第30話 信頼を紡ぐために
ラティマー領への帰郷を許され、ウィステルは亡くなった父をローワンと二人で埋葬し、見送った。一週間という猶予をもらえたおかげで、久しぶりにゆっくり過ごすことができた。
ローワンや従者たちと話し込んだり、領都の様子も少しだけ見てくることができた。キャスバート家の支援と援助のおかげで復興が一気に進み、たった半年にも関わらず目に見てわかるほどに暮らしぶりが良くなっていた。街で会う民たちの、ウィステルへ感謝を述べる声は後を絶たなかった。
ラティマー家の屋敷での食事も、豪華とは言えないがきちんと栄養の摂れるものへと変わっている。その様子を見て、ウィステルは一つ、ある大きな決断をした。
キャスバート領へ戻る前日の夜、ウィステルはローワンの部屋を訪ねた。
「ローワン兄様、わたくし……嘘が匂いでわかる力のことを、フィセリオ様に打ち明けようと思います」
ローワンはその決断にあまりいい顔をしなかった。亡き母からも、この力のことは決して他言してはならないと厳しく言いつけられている。けれど母はたった一人……夫であり、ウィステルたちの父でもあるアリュードにだけは力のことを打ち明けていた。
虚言を嫌うフィセリオが力のことを知れば、黙っていたことを咎められて離縁されるかもしれない。けれどこのまま沈黙を貫いて騙し続けることが誠実とも思えなかった。嘘はあっても大切に扱ってくれた彼に誠実であるには、力の告白以外にない。
信頼が欲しいなら、こちらから差し出さなければ……始まらない。
何よりウィステルは、打ち明けても良いと思えるほどに、フィセリオの芯を信頼していた。
「損得を考えても、利用価値の高い力をフィセリオ様は他言しないだろうな」
ローワンはウィステルとはまた違う一面からフィセリオという人を見ている。半年傍で見てきたウィステルも、ローワンと同意見だった。
嘘を匂いで感知する力は、他人に知られていないことで真価を発揮する。警戒されて言葉を選ばれてしまうと、活かしきれない。実利主義と言われる彼は、すぐに能力の性質を理解するだろう。
そしてこの力を弱みとして脅してくる人でもない。そんな浅慮な人ではないという信頼ももちろんあるが、やはり能力の性質上「力のことをバラす」という脅しは、逆に能力を利用したいフィセリオ側にも「広めて能力の価値を下げたいならどうぞ」と返されて脅されることになる。そこを見誤ることもないはずだ。
「ただ、この先……お前は一生便利な道具として生きることになるかもしれない。その覚悟は、あるんだな?」
ローワンがいい顔をしなかったのはそういうことか、とウィステルは静かに目を伏せた。恐れているのは、力の露見や他人からの視線ではない。今でも変わらず、妹であるウィステルのことを一番に心配してくれていた。
「夫婦になれなくていい……と言えば嘘にはなりますが、わたくしは、本当の信頼で繋がり合える関係になりたいと思っています。利用されても、道具にしか思われなくても、そこに信頼があるなら……それでいいんです」
本当の意味で夫婦になることを、フィセリオは望んでいない。恐らくこの先も、夫婦と呼ぶには事務的な関係になっていくだろう。それでも、フィセリオが信頼して事を任せてくれるような相棒、あるいは腹心のような存在になれたらと思っている。愛はなくとも、信じ合える関係にはなりたかった。
「……道具で構わないと思える人間がどこにいるんだ」
ローワンは深いため息をつくと、悲しげな眼差しでウィステルを見つめる。翠の瞳がどこか悔しそうに細められていた。
ローワンが“あの匂い”を感じているということは、今の発言には嘘……言葉と感情の食い違いがあったということだ。つまりウィステルは、道具や利害関係でなく、もっと温かな関係になりたいという願いを捨てきれていないということでもあった。
「ふふ、匂いましたか? では、妥協だと捉えてください」
「……わかった。無理はするなよ? 何があっても、俺だけはウィステルの味方だからな」
「はい。ローワン兄様がそう言ってくれるだけで、わたくしはどんなことにも強く立ち向かっていけそうです」
ローワンに告げた思いと覚悟を持って、ウィステルは帰路についた。フィセリオの怒りを買う可能性を抱えながらもその道を選べるのは、他でもないローワンがいてくれるからだと噛み締めながら。
* * *
フィセリオが浴室から寝室へと入ってくると、ウィステルの正面のソファへと座った。ウィステルは飲んでいたハーブティーのティーカップをソーサーへと戻し、決意と共に深く息を吸った。
「時間を取ってくださってありがとうございます。話したいことというのは……その、実はわたくし、フィセリオ様にずっと黙っていたことがあるんです」
フィセリオは無言のまま、じっとこちらを推し量るように観察している。銀の月のように冴えた双眸に見つめられ、固く手を握りしめて緊張を逸らそうとした。
「わたくしは、嘘を匂いで感知する……特殊な体質を持っているんです。相手の言葉に嘘が混じったり、言葉が感情や心とズレていると甘ったるい匂いがして……それでわかる、という感じで」
「嘘を……匂いで?」
「はい。ですからもう……わたくしに“妻を愛する夫”を演じる必要はありません」
フィセリオは静かに息を呑み、表情を取り繕うことさえ忘れて目を見開いていた。にわかには信じられないのか、彼は何かを言いかけて口を開きかけては閉じ、唇を震わせる。ただその表情は驚きというよりも、なぜか怯えているように見えた。
「愛の言葉が偽りだと、初めからわかっていました。わかっていて、それでも妻になることを選んだんです。最初はラティマー領への援助が目的でした。ですが、わたくしがつらくないように“妻を愛する夫”を演じるあなたの……優しい嘘で皆を守ろうとするあなたの力になりたいと思うようになりました」
フィセリオは頭を下げて俯くと、微かに肩を震わせていた。膝の上の手は、何か感情を押し留めるように固く握りしめられている。裏切られたと、怒りを感じているのかもしれない。
ローワン兄様……嘘の匂いの力は、フィセリオ様のお役には立たず、利用価値すら見出してもらえないのかもしれません。
信頼してほしいなんて傲慢な願いで、現実は道具にすらなれない。自分の価値を見誤っていたのかもしれない。ウィステルも俯きかけたときだった。
「ウィステル……君には、申し訳ないことをした。見抜かれていることにも気づかず、守るどころか傷つけ続けて……愚かにもほどがある。本当に、すまなかった……」
ウィステルは最初、何を言われたのか飲み込めなかった。まさか謝られると思っていなかったからだ。フィセリオは頭を下げたまま、微かな笑い声と共に肩の震えは一層強まる。それが自嘲に満ちた泣き笑いのようで、痛々しく見えた。
「君が心労で倒れるのも納得だ……むしろ遅かったくらいだ」
「心労はむしろ、フィセリオ様に嘘をつかれていることより、“愛されている妻”を演じていたことの方が大きかったように思います。皆を欺いて、協力しているはずのフィセリオ様にも、嘘を信じているフリをして……いつもほんの少し、孤独でしたから」
誠実でいたいのに、守るためには嘘をつかなくてはならない。だが、嘘をつき続けるのはあまり向いていなかったらしい。勝手にフィセリオに協力しておきながら、気づかないうちに罪悪感と疎外感を募らせていたのだ。誰が悪いというわけでなく、自滅しただけに過ぎない。
「それでも、わたくしはあなたが嘘に塗れてでも守ろうとしているものを、一緒に守りたかったのです。おこがましい話かもしれませんが」
「そんなふうに、思っていてくれたのか……なのに私は、君を利用することばかり考えて……すまない、すまない……これ以上どう君に謝罪すればいいのか、わからない……」
痛みをこらえるようにますます背を丸めたフィセリオの手に、テーブル越しに手を重ねる。どうか彼が一人抱える罪悪感が和らいでほしい。ウィステルはフィセリオへの怒りもなければ、責めるつもりもなかった。
「謝ってくださってありがとうございました。ですが、謝罪はもういりません」
「感謝するようなことじゃない。君はもっと、怒っていいはずなんだ」
怒っていいと言ってくれる、その言葉がどれほど優しいものなのか、あなたは知らないんですね。
「いいえ、フィセリオ様。あなたはラティマー領に手を差し伸べ、わたくしにまで優しい嘘を貫き通してくださった。嘘を見抜けるからこそ、それがどれほど貴重なことなのか、わたくしにはわかります」
ようやく頭を上げたフィセリオの顔は、罪悪感を耐える痛みに歪んでいた。まるで重罪でも背負ったかのような姿は、ウィステルの目には大げさに見えた。
「嘘の形にも、その人の心のあり方が表れるのですよ。ご存知なかったでしょう?」
フィセリオへ尋ねると、彼は苦しそうに目を細めて視線を落とした。何がそこまで彼を罪の意識に駆り立てているのかわからない。呼吸のように嘘を重ねていた姿と今の姿が同じ人物とは思えないくらいだった。
あなたがこの嘘を罪だと思うなら、その重さごとわたくしも共に背負います。
だからどうかこれからは……本当の意味であなたの隣に立つ権利を、わたくしにください。
たった一人で全てを守ろうとする彼の、心の拠り所になりたい。彼がウィステルやラティマー家に向けてくれた優しさや恩に、一つでも多く報いたい。ただ、そう願っていた。




