第7話 キャスバート公爵夫人の進撃
抜けるような青と白い雲が、天高く伸びる晩夏の空の下、ウィステルは馬車から降り立つ。照りつける陽射しは暑く、眩く、手のひらをかざして日除けを作る。
昼前にウィステルは治水工事をしている現場へと到着した。フィセリオに治水工事の現場を視察したいと伝え、許可を得てから来ている。何か慈善事業を行えないかと思ったときに、視察を中心にしつつ慈善事業を付随させることを閃いた。
貴婦人がズボンを着るものではないと聞き、現場に行くのに向いている動きやすい服装は何かないかと考えた。そうして苦肉の策として、乗馬用の服を着用することに決めた。
「ウィステル様ーっ! 日傘をお忘れです!」
「傘なんて邪魔になるだけです。ジャスミンも荷物を持ってください」
「えぇっ!? わ、わかりましたっ」
許可こそ得たものの、視察に行くまで十日も待たされることになった。慈善事業の一環としてパウンドケーキを配るつもりだったが、せっかく時間があるのならともう一つ取り寄せたものがあった。
荷物を抱えて現場へと近づくにつれ、川のせせらぎが穏やかに心地よく耳に届く。川面が日を照り返して、白くキラキラと輝いていた。
少し歩くと、堤防の近くで作業を見守っている男性の姿が見えてくる。日に焼けて浅黒くなった肌に、麦のような金髪の彼が、現場監督のストックだろうと察した。
「こんにちは。お疲れ様です」
「……っ! 失礼ですが、あなた様が公爵夫人のウィステル様で……」
「はい。突然視察がしたいなどとわがままを申し上げてしまい、ご迷惑をおかけしました」
「と、とんでもないです! 皆、ウィステル様がいらっしゃると聞いて、むしろ仕事に張りが出たくらいですよ」
この夏空に似合う爽やかな笑顔で、ストックはウィステルたちを迎え入れてくれた。貴族が視察に来るなんてと煙たがられなかったことに、ウィステルは密かに胸を撫で下ろした。
「何かできることはないかとご用意してきたものがあるんです。もしよろしければ受け取っていただけると嬉しいのですが」
「我々にですか? そこまで気遣っていただけるなんて……」
ストックは現場の職人たちに声をかけると、早めの昼休憩を呼びかけた。それを聞いて作業を切り上げ、こちらへと戻って来る。皆、夏の陽射しを浴びてしっかり焼けており、その苦労が滲んでいる。
「心ばかりですが、パウンドケーキを焼いてきました。それと、わたくしの故郷であるラティマー領製のタオルも。全員分きちんとありますので、遠慮なく受け取っていただけると嬉しいです。さぁジャスミン、一緒に配って回りますよ」
ここへ来る前に職人たちの名簿を確認し、きちんと人数分準備してきている。タオルはラティマー領で栽培されている綿花から作られたもので、薄手だが柔らかく、吸水性の高い実用的なものを選んだ。
パウンドケーキは早起きをして、ジャスミンと二人で焼いたものだった。料理人のように凝ったものは作れないが、少しでも喜んでほしいという思いからだった。配っていくと、皆一様に感謝と喜びを露わにする。
「ありがとうございます! ウィステル様!」
「あぁ、甘いもんなんて滅多に食べられねぇからなぁ。沁みる〜」
「このタオル、気持ちいいですね。汗もよく吸ってくれるし、本当に助かります」
ラティマー領でこうして直接民と関わって働いていた頃から思っていたが、やはり嬉しそうな笑顔を見られると気持ちが奮い立つ。少しでも役に立ちたい、少しでも穏やかな生活を送れるようにもっともっと頑張らなければ、と。
「あの……お尋ねして良いものかわかりかねますが、なぜウィステル様は治水工事にご興味があるのでしょうか?」
「おい、ラティマー領っつったら二年前の……! ウィステル様、バカが申し訳ございませんっ!」
「いえ、気に病まないでください。実際、わたくしが治水工事に興味を持ったのも二年前のことがきっかけですから」
二年前の長雨。元々雨が降りにくく、痩せて乾いた土地であったラティマー領は大雨に弱い。河川の氾濫だけでなく、水捌けの良い土は崩れやすく、他領に比べ甚大な被害が出た。その対応に追われ、現場で指揮を執っていた父は……山体崩壊とも呼べる規模の土砂崩れに巻き込まれ、帰らぬ人となった。
領地の大半が災害に見舞われ、遺体の捜索すら許されず、混乱の最中家督を継いだ兄と共に奔走した。けれど、翌年も天候不良に見舞われ、対応に追われながらも何もかもが追いつかなかった。
「だからわたくし、今日は皆さんから勉強させてもらうつもりで参りました。できるだけ邪魔にならないようにいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げて頼むと、作業員たちは慌てたような雰囲気でにわかにざわつく。顔を上げると、皆がそれぞれまっすぐな思いを言葉にしてくれた。
「俺たちで力になれることがあればなんでも言ってください!」
ある者は腰に手を当てて、自信を滲ませて屈託なく笑う。
「地味な力仕事だけど、誇り持ってやってんで、ウィステル様が見に来てくれてめちゃくちゃ嬉しかったっす!」
ある者は手を高らかに上げて振り、人懐っこい表情で目を輝かせる。
「実は僕、ラティマー領に近い山間部出身で……あのときはうちの村もあちこち崩れたりして、本当に大変でしたよね。その、領主様のご冥福、お祈りします……」
ある者は帽子を取って胸に当て、痛みを飲み込んで祈るように目を伏せた。
この晴天のように、曇りのない彼らの明るく温かな気遣いがこちらへと向けられる。キャスバート領にいる人々は守られていて、安心して仕事に打ち込める環境なのだと、ウィステルは少し眩しく感じていた。
「ありがとうございます……! 皆さんも何か困り事がありましたら、遠慮なくわたくしに話してください。どの程度お力になれるかはわかりませんが、フィセリオ様に直接お伝えすることくらいはできますので」
ラティマー領でもそうしていたように、伝達の役割を買って出る。伝えても、それが叶うとは限らない。けれどちゃんと声を聞いてくれているという安心感と、民のことを考えているのだということを示したかった。
作業員たちは昼食とパウンドケーキを食べ終えると、差し入れたタオルを首にかけてまた作業へと戻っていった。
その後、ストックに治水工事についての説明を受けながら現場の作業を見学させてもらった。キャスバート領は水も土地も豊かだが、この辺り一帯は川の形や土地の性質から水害が起こりやすいらしい。
ラティマー領と似ていて、水に崩れやすい性質の土壌で、堤防の法面には粘土質の土を混ぜて崩れにくくし、特殊な魔術で補強していると教えてくれた。
日が傾きかけた頃、ウィステルは視察を終える。ストックや作業員たちに感謝を伝えてから、現場を離れた。
「ジャスミン。止めずに見守ってくれてありがとうございました」
「止める必要があるようなことはなさっていませんので。私は、公爵夫人としてとっても立派に務め上げられたと思いましたよ」
ウィステルたちは馬車へと乗り、帰路へとつく。ジャスミンのくすぐったそうな笑みが、夕日の朱に染まっていた。
実りの多い一日を過ごすことができた。差し入れも喜んでもらえて、手応えも感じられた。
今日のことをゆっくりと振り返りながら、馬車の揺れに身を任せる。窓の外を流れていく景色と遠くに見える川を見つめながら。
* * *
キャスバート家の屋敷へと戻り、いつも通り過ごしたあと、身支度を済ませて寝室へと入る。今日はフィセリオの方が早かったらしく、寝台の上に座って何かの報告書に視線を落としていた。
「今日の視察はどうだった?」
「学びの多い一日でした。これも許可してくださったフィセリオ様のおかげです。ありがとうございました」
「それは良かった」
フィセリオは嬉しそうに、温かな笑みを湛えてウィステルを見つめている。本当はさほど興味もないのだろうが、動向の把握という点では知っておきたいのだろう。興味のあるフリまで、抜かりなく上手なようだ。
「それで、またお願いがあるのですが……」
見守るような眼差しで微笑んでいたフィセリオの口元が、少し固まる。以前「畑に行く」と言ったときに戸惑っていたことを思い出して、構えているのかもしれない。
「来月の収穫祭に、わたくしも出店してみようと考えているのです。まだ細かなところは決めていないのですが、先にフィセリオ様の許可をいただこうと思いまして」
「祭りへの……出店……?」
あぁ、また戸惑ってる。
“微笑み公爵”は、微笑みながら固まっていた。どう返事をしようか、今全力で思考を巡らせていることだろう。
「……では、主催者に許可を取り付けるといい。それができれば許可しよう。それから、内容が決まり次第報告してほしい。最終確認し、私が判断する」
「はい、ありがとうございます!」
フィセリオは少し考えてから、出店の許可をしてくれた。あとは自分の実力でそこまで漕ぎ着けるかが決まる。次の目標が決まり、ウィステルの心は熱く燃え始めていた。
「ウィステル」
夜の帳の下りた静かな寝室に、フィセリオの声が柔らかく溶けていく。こちらを覗く銀灰の瞳が、ウィステルの紅紫色の瞳をそっと映し込むと、気遣わしげに細められた。
「公爵夫人になったからと焦らなくていい。最近の君は急に忙しなく働き始めて、少し心配なんだ」
微かな嘘の匂いが鼻先を掠め、ウィステルはフィセリオに微笑みかけた。どうやら予想外に動き始めたウィステルを、彼はどうにかして制御したいらしい。
「焦ってなどいません。わたくしはただ心の向くままに、やりたいことをやっているだけですから」
自由にしていいと言ったのはフィセリオの方だ。きちんと確認を取ってから動いているのだから、あれはダメこれはダメとは言いにくいだろう。自分の都合の良いように閉じ込めようとすれば、“妻を愛する夫”から一気に、“愛を理由に妻を束縛する夫”へと早変わりだ。
「無理をしていないならいい。必要以上に気負う必要はないからな」
「はい。いつも気遣ってくださってありがとうございます」
嘘の匂いは、もう空気に溶けて消え去っている。公爵ともあろう人間が、優しく弱々しい言葉で諭すことしかできない。自分でついた嘘に自分で追い詰められている。
言葉の裏に『勝手なことはしないでくれ』という、彼の悲鳴のような含みを感じて、ウィステルは小さく肩を揺らして笑った。




