第40話 夫婦という名の戦友
公爵家同士でのダンスが義務と言われた瞬間、フェアファクス公爵夫妻の姿がウィステルの脳裏をよぎった。内心フェアファクス公爵と踊るのは気が重かったが、シスルが来てくれたとき気が抜けるようにホッとした。
シスルは兄のローワンと親しかった関係で、何度も会話したことがある。会った回数自体はアマリリアとの方が多いが、話が合うと感じるのはシスルの方だった。
懸念していたフェアファクス公爵家とのダンスも無事に終え、静かに胸を撫で下ろす。ようやく少し肩の荷が下りると思ったのも束の間、ウィステルは早速ダンスを申し込まれていた。
誘いを受けては踊り、受けては踊りと繰り返し、それでもウィステルのもとを訪れる男性は後を絶たない。フィセリオの言う『キャスバート公爵夫人ともなれば、誘いは入れ食い状態』を、まさに心身に叩き込まれている。今となっては、彼の“楽しんでいるような目”が少し恨めしい。
これは役目、頑張れ……足がちぎれても踊るんです……!
踊り続けた足は立っているだけでも鈍く痛み、踏み出せば軋むように悲鳴を上げる。それでも誘いの手は向けられ続け、キャスバート家の利になりそうな相手に応じる。
軽く会話を交わしながら、ステップを刻んでいく。どんなに痛んでも笑顔で、穏やかに受け答えた。フィセリオに恥をかかせるわけにはいかない。会話もダンスも、疲労を理由に失敗するわけにはいかなかった。
わたくし、ちゃんと笑えているでしょうか?
ダンスを終えて一礼し、自身の頬に手で触れる。まだちゃんと口角が上がっていることを確認したときだった。
「ウィステル」
「フィセリオさ──」
そっと肩に手が触れ、横に並んだ気配に顔を向ける。軽く身を屈めて顔を寄せるフィセリオに、思わず声が詰まる。彼は耳の近くで、少しだけ潜めた声で囁く。
「頑張りすぎだ。少し休んだ方がいい」
気遣わしげな低い声が、サラリとウィステルの耳を撫でる。鼓動が小さく響き、疲労と痛みで冷えた足先に血が通っていくように、ぽかぽかと熱を持った。
“実地訓練”とまで言った彼に、休むよう言われると思っていなかった。フィセリオは、ダンスを申し込みに来た男性たちにやんわりと断りを入れる。その次の瞬間にはサッと掬いあげるような軽やかさでエスコートされ、気づけばテラスへと連れ出されていた。
テラスに備えつけられた長椅子にフィセリオは座り、隣へ来るよう勧められて腰を下ろす。ようやく体の重さから解放された足がふっと軽くなり、歓喜に沸いていた。
「断ることを覚えないと、際限なく踊る羽目になる」
フィセリオは静かに細く息を吐く。それは呆れとも心配ともつかない、けれど少し重いため息だった。
「もちろん、どなたと踊るかは考えております。けれど多くの方が来てくださいますし、一人でも多く関係を築いておいた方が良いのではないかと思いまして……」
「限度というものがあるだろう」
「父を失ってからのラティマー家は、縁を結ぶことすら難しい状態でした。いざというときのことを思うと、断ってしまうのが惜しくて」
ラティマー家が災害で困窮した際、派閥の主であったフェアファクス家から見捨てられた。あまり多くの縁を結べていなかったこともあり、どこの領地からも支援は得られず、それまであった縁も風に掻き消えるように希薄になってしまった。
もっと広く縁を結べていれば、どこか一つくらい手を差し伸べてくれたかもしれないのに。そう思うと、縁は多いに越したことはない。
「断るのも仕事のうちだ。いくらなんでも倒れてしまう」
「……その通りですね」
とはいえ、フィセリオの言う通りでもある。もしこのまま休みもせず踊り続けていれば、どこかで失敗していたかもしれない。見るに見かねてだったのかもしれないが、声をかけてくれたことに感謝している。同時に、気にかけて見ていてくれたことが素直に嬉しかった。
「フィセリオ様は、今疲れていますか?」
「そうだな……少し、胸がざわついた」
「テンポの速い曲は、確かに心拍数が上がりますしね」
フィセリオも多くの女性に囲まれて踊っていた。曲調が速いものはもちろん、単純に踊り続けることで心拍数も上がる。ウィステル自身も、今日経験して感じたことだった。
「わたくしは慣れないせいか足が疲れてしまって……」
「大丈夫か?」
「靴擦れではないですから、まだ踊れます」
気づけば会場の音楽が鳴り止んでいる。ここでのんびりとしている間に一曲が終わってしまっていたらしい。
次の曲に間に合うよう戻らなくてはと立ち上がろうとして、上手く足に力が入らずふにゃりと前のめりになる。そのまま地面へ崩れそうになったが、ウィステルの膝と手が地面に接することはなかった。
「ふらついたままでどこに行く気だ。足が痛むなら、無理はしなくていい」
フィセリオの腕に支えられ、なんとか立っている。想像していたよりもずっと、疲労が足に蓄積していたようだ。
彼の温もりが静かに伝わってくると、ギュッと胸が締めつけられた。迷惑をかけてしまったという苦い思いが、じわりと喉の奥に滲む。けれどそんな思いとは裏腹に、ウィステルはフィセリオによって再び長椅子の上へと戻されてしまっていた。
「お気遣いは嬉しいですが、公爵夫人としての役目はどうしたら……」
まだやるべきことが残っている。ただ体の方が、気持ちについてきてくれていない。失敗するわけにはいかないのだから、無理してまで戻ればより迷惑をかけるだろう。それが歯痒くて、何も役に立てないことが心苦しかった。
俯いて、膝の上で握りしめていたウィステルの手に、フィセリオの手がそっと重なる。
「……まだ、行かないでほしい。もう少しだけ、ここに……」
眉尻を下げ、月のような銀灰の双眸がウィステルへと注がれている。静かな夜を思わせる瞳に見つめられていると、駆り立てられるような焦燥が柔らかくほどけていった。
嘘偽りのない思いで、ここにいるように引き留められている。他でもない彼が許してくれるのであれば、意地になる必要もないのかもしれない。
「……では、お言葉に甘えて。少しだけ公爵夫人をお休みします」
そう答えると、フィセリオは返事をする代わりに一度目を伏せる。それは公爵夫人という役目から切り離し、立場の重さに消えかけていたウィステルという存在を見つめ直すための動きにも見えた。
「あの、フィセリオ様は無理していませんか?」
「あぁ、問題ない」
と、涼しげな顔で微笑みながら、微かな熟れた甘い匂いを漂わせている。ウィステルが嘘を見抜けることをうっかり忘れているのか、無自覚なだけなのかはわからない。けれど、彼でも舞踏会は多少無理をしている場なのだと知って、思わず頬が緩んでにやけてしまう。
「ふふ、問題あるみたいですね」
「……っ!」
フィセリオにしては珍しく焦った様子で、ハッと勢いよくこちらへ顔を向ける。バチッと目が合った途端、ばつが悪そうに視線を逸らし、目元に手を当てて俯いた。
「……勘弁してくれ……」
か細く、ため息混じりに彼の声が漏れる。どうやら無自覚だったらしく、隠しきれていない頬がほんのりと赤い。胸の内を全部暴かれたと言わんばかりに気まずそうにしているが、さすがにそこまで見抜けるほど『嘘の匂い』は万能ではない。
「大丈夫ですよ。考えてることや感情まではわかりませんから」
「そうか。はぁ……そうか……」
さすがに感情まで知られると思い込んでいるのは気の毒に思い、誤解を解くことにした。フィセリオは安堵して息を吐いたものの、俯いたままの顔が上を向いたのはしばらく後のことだった。




