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第48話 その愛が幻だとしても

 扉の開く微かな音に、ふっとウィステルのまぶたが柔らかくなる。けれど開くにはまだ重く、沈み込むような眠気がウィステルの全身に覆い被さっていた。


 フィセリオ……様?


 フィセリオはここのところ遅くまで政務を処理し、ウィステルが就寝した後にしか帰ってこないことがある。それはラティマー領での魔物災害を事後処理まで支えてくれたおかげであり、そのせいで後回しにされた政務を片付けるためでもあった。


 起き、て、言葉、を──


 それでも、睡魔に襲われたウィステルの意識は深く落ちては、小さな浮上を繰り返していた。気配が近づくと、静かに布団の中に差し入れられた手がウィステルの手を取る。


「おやすみ、ウィステル……」


 指先に柔らかな温もりの感触。それはいつも通りの就寝前にする挨拶。今まで気づかなかったが、先に寝てしまったときはこうして毎回「おやすみ」と言ってくれていたのだろうか。


 おやすみなさいと返したいのに、微睡(まどろ)みの中、唇は縫いつけられたように閉ざされて開かない。むしろ入ってきた人物がフィセリオであることに安心し、一層体が重さを増すと、指先に触れる感触さえも緩やかに意識の外へと遠のく。


「……っ……愛してる」


 微かな吐息が指先を掠め、明かりの灯らない閉じられた暗闇に、囁きが淡く切なく溶けていく。


 あれ……ゆ、め……? どうして、こんな夢を……わたくしは、フィセリオ様を──


 甘い言葉に匂いはなく、指先は静かに下ろされる。布団の上からぽんぽんと二回撫でられると、気配はそのまま消えていった。


 まるで元から誰もいなかったかのように、静寂だけが隣に横たわっている。夢なのか現実なのかわからなくなったまま、ウィステルはまた深い眠りへと落ちていった。



* * *



 ウィステルはそのことを、翌朝になっても覚えていた。それから三日三晩、あれは夢だったのか現実だったのか……悶々と考え続けている。


「ウィステル様、ここのところずっと難しい顔をしてますよ? 何か悩まれていることでもあるんですか?」


 さすがに三日目ともなり、いよいよジャスミンも心配して大きく踏み込んできた。けれどこんなことにいつまでも思考を占拠されているわけにもいかない。


「少し前に夢を見て……けど、現実のような気もして。それが夢なのか夢じゃなかったのかを判別する方法はあると思いますか?」

「夢ですか……うーん、そうですね……夢、夢……」


 ジャスミンは眉根を寄せながら、首を傾げる。しばらく考え込んだあと、パッと花火のように笑顔を咲かせた。


「現実には起こらないこととか、変なとこがあれば夢なんじゃないですか? 違和感のある部分があったかをまず探してみるといいかもしれません。それでも判別できないときは夢で見たものと現実で見たものを比べて、変わりがないか……とかですかね?」

「ありがとう、ジャスミン。少し考えてみます」


 嘘をついていたと謝られてから、フィセリオはもう愛を囁かなくなっていた。嘘をつかなくて良くなったのだから当然のことでもある。となると、やはりあの夜は夢だった可能性が高い。


 そうわかっているはずなのに、今も気にかかってしまっている。それはきっと、本当は現実であってほしいと……心のどこかで願ってしまっているからかもしれない。


 もう一度聞きたい……なんて……嘘の協力者でしかないのに。


 胸の奥から、軋む音がする。嫁いできたとき、心が全く触れ合わないことが少し寂しくて、悲しかった。


 けれど今は──真綿を顔に押しつけられたように柔らかくて、息苦しい。その息苦しさの正体がわかってしまって、痛みへと変わっていく。あの言葉が夢なのか現実なのか、本当はもう関係がない。


 わたくしがフィセリオ様を好きになってしまったことだけは……現実なんですから……


 愛してくれない人を、愛してしまった。始まる前から終わっていた恋の痛みが、心を焼き尽くそうとしていた。


『……愛してる』


 夢か現かもわからない曖昧な世界で聞いた、フィセリオの声。夜風のような囁きが、記憶の中から響き、耳を内側から撫でていく。


 夢の中でも構わない。もう一度、もう一度だけ、聞きたい……そんな叶わぬ願いを、(いだ)いてしまった。



* * *



 悩みを解消するどころか、ますます深い悩みへとウィステルは沈んでしまっていた。淡々と公爵夫人としての公務をこなしながら、空いた時間はこのことばかり考えてしまう。


 ウィステルは初めての恋心に戸惑っていた。それに対する折り合いのつけ方も、諦め方もわからない。このままでは良くないことだけはわかっている。いつか公務にも支障を出してしまう。その前になんとかしなくてはという思いだけが募り、焦燥を煽っていた。


 作られた微笑みだとしても、こちらへ向くのが嬉しかった。「今日の予定は?」「今日は何かあったか?」そんな事務的なやり取りですら、気にかけてもらえている気がして、胸が熱くなった。就寝前にするいつも通りの口づけと挨拶にさえ胸が高鳴った。


 恋を知ってから、フィセリオの見え方が全て変わってしまっていた。


 このままではまずいと感じたウィステルは、最後の頼みの綱としてローワンへ手紙を書くことにした。恋に浮かれて頭のおかしくなった自分を、あの兄であれば厳しく叱り、目を覚まさせてくれるのではないか……と。


 フィセリオが誕生日のお祝いとして贈ってくれた白磁のペンを手に取る。それぞれの象徴の一つである月桂樹とツバメが、一つの図柄となって描かれている。よく手に馴染むそれをそっと撫でてから、便箋に文字を綴った。


【親愛なるローワン兄様へ。


 フィセリオ様の嘘と共に生きると、以前お伝えしたことを覚えていますか?


 あの決意が今、揺らぎそうになっております。


 愛してはいけない方を、愛されないとわかっていながら、わたくしは愛してしまったようです。守るべきものを守るための協力者として選んでくださった信頼を、裏切ってしまいました。


 ですが罪悪感は、この心を焼く炎を消してはくれません。


 ローワン兄様、役目を忘れかけ、恋に現を抜かす愚かな妹をお叱りください。どうか、再び前を向くためのお言葉をください。】


 インクが乾いてから封筒に入れ、封蝋で閉じる。想いまで封筒に入れて封をして、誰にも届かない遠くへ飛ばしてしまえたらいいのに。そんなふうに考えてしまうほどに、ウィステルの心はじわりじわりと追い詰められていた。


──それから一週間後。


 いつにも増して早い返事がローワンから返ってきた。内容から、急いだ方が良いと察してくれたのかもしれない。とにかくローワンの言葉が早くここに届いてくれたことを感謝していた。


 ペーパーナイフで手紙の封を切り、便箋を取り出して開く。ローワンの柔らかくも整った字は、見るだけで少し心のざわめきを落ち着かせてくれていた。


【親愛なる妹、ウィステルへ。


 手紙は読ませてもらったが、俺はお前を叱るつもりはない。志があるとはいえ、人を欺くことは時につらく、孤独だっただろう。ウィステルはこれまでもよく働き、両領に大きく貢献してきた。まずはそれを誇りなさい。


 それから、ウィステルの想いだが、自分の心の声によく耳を傾けることだ。中途半端なのが一番良くない。勇気を持って決断しなければ、欲しいものは一生手に入らない。


 どうするかはウィステル次第だ。全て失う覚悟で踏み出すか、全てを押し殺してでも維持したいのか、よく考えて選びなさい。俺はお前さえ幸せでいてくれれば、それでいい。


 追伸


 そもそもあっちが先に嘘をついてたんだ。お前の想いを裏切りだと抜かすなら、これで相殺だと開き直れ。


 何があっても、お前には帰る場所があることを忘れないように。前にも言った通り、後始末は全て兄様がやるからな。】


「ふふ、ローワン兄様は……本当に相変わらずですね」


 あんなに焼かれるように悶え苦しんでいた心が、ほんの少しだけ緩む。気づけば、少しだけ笑みが零れていた。


 ローワンはいつもそうだった。ウィステルを否定せず、命令や指定もしない。失敗したり、悩んで立ち止まったときも、ただ傍で見守ってくれていた。その優しさがあったから、ウィステルはいつでも自分の心に素直になれた。


 わたくしは、フィセリオ様が好きです。偽りだらけのこの場所で、せめてこの想いだけは……偽りたくない。


 自然と答えは決まっていた。自身の想いを偽ってまで傍にいても、彼の信頼を無言で裏切り続けるだけだ。選択の結果、もしここにいられなくなったとしても、守りたいもののためにできることはきっとある。


『勇気を持って決断しなければ、欲しいものは一生手に入らない』


 手紙の中の一文が、ウィステルに大切なことを思い出させてくれた。黙っておとなしくしていたって、上手くいくことはない。これまでも自ら行動し、欲しい結果を目指して歩んできた。フィセリオの協力者として認められたことも、その一つだ。


 これまでにフィセリオと築き上げた信頼は、本物だと信じたい。離縁という形になれば、義父母や公爵家の人たちは落胆するかもしれない。けれどそのときはそのときで、フィセリオと最善策を考えればいいだろう。


──どんな関係になろうと、守りたいものはきっと……同じ。


 離れた場所から“同志”として協力し合っていくことを模索できれば、それが夫婦とは別の、最善の形へと変化していくはずだ。そう自分を納得させ、ウィステルは想いを手渡す決意を固めていった。

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