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第49話 指先から触れ合う心

 ローワンからの手紙を受け取った夜、ウィステルは寝室の寝台の上でフィセリオを待っていた。今日も遅くまで政務に追われているのか、もうすぐ日付が変わりそうだというのに帰ってきていない。


 それでもどうしても今日伝えたくて、決意が揺らがないように何度も心の中で繰り返し確かめた。


 大丈夫、フィセリオ様はきちんと最後まで話を聞いてくれる方です。不都合だからと感情的になる方でもない。それは今まで見てきてわかってるはず。


 わたくしはただ心に誠実に、受けた結果を望む未来に繋げられるように、覚悟を決めるだけ……


 それからどれくらいの時間そうしていたのかはわからない。不意に扉が開くと、政務を終えたフィセリオが帰ってきた。


「……お疲れさまです」

「まだ起きていたのか? あまり夜更かしをすると、明日がつらくなる。私のことはこれまで通り待たなくていい」


 気遣わしげな声色さえ、甘く優しくウィステルの胸に響いてくる。きゅう……と胸の奥が締めつけられ、僅かに息が細くなった。


「いえ、その……今日は……フィセリオ様に、お話ししたいことがあって……」

「そうだったのか。遅くなってすまなかった」

「いえ! 今夜お話ししたいと伝えなかったのは、わたくしの方ですからっ」


 普通に切り出したつもりなのに声が僅かに掠れ、緊張を煽られる。フィセリオはこちらへ歩み寄ると、ウィステルの隣へと腰を下ろした。寝台が軋みながら、ぐっと沈み込む。隣に来てくれたことはわかっているのに、肝心のウィステルは(うつむ)き気味に自分の膝を見ていた。


 いざ想いを告げようと思うと、手が微かに震えた。心臓は叩きつけるようにうるさくて、少しだけ呼吸が浅くなる。あれだけ固めたはずの決意が、砂山のように崩れていくような心地だった。


 静寂の中に、フィセリオの気配と息遣いが感じられる。話があると言いながらなかなか話を始めないウィステルを、彼はじっと見守るように待ってくれていた。


「実は少し前の夜……フィセリオ様の“愛してる”という声を……聞いたんです。夢なのか、本当にフィセリオ様が言ってくださったのかはわからないのですが……わたくし、気づいてしまったんです」


 フィセリオは微かに息を呑み、吐息を震わせる。そろりと視線を向けると、彼は怯えたように目を大きく開いて顔を強張らせていた。


 あの“愛してる”を聞いて、この心にフィセリオへの恋心が宿っていることに気づいてしまった。話を切り出したものの、フィセリオの反応は良くない。それでももう、伝えると決めたのだ。ここで怯むなと言い聞かせながら手を固く握りしめ、勇気を振り絞って口を開こうとしたときだった。


「……聞いて、いたんだな。ならもう、私の気持ちは……君に──」


 フィセリオはそこまで口にして言葉を切ると、視線を伏せる。まるで何かを諦めてしまったかのように、小さく吐き出された息がぽとりと落ちた。


「ウィステル……君を、愛してしまった。愛を騙り、君を傷つけた私が……こんな感情を(いだ)くなんて。許されるはずも、ないのに……」


 ぽつりぽつりと雨のように感情の欠片を零しながら、彼は今にも泣きそうな……悲しげな眼差しでふっと微笑む。まっすぐにウィステルを見つめる瞳は、目の前の光景を焼きつけるような輝きを秘めながらも、確かな罪悪感を滲ませている。それは触れただけで崩れそうなほどに脆く、弱々しく見えた。


「では……あれは、夢ではなかったのですね?」

「あぁ。こんな言葉、もう二度と私の口からは聞きたくなかったんじゃないか……? 本当に、申し訳ない……」


 痛みを飲み込むように、フィセリオは目を伏せる。膝の上で固く組まれた彼の手に、ウィステルはそっと手のひらを重ねた。


「いえ、もう一度聞きたいと思っていました。気づいてしまったと言いましたよね? わたくしはあの言葉で……あなたを好きなんだと、自覚したんです」

「気づいてしまったって、そういう意味だったのか。“愛してる”という言葉に匂いがしなかったから、私の想いに気づいてしまったのだとばかり……」

「ふふ……嘘の匂いもしませんでしたけどね?」

「あぁ、そうだろうな」


 フィセリオは天気雨のような、小さな笑みを零した。作られたものではなく、じわりと染み出すように。


「ウィステル。君を……愛してる」


 何度も聞いたフィセリオの“愛してる”。それは今までで一番弱々しく、何の匂いもしない。自信がなさそうに震える声と、掠れた甘い響きが耳をくすぐり、まるで残り香のように静かにウィステルを包んでいた。


 躊躇(ためら)う指先が伸びては引き、そっと人差し指だけが頬に触れる。そこから中指、薬指と増え、肌の表面を柔らかくなぞっていく。その手に手を重ねると、フィセリオは切なげに目を細め、小さく息を漏らした。


「ウィステル……」


 そのまま恐る恐る……怯えるようにこちらへと顔を寄せてくる。銀灰の瞳の、焦がれて縋るような眼差し。その中へ、ウィステルの瞳の紅紫色が柔らかく淡く溶けていく。そのまま身を委ねるように、そっと目を閉じた。


 気配がさらに近づき、距離が縮んでいく。まるで呼吸を重ね合わせるように、静かに……口づけを交わした。


 柔らかく触れ合った唇から、優しい熱が伝わってくる。暗く閉じた世界で、熱を通して互いの存在を確かめ合っていた。


 このときを待ち焦がれていたかのようにウィステルの胸の奥は甘く痺れ、まぶたの裏にじわりと湿った熱を灯す。空の杯がゆっくりと満たされていくように、温かな想いが注がれ、あふれていった。


 唇が離れ、結ばれた吐息がほどけていく。フィセリオの熱っぽく潤んだ瞳に目を奪われたまま、胸の高鳴りに耳を塞がれていた。


 それは、ずっと届かなかったウィステルの心が、ようやくフィセリオの心と出会い、触れ合えた瞬間だった。


「……フィセリオ様」


 ウィステルは勇気を出してフィセリオへと手を伸ばし、彼がしてくれたのと同じように頬に触れて撫でる。


「わたくしの気持ちは、ちゃんと追いつきましたよ」


 その瞬間、フィセリオは言葉を詰まらせたように息を止めた。彼の瞳が、まだ信じられないと言いたげに揺らいでいる。想いを受け取って良いのか迷ったまつ毛が、ふるっと微かに震えた。


「私は、君を……騙していた人間だ。本当に、私を……」


 確かに、フィセリオはウィステルを騙そうとした。普通の人だったら、きっと騙されたままだった。嘘をつかれて、利用されて、偽物の愛を気づかないままに享受していた。けれどウィステルは──知りすぎてしまうから。


「出会ってから、ずっと見てきました。あなたの嘘も、真実も。それでもわたくしの心は、あなたを愛したのです」


 フィセリオは静かに息を呑み、コクリと小さく喉を鳴らす。彼の手がそろりとウィステルの背中へ回され、そっと抱き寄せられた。


「ふふ、あなたが始めた嘘なんですから、最後まで責任取ってくださいね?」

「もちろん……君がそれを望んでくれるなら」


 視線がふわりと柔らかく絡まり、気づけばどちらからともなく微笑み合っていた。温かく、静かな時間を、彼と共に重ねている。たったそれだけのことなのに、尊くて、嬉しくて、心が震えていた。


 温かな腕の中で、ウィステルはその喜びを噛み締めるように、もう一度目を閉じる。切なげな息遣いと共に、フィセリオは頬をウィステルへと擦り寄せた。そうして再び触れた唇は、一度目よりも熱く……甘い。やがて二人の温もりは、ゆっくりと静寂に染み込んでいった。


 言葉はなく、繋いだ手から、ただ体温を感じている。微睡(まどろ)みは甘やかに。温もりは安らぎへ。心の一欠片が通じ合えたことを確かめるように、ウィステルはフィセリオの手を握り返す。灯火は消え、月明かりだけが窓から淡く差し込んでいた。

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