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第10話 ‐転換‐ 知らないから



 からんからん、と

 半ば錆び付いた鈴が渇いた音を鳴らして、二人に来客を知らせた。普段から客の少ないこの古本屋で働いていると客への応対を忘れてしまいそうになるが、芽衣子は一拍遅れながらも「いらっしゃいませー」と言いつつ読んでいた本を閉じた。


「おや、瑠樹くん……ではないね」


 しかし、その客は本棚の本には目もくれず、一直線に芽衣子の座るカウンターへ向かう。

 客は、男。メガネをかけ、ワイシャツの袖を肘まで上げている姿は、まさに営業に向かうサラリーマンそのものだった。街に出ればその辺にいそうである。

 しかし、芽衣子の感心はそんなどうでもいい男の外見には最初からなかった。彼の口にした、ある人物の名前だった。相手が客であることも忘れて、芽衣子はカウンターから身を乗り出す勢いでイスから立ち上がりかけた。


「あの、先輩を知ってるんですか?」


「ん、君はあの子の後輩かい?ああ、知っているとも。前回ここに来た時にここで働いていたはずなんだけどね、どこにいるのかな?」


「瑠樹くんなら、もう実家に帰ってしまったよ」


 いつのまにか地下から上がってきたらしい、店主である瀬奈が男の質問に答えた。すると、その男はがっくりと肩を落とした。


「なんてことだ。また会えると思っていたのに……。彼の、綺麗な手を……澄んだ瞳を……」


 芽衣子は男のその姿に若干後ずさる。なんとなく気味の悪さを感じた。


「あの、店長」


「なにかな」


「この人、なんなんですか?」


 瀬奈は芽衣子から一度視線を男に移し、一瞬で芽衣子に戻した。珍しく、瀬奈の顔には呆れや疲労に似た何かが浮かんでいた。芽衣子は首を傾げる。


「朝に言ったろう?図々しくもあの本を寄こせとあたしを頼ってきた男さ」


「あ、そういえば」


 朝のやり取りを思い出して納得する芽衣子。しかし、そうではないと気付いて首を振った。


「そうじゃなくて、ですね。この人、先輩のなんなんですか?」


 芽衣子の質問も大概ずれている。普通の人間ならまずは素性を訊ねるものである。芽衣子は、想い人が絡むと正常ではなくなるのだった。

 瀬奈はそれを理解しつつも、律儀に芽衣子の質問に答えた。


「なんでもないよ。単に、こいつが瑠樹くんのことを好きだというだけで」


「うげ……」


 明確な言葉で聞いた途端、芽衣子の男を見る目が汚らわしいものを見る目へと変貌した。どうやらそちらのジャンルには興味も耐性もないらしい。かく言う瀬奈も、自分以外の人間、つまり男という性別自体がモノとしか認識できないため、興味や好き嫌い以前の問題なのだが。

 女性二人に決して好意的とは言えない視線を向けられる男は、しかしそれを気にした様子もなく、瑠樹の不在という事態から立ち直ると芽衣子へ自己紹介した。


「うむ、自己紹介がまだだったね。俺の名前は安西遼太郎。職業は……まぁ、自営業、かな」


「はぁ……。あ、私は――」


「紺野芽衣子ちゃん、だろう?」


「……」


 芽衣子は自身を守るように両手で肩を抱いて身を引いた。その目に嫌悪までが宿る。男――遼太郎は肩をすくめて苦笑した。


「んん……嫌われてしまったのかな」


 瀬奈が怒ったような呆れたような声音で言う。


「君が好かれたか嫌われたかなんてどうでもいいんだよ。それより、あの本を取りに来たんじゃないのかい?」


「そうそう、そうだった。で、それは?」


 遼太郎の切り替えの速さに内心で呆れつつ、瀬奈は「待っておくれよ」と言ってカウンターの棚の引き出しを開けて、一冊の書物を取りだす。本というには雑な作りの、何枚もの紙を束ねただけのもの。その紙も痛んで、色がくすんでいた。

 遼太郎はそれを受け取って礼を言う。


「うん、確かに。ありがとうね、いつも」


「いいさ。いつものことじゃないか」


 瀬奈の言葉には、皮肉めいた色があった。瀬奈が他人に否定的なものも含めた感情を抱くのを見るのは初めてであるため、芽衣子はさっきから瀬奈に違和感を抱きっぱなしである。


「ところで、これはいくらになるのかな?」


「いくらでも。払えるだけ払っていけばいいよ」


「じゃあこれで」


 そう言って遼太郎が懐から取り出したのは、やけに分厚い封筒。それがカウンターに置かれた。

 中身はほとんど予想できていたが、芽衣子はそれを手にとって訊ねた。


「これ、なんですか?」


 どちらか特定して訊いたわけではなかったが、答えたのは遼太郎だった。


「さっき依頼を終わらせてきてね、その報酬だよ。たしか、えーっと……200万くらいだったかな?」


「に、ひゃく……!?」


 思わずカウンターにびたーん!と封筒を叩きつけてしまった。金だとは思っていたが、そこまでの大金だとは思っていなかった。

 芽衣子が一般庶民である以上、普段は目にすることのない金額だ。その上、芽衣子は一介の高校生。今までそんな大金を目にする機会などなかった。

 しかし、瀬奈は芽衣子にとって驚くべきことを口にした。


「やけに安い依頼を請けたんだねぇ?いつもはもう一つか二つは桁が上じゃなかったかな」


「ぅえぇ!?そうなんですか!?」


 200万の桁を増やすと千万か億か。どちらにしても目にしたことのない芽衣子には、それがどれだけの量の札束になるかイメージできず、数字しか頭に浮かばなかった。

 自営業と言っていた。それが一体どんな仕事なのか、さっきまでどうでもよかったのに、突然に好奇心は湧いて、大きく膨れ上がった。

 しかしその反面で、聞いてしまうのはまずい、という怖れもあった。理由はわからないが、おそらく直感に類する何かが怖れという形で警告しているのだろう。

 だから、訊けなかった。驚いたまま口を噤んでしまった芽衣子は、瀬奈と遼太郎の会話を聞いているしかなかった。


「今回は手間のかからない依頼だったからね。その報酬もそのままあげるよ」


「ふぅん?まぁ、内容に関しては興味もないし訊かないよ。……で、何か面白い話はないの?」


「おや、欲しいのかい?そうだねぇ……」


 遼太郎はニコニコと笑いながら考えるようにあご下に手を添える。瀬奈は期待していない表情で、芽衣子はやや顰めた顔で遼太郎を見ていた。

 やがて、「ああそうだ」とわざとらしく手を叩いた。


「ついさっき面白い話を聞いてきたんだよ。……とても、面白い話を、ね」


「……?」


「先に言っておくけど前置きは要らないよ。要点だけ述べればそれでいい」


 芽衣子は遼太郎に違和感を抱いた。それが彼の言葉になのか表情になのかもわからなかったが、それを疑問として口にする前に、瀬奈が遼太郎を促した。

 遼太郎はますます嬉しそうな笑みを浮かべて、


「つれないなぁ、君は。……まぁいいか。昨晩の話らしいんだけどね――」


 怪談の結末を語る直前のように勿体ぶってから、言った。




「――女性が、死んだらしいのさ。しかも、赤髪の、ね」




 芽衣子の脳裏には、「赤毛のアン」というフレーズが瞬時に浮かんだ。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




「さて、と……」


 校門。その向こうに並ぶ、青々とした葉桜。さらに、その向こうにそびえる純白の校舎。……というには、少々汚れが目立つか。汚いというわけでもないんだけど。

 まぁ、とりあえずこんなものか、と編入試験の時にある意味失礼な感想を抱いたが、再び見ても、特別な感慨はない。前に通っていたのも公立高だったし、新鮮な気分もない。私立高でも大した違いはなかっただろうけど。

 で、その編入試験から一週間後、合否を伝える連絡が俺のもとにきた。

 結果は、合格。思っていたほど試験は難しくなかったし、面接も滞りなく進んだ。まともな人間を演じるのは上手いんだ、一応。だから、落ちることは考えてもいなかったが、実際に合格という結果が出ると嬉しいもんである。

 ということで、俺は2学期から通うことになった創葉高校に来ていた。

 もちろん、まだ夏休みの真っ最中だ。だが、夏休みが終わるまでにはまだ日はあるし、授業の時に迷うことのないように夏休みの内に学校の中を案内してあげよう。そういう提案があったので、俺はそれを受けた。璃茱は今は幼稚園だ。

 ……さて、ここで案内役をしてくれる生徒会の人が待っていると聞いたのだが。

 いない。一体、どうしたことか。

 勝手に入ってしまっても問題はないんだろうか。試験に合格した以上生徒ではあるんだし問題はないのか。あるいはまだ生徒としては登録されていないのかもしれない。だとしたら、勝手に入るのはやめておきたい。制服もまだ笠良木北のものだし。ていうか、今、私服だし。


「――あの」


 俺が葛藤に苛まれているその横から、声をかけられた。

 今は思考の樹海から抜け出すのに忙しいんだが、と軽くイライラしながら声の主を確認する。

 女子、だった。

 まず目に入ったのは、当然だが、顔。目はどちらかといえば垂れ目気味で、それでいてぱっちりと大きく開いている。しかし、すっとした鼻梁で、目も含めて全体的に可愛いという部類ではなく、かっこいいと表現されてもおかしくはない。そんな印象だ。

 着ている制服は、もちろん創葉のもの。純白のブラウスとモスグリーンのスカートが長身の彼女に似合っていた。胸元の真紅のリボンも、一見すれば地味にも見える制服にアクセントとして主張していた。派手すぎないのが彼女に似合っている。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。この娘が可愛いかどうかなど心底どうでもいい。

 気に食わないのは、彼女が俺とほとんど同じ身長だということだ。……というか俺よりも高い――いや、そんなはずはない。少なくとも女子に負けるような身長ではないはずだ。……実は瀬奈さんに負けていたという事実は、忘却の彼方に置き去りにしていた。


「あの、なにか?」


 初対面であるはずの俺が睨んでいたからか、彼女は首を傾げて言った。俺は慌てて否定する。


「いえ、なんでも、どちらさまで?」


日向朱莉ひなたあかりです。一之瀬瑠樹さんですよね?」


「そうですけど」


 問われたので答えたが、この人の名前には聞き覚えはない。が、記憶を探るまでもなく、この日向朱莉さんとやらが案内役なのだろうことは容易に想像できた。


「えーと、日向さんが、案内してくれるっていう……?」


「はい。よろしくお願いします」


 頭を下げられた。どうやらかなり礼儀正しい人のようだ。それとも初対面相手だとこうなのだろうか。

 なんの脈絡もないが、ふと思ったので訊いてみた。


「日向さんはなんで転校生の案内なんて面倒な仕事を?押しつけられたんですか?」


 自分で言ってて、なんて無遠慮な質問だろうと思ったが、気にしないことにした。別にこの人にどんな印象を持たれようとどうでもいいからだ。赤の他人の心境なんて、心底どうでもいい。

 しかし、気分を悪くするだろうな、という俺の予想に反して、日向さんとやらは薄く笑っていた。こっそりやった悪戯が親にバレテいないことを確信した子どもみたいな顔だった。無性に不安になる。


「……憶えてないんですか?」


「……は?」


 なにを?俺がそう訊き返そうとした時、日向さんは、おもむろにスカートのポケットにひっかけていたメガネを取り、装着した。

 それだけで、俺は、


「あ」


 思い出した。思い出して、しまった。

 脳の記憶領域から、その名前と顔が、セットになって引っ張り出された。それは、今、目の前にいる女子生徒とは一致せず――しかし、記憶ではない、直感めいた何かが、これは同一人物だと必死に主張していた。

 名前は、同じだ。しかし、名字が違う。だから同一人物であるという発想がなかった。

 記憶の中ではメガネをかけていた。髪も、シャギーのかかった茶髪のセミショートではなかった。日本人にありふれた、黒髪だったはずで、シャギーなんて洒落た切り方をするような娘ではなかったし、長さももっとあった。

 それに、俺に対しても、こんな顔をできるほど社交性もなかったはずで……


「やっと思い出したの?ほんと、鈍いんだから」


「な……」


「なに?その心底驚きましたって顔は」


 顔だけではない。こんな風に喋ることだって中々できない、おとなしい性格だったはずだ。悪く言えば、暗い、とも言える。少なくとも、こんなからかうような口調で人に話しかけることなど見たことがなかった。


「お前……瀬戸朱莉か……?」


「それは中学までの姓。今は親が離婚したから、日向になったの」


 謎が一つ解決。親の都合で名字が変わるなんてありふれた出来事だ。


「っていうか、顔見て気付かなかったの?」


「いや……印象がだいぶ変わってたし……メガネはないし髪型は違うし――」


「社交的になった?」


 少し言いにくかったことを朱莉――日向さん改め、昔と同じ朱莉で呼ばせてもらう――が継いで言ってくれたので頷く。俺とは既知だから本当に社交的かどうかはわからないが、俺と淀みなく話せているのだから少なくとも中学の頃と比べればマシになっただろう。


「そっかー。私、社交的、かぁ……」


「なんだよ?」


 朱莉の声のトーンがいきなり変わり、気になったので訊いてみる。


「いやー、その、ね。これでけっこう無理してんのよね、私」


 予想外の返答に言葉を飲み込む。朱莉の喋るのを待つことにした。


「高校に入ったら今までみたいじゃダメだって思って、コンタクトにして、髪染めて、髪型も変えて、性格も変えて――2年になって生徒会にも入って」


「生徒会に?」


「うん。私、副会長」


 思わずしてしまった俺の質問にわざとかどうかはわからないが得意げに答えて、朱莉はまた続けた。


「でもね、生まれ持った性格ってどうやっても変えられないもんよね。今でも教室の前に立つだけで緊張しちゃうんだから。たかだか30人を前にして、だよ?笑っちゃうよね。そんなんで何が生徒会副会長だ、って、言われてもしょうがないよね」


 一年半前までの、朱莉――当時の瀬戸朱莉を思い出す。

 彼女は、社交性などほとんどなかった。同性に話しかけられてもおどおどとしてまともな返答ができない。会話になっても相手の言うことに相槌を打つだけ。それが異性になると、一気に酷くなる。

 その例外が、彼女の親友だった周静流あまねしずると、おそらくは俺。

 周静流は、彼女の親友だった。

 そう、“だった”。彼女が唯一、家族以外にまともに会話のできる相手である周静流は、今はもうこの世にいない。

 俺の目の前で、自ら首を掻っ切って血飛沫の中で死んだ。最期の言葉が、「私の血を飲んで」だ。つまり、俺が狂わせて殺してしまったということに他ならない。でなければ、たとえ血を飲んでほしいとしても自分の首を切る奴なんていない。狂っていないのにそんなことができる奴は、生まれた時から狂っている。

 ともかく、静流が死んだと知った時、朱莉は当然、俺を責めた。それはもう苛烈な言葉で。おそらく彼女の持ちうる語彙をすべて使って、俺を罵った。要約すれば、なぜ止めなかったのか、と。お前が殺したも同然だ、とも。周囲は、八つ当たりもいいところだ、と朱莉を止めたがとんでもない。

 朱莉の言葉は、すべて嘘でも思い込みでも八つ当たりでもなんでもなかった。すべて真実だった。

 だから、彼女の言葉は、ひとつ残らず俺の心を抉った。完膚なきまでに抉り、蹂躙した。俺が、知朱の身体を求めてしまうほどに。

 朱莉は、まだ俺を許しているはずがなかった。唯一の親友を奪った男として一生憎まれるだろうと覚悟はしていたから、そんなことは今さらだが、だからこそ、今日の再会は予想外だった。

 それ以上に、朱莉の変わりようも驚くに値する。豹変としか言いようがない変わりぶりだ。だが、それに反して朱莉自身の口から出たのは、どうやっても変われないという悲痛な言葉。

 俺はそれを聞いて反射的に、謝罪しなければ、という衝動に駆られた。

 しかし、と。次の瞬間に俺は考えていた。

 何を謝る?どうやって謝る?あなたの親友を殺してしまい、申し訳ありません、なんてありもしない謝意を適当な言葉にするのか?あなたがそうなってしまったのは、俺のせいですよね?とか知ったようなことを言って誤魔化すのか?

 ふざけるな。そんなくそったれなことを言うぐらいなら、死んで償え。

 たしかに朱莉は静流がいないとクラスメイトの誰とも交流はなかっただろう。クラスや学年すら超えて友人の多かった静流にくっついていたから、朱莉は少ないながらもクラスメイトと交流を持てた。

 だから、静流が死んで、朱莉はこのままではいけない、と、そうして自分を変えたのか?


 違う。

 そうじゃない。

 確かに、静流の死はきっかけにはなっただろう。でもそれは、理由じゃない。あいつが変わろうとすることができたのは、静流がいたからではない。静流が死んだからでもない。

 静流になろうとしたわけじゃない。真似をしようとしたわけでもない。彼女は彼女として変わろうとしていた。静流という、最も身近で、最も簡単に目指せる理想を目標にせず、朱莉は自分のまま自分に変わろうしていたのだ。

 それを、俺は軽々しい言葉だけの謝罪で踏みにじって、朱莉の覚悟を貶めてもいいのか?

 いいわけがあるか。考えるまでもない。

 なら、俺が言うべきは、なんだ?何を言えばいい?考えたが、答えは出なかった。たかが数十秒の思考で答えが出るほど簡単な問題ではないけど。

 だから、俺が言うのは思ったことでいい。考える必要はない。


「――朱莉」


「なに?」


 朱莉は首を傾げる。中学の頃の彼女なら、「なに?」という簡単な一言すら言えなかった。男の中では比較的親しかった俺にですら。だから――


「まぁ……その、なんだ……よくなったと思うぞ?」


「……は?」


 きょとんとした朱莉の顔を見て、なんとなく焦る。何か間違えたのか、と思ってしまった。

「いや、その、変わったとは思うけど、それがいいか悪いかって判断するのは俺じゃないんだけど。とにかく俺の知ってた朱莉とは全然違うし、普通に会話できるようになったり生徒会に入れるくらい積極的になれたのは進歩――っていうのも違うか。成長?いや、まぁ、なんていうかとにかくそういうことで」


「……」


「だから、俺が今のお前を見て思ったことを言うと――」


 とにかく思ったことを口走っていた。その言葉が何を意味しているかを考える間もなく、言うことでどうなるかを予測する余裕もなく、ただ、言うだけだった。


「綺麗……というか?」




「…………」


 沈黙。


 俺はもちろん、朱莉も、何も言わない。校門前の道路を走る自動車の走行音だけが、耳に入ってきていた。

 そして、10秒経って、20秒が過ぎて後ろを自転車が通り過ぎる音が聞こえて、30秒を超えようという、その時。


「――ぷっ」


 朱莉は噴き出し、突如大笑いし始めた。

 俺は呆気にとられる。どうすりゃいいんだ、これ。

 ひとしきり笑ってから、それでもなお朱莉は腹を抱え、笑いを噛み殺しながら、


「なにそれ!?口説いてんの?」


「いや、そんなつもりはないけど」


「いやだって、綺麗って……そんなこと素で言う人、初めて見たし……フクク」


 言われて、笑われて、突然込み上げてくる恥ずかしさ。自分が何を言ったのかを理解した瞬間、顔に血が上るのを感じた。こういうものは自覚すると相乗効果でさらに悪化するものである。

 しかし、未だに笑う朱莉に腹が立ってきた。……これは照れ隠しではない。断じて、ない。


「だからってそんなに笑うことは……」


「いやいや、ほんとにおもしろいし」


 あ、だめだこいつ。完全に俺をそう言う人間だと認識してやがる。


「ほんっとに……、静流の次は私?節操ないね」


「なにを言うか。俺は心に決めた女にしか心を開かないことで有名だぞ」


 大嘘である。


「その『心に決めた女』がすごく多いことで有名、の間違いじゃないの?」


「……何を言ってるんだ」


 否定できなかった。思い返せば、中学の時の俺は節操がなかったかもしれない。

 だが、今は違う。そんな軽々しく人を好きになったりはしない。そう決めているんだ。ましてや、相手は朱莉だ。好きになってどうする。


「ま、でも残念。私、彼氏いるんだよね」


 ほら見ろ、彼氏のいる奴のことを好きになったって…………え?


「彼氏……?」


「そ。あれ?もしかしてほんとに狙ってた?」


「……そんなバカな。あるわけない」


「ふーん?二重に否定したのがなんか怪しいけど……まぁいいや」


 俺はよくない。その誤解で凝り固まった脳みそを解きほぐしてかき混ぜてやらねばならないのだから。誰のって、もちろん朱莉の。

 しかし、俺が言い返そうとすると、


「さてと……雑談はこのくらいにして。そろそろ学校の案内のほうに行こうか?」


 こうして無理やり話題を切り替える。そんなことより雑談だ!と言い切れる状況でもないから、俺はそれに従うしかない。案内してくれると言うのだから、それを無碍にすることもできない。

 校舎のほうへ向かう朱莉に、俺は憮然とした顔でついていった。






 松やら桜やらが植えてある場所を横目に、俺たち二人は校舎へ向かう。

 向かった先は当然、玄関。しかし、見たところ生徒玄関ではないようだ。ここ以外に入り口らしきものはなかったはずだが……


「あ、ここは職員玄関ね。生徒玄関はそこの校舎をぐるっと回れば見えるから」


「面倒なつくりなんだな」


 生徒玄関が校門から校舎一つを隔ててるとか。


「まあね。校門、あの一つだけじゃないし。あと、生徒玄関は教務室から見えるようになってるから、授業中にサボって帰ろうとしてもばれちゃうからね」


「あ、そ。……ってか、なんでこっちから入るんだ?」


「あんた、上履き、持ってんの?」


 そういや持ってない。納得して、朱莉の用意した来客用のスリッパに足を突っ込んだ。

 朱莉に追いつくと、早速、解説を始めた。


「さっきも言ったけど、ここは職員玄関。左のは事務室ね。で、ここは教室棟と特別教室棟の渡り廊下でもあるから。右のが教室棟、左に行くと特別教室棟になる。教室棟のさらに向こうに新校舎っていう新しい校舎があるの。どこから行く?」


 とすると、教室棟と新校舎の渡り廊下の途中にあるのが生徒玄関になるのか。とか考えつつ、答える。


「……じゃあ、特別教室棟から」


「了解」


 言って、廊下を左に向かう。少し進んで右に曲がると、さらに先へ行く廊下と階段があった。


「この先にあるのは第一理科室と調理室とその準備室。行ってみる?」


「いや。2年じゃ、家庭科の授業、ないだろ?理科室も場所さえわかればいい」


「それもそっか。それじゃ、次は2階ね」


 階段を昇る。踊り場を過ぎて、2階。ここもまた、右と左に分かれていた。


「2階はコンピューター室と第二理科室があるの。それと、渡り廊下の途中に生徒会室があるから、放課後に私に用がある時はそっちに来るよーに」


「ああ、わかった。……まぁ、行くような用事があるかどうかは疑問だけど」


「……だろーねー……」


 気軽に自重するように、朱莉は同意する。しかし俺には、“気軽”を装っているように思えて、それに違和を感じる。

 しかし、それが疑問に変わる前に朱莉は3階へ向かう階段を昇り始めていて、機会は逃してしまっていた。


「ふむ……」


 仕方ないので一人で考える。他人の心境を思い計っても意味がないことはわかっているが、人というものはそういうことを考えながら他人との関係を作っていくものだ。それがたとえ、見当違いの誤解を生んだとしても。


「で、3階は――」


 朱莉の説明に思考は遮られ、違和感はすぐに忘れ去られた。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




 校内を回りきった時には、昼の1時を過ぎていた。時間を確認すると途端に腹が減ってくる不思議。今日は疲れたからコンビニで何か買って食おうと考える。

 今、俺は職員玄関の前で待たされていた。朱莉は「用事があるから」と教務室へ行ってしまった。かれこれ10分は経っている。一体、何をしているのだろうか。

 ここから見える光景と言えば葉桜と松の木くらいだ。緑一色で面白みの欠片もない。実は今日は盆休みの真っただ中だから、生徒の姿も見えない。もしかしたら一人くらいは来ているかもしれないが、見ていない。一人、夏の暑さに中てられたかのようにやけに気だるそうな教師は見かけたが、それだけだった。退屈すぎて死にそう。

 まぁ、このまま会えないなら会えないでいい。むしろ、ここで一度だけ会って、休み明けにまた会って反応に困るという事態になるよりはマシだ。そういうヤツとは結局知り合い以上の関係にはなれなかったりする。かといって、友人が多い方がいいとは思わないけど。

 と、そういう風に開き直ると、いつも世界は天邪鬼になる。


「――ん?」


 いつのまにか、眼前に一人、いた。

 女子生徒だった。

 しかも、綺麗だった。なんかもう、細かく説明するのがバカバカしくなるくらい、美しくないところのない女性だった。まるで美術作品を見ているような気分になる。それくらいに現実味すら奪ってくるほどだ。制服は着ているが、その制服まで、まるで彼女のために仕立てられたかのように似合っているというか、馴染んでいるというか、着こなすという次元を通り越して一体となっていた。


「っはー……綺麗な人もいたもんだな……」


「……」


 彼女の眉がピクリと動く。知らず心の声が漏れてしまっていたということに気付いた時には、もう遅かった。初対面で綺麗とか、まさに朱莉に言われた通りかもしれない。自覚がないだけで。

 しかし、彼女はその人形のように整った顔をそれ以上動かすことはなく、俺の横を通り過ぎ――ようとして、


「……――――」


 その声は小さかったが、なんとか聞きとれた。聞きとれたが、しかし、それが何を意味するのかはわからなかった。

 忠告なのか警告なのか、あるいはそこまで重くはない単なる注意の喚起なのか。ベクトルの方向としてはそんな感じだが、その長さだけはわからなかった。どこまで深いのか、判別ができない。


 つまるところ、そんなものだった。わからない、という印象だけが残って、それ以外が記憶に残らなかった。その時、彼女がなにを言ったのか――、あるいはなにも言わなかったのかもしれない。曖昧な記憶によって生まれた齟齬だったのかもしれない。

 結局、それは家に帰った時には既に忘れていた。




 今でもそれは、思い出せない。




◇◇◇◇・◇◇◇◇




 ただいま、と、誰もいない部屋に俺の声が響く。

 暗い部屋。日の沈んだこの時間では、俺が電気のスイッチを押さなければ明かりがこの部屋を照らすことはない。故に、部屋は未だに暗いまま。残業などという今の社会風潮に反する行為によって疲労が限界に達していた俺は、電気を付けるという行為すら忘れてスーツの上にコートを着たまま、ベッドに飛び込んだ。

 疲れた。

 眠い。

 もう何もしたくない。

 いっそこのまま眠って、永遠に目覚めなければどれだけ楽だろうか、とさえ思ってしまう。だがそれは許されない。俺はもう、何かに背負われ何かに支えられる、子どもではない。俺には背負うものも、支えなければならないものもある。それを途中で投げ捨てるわけにはいかなかった。


「……」


 ポケットの中の携帯が震えているのに気付く。面倒に思いながらも取り出し、開いた。

 表示されているのは、「璃茱」。慌てて通話ボタンを押し、起き上がってから携帯を耳に当てた。


「もしもし?」


『あ、お兄ちゃん?今、大丈夫?』


 メールはよくするが電話越しでも久しぶりに聞く璃茱の声に、少々感慨深いものを覚える。疲れが癒されていくのを実感しつつ、璃茱に答える。


「ああ。なにかあったのか?」


『うん。できればわかってからすぐに知らせたかったんだけど……お兄ちゃん、お仕事忙しいって言ってたから』


 本音を言えば璃茱の電話は仕事を差し置いても優先したい事項だったが、あくまでも俺は社会人だし、我がままを通すわけにもいかない。璃茱の心遣いに感謝する。


「まぁ、もう仕事は終わったし、大丈夫だ。で、何がわかったんだ?」


『うん、あのね――』


 璃茱は言い渋るように少し溜めてから、


『――嬢育高校に合格したの!!』


 それを聞いて、俺の中に何かが広がっていくのを感じた。


「そう……か。うん、よかった……」


 俺が言えたのはそれだけ。人というものは感情が飽和すると、逆に表せる行動が絞られてくるものである。俺の場合、それを言うだけしかできなかった。


「お前、頑張ってたもんな?」


『うん!一番行きたい高校だったもん。お兄ちゃんに頑張れって言われたから全力で頑張っちゃった』


 テンションの高い璃茱に、思わず笑みがこぼれる。璃茱が美代と同じ嬢育高校に行きたいと俺に打ち明けた時のことを思い出して、やはり笑みが浮かんできた。理由は別に訊かなかったし、訊いて俺が何かするわけでも俺に何かできるわけでもない。それでもあの時は、璃茱が俺とは違う選択肢を選んだことに、一抹の寂しさと同時に嬉しさも覚えた。それまで俺の真似ばかりしていた璃茱が自分の意志だけに頼って選択したことに、一人立ちの一歩を踏み出したと思って、俺は喜んだのだ。


『それにね、璃茱、試験の成績、一位だったんだよ!?』


「へぇ……、さすがは璃茱だな。俺も嬉しいよ」


『うん!』


 璃茱は確かに中学校でも成績優秀だったらしいが、まさかトップで入学とは。ここで燃え尽きて落ちこぼれなければいいが。……まぁ、そんな中途半端なやつじゃないから心配は不要かもしれない。


『あ、そうだ』


 と、思考に耽ってしまうところだった俺に、璃茱の声が割って入った。電話で思考に耽ってしまうほど黙るのもどうかと思うけど。


「なんだ?」


『うん。忘れるとこだった。合格報告だけじゃないんだ、今日の用は』


 ふむ、と唸って璃茱を待つ。なんだろうか。


『えっとね――』


 またしても璃茱は溜めるように言葉に間を開けて――

 言った。




『お兄ちゃんの結婚式、いつだっけ?』






 いまさらですが気付いたことを


 幼稚園には夏休みがあります。よって、高校が夏休みであるというのに璃茱が幼稚園に行っているのはいささか不自然であります。

 幼稚園⇒保育園と脳内変換しておいてください。母親が亡くなって保育園に移動したということにしておきます。

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