第46話 歩みを止められる場所
馬車がラティマー家の屋敷へと到着する。馬車から降りると、ローワンと従者たちが門の近くで出迎えてくれた。
「フィセリオ様、ウィステル様、この度は遠方からこちらまで──」
「ローワン兄様……」
ウィステルと同じ柔らかな藤色の髪。川面のような翠の瞳は、変わらず澄んでいる。見慣れたはずの懐かしい笑顔に胸が押し潰されそうになり、まだ挨拶も終わらないうちから、ローワンの名が零れ落ちていた。
倒れたと聞いてから今日まで、片時も心が休まったことはなかった。こうして顔を見るまで、本当に目が覚めたのか、本当に体力が戻ったのか、信じたいのに信じきれないような不安が常につきまとっていた。
「ウィステル様、呼称が……フィセリオ様、申し訳ありません」
「ウィステルには私の方からそうするように伝えた。ローワン殿も気を使わないでくれ。公の場でないなら、私も特に気にしない」
「ですが……」
「あとから手のひらを返して責めるようなことはないから、安心してほしい」
フィセリオが形式張ったこの場の緊張を解すように笑うと、ローワンもようやく腑に落ちた表情で苦笑した。その瞳がこちらへと向き、憂いの色を帯びて細まる。
「……心配をかけてしまったな、ウィステル」
「いえ、いえ……!」
無事でいてくれたことに酷く安堵し、判別できないほどに混ざりあった感情があふれて、胸の奥で詰まる。なんと言葉にしていいかわからず、首を横に振るしかなかった。
* * *
屋敷内の応接室へと通され、ローワンと向かい合うようにして座る。改めてローワンを見ると、以前とほとんど変わりがない。窶れて、衰弱したような雰囲気だったらと心配していたのは杞憂に終わった。
「ローワン兄様、思っていたよりも変わりなくてホッとしました」
「そういえばそうだな……キャスバート家の治療が手厚くて、普段より良いものを食べてたからか?」
軽口を叩きながら首を傾げる姿を見て、体力が戻ったフリではないのだと伝わってくる。
「冗談か……?」
「自虐ですね」
フィセリオは笑っていいところなのかを探りながら、冗談か自虐かの狭間で、ギリギリ冗談だと受け取ったらしい。しかし残念ながら、冗談ではなく自虐になってしまうのがラティマー伯爵家なのだ。
「病院食も大変美味しかったですよ」
朗らかに笑うローワンを見て、フィセリオは眉間に深くシワを刻む。ウィステルはキャスバート家で振る舞われる普段の食事を思い浮かべていた。
きっとフィセリオには、ラティマー家が普段どんなものを食べているかなんて想像もつかないだろう。極貧を極めていたときの食事なんて、食べ物だと認識してくれるかさえ怪しい。
「キャスバート家から派遣された皆さんには、大変お世話になりました。ですが私は、領主の役目を果たせませんでした。民を救うどころか、私が救われるとは……あまりにも無力で、情けない話です」
ローワンは口元にだけ笑みを貼りつけながら、痛みを内に抱え込むように目を伏せる。ローワンがくれた最後の手紙にも、『領民を救う当主としては期待されていない』と書いていた。
皆の希望となり、心を支えられる領主になろうとして、ローワンは結局なれなかったのだ。
「……ラティマー領には、ローワン殿のような領主が合っているだろう」
重い沈黙が落ちかけた空間で、ぽつりとフィセリオは呟く。ウィステルとローワンの視線は、自然とフィセリオへと向いていた。彼はどちらへも視線を向けず、思考を巡らせているような眼差しをしていた。
「治安を安定させることすら難しい地で、暴動を起こさせない領主は貴重だ。おかげで領民も協力的で、復興も収束も早い。あまり卑下しすぎても、病み上がりの体に障る」
「そういう考え方も、あるのですね……」
「そういう考え方ではない。領主にもいろいろタイプはある。残念ながらローワン殿は、自身の理想のタイプと一致しなかったというだけだ」
フィセリオの言葉は慰めではない。領主として理想とされるタイプが一つではないことは事実だ。ローワンはローワンで、派手ではないがラティマー領に大きく貢献してきている。けれど今回は結果が伴わなかった。
自分のタイプでは補えなかった。これが自分にできる最善だった。そんな言い訳を自分に許さない人だということを、ウィステルはよく知っていた。
「領民といえば……現地派遣した者たちから、引き揚げの際に厚く感謝されたと聞いている。あんなふうに見送られたのは初めてだと口にしていた」
「……ラティマーは、こういう土地柄ですから。皆もわかっているのです。我々が返せるものは、感謝と礼儀くらいしかないと」
ローワンの瞳に、深い諦念の色が浮かぶ。それでいて、ラティマー領に吹く風のようにカラリとした表情をしていた。それはきっと、どんな苦境にあっても人としての矜持を失わないと領民を信じ、証明されたように感じたからだろう。
「支援は見返りを求めるものではない。彼らに誇りを握らせて帰したなら、十分だろう」
ウィステル自身は、派遣されていた者たちをキャスバート領で迎えた側だった。休みなく対応し続けていた彼らは、深い疲労が顔に出ていた。けれどその瞳は、眩い星のように強く輝いていたことを覚えている。
見返りもなく、他の領地の危機のために力の限りを尽くしてくれた人々。つらく長い時を耐え、見えた希望を折られても、ラティマー家を信じてくれた領民たち。ウィステルはそのどちらにも、深い敬意と感謝を抱いていた。
「しかしだ、ローワン殿。あまり他領のやり方に口出しはしたくないのだが、領主が何日も続けて陣頭指揮を執るのはオススメしない。それも戦場の最前線など……足りてないものを自分で埋めようとするのは悪い癖だな」
「はは……仰る通りですね。父も現場に赴いて、亡くなってますし……」
「これはローワン殿や父君だけの癖ではない。“ラティマー家の癖”だ」
「……ウィステル、まさか……?」
渋い表情でじろりとこちらを見るフィセリオと、どういう意味か確認しようとするローワンの視線がウィステルへと刺さる。“足りないものを自分で埋めようとする癖”と言われ、すぐに心当たりにぶち当たった。
「た、確かに……ローワン兄様のいない穴を埋めようとして、派遣してほしいとお願いは……しました……」
「ウィステル〜……」
頭を抱えて俯くローワンから「おいおいおい、それはダメだろ……」という声が聞こえてくるような気がした。
「フィセリオ様、ウィステルを止めて、守ってくださって本当にありがとうございました」
「フィセリオ様、ローワン兄様、申し訳ありませんでした……」
おまけに自分のことでローワンに尻拭いさせてしまう始末。もう大人として自分で責任を取らなければならないというのに。あのときは冷静さを欠いていたとはいえ、あまりにもお粗末だった言動に消え入りたいほど恥ずかしくなった。
「存在の重さを理解してくれればそれでいい。君たちの喪失は大きな損失になる。“代わり”など存在しないからな」
フィセリオは怒るでもなく、淡々と事実を並べるように言葉を口にする。それを聞いて、ふと思い出したことがあった。
『損失など……一つもありません。仮にわたくしが死のうと、代わりなどいくらでもいるはずでしょう!』
これは、あのときの言葉への回答だ。冷静さを欠いて否定した言葉が、ローワンという存在を通したからこそ飲み込めるようになっていた。
責任感だけは立場に見合うだけのものを持とうとするのに、自身の命は軽く扱っていた。領民と、安定した未来のために捧げる供物のように。
立場は自身の存在の価値を証明するものにはならない。けれどその立場で何を成すかは、人によって変わる。その判断と行動にその人の価値が生まれ、代わりが利かなくなっていく。
フィセリオはその価値をウィステルたちに見出してくれている。それは想像していた以上の信頼からくる、重い期待の表れかもしれない。
しかしその重みを、息苦しさとして感じていない。むしろ寄る辺なく漂う小舟を、“ここ”という場所に留め、安定させる錨のようですらある。
ここが自分の居場所なのかもしれない──そうしてストンと、地に足がついたような気がした。




