第44話 きっとあなたを恨めない
半月ほど前から、キャスバート家は慌ただしく、緊張が張りつめた状態が続いている。そんな中で届いた、速達の報告書。それを握り締めたウィステルは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
【領主・ローワンが魔物の毒に侵され、現在昏睡状態にある。至急政務補佐官の派遣を要請す。】
群衰蝶──何の前触れもなく、災害や戦争など人の死や疲弊が発生している場所に同時に発生する蝶に似た魔物。具体的な発生理由や生態系は解明されていない。
人間の魔力と生命力を糧にし、死にかけている人や怪我人、あるいは鱗粉の毒で弱らせた人間へと群がる。そして傷口などへ口吻を突き刺し、吸い上げる。全てを吸いつくされた者の遺体は、骨と皮だけの状態になってしまうと人伝に聞いたことがあった。
群衰蝶の鱗粉の毒は体内に蓄積すると高熱と倦怠感と咳を誘発し、嘔吐、喀血、衰弱による昏睡と悪化していく。死者が出ることもあり、特に子供や老人などの体力のない者が犠牲になることが多い。
ラティマー領が災害に見舞われた当時から、群衰蝶は出現していた。群衰蝶は一匹ではさほど強くない。その都度討伐し、殖えないよう細心の注意を払っていたはずだった。
けれど一ヶ月前、突如事情が変わった。キャスバート家の援助により安定してきたはずのラティマー領で、なぜか群衰蝶が大量発生したのだ。
鱗粉の毒は長く残らないが、大量発生により慢性的に汚染された結果、領民に被害が出始めた。半月ほど前から、キャスバート家は緊急の支援を始めている。主に医療と物資、避難所の整備を行っており、ウィステルもそれらの管理や情報の整理等に携わっていた。
魔物討伐への軍事支援まで頼ると侵略の疑惑や噂を立てられかねないため、そちらは不要だとローワンの方から断っていた。
群衰蝶の大量発生が確認され、領民に被害が出始めた頃、ローワンから一通の手紙が届いた。
【こんなことがあっても、領民たちは俺たちを責めない。皆が口を揃えて「領主様がいなければ、もっと多くの人が死んでる」と言う。俺は領民を救う当主としては期待されていないということだ。
だが、俺の炎術は群衰蝶に有効だ。一刻も早く事態を収束させるためにも前線に出ようと思っている。皆の生活のためにも、お前が安心して帰ってこられる場所に戻すためにも。】
あの災害のときと同じように、こんな状況でも暴動は起きなかった。領主であるローワンを非難する声はほとんどあがらなかった。
同じ苦しみを分かち合い、支え合ってきたという意識があるからか、領民たちはローワンに憎しみを向けなかった。抗いきれない、どうしようもなく無慈悲な現実を前に折られたのは、領主であるローワンも同じだと……皆が理解を示したからだ。
ラティマー家は、共に歩む領主であっても、救い導く領主ではなかった。信頼があるからこそ、非難されない。けれど“苦しみから救いあげてくれる強い領主”という期待もされていないからこそ、非難されない。
災害で刻みつけられた絶望と諦めから、身近な人の死や領地の惨状すら、まるで妥協のような一言で飲み込ませてしまっていた。領地を預かる家出身の人間として、これほど不甲斐なく悔しいことはない。手紙を受け取った当時は、ローワンと思いを同じくしていた。
無理をしないように。無事に事態が収束するように。そんな願いと祈りを込めて書いた返信を最後にローワンからの手紙は途絶えた。次に届くのが、キャスバート家から派遣された補佐官の報告書になるなんて、ウィステルは想像すらしていなかった。
「ハルシャ、政務補佐官を選定してくれ。派遣はでき得る限り迅速に頼む」
「仰せのままに、坊ちゃま」
「エルウッド、各領地の動きを探ってほしい。ラティマー領に対する不穏な動きがあれば徹底的に牽制する」
「承知いたしました。お任せください」
フィセリオから指示を受けたハルシャとエルウッドは、足早に執務室を出ていった。フィセリオと二人で残された執務室は、屋敷内の慌ただしさとは打って変わって静まり返っていた。
政務補佐官。派遣。領地の動き。探る。不穏。牽制。
まるで戦場にでもいるかのような単語が並ぶのに、場所は閉じられた執務室の中。ボードゲームの盤面を俯瞰するように、フィセリオは的確に、想像できる限りの不測の事態に対応できるよう人員を配置していく。
「フィセリオ様、わたくしは何をすればよろしいでしょうか?」
当主であるローワンが倒れた以上、今のラティマー領は何が起きてもおかしくないのは頭ではわかっていた。わかっているからこそ、ただここで立ち尽くしている自分が許せない。
「現時点では、医療と物資の支援も足りている。君は少し休んだ方がいい。ローワン殿のことで動揺しているだろう」
フィセリオは静かに、残酷に、ウィステルに何も命じなかった。このくらいで立てなくなるほど弱くない。両親の死も、災害の傷も、極貧の生活も耐えてきた。
「問題ありません、働けますっ」
「君がローワン殿をどれだけ大切にしているかはわかっている。気丈に振る舞わなくていい」
それでもフィセリオはウィステルに役目を与えようとはしない。それが悔しくて、何も役に立てないことがウィステルを追い詰めていた。
「ここでやることがないのなら、わたくしをラティマー領へ派遣してください。兄が倒れた今、皆を救うためにも。お願いです……」
「君が行く必要はない。その責任感も、ローワン殿が心配な気持ちもわからなくはない。だが、支援は十分に行っている」
「手を尽くしてくださっていることは承知しております。ですが、ラティマー家の従者はいまだ少なく、兄が動けない今、運営も滞ってしまいます」
「運営に関しては、補佐官を送るよう先ほどハルシャに頼んだだろう。キャスバート家は、混乱に乗じてラティマー領を掌握したりなどしない。この言葉に偽りがあるかどうか……君はわかるだろう?」
フィセリオの言葉に嘘の匂いは一切ない。本当に偽りなく、ラティマー領のために支援を行ってくれている。頭ではわかっていても、焦燥に駆られた心は納得してくれなかった。
「どうして……帰ることを、許してくださらないのですか? わたくしは嫁いだ身とはいえ、元はラティマー伯爵家の人間です。魔術も使えて、戦えます。それなのにどうして、故郷の危機に駆けつけてはならないのですか」
「元ラティマー家の人間だからこそだ。ローワン殿が倒れているときにラティマー直系の血を引く“キャスバート公爵夫人”が行けば、キャスバート家がラティマー領への実効支配を画策していると言われかねない。君自身が、ローワン殿が守ってきたものを揺るがすことになるが、いいのか?」
フィセリオの冷静な分析に、ウィステルは何も言葉を返せなかった。もう純粋なラティマー家の人間ではない。キャスバート家に嫁いだからこそ、もう手が届かない。ローワンが必死に守ってきたものを脅かしてしまう存在になってしまった。
ならわたくしは……ローワン兄様を見殺しにするしかないのですか……?
「そもそも君は、戦闘経験があるのか?」
「……ありません」
「なら、魔術が使えたところで何もできないだろう。士官学校の騎士見習いですら、初陣は想像通りにはいかないものだ。活躍どころか、足を引っ張らないだけでも褒められる。魔物相手なら躊躇わず戦えると思うなら、考えを改めた方がいい」
士官学校へ通っていた経験を感じさせるフィセリオの言葉は、実感がこもっていて重い。戦闘経験がなく、戦場がどんなものであるかをウィステルはほとんど知らない。数匹見かけた群衰蝶の姿を想像し、魔術で遠隔で討伐する。そんな薄い想像力であることは否定できなかった。
「一人の力で成せることも、そう多くはない。それで現地に行って、万が一君に何かあれば損失が大きすぎる」
フィセリオの言う通りだ。医療の知識や経験があるわけでもなく、領主の代わりが務まるほどの能力があるわけでもない。行ったところで、雑用や多少の補佐ができるかどうかだ。
『大丈夫。お前には兄様がついてる』
ローワンの声が聞こえる。いつも傍で支えてくれた人。でも自分は、こんなときですら傍にいて支えてあげることもできない。
じっとしてられない……頭がぐちゃぐちゃで狂ってしまいそうになる──
「損失など……一つもありません。仮にわたくしが死のうと、代わりなどいくらでもいるはずでしょう!」
愛されていないのだから、替えはいくらでも利く。嘘を見抜く力を失うのは多少損かもしれないが、元々彼は想定していなかった力なのだ。最初の条件に戻るだけ。
フィセリオと結婚したい令嬢も、いくらでもいる。愛されていなくても互いの利益で結ばれるのなら、現状のウィステルとフィセリオの関係と何一つ変わらない。面倒臭がらずに新しい妻を探し、迎えればいいだけの話だ。
「もしこのまま兄や領地に何かあったら、わたくしは一生後悔してしまいます。お願いです……行かせてください……!」
父が突然亡くなったときのことを重ね、このままもう二度と会えなかったら後悔すると焦っている。突然帰らぬ人となった父。崩落した土砂を前に、ただ雨に打たれて、立ち尽くすしかできなかった。
まだ、たくさん話したいことがあった。最後のお別れも感謝も、生きている本人に伝えられなかった。その現実が残酷なまでに胸を裂き、傷口は塞がることなくじゅくじゅくと爛れたまま治らない。
「ラティマーの気質は、雨は止むと信じて耐えられるしぶとさだと、君とローワン殿は言っていたな」
「……はい」
「では聞こう。君は、ラティマーの者たちの力を信じて耐えられないのか?」
信じていない……わけではない。けれどどうしても最悪の状況が頭をよぎってしまう。大切な人を失った心の傷が疼いて、苦しくてたまらない。
その苦しみを紛らわせるために、役に立ちもしないのに動いていたいだけなのだ。誰のためでもない、自分のため。独り善がりな愚かさを浮き彫りにされ、ウィステルは自身の未熟さと無力さに、震える拳を握りしめた。
「別に、君らしくないと責めるつもりはない。ただ、ラティマーの気質で乗り越えられないなら、キャスバートのやり方を覚えることだ。上に立つ者は、信じる力を試される。信じられる状況を作るために不安要素を徹底的に潰し、最善を尽くし続ける。君はもう、弱小貴族の令嬢ではない。公爵夫人だ」
何も命じられないのに、まだ自分にもできることがあるのだろうか。できることがあると、信じてくれているのだろうか。
「大丈夫だと君が信じていないと知ったら、ローワン殿も民も悲しむのではないか? 現地に赴くのではなく、ここからできる手を打ち、あとはラティマーの者たちを信じるんだ」
ローワンの生死、ラティマー領への被害の程度、それらは確証のない未来という霧に包まれている。けれどフィセリオは、見えない未来に怯えていなかった。それは最善を尽くして信じるというより、その結果がたとえどんなものであったとしても“受け止める”という覚悟から来ているように見えた。
「それでももし万が一のことがあれば──私を……一生恨んでくれて構わない」
──なんで……なんで、そんな嘘をつくんですか……
甘く熟れて崩れそうな嘘の匂いが、目に染みたように視界を霞ませる。本当は恨まれたくないのに、ウィステルが背負うべき選択の責任と結果を、憎まれるという形で肩代わりしようとしている。
痛みから心を守ろうと、全て引き受けて抱え込もうとする覚悟に気づいて……こらえていた涙が一粒零れ落ちた。
「病で兄上を亡くし、私にも後悔は数え切れないほどにある。だが気持ちがわかるからといって、君を行かせるわけにもいかない。今はとにかく休め。心が落ち着いてから、考えたらいい。私も一緒に考える」
拭っても、拭っても、壊れてしまったように涙が止まらない。立ち尽くして泣くことしかできない役立たず。
けれどフィセリオは歩み寄り、そっと抱きしめてくれた。彼の手が、子供を宥めるような手つきで背中をさする。そのたびに、ボロボロと砂粒のように崩れていくような心地がした。
大きな腕が、体に染みてくる体温が優しくて、痛い。感情を御しきれない自分があまりにもみっともなくて、惨めで。愛する兄を失いかけているのに、愛する場所が危機に瀕しているのに、公爵夫人という後付けの価値でここに縛られている。
ウィステルはここにいて、どこにも行けない。その現実だけは、どうあがいたって覆らない。彼の腕の温もりが、残酷なほど親切に、ウィステルの無力さと愚かさを刻みつける。
胸の奥で、何かが思考の虚空に沈む。それは感情……あるいは言葉の形を成す前に、淡く消えていった。




