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第37話 恋を知らないわたくしと恋物語

 蝋燭の明かりを思わせるような薄暗闇に、ささめくような人の話し声。こもった劇場内の空気が、柔らかく肌を撫でる。


 歌劇って……どんなものなんでしょうか?


 少し前に、キャスバート家が後援している劇団から歌劇の招待状が届き、公爵夫人として参列することになった。


 けれどウィステルは単なる勤めではなく、純粋に歌劇を楽しみにしている。後援者用の個室席のソファに座りながら、舞台に下りた緞帳(どんちょう)を見つめ、胸の高鳴りと共に開演をじっと待っていた。


「今からそんなに肩に力を入れてたら、最後まで持たないと思うが」

「楽しみで、つい……」


 隣に座るフィセリオが、ふっと息を漏らして小さく笑う。眼差しがいつもよりも柔らかく見えるのは、薄暗い照明のせいだろうか。


 そわそわと落ち着かないウィステルとは対照的に、彼は屋敷にいるときと変わらない様子でゆったりとくつろいで座っている。舞台側以外の三方向を囲まれた個室席は、他の観客からは見えにくくなっているとはいえ、気を緩めるのに少し抵抗があった。


「フィセリオ様は、よく観劇に来られるのですか?」

「全く。観劇を趣味にしてるように見えるだろうか……?」

「趣味に見えるというよりは、場慣れしている感じがしたので」

「観劇は母上の趣味で、子供の頃はよく来ていた。今はすっかり疎遠になっていたな」

「わたくしもです。子供の頃に家族みんなで演奏会に行ってそれきりですし、回数自体も多くはなくて」


 ウィステルが最後に劇場へ足を運んだのは、もう十年以上前……亡くなった母がまだ元気だった頃。管弦楽団の演奏会を聴きに行ったのが最後だった。


 手を引いてくれた父の大きくて温かな手、期待に目を輝かせる兄ローワンの瞳、そして演奏に耳を傾ける母の穏やかな横顔。あのときの記憶は、家族全員が揃った幸せな思い出の一つとして、今も胸の奥に大切にしまわれている。


「わたくし、歌劇は今日が初めてなんです」


 ウィステルは入場のときに手渡された演目案内を手に取る。表面(おもてめん)には満天の星空の下で寄り添い合う男女が描かれており、裏面には物語のあらすじが書かれていた。


【商家のお嬢様であるグレビレアは、天文学者を目指す青年アスターと密かな恋仲にあった。アスターは「学者になってあなたを迎えに来る」と約束し、王都の学院へ。彼を信じて待つと決めたグレビレアだったが、親同士の合意で子爵令息のヘリオトとの婚約が結ばれてしまうのだった。】


 あらすじを見たところ、政略結婚もので、この恋愛が成就するのか悲恋で終わるのかはわからない。本の媒体でもあまり娯楽的なものには触れてこなかったウィステルにとって、このあらすじそのものがすでに新鮮に映って見えた。


「恋愛物語か。君はこういった話は好きか?」


 いつの間にか、フィセリオが互いの肩が触れそうなほど近くにいる。元々“妻を愛する夫”の演技を平然とやってのけていたせいか、彼はこの距離感を特に気に留めている様子はない。ソファに手をついてこちらに体を傾けながら、演目案内へと視線を落としている。


「わたくしは──」


 答えようとした瞬間、ふっと明かりが落ちる。どうやらいよいよ開演するらしい。


「始まるみたいだな。せっかくの機会だ……初めての歌劇、楽しんでくれると嬉しい」


 暗闇の中、舞台の方から差す微かな光に照らされたフィセリオの瞳に、とろりと静かな熱が灯ったような気がした。それに呼応するように、ウィステル自身の胸の奥も熱を帯びていく。


 不思議な感覚に背を押されるようにして彼の瞳の奥を覗き込もうとしたが、その視線は不意に逸れて舞台の方へ注がれた。そしてそれを追いかけるように、ウィステルも舞台の方へと目を向けた。


 舞台の幕が上がると、二人の男女……主人公グレビレアと恋人アスターの逢瀬のシーンから始まった。


 物語が進んでいくと、グレビレアはアスターと逢瀬を重ねるほどに募る熱い恋心を歌い、婚約者であるヘリオトと言葉を交わすほどに降り積もる罪悪感を歌った。


『愛するあなた、どうか私を、誰の手も届かぬ星空の向こうへ連れ去って。私の心に、あなた以外の人を住まわせないで』

『優しいあなた、どうか私に微笑みかけないで。あなたを愛せず心を偽る私を、私が許せなくなってしまうから』


 揺らぐことのないまっすぐなアスターへの恋情。けれどまっすぐだからこそ、優しいヘリオトを裏切り続けてしまう痛み。それら全てを抱きしめて、それでも意思と自由を貫こうとするグレビレアの姿が眩しく、瑞々しくウィステルの胸を打った。


 わたくしは、こんなふうに全力で生を駆け抜けるような生き方はできない。けど、目が逸らせないくらい……心が惹かれる。


 自由を追い求めるような夢なんて持ったことがない。グレビレアのように胸を焦がす形の愛も知らない。恋心を知らないままに婚姻を結んだ。それが伯爵家の娘として生まれたウィステルの務めであり、運命であり、疑ったことさえなかった。


 でも不思議と、歌が耳に残る──


 羨ましいのかはわからない。こんなふうに自由奔放に生きてみたいと思っているわけでもない。今の暮らしに、自身が抱いた願いや思いを押し殺しているような感覚だってない。


 けれど頭の片隅に、「このままで良いのだろうか」という、小さな焦燥が確かに生まれていた。


 そして劇の終盤、学者となり地位を認められる立場になったアスターはグレビレアを迎えに来る。何年もの間貫かれた変わらぬ愛を確かめ合った二人は、駆け落ちしようとした。だがそこへ、ヘリオトが鉢合わせてしまう。


 グレビレアはアスターへの想いと、これまでのヘリオトへの感謝と謝罪を伝え、見逃してほしいと乞い願った。


『君のような不誠実な人とは政略でも結婚したくない。どこにでも行ってしまえ!』

『……ごめんなさい、ありがとう……』


 グレビレアとアスターは去り、ただ一人、舞台の真ん中にぽつんとヘリオトは残されている。


 劇中は、ずっと微かな甘い匂いが漂っている。それは演者たちが役に心を寄せていても、完全にその人物にはなりきれないからだ。けれど先ほどのヘリオトからは、一層深く濃い嘘の匂いがした。それは演者と役としての差異だけでなく、ヘリオト自身が嘘をついたからだ。


 そうして彼は、静かに本心の歌を紡ぎ始める。


『君を愛していた……愛していない僕にさえ心を痛めてくれる君を愛していた。だから僕のことなど、もう忘れてくれ。二度と思い出さなくていい。ただ愛する人と、どうか幸せに……』


 あの嘘の罵倒はグレビレアの罪悪感を断ち切り、ヘリオト自身を忘れさせるためのものだった。心から愛した人に忘れられようとする決断は、あまりにも寂しく、切ない。


 それでもきっとグレビレアは、ヘリオトを忘れないだろう。だからこそ痛くて、尊くて、恋や愛という言葉では片付けきれない何かがあるように思えた。


 ヘリオトのように、自分の思いより愛する人の幸せを願える自分でありたい。そう思ってしまいそうな、高潔さと理想が詰まっていた。


 そして劇はグレビレアとアスターが星空の下で愛を誓い、結ばれたところで幕を下ろした。



* * *



 劇団の団長に挨拶をしてから、ウィステルたちは帰路につく。馬車がガタンと揺れ、カラカラと車輪が回る音がする。物語という夢から少しずつ覚めていくようで、名残惜しい。


 あの歌劇の世界は劇作家によって創られたもので、現実には存在しない。けれどあの物語の先に続く未来がどんな色をしているのか、思いを馳せずにはいられなかった。


「今日はとても楽しかったです。気づいたら夢中になっていました。それぞれが役として感情を演じていて、本物ではないはずなのに……こんなにも心を動かされるものなんですね」


 嘘にも種類はある。大きくわけるなら、善意と悪意。他にも自分を守ったり、話しにくいことをごまかしたり。誰かが口ずさんだ歌に、嘘の匂いがすることもあった。そして誰かを楽しませる嘘……それが劇というものなのだと、こうして初めて観に来て知ることができた。


「もしかして、ずっと匂いがしてたのか?」

「はい」

「ということは、君はあまり観劇向きの体質ではないな」

「そうですか? 面白かったですし、匂いがしていることも気になりませんでしたが」

「楽しんでくれていたならいいが、疲れてはないか?」


 フィセリオは体調を窺うように、小さく首を傾けてこちらを見る。嘘の匂いを感じることを疲れることだとフィセリオは考えているようだが、ウィステルにとっては呼吸のように当たり前のことという感覚だ。疲れるとしても“匂うこと自体に”疲労感を感じているわけではない。


「大丈夫です。気遣ってくださってありがとうございます」

「そうか……それならよかった」


 フィセリオは、ほんの僅かに安堵の色を浮かべて表情を和らげる。“妻を愛する夫”の演技を続けなくていいと伝えたあとも、彼の態度が変わることはなかった。二人きりならもう演技も嘘も必要ないのに、今も律義に続けている。むしろ伝える前以上に優しく、様々な場面でこうして気にかけてくれるようになっていた。


「歌劇……温かいのに切なくて、少し寂しい物語でしたね」

「……そんな話だっただろうか」

「グレビレアとアスターは結ばれて幸せになりましたが、ヘリオトを思うと心から良かったと喜べなかったんです」


 心から愛しても、誠実を捧げても、想いは届かないことがある。ヘリオトも、尽くした分の見返りがほしかったわけではないのだろう。それでも、心のどこかで抱いてしまう小さな期待に、自身の心の裏側がそっと削り取られていくような……彼の心情を思うとそんな気持ちになる。


「……君はグレビレアたちではなく、ヘリオトを見ていたのか?」

「ヘリオトだけを見ていたわけではないのですが、最後グレビレアを見送るシーンが印象深くて。彼はあのあとどうなるのでしょうか……」


 誰も悪いわけではないのに、静かに傷ついたまま一人ぼっちになってしまったヘリオト。物語の人物でしかないのに、彼の未来が明るいものであるように祈ってしまう。まるでそこに、一縷の望みを託すように。


「彼の親は黙っていないだろう。貴族と婚約できるほどの商家なら金で解決できるだろうが、双方立場を悪くするのは間違いない」

「ふふ、そんな現実の話を出してくるなんて」


 フィセリオはウィステルのひとりごとのような問いかけに、淡々と答えた。そういうことが聞きたかったわけではないのだが、普段のフィセリオの姿を思いだし、そこに“彼らしさ”のようなものを見つけて、自然と笑いが零れていた。


「……なら、君はどうなると思うんだ?」

「そうですね……どうなるかはわかりませんが、彼を愛してくれる人と巡り会えていたらいいなと、つい思ってしまいますね」

「愛してくれる人か……しかしヘリオトがグレビレアを想い続けるなら、別の誰かから愛されても虚しいだけではないか?」

「そういうものでしょうか? グレビレアでなくとも、誰かと新しく関係を育てていけば、それが一番かけがえのない大切なものになっていくと……わたくしは信じたいです」


 ウィステルはフィセリオの言葉を理解しきることができなかった。確かにヘリオトにとっては“一番欲しかったもの”ではないのかもしれない。グレビレアの代わりになる者もいないだろう。


 けれど違う人からの愛情を受けて、別の種が芽吹き、育つこともあるかもしれない。そうして心が癒えて、その人が一番大切な存在になっていけば、ヘリオトは別の形の幸福を見つけられる。


 その未来はきっと、痛みを越えてなお笑っていられるものになるのではないだろうか。そう願わずにはいられなかった。

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