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第42話 湖面無くして、月は映らず【フィセリオ視点】

 フィセリオが会場にいることに気づいた者たちは、微かな畏怖と緊張を滲ませてこちらを見ている。領民たちに見つかってしまった以上、このまま立ち去るわけにもいかなくなってしまっていた。


 軽く視察してから帰るしか──


「……フィセリオ様? 来てくださったのですね!」


 静寂ではなく、かといって賑やかでもない微妙な空気を柔らかく押し流しながら、喜びに弾んだ声が近づいてくる。


「ウィステル……」

「お忙しいのに、時間を作ってくれて嬉しいです」

「君が初めて企画した催事だからな。見ておきたくなった」


 ウィステルに声をかけられた途端、止まっていた時間が動き出すように周囲が元の喧騒を取り戻していく。自身の存在が緩やかに受け入れられ、会場を訪れた一人に戻りつつあるのを感じていた。


「わたくしたちのお店へ来てください。なかなか好評なんですよ」


 差し出された手を取り、彼女に手を引かれるままについていく。さり気なく触れ合った手のひらの温もりに、凍えかけていた心が静まっていく。まるで一人で拗ねていたのを慰められている心地がして、少し気恥ずかしくもあった。


「ウィステル様、おかえりなさいませ!」


 店まで戻ると、ジャスミンが朗らかに出迎える。彼女はバラとローズヒップのコーディアルシロップをレードルで掬い、グラスへと注ぐ。そしてテーブルの上へと置いたそばから水で希釈(きしゃく)され、客へと手渡されていった。


「こうしゃくさま、ウィステルさま、こんにちは!」

「こんにちは」

「……こんにちは」


 母親と共に並んでいた小さな子供が、こちらへ向けて手を振る。フィセリオは内心戸惑いながらも、子供を威圧するわけにはいかないと控えめに手を振り返すことにした。


「はい、どうぞ。気をつけて運んでね」

「うん!」

「よろしければあちらのテーブルを使ってくださいね」

「ありがとうございます」


 ウィステルは子供へグラスを手渡しながら、母親へ飲食用に用意された広場を案内する。出店は二度目のはずだが、かなり手際が良い。


「慣れているんだな」

「そうですね。ラティマー領での炊き出しで似たようなことはもう何度もやってきていますので」

「そうだったのか……」


 ラティマー家にいた頃からも領民と積極的に関わっていたとは聞いていた。災害復興を最優先にしていたことも知っているが、具体的にウィステルがどう関わっていたのかは知らなかった。災害で疲弊し、生活もままならない領民にとって、明るい笑顔で励ましながら食事を配布するウィステルの存在は大いに励まされたことだろう。


「ウィステル様、せっかくフィセリオ様が来てくださってますし、ここは私たちに任せて一緒に会場を見て回ってきてはいかがですか?」

「え……ですが、人手が……」

「代わりはエルウッドがやってくれる。君に案内をお願いしたい」

「主命とあらば、もちろんでございます。私にお任せください」

「ほ、本当によろしいのですか?」


 ウィステルは鼻の近くに手を添え、スンと軽く鳴らしながら、様子を伺うようにフィセリオを見た。エルウッドから嘘の匂いがして不安だと言いたいのだろうが、問題ない。どうせ「え、僕!? 僕がやるのか!?」と戸惑っているだけだと想像がつく。


「ウィステル様、執事とは主の願いを叶え、全力で支えるものです。お気遣いはありがたいですが、それは無用な心配というものです」

「ありがとう、ございます……」

「どうぞ、いってらっしゃいませ」

「行ってきます。ではフィセリオ様、参りましょうか」


 ウィステルと共に店を離れ、中央広場をゆっくりと歩きながら見て回る。ウィステルは商人から声をかけられるたびに足を止めて言葉を交わす。フィセリオ自身も視察の際声をかけられることはあるが、そこには畏怖と敬意が前面に表れる。けれどウィステルといることで、畏怖と敬意は親しみと温もりへと変わっていた。


「フィセリオ様、ウィステル様!」


 また商人に声をかけられ、ウィステルの後ろについて店先へと近づく。その店ではキャスバート領で採れる果物を利用したドライフルーツを蜜漬けにしたものを売っており、試食用に蜜漬けを使ったパウンドケーキを一切れ販売していた。


「ディーモさん、売れ行きはいかがですか?」

「おかげさまでなかなか好調ですよ。試食で気に入ってくれたお客さんが一瓶買っていてくれることもありまして」


 こういった日常の必需品にならないものは、経済的に余裕のある者にしか買えない。そして経済的に余裕のある者はその分選択肢も広く、自身の商材を選んでもらうためには様々な工夫がいる。


 しかし今回は安く試食を提供することで、普段手に取らない者たちの目にまで届いている。普段は買わなくても、試食で間口が広がった結果売れ行きにも繋がっているのだろう。


「フィセリオ様、ディーモさんは収穫祭に出店したときのお隣さんで、一緒に祭りを盛り上げた戦友なんですよ」

「ウィステル様に戦友と言っていただけるなんて、光栄ですよ」


 ディーモは照れ臭そうにはにかみながら、気楽な笑みを浮かべている。それは普通に考えれば、公爵夫人と会話している平民の表情ではない。公爵夫人だから貴族だからと壁を作られることなく、相手の懐に飛び込んでしまえるウィステルの人柄あってこそだった。


 その後も、領民たちの声にウィステルは笑顔で応えた。その横顔に、白磁のペンを制作した工房からの手紙を思い出す。


 君は、本当に愛されているな……


 ウィステルの姿が、身に余るほど大きな理想を掲げながらも、まっすぐに希望を抱いて夢見ていたエオナックの面影に重なった。


『私は、皆が安心して、笑い合って暮らせる領地にしたい。けど、お前にばかりつらい仕事を押しつけて、理想ばかり大きくて……情けなくなる』

『面倒事を押しつけてるのは私の方だ。兄上の影をやってるくらいがちょうどいい。公爵家当主など、御免被る』

『すまないね、フィセリオ。士官学校を卒業したら、私を支えてくれると嬉しい』

『……兄上の理想は無駄に大きいからな。私がいないと持ち上がりもしないだろう? なんと言っても兄上は、細腕で非力だからな』

『はは、違いない』


 記憶の端で、エオナックは楽しそうに笑う。それから間もなく、病に倒れて死ぬとも知らずに。壮大な理想は夢のまま実行にも移されず、静かに土の下で眠りにつこうとしていた。


 けれどその夢の亡骸を背負い、エオナックが見られなかった理想を実現しようとこれまでやってきた。フィセリオで足りない分は、エオナックを演じながら、一人で二人分補い合って。


 皆が垣根なく笑い合える、エオナックのような日。そこにいるだけで空気を和らげ、笑顔に囲まれ、皆から慕われていた人。


「兄上が継いでいれば、こうなっていたのだろうな……」


 フィセリオがどんなに真似ても再現できなかったものが、そしてエオナックが果たすことのできなかった理想が、ウィステルを通して実現しつつあった。会場を包む柔らかく温かな空気感は、確かにエオナックが周囲を笑顔にしていく光景によく似ていた。


「すでに“こうなっている”ではありませんか。エオナック様が描いた未来の設計図を受け取り、皆が安心して生活できる領地を築いてきたのはフィセリオ様です。どうかその道のりに、誇りを持ってください」


──私が、築いてきた?


 フィセリオはエオナックの理想を叶えることはできなかった。けれどその理想の土台を整えてきたのはフィセリオ自身だと、ウィステルは考えているようだった。


 エオナックを超える必要はない。その理想の続きを自分の形で歩けばいい……そう言われたような気がした。

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