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第38話 壁の花のワルツ

 王宮の大広間には大勢の貴族が集まり、壁際にずらりと並んで立っている。その中央では、今まさに国王と王妃によるダンスが始まっていた。優雅なワルツに合わせて迷いなく刻まれていくステップは、何度見ても圧巻の一言であった。


 そうしてダンスが終わり一礼すると、それが宮廷舞踏会開会の合図となる。宮廷舞踏会では、国王と王妃が最初に踊り、次に王太子、王女と続き、最後に四つの公爵家が順番に一組ずつ踊るところまでが儀礼となっている。そしてそれが終わると、ようやく全員が踊ることを許された。


 あぁぁ……まさかわたくしがこの場に立つ日が来るなんて。絶対に粗相が許されないのに、全員の視線を浴びているなんて……恐ろしすぎます……!


 まさか自分が公爵家に嫁ぎ、この儀礼の参加者になるなんて夢にも思っていなかった。さらに今回は、キャスバート家は四家の中で最後に踊ることになっている。


 終わり良ければ全て良しという言葉があるように、儀礼の一番最後を飾るに相応しいダンスを披露しなければならない。その責任の重大さが、分厚い壁どころか、まるで塔のようにそびえ立っていた。


 正直、ダンスはあまり得意ではない。今までの舞踏会でもあまり踊る機会はなく、特に父が亡くなって以降の二年は避けられて壁の花になっていた。それがここにきて突然の大役だ。今日のために少し練習してきたとはいえ、全く自信を持てそうになかった。


 ウィステルはため息だと悟られないよう、静かに細く長く息を吐いて緊張を逃がす。弱音は吐いていられない。求められている務めを粛々と果たせ。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら自身に言い聞かせていると、トンと小さく背中に手が触れる。


 その手を辿って見上げると、フィセリオがウィステルを見下ろしていた。緊張感を欠片も感じさせない余裕の微笑みは、婚前からウィステルが見てきた“微笑み公爵”の表情と寸分も変わらない。


 彼は一つウィステルへ(まばた)きを落とすと、微かに口角を上げた。それが無言の励ましなのだと気づき、ぐっと音もなく息を飲んだ。


 大丈夫、一人じゃない。フィセリオ様がついてるんですから……


 二人で立つ舞台……たった一人の味方。嘘を明かし合って、手を携えていけるようになった人。ならこの舞台も、二人で乗り越えていけばいい。


 一人で何とかしなければと焦る必要はない。そう思えた瞬間、すぅっと余計な肩の強張りが抜けていくのがわかった。


 三家めのアールストン公爵夫妻がダンスを終え、いよいよウィステルたちの番が巡ってくる。自然と注目が集まる中、フィセリオと共に中央まで進み出た。


 上座へ向けて一礼し、互いに向き直る。視線が合うと、一拍だけこちらの様子を伺ってから、フィセリオは洗練された所作で手を差し出した。


 指先が触れ、そっと手を握り合う。就寝前の“おやすみのキス”で慣れているはずの体温は、いつもより少し熱い気がした。


 気配さえ呑み込むように下りた静寂の幕を上げるように、弦楽器の音が響く。一瞬出遅れそうになったウィステルを、フィセリオは招き入れるように引き寄せた。導かれるままに踏み出した一歩めから、流れるようにステップを重ねていく。ターンのたびに、ドレスの裾が小さく(ひるがえ)った。


 ラティマー家にいた頃、ウィステルもその他大勢のダンスを観ている側だった。壁際からフィセリオを眺めていたとき、「キャスバート公爵家の当主は、颯爽としていてキレの良い動きで踊る人」だという印象を持っていた。けれどこうして実際にダンスの相手になってみると、眺めていただけではわからないものが体を通して伝わってくる。


 動きの一つ一つがしなやかで、足運びも丁寧。フィセリオに導かれて踊っているはずなのに、振り回されている感じは一切ない。むしろこちらの動きにスッと影のように滑らかに寄り添ってくる。息がピッタリ合っていると錯覚しそうなほどの違和感のなさ。これが(こな)れた人のダンスなのだと感覚に刻まれていく。


 すごい……わたくしでもこんなに滑らかに踊れるものなんですね。


 経験の浅いウィステルが堂々と踊れているのは、フィセリオの技量あってこそだ。ダンスは挨拶や親交も兼ねているため、公爵家当主の彼は踊る機会も圧倒的に多い。つまりこれだけの技量と余裕が身につくほどに、彼はダンスをしてきているということでもあった。


 そんな方と壁の花が、見せるためのダンスをしてるなんて。


 元敵対派閥の主である“キャスバート公爵家当主”は、領地こそ隣接していてもウィステルにとっては遠い存在だった。最早、雲の上の人という認識に近かったように思う。それなのに今は──


 雲に、触れてしまってる……


 なんだか現実感がない。けれど手と手が触れ合う温度も、優雅な曲の奥に聞こえる微かな息遣いも、優しく誘う足運びも、全部が今この瞬間にある本物だった。


 義務感と、この場をやり過ごそうという気持ちばかりが心を占めていた。けれど今は……フィセリオとのダンスが少しだけ楽しい。それはきっと、彼が一つステップを踏むごとに、安心を与えてくれているからだ。ずっと抱いていたダンスへの苦手意識さえ、柔らかく溶かされていくようだった。


 音楽が終わり、フィセリオと共に一礼する。会場からの拍手を受けたあと、中央から端へと移動した。


 やり遂げたのだという高揚と安堵がどっと押し寄せ、今さら鼓動がうるさく胸を内側から叩きつけてくる。気持ちを落ち着かせようと胸に手を当て、静かに細く息を吐いた。


「フィセリオ様に助けられてばかりでした。もっと努力します」

「十分に踊れていた。気にする必要はない」


 反省するウィステルに対し、フィセリオは慰めの言葉を投げかけてくれた。けれどほんの微かな甘い匂いに、ウィステルは生温かい眼差しを送る。嘘の慰めはいらないという無言の声に気づいたのか、フィセリオはハッとして、嘘をごまかすように困った顔で微笑んだ。


「決して下手ではないし、私がフォローできる範囲だったから気にする必要はないと言いたかったんだ。すまない、言葉選びが悪かった」

「謝らないでください。責めたいわけではなく、甘やかしてほしくなかっただけですから」

「そうか。君は向上心が高いな」


 向上心と言っていいのかはわからないが、フィセリオやキャスバート家の名に泥を塗ったり、恥をかかせるような事態にならないようにしなければと考えているだけだ。足りない力をきちんと身につけて、少しでも足を引っ張らないように、役立てるように。


「なら、ここからは実地訓練だ。舞踏会の本番は今から始まる」

「……え?」

「母上はもうずっと舞踏会には顔を出していないし、キャスバート公爵夫人ともなれば、誘いは入れ食い状態。上手く選んで断らないと、足がちぎれるかもしれないな?」


 壁の花だったウィステルには、入れ食い状態で誘いがくる想像ができない。けれど休みなく毎曲踊らされたら……その想像をして思わず身震いする。だとしても逃げられない。これはキャスバート家がこれからもより良く立ち回るために必要なことなのだから。


「だが、その前に王家と他公爵三家と踊る義務もある」

「今踊ったものも含めて、五曲踊った後にまだある……というですか……!?」


 一回の舞踏会で五曲なんて踊ったこともなかった。けれど今日は五曲踊ったうえで、更にダンスを申し込まれて応えていかなければならない。ウィステルにとって、それは途方もない数字のように思えた。


「公爵家の人間にとって、舞踏会は体力勝負だからな」


 そんなウィステルの気持ちを知ってか知らずか、フィセリオは社交用の微笑みに余裕を滲ませている。けれどこちらへ向けた瞳の奥が、意地悪く、楽しげな輝きを宿して閃いた気がした。


 フィセリオはこの微笑みを崩さず、涼しい顔で、これだけのことを毎回こなしているのかと思うと声も出なかった。

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