第45話 最善の限界
ウィステルは自分がラティマー領を信じるために何ができるのかを考えた。けれどフィセリオの言う通り、場所がどこであろうと一人の力でできることは多くはなかった。
ウィステルは自身の私財の大半を売り払って資金を作ると、水の魔石を必要数購入し、魔石の技師を臨時で雇った。群衰蝶の鱗粉は一時的に土地や水を汚染し、今は大量発生によって継続的に汚染されている状態だ。今被害のない地域にまで拡大しないよう、安全な水を確保できるように手配した。
ローワンが倒れた時点で、群衰蝶の討伐は三分の二ほどが終了していた。ラティマー家の騎士団は騎士団長を中心にして討伐を進め、ローワンが倒れてから半月後、完全な討伐宣言が出された。
けれど、汚染の除去作業は残っており、毒に侵された人々の治療も継続されている。完全な収束宣言はまだ出せない状態であった。
その一方で朗報もあった。ローワンが昏睡状態から回復したという報告だ。とはいえ眠っている期間が長かったため、しばらくは静養が必要らしい。
その後魔物対策の研究員たちが派遣され、なぜ復興から立ち直りつつあったラティマー領で群衰蝶の大量発生が起きたのか調査がなされていた。
「ウィステル、大量発生に関する調査報告が届いている。つらいかもしれないが、知っておいた方がいいだろう」
フィセリオから報告書を渡されたウィステルは、内容に目を通していく。そこに書かれていた事実は、あまりにもやるせないものであった。
水害が起きた当時、ローワンは復興に資金を割きながらも群衰蝶の討伐も怠らなかった。その一方で、厳しい避難生活の中、亡くなってしまう人も多くいた。
群衰蝶の繁殖を効率良く抑えるため火葬にしたかったが、資金と人手不足から、速やかに土葬で埋葬することでなんとか繁殖を抑えていた。この対応は当時の最善であったが、一方で群衰蝶が密かに繁殖するための温床となってしまった。
それに加え慢性的な資金不足により復興が滞り、常に領民たちは疲弊し続けていた。それが災いし、少しずつ人間の魔力と生命力を喰らった群衰蝶は人目につかない場所でますます殖えていったのだ。
そして事態が大きく動いたのが、キャスバート家の援助だ。これによりラティマー領の復興は大きく進み、領民の生活は安定。遺体も土葬から火葬へと切り替わる。災害に疲弊した人々の体力も戻り、温床となる土葬の遺体が減ったことで、“群衰蝶にとって不都合な環境”へと変化したのだ。
それは誰かの怠慢でもなければ、悪意でもなかった。ただただ皆が、元の生活に戻りたくて、その場その場でできる限りの最善を尽くしてきただけに過ぎない。
──けれど食料不足に陥って追い詰められた群衰蝶は、一気に人間に襲いかかった。
どうすれば良かったのかと考えても、答えの出ない調査報告。資金は復興に最優先であてても追いつかず、火葬するための資金など捻出する余裕は一切なかった。群衰蝶の生態は明らかになっていないことも多く、静かな繁殖に気づけなかった。
だとしても、それは言い訳だ。
今回犠牲になった人々や、その遺族には何も関係がない。『守ってあげられなかった』という、たったそれだけの……これ以上ない現実が残り、自身の無力さに再び辛酸を嘗める結果となった。
「……原因は把握いたしました」
報告書を返すと、フィセリオはそれを一瞥して机の端に置いた。彼は何も言わなかった。優しい慰めも、力強い励ましも、甘い共感もなく、深く重いため息だけが静かに落ちる。
それがウィステルにとって何よりの救いであり、その重さに、彼の心痛と思いを感じられるだけで十分だった。
「収束宣言が出されるまでは、医療と物資の支援は継続する。今できることは、一人でも多くの人を元の生活へ戻すことだ」
「私が提供した水の魔石はそのままにするよう伝えてください。ラティマー領は雨の少ない乾燥地ですから、きっとこれからも役に立つはずです」
「わかった。そのように現場に伝えておこう」
どんなに苦い結果でも、善意の空回った悲劇でも、フィセリオは粛々と今できることに目を向けている。その冷静さと落ち着きは隣にいて心地良く、息がしやすく感じられた。
* * *
あれから一ヶ月の時が過ぎ、ウィステルたちはラティマー領を訪れていた。
魔物災害に収束宣言が出され、現地で支援していたキャスバート家の人員も速やかに撤収している。最終的な状況確認のため、ラティマー領へ訪問することになった。
キャスバート領とラティマー領を隔てる山を越え、最初に向かったのは今回の犠牲者が共同で弔われた場所だった。立派な慰霊碑を建てるような資金はなく、簡易的な墓碑が置かれている。
そこには『共に生き 共に明日を信じた 同胞三十七名 ここに眠る』と刻まれていた。
長雨の災害が起きてからこれまで、領民と共に手を携えて耐えてきた。ようやく生活も上向き、明日への光が差した瞬間に群衰蝶によって奪われた命。どれほど無念で、悔しかったことだろう──
墓碑には小さな花輪がかけられ、周囲は亡き人々への思いを託された花で埋めつくされている。ウィステルたちも花を手向け、祈りを捧げた。
荒涼としたラティマーの大地に、乾いた夏の風が吹き抜けていく。白い花びらがひとひら、連れ去られるように夏の青空へと舞い上がり、小さくなって消えていった。
その後、ウィステルたちを乗せた馬車はラティマー伯爵邸……ウィステルの実家へ向けて走り出す。ガタガタと揺れる馬車に身を任せていると、不意に名前を呼ばれた。
「ローワン殿のことは、『ローワン兄様』と呼ぶといい。私の前で形式的に言い換える必要はない」
「……なぜ、その呼び方を知っているのですか?」
「偶然、聞いたことがあるからな」
うっかりいつものように呼ばないよう、常に気をつけていたつもりだ。いつ聞かれたのか心当たりもなく、気づけば軽く首を傾げていた。
「公の場ならともかく、私とローワン殿と三人でいるときくらいは、肩の力を抜いて会うといい」
重要なのはそこではない。フィセリオが、ウィステルとローワンに兄妹でいることを許してくれたことの方が遥かに大切だ。
婚姻を結び、いろんなものを失ったと思っていた。実際、立場が変わることでやむを得ず失われたものもある。それでもフィセリオは、できるだけ大切にしているものを奪わないようにしてくれていたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
気にかけてくれる人が傍にいてくれるありがたさをウィステルは感じていた。けれど、彼が心に灯してくれた温かさは、傷口に染みるように胸の内側に痛みを与える。
優しくされて、温もりを感じて、癒されそうになると苦い罪悪感が心の奥底から滲み出す。今この瞬間に苦しんでいる人々がいるのに、自分だけ穏やかな気持ちになってしまっていいのか。元ラティマー家の人間として、誰よりも真っ先に盾になり、犠牲になるべきだったのは自分なのではないか、と。
でもそれは、ただ傷ついて……楽になりたいだけだ。
これだけやったのだから、これだけ傷ついたのだからと、許されたいだけでしかない。ウィステルはその醜さと卑怯さに自己嫌悪した。
それでも時間はただ前へ、未来へと進んでいく。どんなに自己嫌悪に沈んでも、痛みに悶えても、待ってはくれない。
わたくしは、見てきたはずです。何があっても歩みを止めずに進む姿を。
『君はもう、弱小貴族の令嬢ではない。公爵夫人だ』
不幸を嘆くだけなら誰でもできる。ラティマー家の娘として、今はキャスバート公爵夫人としての責任と力がある。何をしてでも早く立ち直って、いや……立ち直れなくとも、傷も痛みも悟らせず前を向き続ける。それが犠牲になった人々へ報いるということなのかもしれない。




