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第5話 ウィステル・キャスバートの覚醒

 まぶたの向こうに光を感じ、緩やかに意識が覚醒する。布団の中でぐっと伸びをすると、眠気があくびとなって口からあふれた。


「今日はゆっくり眠れたか?」


 クスッという小さな笑い声に、冷水を浴びせられたように目が冴えて飛び起きる。するはずのない声……ではない。


 もう結婚してから一週間が経つというのに、我ながら学習能力のなさに落ち込む。油断して、大きなあくびをしているところを見られてしまった。


「おはよう、ウィステル」

「ぁ……おはよう、ございます……」


 フィセリオは読んでいた本を閉じながら、ウィステルの方へ少し体を傾ける。フィセリオはごく自然な所作でウィステルの手を掬うと、指先に軽く唇を触れさせた。朝と夜、日に二度行われる“挨拶”には相変わらず馴染めない。


 顔を上げた彼と視線が交わる。美しく整った表情、甘やかさを宿した眼差し、“妻を愛する夫”としての完璧な所作。一週間の間、寝室こそ共にしていたが、ずっと誠意を見せるように一定の距離を保ってくれている。


 見た目だけなら、妻を愛して気遣っている夫なのだと疑う余地もない。毎日、毎日繰り返され、嘘だと見抜いているはずのウィステルでさえ、見えている姿が真実なのではと錯覚しそうになる。


「あの、気になっていたのですが、なぜ挨拶のときに手にキスをするのですか?」

「なぜと言われても……愛しい人には口づけたくなるから、としか言いようがないな」


 白いレースのカーテンから差し込む陽光を背に、フィセリオは春の木漏れ日のように目元を和らげた。その“完璧な夫”からふわりと広がる、熟れて崩れかけた甘い……嘘の匂い。


あぁ……やっぱり、そうなんですね。

愛だけは、嘘……だと。


 一週間で小さく積み上がってきた優しい気遣いも、笑みも、隙を見せるような眼差しも、この指先への口づけも、全ては“妻を愛する完璧な夫”としての演出に過ぎない。


 だからこそ恐ろしい。平然と呼吸をするように自分を偽り、他者を欺き続けられる冷酷さが。これほどまでに微細に調律して、整えて、貼り付けられる人であることが。


 少しだけ、心を通わせられる余地があるような気がしてしまった。少しだけ、心の温度を感じられたような気になってしまった。


 その全てが、ただの幻想でしかなかったのだという絶望。小さな希望の光は、朝の陽射しに灼かれて白く潰えようとしていた。


 彼の手がこちらへと伸び、そろりとウィステルの頬に触れる。ぎゅうっと心臓が締めつけられるように縮み上がり、反射的に距離を取ろうと寝台を足で蹴って後ろへ身を引いたときだった。


「──ぁ」


 腰が深く沈み込み、ぐらりと世界が傾く。寝台の端に行き過ぎたウィステルは、背中から床へと落ちようとしていた。


わたくし、なんで今逃げようとしたの……


 逃げ場などないのに。援助と引き換えに自ら差し出したのだから、拒絶する権利もないのに。嘘という見えない壁に隔てられ、心が通わないという虚しさから、フィセリオの存在を拒絶してしまった。ならば罰として落ちるのもやむなしと、空を切る自身の手を見つめながら、痛みを予測して目を閉じる。


「ウィステル!」


 掴むものもなく虚しく伸びた腕を、強く掴まれる。ぐっと前へ引き戻されると頭がゴツンと何かにぶつかり、鈍く痛んだ。


「驚かせてすまない。少し軽卒だった……大丈夫か?」


 微かに震える吐息、呼応する心音。気遣わしげな声が、すぐ真上から降ってくる。目を開けると、彼の腕の中にすっぽりと包まれていることに気づいた。寝台から落ちかけたウィステルを、フィセリオがとっさに助けてくれたようだった。


「どうして……」

「どうして? 助けるのは当たり前だろう」


そうじゃない……どうして、嘘の匂いがしないの?


「大丈夫です。申し訳ありません……」


 全て“妻を愛する夫”の演技でしかないのだと、そう思った。なのに、今この腕の中はどうしようもなく温かくて……優しい。


「気にする必要はない。ゆっくり慣れてくれれば、それで構わない」

「はい……」


 今、彼は心配してくれていた。愛してもいない、どうでもいい相手のはずなのに。その心配だけは、確かな“本物”だった。


 嘘の匂いは、決して万能なものではない。人が嘘をついたときに、ただ甘ったるく香るだけのそれは、悪意の嘘も善意の嘘も区別しない。ただその瞬間に嘘をついたという事実だけを告げ、裏側に隠された真意を何一つ語りはしない。


 知りすぎてしまうからこそ、自分の目で、心で、真実を見極めなくてはならない。嘘をつかない人などいないからこそ、嘘を信じすぎれば、疑心に光を奪われて盲目となる。


『知りすぎてしまうからこそ、目に見えるものも大切にしなさい』


 子供の頃に、病で亡くなった母。母もまた、ウィステルたちと同じく、『嘘を匂いで感じる』能力の持ち主だった。朝靄の中に溶けるような儚げな母の笑みが、静かな声と共にウィステルの胸の内に波紋を広げていく。


この人は、平然と人を欺けるほど冷酷なのかもしれない。

でもきっと、温もりを全て失っているわけでもない。

そう、信じていたい。


 よく考えれば、なぜフィセリオは“二人きりのときまで”良き夫を演じるのだろう。ラティマー領、兄のローワン、ウィステル一人くらい簡単に強請(ゆす)れる程度の弱みと、虐げられるだけの権力を彼は握っている。もっと雑に扱ったって離れることはできない。


 それでもなお理想的な夫の顔を崩さず、“幸せな妻”でいられるようにしてくれている。もちろんその方が嘘の補強になるからというのはあるが、政務の忙しさなど理由をつけて放置することもできたはずだ。


 愛していないのに、気遣って、大切にして。わざわざウィステルが「愛されている」と思えるように演技を続けている。


どうしてそんな回りくどい手をフィセリオ様は選ぶんだろう?


 実利主義の公爵とも呼ばれるフィセリオ。なぜ味方である公爵家の人々ごと、欺くのだろう。なぜ、自分の心を偽ってまで嘘をつくのだろう。考えれば考えるほど、わからなくなる。けれど、募るようにウィステルの中に一つの新たな感情が芽生えていく。


わたくしは、この人のことを何も知らない。

聞いたところで教えてくれる気もしない。

でも、だとしても──


 誰にも打ち明けず、孤独な嘘を貫く“夫”。その理由が語られなくとも、構わない。


 目に見えるものは、いくらでも偽ることができる。けれど心の奥に潜めたものは、偽ることができない。


 だからこそ、なぜ「その行動を選んだ」のか、なぜ「その言葉を選んだ」のか、そこにその人の本質が表れることがある。目に見える偽りは、その人の「心が選んだ」偽りの形だから。


わたくしは、あなたの“優しい嘘”に報い、その嘘を共に背負います。


 “妻を愛する夫”……それが彼の選択なら、同じ嘘を貫き通そう。騙されたフリをして、“愛される妻”として皆の目を欺いてみせよう。それがウィステルが返せる、恩義の形なのだと、腹を括る。


わたくしは今日から、あなたの“共犯者”だ──



* * *



 初日からずっと傍に仕えてくれているジャスミンがウィステル専属の侍女だ。身支度くらい一人でできると伝えようとしたが、公爵夫人として相応(ふさわ)しい身嗜みはよくわかっていないことに気付き、彼女に整えてもらっている。


 ラティマー領にいた頃は市井に出て、実務をこなしたり作業を手伝っていたため、化粧も程々に髪も一つに束ねているだけだった。


 やはり公爵夫人の身嗜みは凝っている。髪型一つとっても、編み込みを入れて綺麗に後ろにまとめてくれる。フィセリオが半ば押しつけ……ではなく、贈ってくれた髪飾りの中から好みのものを選んでつけてもらうのがお決まりになっていた。


 そのあと朝食をとるために、大食堂へと向かう。そこでフィセリオと向かい合って食べることも日課の一つだった。


「今日は何をする予定だ? 何か気になる書物があるならエルウッドに持っていかせるが……」


 その日の予定は、毎日フィセリオに聞かれている。その理由はきっと、その日の動向の監視と、愛してもない相手に対して“気にかけている”という演出。そして新しく話題を考えるのが怠いから、毎日使えて、日によって違う話をしつつ広げやすいものという三つの利点から成り立っていると想像ができた。


「わたくし、街へ行こうと思っています」


 毎日本を読んで静かに過ごしていたが、今日からは変わる。おとなしく畏まり、顔色を伺って公爵夫人像を模索するのは終わりだ。


 ここからはウィステルなりのやり方で公爵家との価値観を擦り合わせ、自らの手で『キャスバート公爵夫人』の在り方を作り上げていく。フィセリオの共犯者として相応しい妻になることは、最終的に守りたいもの全てを守る力になると信じている。


「街へ? 何か欲しい物でもあるのか?」


 物欲を満たすために街へ出たいという、実に平凡で退屈な発想。愛しているフリはしながらも、こちらを彼の中にある“型”にはめて見ているだけに過ぎないことが伝わってくる。ウィステル自身フィセリオのことは全く掴めていないが、フィセリオもまた、ウィステルの核の部分は掴みきっていないようだ。


「いえ、少し畑の様子を見に行こうかと思いまして。ここに嫁いで来たとき、馬車の中から郊外にある畑を見たものですから」

「畑……? 見に行ってどうするんだ?」

「もちろん、お手伝いしてきます」


 そう告げると、フィセリオだけでなく給仕や料理人の手すら止まった。一瞬の静寂のあと、止まった時が動き出したように音と気配を取り戻す。


 その反応から、公爵夫人としては少しおかしなことを言ってしまったのだという自覚はあった。それでも、ウィステルは“それしか”やり方を知らない。


 ラティマー領で民に混ざって作業をしながら、彼らの現状、喜びや悲しみの声に耳を傾けてきた。そしてそれを兄であり、当主でもあるローワンに届けていた。


「先ほど、頭は打っていないな?」


 完璧な夫を演じる“微笑み公爵”の微笑が僅かに崩れる。ウィステルはその戸惑いが滲んだ微笑に、内心ほくそ笑んだ。


「はい、おかげさまでどこにも痛みはありません。ありがとうございます」

「それは良かったが、そうではなく……その……畑仕事が……したいのか? 君は……あぁ、いや……」


 フィセリオは何かを言いかけて、静かに飲み込んだ。突然方向転換した妻の変わりように、気がおかしくなったのかと言いたげだ。とはいえ、愛する妻に「頭がおかしいのか」なんて暴言は吐けないだろう。こらえるしかない。かわいそうに。


「いえ、民との親睦のためです。キャスバート領に住む一人として、早く馴染めたら、と」


 キャスバート家に嫁いできて、これからはここで暮らしていくことになる。公爵夫人として、自領の人々に親しみを持って信頼してもらわなくてはと考えている。畑に行きたいというのはもちろん、ラティマー領で得た経験からの提案だった。


「ラティマー領では作業の(かたわ)ら、直接困り事を聞いていました。幸いわたくしは魔術が使えますし、橋が壊れかけたと聞けば草術で応急処置し、倒木があると聞けば風術で退()けに行ったものです。馬にも乗れますよ?」

「……そうか……それは、頼もしいが、少々現場主義すぎるな……ローワン殿は一体君に何をさせていたんだ……」


 食事の手を止めて、フィセリオは考え込み始める。さぁ、“妻を愛する夫”として次はどう出るのか。ウィステルは彼の反応をわくわくしながら眺めていた。


ローワン兄様、わたくしちゃんと楽しくやっていけそうな気がしてきました。


 ローワンに思いを馳せながら、ウィステルは朝食のパンへと手を伸ばす。ふかふかの、丸くて白い柔らかいパン……このパンだけでも、ローワンに届けて食べさせてあげたいと思いながら口にする。仄かな甘みと素朴な小麦の香り、それが微かな温かさと共にじんわりと口の中に広がった。

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