第36話 取り零してきたもの【フィセリオ視点】
「あっ……」
寝室の片隅、小さな机に向かって座っていたウィステルから小さな声が上がる。
「どうしたんだ?」
「それが……」
彼女は小さく肩を落とすとペンを戻し、ハーブティーの入ったティーカップを持ってソファへと戻ってきた。
「便箋を使い切っていたのを今思い出してしまって。そろそろローダンセさんにお礼の手紙を書こうと思っていたのですが……」
ふぅ、と息をつくウィステルはどこかくたびれたように見える。便箋の注文を忘れてしまうのも、頭が疲れているからだろう。
ここのところずっと催事の計画を進めたり、打ち合わせなどで忙しくしている。フィセリオは年始めにウィステルが倒れたときのことを思い出し、胸の奥がモヤッとしていた。
「また無理をして、疲れているんじゃないか?」
「疲れてるだなんて、そんなことは……」
「大切な日に行う、大切な催事だろう? 君が倒れてしまったら、誰も喜べなくなってしまう」
「それは、そうですね」
ウィステルが計画している『白花薫る味の旅市』という催事は、フィセリオの亡き兄エオナックの誕生日に開催される。
『人々が垣根なく集い、美味しいものを手に笑い合える日になったら……まるでエオナック様みたいな日になるんじゃないですか?』
キャスバート家に、今なお静かに影を落とすエオナックの死。フィセリオがなんとか埋めようともがいても埋まらなかった暗い隙間から、光が差そうとしていた。
ウィステルはキャスバート家の中に散らばったエオナックの残滓を一つずつ掬い上げ、影となったその存在を光で照らそうとしている。皆が……フィセリオ自身までもが彼の生きた痕跡ばかりをなぞり追いかける中で、ウィステルだけが生きた証を作り出し、残そうと手を伸ばしていた。
それはまるで、痛みと悲しみに歪められたエオナックの姿を、本来の優しさと穏やかさに満ちた姿へ戻そうとしているかのようだった。
ウィステルはエオナックと直接会ったことがない。けれど、フィセリオたちが忘れ去ってしまったものに目を向けて、懸命に向き合ってくれている。ウィステルが胸に秘めていた希望の形が、眩しく、尊く……温かかった。
「ウィステル、もし良ければ……明日私と少し出かけないか? 行きつけの文具店に君を連れていきたい」
「わたくしも一緒に行っていいのですか?」
「あぁ。便箋もそこで見繕うといい」
疲労に霞んでいたウィステルの目に、星のような輝きが戻る。紅紫色の瞳は期待の光を灯して、静かに瞬いていた。
* * *
カランカランと、来客を知らせるドアチャイムの音が静かな店内に響く。扉を開けた瞬間、温かな空気がふわりと頬を撫で、深く静かなインクの匂いがフィセリオたちを包む。店内は明るいが、内装は重厚で落ち着いた雰囲気があり、ここへ来ると少しだけ心のざわめきが静かになる。
文具など取り寄せれば良いと頭ではわかっているのだが、時折この雑音のない森の奥にいるような気持ちになれる空間が恋しくなり、足を運んでしまうのだ。
「インクの匂いでしょうか? なんだか心が安らぐような……不思議なお店ですね」
こちらを見上げて目元を和らげたウィステルに、じりっと胸の奥が燻って熱を宿す。ウィステルもこの文具店の雰囲気に、フィセリオと同じ感想を抱いている。なぜかそれが、どうにも嬉しい。
そわそわと浮き上がるような奇妙な感覚を抱きながら、フィセリオはウィステルを中へ案内した。
「いらっしゃいませ。お久しぶりでございますね。本日は何をご用意いたしましょうか?」
奥から老年の店主が顔を出すと、フィセリオたちへと声をかけてきた。この店主とはもう、顔馴染みと呼べるくらいにはこの店へ通っている。
「いつもの封蝋の蝋を。それと、妻と店内を見て回りたいが、構わないだろうか?」
「もちろんでございます。どうぞごゆっくりご覧くださいませ。わたくしめは、蝋の準備をして参ります。ご用命の際には遠慮なくお声がけください」
店主は深く一礼すると、静かな店内の空気に溶け込むように店の奥へと戻っていった。
「静かな佇まいの店主さんでしたね」
「店主の人柄のおかげか、ここは静かで、時間がゆっくり流れているようで……良い」
「あっ、だからわたくしをここに連れてきてくださったのですね」
ウィステルの声が、いつもより微かに弾んで聞こえる。これは喜んでくれていると思っていいのだろうか。それともそう思いたい気持ちからくる錯覚だろうか。
「そうだ。疲れると、なんとなく来たくなる場所なんだ。頭の中の無駄なものが削がれて、整理されて、スッキリするような心地になる」
「なんか、わかります。忙しなく動き回ってた心が、やっと足を止めたような……そんな感じです」
たわいもない会話をしながら、店内を歩く。壁面にはおしゃれなペンが調度品のように飾られ、棚には所狭しと文具が陳列されている。そのうちの一つの棚の前で、ウィステルは立ち止まった。
「レターセットだけでこんなにたくさん取り揃えているんですか……!?」
レターセットの見本だけで埋め尽くされた棚を前に、ウィステルは静かに驚愕していた。じっくりと眺めながら、気になったものをいくつか手に取っていく。
「かわいいお花の柄……あ、フィセリオ様見てください。これ、便箋の端がレースみたいになってます!」
「あぁ。あまり見ない型だな」
「こんなおしゃれなものがあるんですね」
まるで宝物を見つけた子供のように、ウィステルは手に取ったレターセットの見本をフィセリオに見せてくる。楽しくてたまらないようなうずうずとした表情を見ていると、くすぐったい気持ちになった。
インクの棚では、ズラリと並んだ色とりどりのインクを眺めて嘆息し、香りのついたものや書いたときの天気で色が変わる魔法のインクに目を輝かせる。
ローダンセには文香も喜ばれるのではないかと勧めれば、試供用の文香を一枚ずつ手に取り鼻の近くにかざす。ウィステルに誘われて二人で匂いを確かめながら、それぞれ一番好きな香りのものをお互い嗅いで感想を伝え合った。
書面だけは夫婦の……中身の伴わない偽物夫婦。人前では、どこまでも取り繕われた公爵夫妻。けれど今はただの個人、“フィセリオとウィステル”として、心を緩めて過ごせているような気がした。
「どれも素敵で、目移りしてしまいますね……」
「迷うなら全部買っていけばいい」
「えぇ!?」
「君はよく手紙を書くから、買いすぎにはならないだろう」
「確かにそうなんですけど……その……」
ウィステルはそろりと視線を気まずそうに下げ、言いにくそうに口を閉ざした。逡巡するように口を開いては閉じてを繰り返す。彼女は伯爵家出身とはいえ、あまり裕福ではなかった。特に父親を亡くしてからの二年間は極貧を極めていた。その頃の感覚が抜けなくて遠慮しているのかもしれない。
「キャスバート家にとっては、文具くらい大した金額ではない。特に君にとっては、必要経費だろう」
「そうではなくて、またこうして来られたらいいなと思ったんです。すごく心地のいい場所ですし。ただ、たくさん買ってしまうと、当分来れなくなってしまいますから……」
「来よう。好きなだけ買っても、また来たらいい」
語尾が自信なさげに萎んでいくウィステルの言葉に重ねるように、フィセリオは言葉を紡いだ。キャスバート家のためにやりたいことは口にしても、自分のしたいことはあまり口にしない。滅多に出てこない彼女の望みの一つくらい叶えたかった。
「……ありがとうございます、フィセリオ様」
ウィステルは少しだけ頬を染め、瞳を潤ませている。煌めきを秘めた満面の笑みに惹かれ、目を奪われていた。
喜ぶと、こんなふうに笑うのか……
こんな些細なことすら、今まで知らなかった。それは自分が気に留めて見ていなかっただけなのか、彼女が笑えるようなことが一切なかっただけなのかはわからない。
けれどこの表情といい、今日は見たことのないウィステルをたくさん見られた。それだけで彼女をここに誘って良かったと心から感じていた。
翌日、フィセリオが執務室へ向かうと、執務机の上に一枚の封筒が置かれていた。封はされておらず、中から便箋を取り出すと、ひらりと小さな紙片が落ちる。小さな花の形に切られた紙片から、昨日フィセリオが一番好みだと感じた香りが鼻先を掠める。便箋を開くと、整った丁寧な字が並んでいた。
【フィセリオ様、文具店に連れて行ってくださってありがとうございました。二人で過ごしたひとときはとても楽しく、疲れも癒やされました。また一緒に行ける日を楽しみにしています。今日からまた、催事に向けて頑張ります。至らないところも多いですが、これからもよろしくお願いいたします。】
それは紛れもなくウィステルからのものだった。ウィステルが気に入ったものと、フィセリオが気に入ったもの、両方の文香を購入したのは知っていたが、まさかこちらに宛てて書いてくるなんて想像もしていなかった。
私のために、わざわざ? いつの間に書いたんだ?
じんと胸の奥が痺れ、痛いくらいに締めつけられる。手紙をギュッと抱きしめたくなるような衝動を抑え、フィセリオは引き出しから一枚の便箋を取り出した。兄のエオナックに素のまま素っ気ない返事を書いていたことを思い出し、このままもらっておしまいではなく、何か書こうと考えていた。
ウィステルの手紙の文字を指先でそっとなぞりながら、昨日のことを思い出す。フィセリオにとっても、あのひとときは楽しいものだった。
ウィステルは手紙はよく書くが、あまり文具には詳しくないことを知った。物珍しそうに見本を手に取る彼女に説明すると、蕾の隙間から零れる朝露のように微笑んでいた。商品棚を見上げる眼差しは陽光を照り返す水面のように煌めいた。
その一瞬一瞬が尊く、フィセリオの心の中へ雨粒のように落ちて静かに波紋を広げる。そしてそのかけがえのない愛おしさが、暗く深い底の方へと沈んでいった。
何を書こうか──
普段あまり書く内容に迷わないフィセリオのペン先が、探るように彷徨う。けれど、それは苦ではなかった。むしろ言葉を考えるのは、宝探しのようで……手紙を書くのにそんなふうに感じるのは初めてのことだった。




