちゃったかな」


「欲望に身を任せてあんなことをするからだ。そうでなくても璃茱は人見知りなほうなのに」


「そうなの?」


 頷くと、意外そうに璃茱を見る。やはり璃茱は、びくっと身体を震わせて完全に俺の背後に隠れてしまった。朱莉は苦笑して、キッチンカウンターの前にあるダイニングテーブルのイスに座った。座れとも言ってないのに。

 俺は璃茱をソファに座らせてから、朱莉に、


「で、なんで来たんだ?」


「だから遊びに来たって」


「本当にそれだけか?」


 重ねて問うと、朱莉は「むぅ」と唸ってそっぽを向いた。そして、


「昼ごはん、つくって?」


 ありえないほど図々しいことを平然と言ってのけた。質問にも答えずに、俺から「食っていくか?」とか言われたならまだしも自分からつくれ、と。本格的に朱莉の思考がわからなくなってきた。


「帰って食えよ」


「うち、母子家庭で、しかも日曜日も働きづめだから、誰も作ってくれる人がいないの。コンビニとか弁当屋とか、もう飽きたし」


 頬杖をついて溜息を吐く。


「飽きるのって慣れるよりも早いんだね」


「知るか。そんなことより、自分で作れるんじゃなかったか?朱莉」


「……作れないってことにしておいて。そっちのほうが楽だし」


 朱莉は頑なだった。なぜかこの家に居座ろうとする。

 理由はわからない。俺がいるからか、璃茱がいるからか、この家だからか、それとも朱莉の家に理由があるのか。考えてもわからないし訊いても答えないだろうが、よほどのことなら彼氏とやらを頼るだろうし、俺の懸念することでもない。

 とりあえず湧きかけた怒りや疑問を置いて気持ちを切り替えて、キッチンに向かった。それを見た朱莉が訊ねてくる。


「……作ってくれるの?」


「どうせ作らなくても帰らないんだろ?なら食べてもらったほうがこっちも気が楽だ。茶の代わりに飯を食っていけばいい」


 朱莉は、自分で言ったくせに驚いたように目を見開いて、


「ありがと……」


 次に、昔していたように控えめに微笑んだ。


 その笑みは、昔、親友である静流にだけ向けていた笑みだった。






「ごちそうさまー。おいしかったよ」


 少し前にも同じようなことを聞いたな、などと思いながら、朱莉の食べ終わった食器を片づけた。朱莉は知朱と同じように自分でしようとは言わなかった。……ここで知っている女を比べてしまうのが俺の悪い癖かもしれない。

 と、ふと璃茱の手元に目が止まった。


「璃茱、箸の持ち方」


「あ……うぅ」


 俺が注意すると、璃茱は正しい持ち方には戻したが扱いにくそうにご飯を掴もうとして、箸を取り落とした。


「うぅ……、おにいちゃあん……」


 助けを求める璃茱は目を逸らしたくなるほど可愛かったが、だからといって指導を放棄できるほど俺の璃茱への愛は浅くはない。心を鬼にするなどというまどろっこしい過程を踏む必要もなく、俺はもう一度璃茱に箸を持たせた。そして、無言でもう一度ご飯を食べるよう促す。


「む~……」


 手を震わせながら米をつつき、ようやくその箸でかたまりを一つ掴んだ。それを、


「は、むっ」


 すばやく口に運ぶことに成功した。


「やたっ!」


 米を咀嚼しながら璃茱は快哉を上げる。俺はその璃茱の頭を撫でた。


「よくやったな、璃茱。がんばった」


「ん!」


 俺は笑いかけ、璃茱は俺に嬉しそうな満面の笑みを向けてくる。

 璃茱は、拙いながらも食事を続けた。それを見て俺は、俺と朱莉の分の食器をキッチンへ持って行く。洗うのは璃茱も食べ終わってからだ。

 朱莉は食べ終わってすぐに、点けっぱなしだったテレビをソファに座って見ていた。俺が朱莉に近づくと、彼女は俺に悪戯っぽい笑みを向けてきた。


「瑠樹くん、けっこうスパルタだね?傍から見てるとお父さんみたいだったよ、ほんとに」


「…………まぁ、間違ってはないかもな」


「え?」


 俺の小さい呟きを耳聡く聞き取った朱莉に、俺は慌てて、表だけは平静を装って「なんでもない」と言った。朱莉は俺の境遇を知らない。

 少し危ない誤魔化し方かとも思ったが、朱莉は気にする様子もなくからかいを続ける。


「飴の使い方もちゃんとしてるところがね、手慣れてるよね。その方法で何人落としたの?」


「えーと、たしか――っておい」


 危ない。流れで喋るところだった。といっても、何を喋ろうとしたのかは俺にもわからないけど。わからないからこそ朱莉の質問の内容にも気付いたわけだし。

 しかし朱莉は、答えかけた俺を本気8割増しぐらいの侮蔑の目で見て、


「あーあ、静流の惚れたのがこんなたらしだったなんてねー。ほんっと、静流に顔向けできないよ」


「俺が、か?」


 俺が諦め気味に問うと、


「ううん」


 朱莉は否定し、立ち上がって、




「私が、だよ」


「……ッ!」


 その纏う雰囲気が一気に変貌した。顔からは表情が消え、瞳には感情の色が見えない。なのに、その奥には青い炎が燃え盛っているようにも見えた。まるで燃え切らずに燻った怒りが溜まり集まって今にも溢れだしそうな、そんな危うい均衡の上の、平静さが、朱莉を包んでいた。


「私はね、始めから反対だったんだよ。静流と瑠樹くんが付き合うこと」


 朱莉は俺にその無表情を向け、俺は思わず後ずさった。


「でも、反対だって、言えなかった。理由がわからなかったから。……ううん、わかってはいたけど、それはとても抽象的で、主観に頼っていたから」


 璃茱がまた箸を落とす音が聞こえたが、それに気を向けることはできなかった。一瞬でも朱莉から気を逸らしたら何かが終わる。そんな、脅迫めいた根拠のない確信があった。


「瑠樹くん、君は、普通じゃなかったよね。正常では、なかったよね?」


「ッ!?」


 知られていないはずの、知られてはいけないはずの真実を問われ、俺は目を見開いた。自分でそうとわかるほどに、衝撃を受けていた。今まで隠してきた俺の正体が、一気に暴かれてしまった。

 いや、暴かれていた。

 俺の反応に確信を得たように、朱莉はさっきまで以上に語調を強くして、続ける。


「瑠樹くんと付き合うとね、静流まで瑠樹くんと同じになっちゃうんじゃないかって、そう思ってた。いつも怖かった。だってそうなったら、静流は、私の唯一の親友は、私がどうやっても手の届かない……手を伸ばしてはいけない領域に、行ってしまうから」


 朱莉は俺の肩を持って、押した。押したと言えるかどうかも怪しいほどの力だったのに、俺は簡単に後ろに倒れ、身体はソファに沈んだ。


「そして実際に静流は――私の行けないところに、行ってしまった」


 見下ろす目に、感情が浮かぶ。それは、紛れもなく哀しみだった。とても深く、底の見えない、深淵のような哀しみだ。

 しかし、俺が一度瞬きをした間に、それは消えていた。そして朱莉は「ねえ」と、小さく問いかける。


「あの時の瑠樹くんは、自分が普通じゃないって……狂っているって、自覚はあった?」


「ぇ……あ……」


「答えて?これはとても、重要なことだから」


 俺が突然の質問に言い淀むと、重ねて、朱莉は答えを強要する。俺は言葉に詰まりながらも、やっとの思いで


「い、や……なかっ、た」


 否定した。

 事実、そうだった。あの時の俺は、自分が狂っているという自覚は、なかった。しかし朱莉は疑いの目を向けてくる。


「本当に?なかった?自分の中に狂気を見る目はなかった?」


「ああ……、なかった、よ」


 首を横に振りながらもう一度否定すると、朱莉は「そう」と言って


「なら――」


 言葉と同時、俺の胸にしなだれかかってきた。顔を胸に押し付け、手は俺の肩にかかっている。右足が、俺の股の間に割り込んできて、わざとらしく股間のそれに当てられる。

 ソファの背もたれのおかげで、璃茱からは見えない。

 朱莉は首を上げた。それだけで、お互いの顔は吐息のかかるほどに接近する。濡れた唇から等間隔に漏れる息が、俺の鼻先を撫でる。コンタクトレンズを嵌めているはずの目は潤んで、その中に俺を映していた。


「なら、今も、抱ける?」


 何を、と言わないその問いは、俺を困惑させる。朱莉を、なのか、静流を、なのか。

 しかし朱莉は、その判断を強いることはなかった。

 顔はさらに近づき、耳元でそれは囁かれた。


「今も、静流は、抱ける?」


 静流を、と付け加えられた質問は、しかし、またしても抽象的すぎた。

 物理的な問題として考えるなら、当然ながら死人は抱けない。墓を掘り起こせば骨壷を抱きかかえることはできるが、朱莉の言っているのはそういうことではない。

 ならば、残るは精神的な問題だ。目の前に静流がいると仮定して、今の俺は、その静流を抱いてやれるのか?

 抱く資格があるのかとか、そんな陳腐な問題じゃない。俺個人の感情として、それ以外の要素は一切排除して、静流をこの手に抱けるのか?


 いや――――抱きたい、と、そう思えるのか?


 そう、考えた時。

 結論は、あっさり出た。拍子抜けするほどに、あっさりと。

 だから、


「――抱きたく、ない」


 それは、多分、静流に対する2度目の拒絶。


「二度と、静流を殺したくはない。……だから、静流はこれ以上俺の傍にいちゃいけない」


 静流が生きていれば意味の通る言葉。しかし、静流が死んだ今となっては、あまりにも破綻しきった言葉だ。

 死人を、殺したくない。

 死人は、俺の傍にいてはいけない。

 ――どこまで、狂っているんだろう。吐き気がする。

 これは、静流を利用した自己満足だ。考え得る限り最低な行為だが、罪悪感は湧いてこない。“この程度のこと”は罪悪だとは感じなくなっている。感覚が麻痺したのか罪悪感そのものが消失したのか、どちらかはわからないが、どちらにしてもまともな話ではない。

 朱莉は、


「……つまらない」


 何かを呟いて、立ち上がった。

 そして、未だに身体に力の戻らない俺を放置して、


「帰る。昼ごはん、ごちそうさま。じゃあね。今度は学校で」


 それだけを俺を見ずに言って、リビングを出ていった。


 俺はしばらく朱莉の行動について考えていたが、璃茱の呼ぶ声が思考に埋没していた俺を我に返らせた。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




 ある民家の前に車を止めた途端、瀬奈の表情が変わった。

 それに気付かずに助手席から降りようとする芽衣子を、瀬奈は手で制した。


「瀬奈、さん……?」


 名前を呼ぶ芽衣子にも何も返さず、瀬奈は数秒だけ考えて、


「君はここにいて。あたしが安全だと言うまで、車から出ちゃいけないよ……と言っても、既に変わってしまっているあの家の目の前が安全かと言われたら、決してそんなことはないんだけどね」


「え?あ、あの――」


「何か変化があってそれが静まった時、あたしが出てこなかったら全力で逃げるんだよ。いいね?」


 芽衣子に構わず、言いたいことだけを言って瀬奈は車を降り、目的地だった民家へ、インターホンも押さずに無断で入っていった。

 芽衣子も常識は忘れていない。優先順位が落ちただけで、まだ常識はある。だから瀬奈の行動もどうなんだろうと思いはしたが、しかし、芽衣子は瀬奈の言いつけを守って車で待機していた。

 しばらくして、


 ドォン!!


 という豪快な音が、民家の中から聞こえてきた。

 何事かと思い、芽衣子は車のドアに手をかける。が、瀬奈の言葉が蘇って躊躇する。まだ安全とは言われていないし、瀬奈が出てくるかどうかという判断もできない。

 芽衣子の葛藤の間に、


 ドンッ!!


 という短く重い衝突音が聞こえてくる。それからしばらく、物音は続いた。時折、なぜか金属の打ち合うような音やみしみしという何かの軋む音が微かに聞こえてきたが、芽衣子はその間ずっと、瀬奈を信じた。信じ続けた。

 そして、それが10分ほども続いただろうか、それは唐突に静まった。

 芽衣子は固唾を飲んで民家を見つめる。その玄関から何が出てきてもすぐに逃げられるように、身構える。恐怖を押し殺して、その時を待つ。

 静まってから30秒も経たないが、芽衣子にとっては永遠にも等しい時間が過ぎ、


 ギ、ギ……


 と、歪んだ玄関扉が開いた。

 その淵を掴んだのは、赤い、血で濡れた手。


「っ!!」


 芽衣子の心臓が跳ね上がる。やはりあの音は瀬奈が何かに殺される音だったのか。そんな悪い想像が浮かびあがり、逃げなければという考えが浮かんだのはその次だった。

 衝動と本能に身を任せてドアに手をかけて、力任せに押し開けて――


「や、芽衣子ちゃん」


 聞き慣れた声が、芽衣子にかけられた。安堵とともに、振り向く。


「瀬奈さ――瀬奈さん!?」


 玄関から出てきたのは、血塗れの瀬奈だった。




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