第32話 ここから、はじめの一歩
ウィステルは、自分がまだキャスバート家にとって必要な人間であるのかを確かめようとした。フィセリオに「必要だ」あるいは「不要だ」と言わせることで、その真偽を匂いで測ろうとしたのだ。
「君さえよければここにいて、協力してほしい。私の……妻として……」
フィセリオの、絞り出すような声。逸らされた視線が苦しそうで、顔だけ見たら渋々許可していると勘違いしたかもしれない。
嘘の匂いは……ない。公爵夫人として、隣に立つ者として必要としてもらえてる……ということ、ですよね?
妻として協力してほしいという言葉が本物であることに、ウィステルは内心ホッとしていた。離縁すればキャスバート家にはいられなくなる。フィセリオが妻として認めていないのに、そこにしがみつくのはあまりにも惨めで、誰のためにもならない。
フィセリオが妻としての立場を保証し、力を必要としてくれたことで堂々とここにいられる。それが、少しだけ信頼してもらえているようで嬉しかった。
「はい、ありがとうございます……! 皆を安心させるためにも、夫婦として協力していけたら嬉しいです」
フィセリオが結婚したことで、キャスバート家の人々は安心し、喜んでいた。それは最初から温かく歓迎してくれていたことからも伝わってきた。
ラティマー領も、支援のおかげで少しずつ良くなってきている。ウィステルが結んだ縁に救われた民は喜び、結婚を祝福してくれていた。
キャスバート領の民とも、少しずつ信頼を築きつつある。収穫祭の出店も喜んでもらえて、今は新しく皆に喜んでもらえるような催事を企画中だ。まだまだここでやりたいことがある。
だからこそ離縁して、皆を悲しませたくない気持ちもあった。けれどそれはウィステルの勝手な都合でしかない。
フィセリオの愛はいまだ空白のままになっていて、そこがウィステルで埋まることはない。この関係で添い遂げることになるのか、明日にでもふらりとフィセリオが心から愛せる誰かが現れるのか、このままどこまで継続されるのか想像もつかなかった。
だから、フィセリオが心から愛せる誰かに出会えるその日までで構わない。それまでの間、皆の笑顔を守るのが、公爵夫人としての自分に課せられた役目だ。それは、ウィステル自身の望みでもある。守る力がこの手にあることが誇らしく、無力だった自分に力を授けてくれたことを感謝していた。
「ありがとう。君が協力してくれるなら、頼もしい限りだ」
話し始めてからずっと暗かった表情がほんの少しだけ和らぐと、フィセリオは小さな笑みを浮かべる。けれど眼差しは影を宿し、触れたら崩れそうな繊細なガラス細工のように儚く見えた。
「私からも、一つ聞いていいだろうか?」
「えぇ、答えられることでしたら」
「……君は、私をどう見ている?」
「どう、とは?」
「私は嘘を重ね、君を傷つけた。隣にいて……苦痛ではないのか?」
フィセリオが、また罪悪感の海に沈んでいくのが見える。水面の上で揺らぐ月のような銀灰の瞳は、一度触れればたちまち砕けてしまいそうなほどに脆い印象を抱く。
社交場では、微笑みを一切崩さず揺らがない。交渉の場では底が見えず、息が詰まるような威圧感がある。緻密で、精巧に組み上げられた懐中時計のような彼が、嘘を見抜かれていたと知ったくらいでこんなにも揺らぐとは思ってもいなかった。
「結論から申し上げますと、苦痛ではないです。とても頼もしく感じています。たぶんわたくしは……普通の人とは嘘に対する見方が違うのかもしれません」
生まれつき、嘘を匂いで感知することができた。ウィステルにとって、嘘はごく当たり前に日常に存在するもので、それを知ることができるのが当たり前だった。嘘は誠実ではないと言われるが、ウィステルはそうは思わない。嘘を“どう使うか”が、誠実と不誠実の境界線を引くのだと考えている。
「昔、母はわたくしに『知りすぎてしまうからこそ、目に見えるものも大切にしなさい』って言ったんです。本来なら、嘘か本当かを判別するのは難しいことよね? だから重要なのは、目の前にあるものが嘘か本当かではないんです」
嘘か、本当か。そこだけに囚われてはならないと、ずっと意識して暮らしてきた。知りすぎてしまうことは、時に本質を見る目を曇らせてしまう。嘘は確かに相手を「欺く」行為だ。けれど「欺いてどうしたいのか」を知らないままに、善悪は判断できない。
「嘘だとしても本当だとしても、それを表に出すと決めた行動や結果にはその人の心の本質が滲むものです」
「さっきも言っていたな。『嘘の形にも、その人の心のあり方が表れる』と」
「はい。フィセリオ様は、確かにわたくしに嘘をつきました。それで全く傷つかなかったと言えば、嘘になります」
フィセリオはハッと弾かれたようにウィステルの瞳を見つめ、焦ったように口を開こうとする。その唇が謝罪の言葉を紡ごうとしているのはわかっていた。だから、ウィステルは言葉を止めなかった。
「ですが、あなたの嘘はわたくしに優しく接しようとするものでした。だから信じたいと思えたのです」
それはフィセリオの嘘によってもたらされているものを見れば、明らかだった。完璧に隠され、構築されていたはずの安定と平穏。この嘘は本来、誰も不利益を被らないはずのものだった。
けれどたった一つ、ウィステルの体質だけが彼の誤算だった。そしてこの優しさで守られていた世界を、無粋にも「偽りだ」と暴き、たった一人で汚れ役を引き受ける彼の姿を炙り出してしまっただけだ。
「その気持ちは、今も揺らいでいません。フィセリオ様は、わたくしの言葉を信じてくださいますか?」
「……信じよう。たとえ嘘だったとしても、これは君の選んだ優しさの形だ」
フィセリオの心が凪いでいくのが、見ていてわかる。彼が『嘘』というものをどのように捉えて考えていたのかはわからないが、ウィステルの『嘘』への価値観に寄り添おうとしてくれていることは強く伝わってきた。
「本当は、君を裏切り、傷つけるような真似はしないと誓いたいが、嘘になりそうで自信がない。それでも、一つだけ誓わせてくれ」
朧月のようなフィセリオの銀灰の瞳に、元の満月のような冴えた光が戻り始めている。欠けていた彼が満ちていくようで、ウィステルは無意識に目を奪われていた。
「私は、何があっても……必ずウィステルの味方でいる」
心を寄せて、傾けてくれていることに、胸の奥がじんわりと熱を持つ。できるだけ嘘をつかないように、フィセリオなりの誠実で向き合ってくれている。ほんの僅かだとしても、心が触れ合えたような気がして、これまでの孤独感が少しずつ癒えていくようだった。
「はい……ありがとうございます」
これからは一つの嘘を共有して、互いが互いを協力者であり味方だと認識して手を携えていける。ずっと一人で一方的に共犯者をしていた頃の心細さを思うと、今は強く歩んでいける自信を持てている。それは全て、フィセリオがウィステルの“沈黙の嘘”を受け入れてくれたおかげだった。
「すっかり遅くなってしまったな。明日に備えて、そろそろ寝た方がいい」
「そうですね」
すると、フィセリオはいつも通り、おやすみの挨拶をするときにやるようにウィステルの指先を人差し指で掬い上げる。この指先に口づける挨拶も、“妻を愛する夫”としての演技の一つだったはずだ。嘘を明かし合った今となっては、もう必要のない行動だろう。
「あの、もうわたくしを愛する演技は必要ないんですよ?」
声をかけると、フィセリオはピタリと手を止める。そういえば、というような顔をして、少し驚いたように目を丸くしていた。
「あぁ……もう、習慣になっていた。ウィステルが嫌なら、やめるが?」
「あ、いえ。嫌というわけではないので」
「そうか……なら、このまま……」
静かな冬の夜風のような掠れた声と共に、微かな吐息が指先に触れる。フィセリオは静かに目を伏せると、そのままウィステルの指先を口元に寄せ、そっと口づけた。
「おやすみ、ウィステル」
「おやすみなさい、フィセリオ様」
最初はぎこちなく緊張していたのに、今となってはすっかり習慣となってしまった。それはフィセリオ自身も同じだったのだろう。嘘を明かし合おうとお互い一応は夫婦のままで、習慣になったものはわざわざ変える必要もないと彼は思ったのかもしれない。
いつもと変わらない挨拶だったはずなのに、なんだか指先が妙に熱を持ったような感覚がある。嬉しいような、温かいような、落ち着かないような胸の疼きは、嘘を明かして通じ合えた喜びのせいだろうか。ウィステルは胸の内に不思議な感覚を抱えたまま、口づけられたところをゆっくり指でさすった。




